孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

実践意識によるところの<気付き>が無ければ完全真理は「絵に書いた餅」になり意味を成しません。

2011年09月30日 | Weblog
完全真理を<知る>ことから始まり、そして実践で<気付く>ことから自覚・悟りになっていきますが、その気付きは人それぞれの実践力・意識力・感性に掛かっていると言ってもいいでしょう。
だから「良い悪い」で判断していていることに自らが気付かなければ実践しているとは言えません。

このブログで完全真理を紹介している私も個人意識丸出しで生きていますから、良い悪いで判断していることも多々あるし、それに気付けずに、時にはそれを正当化して事実を見ているとか事実を言っているだけだと思いたがる勝手なところもありますし、執着していることはないと思っていたのにずーっと以前から執着し続けていたことがあることに気付いたりもしています。

肉牛の飼育のアルバイトに行っていると、その雇用主の後始末の悪さが常に有りますから、その仕事の後を引き継いだ私にそれを片付ける余分な仕事・時間が増えたり、エサを入れて運ぶバケツやの備品や掃除道具などをあちこち探し回っても中々見つからなかったりすることが続くと(気にしないつもりでいても)やはり雇用主の癖の悪さに苛立っこともあります。
と言うことは、私が正しくて雇用主の方が間違っているとして良い悪いで判断したことになります。

しかしその事に私が気付き、そして悔い改めて、執着しなくなれば、その苛立ちも(自分の過ちに気付いたことで)直ぐに治まり、また雇用主の癖の悪さが尚更に気にならなくなり、その内に癖の悪いことを内心で笑い飛ばすことにもなります。

そんな事が板に付いてくると、いつ何処で誰と同じようなことがあっても、私が正しいと否定反発して執着することもなくなり、そのままに終わるようにもなります。
ただそうなるにも足早に一足飛びには何事も無理ですから、やはり執着している事に気付き悔い改めて、そこで執着しなくなるだけの実践力・意識力を養う必要があるようです。

また(雇用主の事例のように)概ね自分が正しくて相手が悪いと思ったことは執着になりやすいのですが、しかしその執着に気付くことが出来れば、自らのことは自分の中で修正できますから大事には至りません。
しかし執着に気付かなければそれがいつまでも不平不満になるのです。
そして面白くない不機嫌が出てきて、またそれに執着することで尚更に不機嫌が長引きますから、その相手ではなくして、自分だけが精神的負担で≪損≫をしている格好・結果になっているのですが・・・その事さえも気付かなければ・・・いつまでも私が正しいと長引かせることになり、己の不機嫌を何時までも引き伸ばし持続させることになって、その<損の上塗り>までしていることになります。

そこで皆と同じ個人意識で生きていても、何かと「気付く」ことが多ければ、その分だけ無理も執着もないことからして、自由勝手気まま・呑気気楽で楽ちんだとも書いているわけです。
そしてまた不完全意識の人間関係を知っているだけに、無理も無駄も執着も無いその必然ご縁の仕組みに任せて、来るものは拒まず去る者は追わずの成り行き任せにもしているから、そのごく限られた人間関係だけになりますが、それだけに私の性格個性・波長と似通っているところもあり、その分だけ否定反発することも少なくて、互いに穏やかに接することが出来るだけに、その限られた人間関係だけで十分だとも書いているのです。

だから何事も「気付き」が必要ですし、その気付きが「無理」や「執着」を無くしてくれるのです。
しかし多くの方々は概ね日々雑多の中であれこれと忙しく繰り広げていますから、その雑多の中で気付かないままに良い悪いで判断していることも多いだろうし、無理や無駄や余計な事に執着している事にも気付けなかったりと、日々の生活の忙しさに意識が酷使されてその分だけ気付きも少ないのではないでしょうか。
だから「気付く」為にも無理や執着のない<素朴>が言われているのです。

その「気付き」が無ければ完全真理は「絵に書いた餅」になり意味を成しません。

(必然性から言えば)人前で奇跡を成して見せるのは「見世物小屋」「人寄せパンダ」の類になります。

2011年09月27日 | Weblog
私がブログを立ち上げる前のことですが、私の自己主張や自己満足が入らないように気をつけたいので、それをファバラシールに頼りたいと耕栄さん宛てにメールを出したら、スタッフの人を介して「ファバラシールに頼らないで書いてみてはどうですか」と返事が届きました。
それ以来こうして書き続けています。

その耕栄さんの完全真理に巡り会う前までは霊能者から無料で郵送されてくる<お伝え>から「霊魂の世界」「想念の世界」といったことを学んでいました。
その<お伝え>の内容は、その霊能者が別な霊能者の言霊を介して高次元界・霊界の意識体と会話したものを録音し、そのままに文書にしたものでしたが、霊界のことなど関係なかった私だけに、その三次元界の私には読みにくいので、その内容をもっと端的に要約し「私なりの言葉や解釈・感覚」で判りやすく書き上げて、それを掲示板や情報交換に記載するためにチェックしてもらったところ、そのように文書化してくれる人・スタッフがいなかったこともあって喜ばれ、それ以来、私の私見解釈が入ったその文書を関わる方々に配布されるまでになりました。

それはどうやら私の見識・感覚・解釈で書いたものが<お伝え>を判りやすく表現していたようです。
そしてその霊能者が言うには、私が知った事を「文書化するお役があり」それを「世間に広めるお役があるようだと」私の過去性を含めて教えてくれました。
またその<お伝え>が宇宙・高次限界との交信だっただけに、その内容に使われる言葉が違っていても今の完全真理と殆ど同じでしたから、未だに役立っています。
そして基本的には何事にも否定反発・排除する事無く「すべてに感謝」(良いも悪いもない)が言われていましたが、この完全真理ではハッキリと良い悪いで「判断」しない完全が言われるようになったわけです。

以前の霊能者は主婦でしたが、人間界を牛耳っている霊魂(動物霊)意識体に愛でもって修正する、すなわち否定反発・排除(除霊)することなく、誤った想念に気付かせ悟らせ元のお役に戻す・修正する(意識改革のお手伝い)お役目でして、そのご神行は自前自費で出かけ、今も人知れず水面下で静かにやり遂げているようです。

その時に自主的にお供する人達がいたり、またお供する人の因縁や過去性の場所・霊場・先祖の墓などと、その霊魂・意識体とつながる所へ一緒に出かけていって修正・整えに行く場合もありました。
また自らが因縁の場所に出向いていくだけに人集めの必要も無いことからして奇跡を成して見せる必要性もなく、その霊能者のお役目・必然ご縁でしたことが「成るように」なっているだけですから、概ね事後結果が多くあるようです。
また日常的にしていることにあるのが「手かざし」エネルギーで人様を癒したり、行く先々の場の氣を整えることが多いようです。
また霊力のある人から見たときに額の汗ばみが金粉に見えたり、寝ている寝室からオーラーが出ていたりすることもあったようです。

ところで必然性から言えば、人前で奇跡を成して見せるのは「見世物小屋」「人寄せパンダ」の類になります。
それを神仏化・特別視するのは、私達に出来ない(特別な)事をしているからですが、奇跡を成す人でも自分に出来ないことは山ほどあります。 また人間に出来ることも、その人間に出来ないことも山ほどあります。
だから万物・人それぞれ(役割・使命・個性)ですから、誰にもどこにも特別なことはなく、皆がお互い様・お蔭様の意識になればそれが調和意識になります。

その霊能者とのご縁が遠のいていく頃に言われていたのが、この世を牛耳る形すなわち束縛制限支配している想念・霊魂(意識体)、また否定反発・排除したがる私達の想念・霊魂(意識体)が修正されれば、この人間界に意識改革が起こり地球の夜明け・地球維新が訪れるのだが、その牛耳る形の最後が北朝鮮(九尾狐)にあるようなことが言われていました。
その意識改革が起こる時が2013年11月(耕栄さんは7月7日)でしたが、今の人間の集合意識からして浮かばれる意識体がごく少ないことからして、どうやら相当年月延期されたようです。
これもどうやら・・・人は目的意識が無ければ動かないことからして・・・巷で関心のある2013年問題を「嘘も方便」にして有効利用したのではないのかと、私はそう思っています。

執着していることに「気付け」ないのが<執着>ですから、周りの人に迷惑を掛けていることにも気付かない。

2011年09月25日 | Weblog
完全真理で言うところの「良い悪い」で判断しても、それに気付き執着しなければいいと言うのがありますが、その執着は素直でないことになりますから、一言でも否定反発・言い訳正当化すればそれは執着になります。
そして私は間違っていないと「私は正しい」を持っているから否定反発したり言い訳正当化したがるわけです。
・・・ところが執着している本人はその事実にまったく気付いていなから、何かとはた迷惑で困った人になるのです。

だから完全真理の実践に限らずとも、すべてにおいて最も大切なのが<気付き>なのです。
またその気付きが起こるには「意識」していることがなければなりません。
・・・すなわち原因が無ければその結果も出てこないわけです。

また執着は自分の思い通りにしたがることから出ています。
だからその執着していることを思い通りにしたがるために、古臭い過去の恩や儀を持ち出してみたり、また此れから受ける恩や儀を忘れないことを臭わしてみたり、急場しのぎに心にもないことを言ってまでも何とかしたがるものですが、それが執着になっているとは気付きません。

また身近に執着している人がいるので、それを親切心で指摘・助言アドバイスしても、それがいらぬお節介・余計な口出しになり、それが無駄になるどころか不満・不機嫌になったり否定反発されたり不信感を募らせられたりするかもわかりません。

またその指摘・助言をした人が立派な肩書きのある人や尊敬している人であれば、素直に「聞く耳」があるかもしれませんが、しかしそれでも、その助言アドバイスを実践するとなると見せ掛けになりやすいようです。
それは立派な人や尊敬している人から言われたことをそのままに信じて従い、その言われた事・形を何とかして守ろうとしますから、それが単なる見せ掛けだったり、それが無理していることだったり、それが我慢辛抱している形だったりしますから(自らの意識で学び知り本心から気付き悔い改めたわけではないだけに)、言われたように従っていることで一応その件を奥底に隠すことが出来ても、また新たな件で執着するようなことが繰り返される可能性が大いにあります。

その執着しないこと、また無理をしないで素朴に生きる事でも言えることですが、その為に必ず自己縮小が必要になってきます。
ところが先に自己縮小の形から無理矢理始めようとすると失敗しかねません。
だから完全真理を学び知り自己縮小が必要なことに気付き知り・自覚悟りになって、既にその意識が奥底に根付いていなければ、やはり先程のように見せ掛けや我慢辛抱して耐えている形で止まりそれ以上の実践はありません。

私の場合は摩訶不思議な世界や精神世界を学んでいる内に必然ご縁のお仕組みからいつの間にやら自己縮小をしている形になっていたのですが、それにもやはり摩訶不思議・精神世界を意識していたからこそ成るようになったのです。
またその必然ご縁のお仕組みを「仕組まれた」事と自らが<気付>かなければ多分別な方向に歩んでいたかもしれません。
・・・だから何度も「気付き」が必要な事を書いているのです。

そしてこのブログにご縁があった人にも(己の意識が原因で)必然ご縁で仕組まれた事と書いているのですが、そう思えない人には必然でなかったことになるだけです。
また「意識している」ことで起こるその「気付き」の重要性を認識していなければ、何かに気付いてもその必然性も薄くなるし、その後のお仕組みに気付くこともままなりません。

またそのお仕組みに気付いた人であっても、そのお仕組みに乗り切れないのは、何らかの欲な思いの目的理想を持っていたり、また欲を捨てられないで守っている意識があると思われます。
だから「守る」のも<執着>だと、未だ<気付>いていないのかもしれません。

しかしそれが執着だと気付いていても、それを「どうする」ことも出来ないのも、私達の不完全意識です。
だから実践したくても実践出来ないままが続く人が多いのです。
しかもそれも致し方ないと思っているのも、私達の未熟な意識の性だと思います。

何にせよ、見えない世界の先行き不透明なことよりも現実にいま見えていことが大事に思う意識があるからです。
そうなると「完全真理」は何の為にあるのよ?誰の為にあるのよ?となって、絵に描いた餅と同然になり、その必然ご縁が遠のいていくのです。
そして不平不満とその自己満足の繰り返しの生き方から抜け出せないままに人生・人間を終わろうとしているのです。

「すべては意識」「意識はひとつ」「意識エネルギー」「霊能・霊力」「奇跡」「お仕組み」「独自独歩」

2011年09月23日 | Weblog
完全真理を学び知れば独自独歩で歩めると書いているのは、皆から「離れ」なさいという意味ではありませんで、わざわざ皆して一堂に集ることがなくても大丈夫なこと、集りたければ集りたい者が集ればいいこと、集りたくなければ集らなくても大丈夫なこと、何の制約も制限も指図も取り決めもないこと、皆が自由で平等で、自分が思うままに実践し学び知りながら一人歩きが出来る事を意味します。
だから、いつ何処で何をしていようが、その生活の中で自らが「気付け」ばそれでいいのです。

だから完全真理の基本・完全を学び知れば、あとは自らの実践意識で、この世やその人間関係の不完全さや自他共に持つその不完全意識に気付いていけばいいのです。
また人それぞれですから、例え耕栄さんを含めたスタッフや仲間内が説明したことであっても、それをそっくり真似ることも、また丸呑み妄信することもなく、また否定反発する事無く、その言われたことに矛盾や妥協や言い訳・正当化が有るか無いか、事実か否か、完全か否かを自分なりに気付き見定め、それが納得確信できるまでになればいいのです。 それが自力・自信になるのです。
・・・だから他者「洗脳」されたり、妄信・自己洗脳になることはありませんから安心安全なのです。

私のブログで判るように(私事が多く)、耕栄さんの説明を鵜呑み丸呑み・丸写しに書いてはいません。
また完全真理の基本説明以外の内容はその人の個の思いになりますから不完全で矛盾や妥協が含まれています。
・・・だから(耕栄さんの説明内容であっても)私なりに完全か否かを明確に書いています。
またこの世は似た者が集りやすい関係から言えば、このブログの愛読者であれば、私と波長が合っている人が多いと思いますし、耕栄さんで無ければならない人達にはこのブログに違和感を持つ場合もあります。

ところで過去に学んでいた霊界・想念の世界のときの霊能者でも完全真理の耕栄さんも言っていることですが、神の声が直接的に聞こえたりすることは絶対にありませんで、その宇宙・神の意識を受け取り・感じ取り・読み取ると言うような感じですが、それはあくまで宇宙・神が出しているエネルギー(光・オーラー・波動の類)をイメージ的に以心伝心のようになってその霊能者や耕栄さんの意識に伝わりそれを感じ取り読み取っているような感じですから、その感じ取り読み取る中にその霊能者や耕栄さんの思い意識が加わることにもなるのも当然ですし、しかもそれを人間の言葉にして説明するとなると、どうしてもその霊能者や耕栄さんが知っている知識・言葉を使うことになります。

だから宇宙・神は「ひとつ」なのに、過去も現在も古今東西にわたって、それぞれに違った神を語る者が現れ出ているのです。
すなわち人それぞれが受け取ったイメージを宗教的感覚・形に偶像化して、我こそ主なり神なり教祖なりと主張したり、また他を批評したり、比較競争することにもなっているのです。

しかも、それらから「完全な神」を知ることにならず、その矛盾や言い訳正当化しているところがあるのに、ただ言われた事を信じるだけ、また言われた事を守るだけ、その中に経典聖書を丸覚えすることがあったり、呪文にように唱えたり、形式にのっとりお祈りしたり祈願したり、金銭の出費が伴ったり、宣伝勧誘布教する事を求められたりと、何かと押し付けられたり制限制約束縛されることが多くあり、すべてが不完全です。

その絶え間なく出ている宇宙・神のエネルギーを(大病がきっかけで)山田耕栄さんの意識で感じ取り読み解くことが出来たのが、あるがままの宇宙・神の完全なる意識だったと言えるわけです。
そしてそれが此れまで誰も説かなかった「完全」なだけに、この世で始めての矛盾も妥協もない完全真理と言い表し、それを耕栄さんの知識・経験・思い・言葉・形でもって説いているのです。

そして「宇宙はひとつ」「すべてはひとつ」「すべては意識」「すべてに感謝」「あるがまま」「平等・自由・調和」「皆が神」などの諸々の言葉は先人達が既に使っていることであり、またその解釈・イメージに大きな違いはありません。
しかし耕栄さんが未だ知らない言葉があったり自らが自覚経験していなければその知らない事を人に説明できませんから、自らが学び知り自覚経験することも必要になりますが、それを補い手助けしてくれる人達も集ってきます。
また耕栄さん自らの創作文字・単語として「愛在」「ファバラ」「神は常温核融合」などがあるりますが、それ以前に使っている人がいても、それもどうでもいいことですし、他にも創作文字や単語・記号が使われているようですが、このワープロでは描き切れません。

その宇宙・神のエネルギーは万物皆が等しく受けているものですから、いつ何処で神を語る者が現れても不思議ではありませんし、また神を語るほどでなくても、生きている限りにおいて(自らの意識力によって)直感・感性・閃きのように感じ気付きが起きている筈です。
それが「すべてはひとつ」の宇宙・神の<意識の世界>が原因で仕組まれ起きている「必然」「ご縁」の<お仕組み>「気付き」でもあります。

それを宇宙の法則&自然の法則とも言っていますし、また「すべてがひとつ」につながって(網羅されて)いるから、その万物皆の意識エネルギー・情報伝達エネルギーが互いに絡み合って起きているとも言われる訳です。
だから偶然・奇遇・奇跡ではなくして、原因あっての結果、成るものは成る、成らないものは成らない、その原因と結果は同じで完全ですから、その宇宙の歯車どおりに仕組まれ成るように成っているだけです。
と言うことは偶然のように起きている<必然ご縁のお仕組み>が世間で言う「奇跡」でもあるのです。

そして人様が成す(他力型)奇跡で見える形・結果が変化することよりも、宇宙・神の仕組みの「奇跡」とも言える、その必然ご縁のお仕組みによって生きていく方向性・原因が変化するほうが(自力型)アリガタイことになるわけです。

そして宇宙・万物皆が命ある意識で生きていることからしてこの世は「意識の世界」ですから、その意識が原因でその結果が出ていると言われる訳です。
だから「意識力」「実践力」(原因)次第でその必然ご縁のお仕組みが起きていることだし、またそのお仕組みに気付けるか否かの意識力にも関わることなのです。
だから「すべてはひとつ」で「すべては意識」にあるのです。

ところでその意識は一つしかありませんから、諺のように「二兎追うものは一兎も得ず」の中途半端な結果になるのです。
だから生活そのものを意識しているのか、精神世界・意識の世界を意識して生きているのかでその結果も違ってくるのです。
すなわち見える結果が大事なのか、それとも見えていない原因「意識」を知ることが大切なのかが問われているとも言えるのです。

また生きる事に不自由していないこの地球であるがままにその地上の天国を味わうのか、それが満足できずに欲を出してその不平不満とその自己満足で生きていくのかが、今の私達に問われているとも書いているのです。
そこで欲のない者同士が集まれば、自らが自己縮小した者同士が集まれば(不完全意識であっても)その調和意識・自由平等意識でもって(今まで味わったことが無いような)人間関係の醍醐味を味わえることにもなると書いているのです。

この地球に悪さばかりして生き長らえ、それを無駄にしている、宇宙で「落ちこぼれ」の意識体が人間です。

2011年09月21日 | Weblog
宇宙・神の意識・命から生まれた私達人間の意識・命に「肉体」を持ったことから、先ずは衣食住が必要になりました。
そしてその肉体を生かし続けるために病気や怪我や死を恐れていますから、その体調管理や危機管理にも気を使っています。
また「良い悪い」で分離判断・比較競争・評価していることからも、その肉体の見掛けを整えることや衣食住などの魅せ掛けをよくすることに相当気遣っています。
・・・だから(気付いていないかもしれないが)皆さん相当に気疲れしているはずです。

その「肉体」の次に「感情体」を持っているがためにその<好き嫌い>で判断することにもなりました。
だから、その肉体自体に関わることから外見上の見掛けや衣食住なども好き嫌いで判断しているし、見えていないはずの内面的・精神的なことまでも自分勝手な思い込み・先入観や噂話の丸呑みや見掛けだけで勝手に好き嫌いの判断をしている場合もあります。
だから姿形で見える「肉体」関係よりも、内面的で計り知れない裏表のある「感情」が伴うほうがもっと難解で厄介になります。
・・・その難解で厄介な事に意識・精神が相当酷使され疲れています。

その次に「精神体」でもって不平不満や自己満足の苦楽・喜怒哀楽を表す事にもなっています。
だからその確信・自信と不信・疑心暗鬼とが入り混じり精神不安定です。
またそれが原因で思い悩む苦悩や思考錯誤や葛藤にもなったりして精神が乱れ疲れてもいます。

どうやら疲れることばかりですね。
そこで「肉体」を気にしなくなればどうでしょう。
また「感情体」「精神体」が穏やかになったらどうでしょう。
・・・その自己縮小のことは何度も書いているので省略します・・・
だからそれらの事を完全真理で学び知りそして実践すれば自ずと答えが出てきます。

ところが多くの場合、学び知り知識にはなっているが実際の実践が出来ない状況下にあるのは確かなようです。
それが此れまで築いてきた形でありその人間関係です。

だから自己縮小できないままに止まっているということは、まだまだ完全真理を理解し切っていないとも言えます。
例えばあなた方の夫なり妻が、我がままで分からず屋でどうしようもない人なら、あなた方はどうしますか?
中にはそれでも何とかしようと試みるかもしれませんが、そんなに簡単には相手は変わりません。
それでも20年40年60年80年と死ぬまで頑張っても、その相手の意識は大して変わらずに大部分は無駄に終わります。
すなわち宇宙・神仏でも奇跡を成す人でも賢い人様であっても、他人の意識(原因)までは根本的に変えられないのです。

そこで相手の意識を変えられないのならば、そこで自分の意識を変えるしか無いのです。
その自分の意識なら、その本人の意識でもってその意識を変えることも可能になるわけです。
そして、我がままで分からず屋の相手のことを良い悪いで判断しなければ、それが気にならなくなり(問題もなくなり)、そこに何んもなかった事になります。

だから人は人、私は私なのです、だから私の意識・原因が変わらない限り「どうしようもない」のです。
その私の意識(原因)を変えるためには自己縮小の実践が必ず必要となります。
そうなると先程のように実践できる状況下でなければなりません。
しかしその状況が前と同じであれば、その我がままで分からず屋の相手のご機嫌を伺いながら自分だけの実践をしなければなりませんから、ある意味ではそれが真の実践や精神修行しているようなものですが、それを無理とも苦労とも思わずに聖人のようにやり遂げることが果たして凡人に出来るでしょうか(今は聖人でない者がその聖人の真似が出来るでしょうか)、だから途中で挫折したりあきらめたりして元の木阿弥に戻るかと思います。
・・・だから宇宙・神の仕組みの必然ご縁のお仕組みに任せた成り行き任せの楽ちんな実践を書いているのです。

何はともあれ先ずは「意識改革」することが先決なのですが、その実践が出来る状況下ではないという問題があります。
だから私は「自由」意識の必要性を何かと書いているのです。
・・・中には人間関係を壊さなければ自由になれない場合もあります。
そこでまた出てくる言葉が・・・人は人、私は私なのです。
だから人を大事にすることも必要ですし、また自分を大事にすることも必要ということになりますが・・・自他共に不完全意識だけに・・・その「二兎追うものは一兎も得ず」の無駄な結果になる事を学び知っていれば、(自由か否かの)いずれか一方を選択することになりますが、その選択も個人の自由ですし、どっちつかずの中途半端なままを選択するのも自由です。
・・・己に自由意識が無ければ平等も調和の意識になるのも到底無理です。

そして、この世で人間として生きている事がすべてではなくして、その「この世」の原因が<あの世>にあることも知らなければなりません。 すなわち、この世の人間の意識・命があの世の意識・命につながっている事を知ることです。
そしてこの世の命・意識は地球時間で終わりますが、あの世の意識・命となれば(昼夜・季節の時間の変化がない)「宇宙の時」で過ごすことになり、しかも永遠にその意識・命は続きますから、その「意識」が最も重要になるわけです。

すなわち、結果であるこの世を見て味わい感じ知り、その原因である「意識」を学ぶために地球があり人間が住んでいるのです。
だからこの世の結果を大いに味わい知ることも無駄にはなりませんが、それには「完全真理」を学び知りそれを実践して始めてそれが活かされることになるのです。
だから完全真理を学び知らないものやその実践が伴わずに終われば、この地球に悪さばかりして生き長らえ、それを無駄にした、宇宙で「落ちこぼれ」の意識体(命・意識)のままに人間を終える事になります。

自由・平等の人間関係の「調和」意識を共に味わう事になれば、それが地上の天国になるというものです。

2011年09月19日 | Weblog
私達は意識で生きている関係からして、その意識が原因でその結果が出ています。
だから自分が意識していることが原因となってその結果が出ているのに、その結果が気に入らなければ何かにつけ責任転換・人様の性にすることが出来るのも、それは私は正しいの意識や自分さえ良ければの個人意識の成せる技です。
またそれが不平不満や不信感の原因にもなって、更に不安心配や怒り恐怖と進化拡大する原因にもなっています。

また自らの意識で「成り行き任せ」にしていれば後悔も未練も出てきませんが、しかし自らの意識に思惑期待を持っていれば、その結果次第で自己満足になったり不平不満になったり、また未練・後悔・執着することにもなります。

また「成り行き任せ」にしているから、成るようになったと自らが思えるわけですが、その成り行き任せにしていなければその結果次第で満足したり不満にもなったりする矛盾があります。

だから私が「成るようになった」と言うのは、その結果に良いも悪いもなく、ただ「成るようになった」という意味にもなります。
ただそれも私の意識が原因の結果ですから、当然その結果も自分に見合った(私に似合った)結果になっているのです。
だからもしその結果に不満があれば、それは成り行き任せにしていなかったのが原因となります。

だから人様のことはその人様の成り行き任せにしておけば(ほっとけば)いいことですから、自分が関わることもまた巻き込まれることもなく、その結果は自他共に成るようになります。

また私が成り行き任せにしたことの結果に納得・満足していても、その成り行き任せにしている事に不満を持っている身近な人や家族がいればその結果に満足するはずもありません。
しかしそれは最初から否定反発していた人達の勝手な思いが原因の不満ですから、私にはそれをどうすることも出来ません。
またそれを私が犠牲になることで相手が満足しても、その相手の満足が直ぐに消えて別な不満が出るのなら、その私の自己犠牲が無駄になります。

だからそれらの人達の思いを気にする事無くおれば、そのままに「まい進」する事が出来るわけです。
しかしそれらの人達の思いに気兼ねすると自由が損なわれます。
またそれらの人達の思いに巻き込まれ執着することで自分を見失うことにもなるかもしれません。

また中途半端な成り行き任せであれば、その結果も中途半端になりますから、その途中の結果に何れかの是非を選択する必要が出てきてその選択に迷うことにもなります。
しかしそこでまた中途半端にほっとけばその結果もまた中途半端な繰り返しになります。
またそこで欲張りを選択しなければその結果は当然ながら「成るようになった」結果になりますが、そこで欲張りの方を選択したときは無理が伴いますから成り行き任せにしたことにはなりません。

だから成り行き任せが人任せではなくてして、己の自力・自信・意識力を発揮することにもなるのです。
そしてその成り行き任せの必然ご縁のお仕組みからも、すべてはひとつの宇宙・神を感じ知ることにもなるのです。
またそれが更なる自力・自信・意識力にもなり、あれこれ思い悩み迷うことにもならないで一本道を歩めるのです。

何だかごちゃごちゃ書いたようですが、ようするに<欲>が無ければ「成るようになる」のです。
そして何の未練も後悔も執着することにもならずに穏やかな気持ちで過ごせる人生になるのです。
そしてそれが世間一般で言う味気ない人生ではなくして、今まで見失っていた元からあるものを深く味わう事になるのです。
それが人間が生きる為に用意されている自然界そのものを味わい知ることなのです。
また人間が思い考えついた趣味嗜好娯楽などは「おまけ」ですから、それを味わい楽しめば喜び感謝になるのです。

そして「良い悪い」で判断さえしていなければ皆が自由であり平等になり、その人間関係の「調和」意識を共に味わう事になれば、それが地上の天国になるというものです。
ちなみに自己縮小している私にその地上の天国を味わうのに最も不足しているのが、その調和意識の人間関係だと言えるわけです。

意識の食違い・噛み合せの悪い状態で共に暮らしていることに気付き知ったら、皆さんはどうしますか?

2011年09月17日 | Weblog
個人意識の私達は自分の思いが優先されますから、実際は欲張っているのに、自分が欲張っていないと思えばそれが正しい事になりますから、例え耕栄さんがそれを指摘しても「何で私が」と否定反発する人がいたりしますが、そんな意識の人であれば自らが「気付く」ということは程遠いことになるでしょう。
また執着していますとか守り意識が強いと指摘されても、(多く持っているのに)自分に思い当たることがなければ、自らがそれに気付くまで半信半疑なままに引きずったり、忘れてしまうことにもなっています。
・・・だから真理を深く知ることと自らが気付くことの重要性を書いています。

その不完全意識に「気付く」にも、急ぎ慌てている日々の生活そのものに意識が縛られていると、その分だけ気付きが少なくなりますし、その間(私はそんなことはないと)「私は正しい」と思い込んだままが続きます。
・・・気付く為にも無理のないゆとりのある生活、素朴さが言われる訳です。

誰しも世間の雑踏の中で生活していると、その周りの人達といつの間にやら比較競争判断評価していたりするものですが、その時はその事に気付いていないのが多いのも確かなようです。
だからまた家族生活の中の夫婦間や親子の中でも、ちょっとしたことで、双方の意識が噛みあわずに物事に執着していたりしても、それに気付かない場合がわりと多いようです。
またそれが堂々巡りの会話・結果になっていても(執着している本人は)そのことに気付かずにうんざりするほど執拗に続きます。
だから中には物事の始まりよりも更にエスカレートしていて、過去の余計な事まで引き合いに出されていても、それさえも気付かない場合も多いようです。
・・・矛盾・言い訳・正当化したり否定反発してまで拘り執着しているのに、(それに気付かずに)まさか自分が執着しているとはまったく思っていない人が多いのも事実です。
・・・往々にして人のことはよく見えるが自分の事は見えないものです、だからそれで執着するのです。

そこで執着がなければ物事は素早く進展していきます。
だから仕事や日常会話であっても、始まりよりも一段と内容の濃い会話に進展していたり、また次ぎから次と話題が変化して出てきたりしますから、飽きずに会話が続きます。
だから楽しい会話・人間関係になるのです。

しかし面白くもなく不愉快な会話やその不満な関係が長々と続くということは何かに執着している事になるのです。
そうなると必ず「否定反発」し合う事になっているのですが、それに気付かないから執着することにもなっているのです。
それが親子や夫婦関係になると更に(気がねなく遠慮なく)「私」を出す自己主張が出てきます。
それに感情が伴うと更に執着することにもなり、見境なく正気を失う事態にまで進展していくことにもなります。
それが口喧嘩や怒り・妬み嫉妬・暴力の破壊意識・行為にもなっているのです。

その意識の食違い・噛み合せの悪い状態で共に暮らしていることに気付き、更にそれをどうすることも出来ないと知ったら、皆さんはどうしますか?
共に努力・協力したら何とかなると思いたいでしょうが、そうは問屋が卸してくれません。
だから我慢するかあきらめるか、また妥協し合って辛抱するしかありません。

それとも、私のように「しがらみ」から離れて孤独自由になることからして、その田舎暮らし同居に同意しなかった妻や既に自立していた子供も結果的に私から自由になりましたから、そのように各々の自由とその自己責任・自立・自力・自信で生きていくように自他共に仕向けるのも一つの方法かもしれません。
・・・いま思えば・・・妻や子供の事を私がいくら案じた所でその私の思い通りになるわけでもなく、それも余計な事で無駄な事であり、また私が何とかしようと無理をして誰かのために事を成しても、それも無駄なことになる結果から言えば・・・その時の私の判断行動が真理に沿った形でもあったわけです。

それを家族の崩壊、家庭の崩壊と思うかもしれませんが、縁が切れたわけでもなく、またその結果、今では各々が自由になった事を大いに活かしています。
だから妻も子供も(私に気がね遠慮なく)自立・自力で思うがままに自由に暮らしていますし、必然ご縁がない限り互いがほっといていますから、自他共に要らぬ心配やお節介をすることもありません。
だから、成るようになったその結果、今では(案ずるよりも善しの)互いに都合がいいことになっているのは確かです。

それを省みて気付いたことですが、共に助け合うとか協力し合っているとかではなくして(見せ掛けはそうであっても)、それは見栄・世間体や自立・自力・自信などの問題も絡んでいたことから、その時々の自分の都合や必然ご縁でそうしていた関係・形が続いていただけであって、そんな中で特に自分の都合が悪いときはそれが前面に精出し出てきて物議を交わしていたことであり、また時折自己満足の家庭円満・夫婦円満な時があっただけなのです。
すなわち不完全意識の者同士の人間関係だったことは確かなことなのです。
だから皆さんも概ね似たり寄ったりだと推察できるわけです。

そして完全真理を学び知り実践で気付きが多い人ほど、その不完全意識の者同士の人間関係にも気付きが多くなるのです。
またその不完全意識の者同士のその意識の事は「どうしようもない」ことに気付くほどに、それらが気にならなくなり、自分の中でも気楽になれるのです。
そして更にそれらが「どうでもいい」ことになり、いちいち良い悪いで判断する必要性もなくなり、そのままにほっといていても人は人ですから、私の中には何の問題もありません。 だから心身ともに楽ちんだと書いているのです。

すなわち人様の思い考えるその意識を私らが「どうする」ことも出来ませんが・・・その私らの意識を自らが変えていけば・・・それらが「どうでもいい」ことに思えるようになり、大して気になら無くなるのです。
だから人様の意識・思いを前もってあれこれ詮索心配することをよりも、自らの意識の事に集中・専念するほうが先なのです。
そして人様の思いを気にする事無くほっといておいて、先ず己の意識がどうなのかに気付く意識力が必要になってくるのです。

その気付き知ることが肝心なだけに、私の事例をあれこれと参考に書いているのです。

素朴に生きていれば穏やかな生活と穏やかな死に至り、死して後も穏やかな意識・命のままが続きます。

2011年09月15日 | Weblog
元からある「宇宙」は<ひとつ>です。
だから宇宙・地球・人類・万物<すべて>は「ひとつ」です。
だから「差」もなく<調和>でもって「仕組まれ」、成るがままの<必然>で成り立っています。

だから宇宙が神であれば、すべてが同じ神になり、何一つ特別な差もなく、各々が一個の神になります。
すなわち「一神にして多神、多神にして一神」のすべてが神の関係になり、矛盾も無く完全です。
その宇宙・神に「意識・命」があることからして、当然ながら万物も同じ「意識・命」を持っています。
そしてそれら各々が果たすべき役割・個性でもってこの世に存在し実在で生きています。
だから矛盾もなく完全です。

しかしながら人間の意識・命は「ひとつ」のものを<良い悪い>で判断して分離比較競争し差別する差別・特別意識を持っていて不完全な意識となっています。
だから「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断して、人を責めたり自分を責めたりして不平不満を持つことになり、その不平不満が不安心配・恐れ恐怖・不信感・守り意識にもなり、それが恨み妬みの嫉妬・仕返し・報復制裁や破壊意識にもなり、抗論・暴力や抗争・戦争にもなっています。

その「良い悪い」で判断する矛盾意識を無くしていけば<すべてがひとつ>の自由・平等・調和の地上の天国になります。
それを説いているのが「完全真理」ですが、その中に執着しなければいいとか、素朴であればいいとか、愛情・人情の義理や恩義の必要を説けば、それは不完全意識の個の思いが入った不完全な真理になります。

だから先程に書いた「完全」が無くて、執着・素朴・愛情を説く不完全な真理になれば、巷に溢れている宗教真理や奇跡を成して人集め金集めしている不確かな宗教団体や宗教家や教祖と同じ類になります。

その完全真理の実践が難しくて進まないことからして、不完全意識であっても執着しなけれ素朴であればと説いているのです。
すなわち誰でもが実践しやすい方向性から始めていけば無理もなく、しかも自然体に近いことからして、いつしか「良い悪い」で判断する必要性が無くなっていくのを見通しての苦肉の策ともとれるのです。
しかしながら(四国・高松の講演会で言った)愛情人情・義理恩義を大切にすることからして、どう完全意識につながっていくのかは(私には)未だに道筋が見えてきていませんので、どなたかアドバイスがあればコメントで書き込んでください。

ところで人間として生まれたからには必ず<死>があります。
だから私は死ぬまで「元気」である事を意識していますし、どうせ死ぬのなら苦しまずに楽に死ねる事を願っています。
その元気は健康体だけを意味するものではなくて、病気にかかっていても症状が出ないで元気にしておれることです。
すなわち病気が原因で死んだ事になっても、その病気・病名・症状を知らずに(そのままに)元気なままに死ぬことです。
・・・ちなみに野生動物は死ぬ直前までは元気だと言われています。

何か矛盾しているように思うかもしれませんが、病気=「病は気」からというように、何らかの症状を気にしていれば更に病が進行しやすいのは(私の)事実にあります。
だから健康診断は20年以上受けていませんが、未だに病院通いもする事無く今のところ元気です。

私の両親は癌が原因で死に至っていますから、私も癌が原因で死ぬ確率は高く、また40年以上タバコをすっています。
また20年以上噛み合せの悪い歯抜けのままに食事を飲み込んでいる状態ですが、それでも元気にしています。

ところで私に癌が見つかったとしてもその癌とは闘いません、そのままにして成り行きに任せます。
その方が死ぬ時に楽に死ねる確率が高い事を知っているからです。
反対にまだ死にたくない思いから癌と闘うと(他者を巻き込んでまでも)余計な出費や苦労が伴い心配もするし、術後の再発が気になって不安心配になるし、癌の切除手術や治療や化学療法を受けた分だけ(悪い所を排除し、良いとこ取りした)しっぺ返しで(癌死に限らずとも)死ぬ時に相当な苦しみが加わるようです。
・・・世間で言う「極楽往生」「大往生」は無理なようです。

ところで災害や事故などで奇跡的に生き残ったり、死の淵から蘇ったり、自らが死にたくても死ねないときがあるように(必然の仕組みから)「意識・命」は死ぬ時でなければ死ねません。
それを寿命とか宿命・運命とか言われているわけです。

その死ぬ時が来たときに死ぬわけですから、それが交通事故や人災・災害・被害や病気・癌や老衰や自殺だったりする結果であっても、それが大元の原因ではありません。
だから大元の原因からして肉体の死ぬ時が来たのなら、そのお仕組みの必然ご縁に従うだけであっさりと死ねるわけです。

しかしその死に至るまでの途中に起きている様々な事故や怪我や病気やは、己の意識が原因の生きている時の精神状態の注意信号や警告にすぎませんから、その都度に気付き悔い改める意識・精神があればそれほど大事には至りませんが、ただ必然のお仕組みで死ぬ時が来ていたのなら、その死因の「きっかけ」になるだけです。
・・・また精神世界を知らずにして、個人意識丸出しのままの我欲で生きてきた人ほどに、その死に至る直前までの苦痛の期間・時間がどうやら長いようです。

この世に生まれることも死ぬことも必然ご縁のお仕組みで起きていることなのですから、そのしぜんに任せとけば大丈夫なのです。
だからその為にも「今を生きる」言葉があるように、過去の後悔や未練や執着の無い生き方が大切なわけです。
そこで「しがらみ」(後悔・未練・執着)から離れて無理のない素朴に生きていれば、それが安心安全の穏やかな生活にもなり、また穏やかな死に至ることにもなり、また「終わり良ければすべて善し」の例えのように<死>して後も穏やかな「意識・命」のままが続くと言うことなのです。

宇宙・神から人間に必要なものはすべて得られているのに、それでも満足できない原因は<欲>にあります。

2011年09月13日 | Weblog
神を知らないものが神を知る為には、その神を知ることから始まるように、欲を持たない為には、その欲を知ることから始まります。
そして欲しいものを欲しいように手に入れているうちは、それを欲だとあまり自覚していません。
しかし自分に無いものを欲しがったときに、それが欲だと自覚することが出来るようになります。

その欲が金銭物質だけではなくして、権利・名誉名声・権威権力・肩書きなどを欲しがることがあります。
だから他と比較競争して差を付けたがる欲にもなっているのです。
すなわち欲で差を付けて自己満足していたいのです。
すなわち欲は自己満足を叶えるために必要なわけです。

だから無いものを欲しがれば多くが得られますが、有るもので満足するようになるとその多くのものは必要なくなります。
その多くのものを必要とし無くなることが「自己縮小」なのです。
そしていま有るもので満足するようになると無理も無駄も無くなります。
すなわち食って寝て糞をして「生きている」だけでも十分となります。

だから金銭物質や肩書きなどで自己満足しているとその外見ばかりが気になりますが、内なる心・意識に満ち足りたものを味わっていれば、それがしぜんと内面・精神面の充実を意識するようになります。
だから人類が生きるに必要なものがすべて用意されていて、何ひとつ不自由する事無く生きていけるようになっているのは、過ぎた欲を出さずにして、その犠牲となっている自然界と共に生き長らえながら、その神・宇宙の意識の世界、精神世界・見えない世界を学び知るための必然ご縁のお仕組みなのです。
・・・それが原因でこの世に地球・人類が実在しているのです。

だからその欲が(集合意識で)充満し破壊意識が強まった時に(必然から)神を説く者がその都度現れ出てきた歴史があるのです。
そしてこの世が偶然に出来たわけでもなく、原因があっての、宇宙・神の必然・お仕組みだとも説いているのです。
すなわち元から有る宇宙(神)の進化の過程の中に私達地球人類の進化も同時に進行しているのです。
だから太古の大昔から今も進化し続けているのです。
それが歴史でもあるのです。

しかも歴史の傍観者ではなくして、いつの時代も、同じ「意識・命」が何度も繰り返しながら学び知り、次第に進化してきているのです。
そして(恐竜時代・原始人時代が終わったように)この世の三次元界が終わり新たな進化が始まるのです。
そしてそれに見合う「意識・命」になるための意識改革の実践がいま言われているわけです。

執着しすぎ、無理しすぎ、気疲れしている人に、宇宙の仕組み・必然ご縁の<気付き>は無理になります。

2011年09月11日 | Weblog
私の過去・足跡<しがらみ>から離れて自由勝手気ままに暮らし始めて10年が過ぎましたが、ただ食って寝て糞をしているだけの生産性の低い生活に馴染んだおかげもあって、過去の贅沢三昧の生活が如何に馬鹿げたことかを知り、その自己満足と不平不満の繰り返しで生きてきたことの虚しさにも気付きました。

しかしその贅沢三昧の満足と不満の繰り返しで生きている時は、それが当然のように思っていたのだから、それが馬鹿げたことで虚しいとは気付いていなかったと言う事になるわけです。
すなわち表の一面だけを味わっているときは、それしか知らないから、それが当然のことのように思えるわけです。
※それだから自らの意識を改革変革するには、完全意識と不完全意識の両面・矛盾を学び知り味わうことが必要なわけです。
それだからこそ、此れまでの自己拡大から反対の自己縮小に向けた実践が言われているわけです。

そして実際に自己縮小している者だけに味わい気付くことにあるのが、自己拡大していた当時の苦楽・喜怒哀楽が「どうでもいい」ことだと思い気づくことです。
そうなればもう二度と過去のような自己満足と不平不満の繰り返しで生きるような馬鹿げたことはしたく無くなるわけです。
だから自己縮小を「味わい知る」ことから<意識改革>が始まるのです。

しかしその自己縮小の実践が我が身だけなら何とかできそうだが、身近な恋人や家族を巻き込む心配やそれを無理押しして離別別居・離縁離婚に至ることになるかもしれませんし、また生活に貧したり、自力・自信の無さが重なって、気楽どころか苦になるかもしれません。
だから急ぎ慌てる自己縮小の実践には問題が多く出てくるでしょうから無理なわけです。
そこで肝心になってくるのが実践意識を持ち続けることです。
そしてこの世の矛盾を多く学び知り気付き、それらがどうでもいい事に思えるようになることです。
そして必然ご縁の成り行きに任す自信を持つことです。

しかし一般世間の中で暮らしていれば実践意識も薄らぎ、成り行き任せどころか欲さえも持って目指すことにもなりやすいのです。
だから先ずは完全真理を深く学び知ることだと書いているのですが、それにもやはり学び知った事を実践しなければ深く気付き知ることにもなりません、だから常々から実践意識で暮らす事を書いているのです。
すなわち今の生活・結果を意識するのではなくして、原因である「意識・命」を学び知る実践意識が必要なわけです。

とわ言っても一般世間や家族の中にいれば、やはり目の前の生活に意識がいきますから実践意識は二番手になり、実践しているようだが中身の無い実践になっていて、ただ言うだけ聞くだけの真理になるのです。
だから無理しないで素朴に生きて、意識を開放し自由に生きて、心静かな余裕で生きることが重要になってくるのです。
・・・執着し気疲れしている人には宇宙の仕組み・必然ご縁に気付かずに見逃す場合が多いようです。

何を「意識」しているのか、その意識に「すべて」がかかっているのです。
だからこの世の不完全で矛盾のある「どうでもいい、どうしようもない」結果・形を気にしないで(執着しないで)、個性のままに呑気気楽に暮らせる自由意識と素朴に生きることが先だとも書いているのです。

そして(どうでもいい事に)<欲>を持つから、人間に必要な「自由」が失われている事を知るべきだとも書いているのです。

その欲のない・執着のない意識の開放・自由によって、今までとはまったく違った生き方になり(自己縮小になり)、その思うがままの自由とゆとりのある実践・素朴な生き方からして、学び知った完全真理が説くところの(何ら特別のない)宇宙・神・万物の「意識・命」の実在を学び知り納得確信・悟ることにもなり、此れまで(誰もが)知らなかった<完全>な「宇宙・神」の(信じるか否かではない)真実を<知る>事にもなり、それが「鬼に金棒」の自信・自力に満ち、その無理のない、余計な事を気にしない、独自独歩の揺るぎない、意識改革への一本道の生き方にも変わっていくのです。