孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

目の前に見えているものを追い求める習性はあっても、何故か見えないものを探し出すことはしたがりません。

2011年02月23日 | Weblog
知らない事を知りたがる好奇心、その新たな事をやりたがる先覚者気取りから次々と新たな事に乗り換えてきた私が今は過疎地での質素な単身生活と完全真理の実践を意識した生活になっていますが、それも先人の諺のように「二兎追うものは一兎も得ず」の如くにやってきたお陰ですが、それも無学・無教養を自慢するほどの無能な私だから(一つの事に集中するのが精一杯だったことから)出来たことだと思っていますし、(過去に成していた事を惜しげなく手放して)新たに知った事・やりたくなった事だけに意識を集中してきたことから成し得た今の結果に思います。

私自身は幼い頃から遊んでばかりいましたから、自宅での自習や宿題もそっちのけでしたし、学校へ遊びに行く感覚で通学していましたから、基本学習さえ欠落していたほどの無学・無学歴ですし、大人になった今も新聞書物などの活字嫌いであるし、そんな無知識の無教養の礼儀・儀礼知らずの世間知らずで遊ぶことだけは一人前の私でしたから、まして霊魂・神仏のことは嘘っぽい迷信に思っていたし、そんな信仰・宗教・精神世界には関心もなかったのに、そんな私でさえも摩訶不思議な宇宙エネルギーや霊魂の世界や今の完全真理が説く真実を知ることになったのですから、今の中学生程度の学習学歴で簡単に理解できる内容でもあります。

だから私とすれば「話せば判る」として、人とご縁あるごとに宇宙エネルギーや霊魂の世界や完全真理などと次々と話してきましたが、何故か聞く耳を持っていない人が殆どですから話しても無駄になるし、たとえ聞く耳があってもそれを知りたがる人が100人のうち3人いれば上出来なほうですから、自らが知りたがる人となれば皆無の状態でこのブログを紹介しても殆ど無駄に終わっています。

だから私としては、見えない世界とはいえこんな素晴らしい事を「何で」知ろうとしないの、また知ったはずなのに「何で」そうなるのと、見えない世界のことで人と関わることの無駄を思い知る結果になっていますから、そんな世間の人たちやそんな人間性の集団である世間とその人間関係に失望しているところがあるのですが、それでも「知っている事を知らせたがる」私の性格と、このブログがきっかけで完全真理などに興味を示す人がいるかもしれないと思いつつ、また新たな気付きが起こるやもしれないと思いつつ、こうして飽きもせずに書き込んでいます。

ところが概ね、目の前にあるものを欲し求め「追いかける」動物的習性本能・現実主義はあっても、何故かしら「見えていない」真実を探し出すことはあまりしたがりません。
だから手っ取り早く(良いとこ取りして)手に入れることが出来ることに意識が集中しますから、当然の事に見えない世界に関心を示すことも無く、またたとえ関心を示したとしても、手っ取り早く学び知った学習知識だけで満足して止まっていたり、その鵜呑み丸呑みの学習知識で知った真実を自分のものとして(受け売りで)人に伝えることになっているのが多いようです。

だから結果的には金銭物質的な現実主義の良いとこ取りや医科学・学術知識の良いとこ取りで人生の大半を終えることになり、その残る余命にその良いとこ取りばかりしてきた裏の「負」の部分を気付かないままに蓄積して背負うことになり、それが起因で事故や災害や成人病や慢性病での通院や入院加療になったり、更にそれが原因で寝たきり状態になったりもしますが、たとえそうならなくても無縁社会の孤独感や失望感・挫折感を味わう事になったり、それが原因から何かの精神を患ったままにこの世を去ることになったりしています。

だからこそ手遅れになる前に「見えない世界」の真実を探し出して、それを味わい知ることが先決・重要になるのです。
それが摩訶不思議な結果の出る宇宙エネルギーや、精神・霊魂の世界であったり、今の完全真理であったりするのです。
そして良いとこ取りしてきた裏の負の部分を洗い流すことのできる宇宙エネルギーに接し触れ合うことだったり、その負を生み出した原因意識の精神修養・意識の修正改革が必要となるのです。

しかもです、今の見える世界が「見える結果」(偶像の世界)であって、その原因・本命である「見えない世界」の意識・命の次元世界こそが私達が行くべき「本物・真実」の意識・命の居場所だと気付くことにもなるのです。
そして見える形ある世界での不完全意識と、形で見えない世界の完全意識の両方・表裏を学び知り味わった(新たな)人類の誕生を待ちわびているという「見えない世界」の事実を知ることになりますが、それが世間で言われている「神」であり、それが宇宙意識・完全意識と言われるものを持っている「意識・命」であり、それが「すべてはひとつ」の宇宙の中の見えていない高次元界で実在している事を知ることになるのです。

「付記」 耕栄さんが言う事によれば・・・今の三次元の肉体を脱ぎ捨てる「死する時」を経た人の中に(此れまでの四次元・霊界ではなくて)「五次元の地球」で既に実在している人達も居るようですが・・・此ればかりは自分が(死して)その居場所に行けなければその事実を知ることにはなりません。
それだからこそ完全真理の実践をしながら死する時を待つしかありませんが、私としては出来る限り「楽ちん」で死する時を迎えたいので、その為にも宇宙意識エネルギー・常温核融合で作られた「ファバラ」を愛用しながら真理の実践を心掛けているわけです。

完全真理を実践することになれば、この世の不完全な形やその人間関係が必ず邪魔をすることになります。

2011年02月20日 | Weblog
良い悪いで分離判断しない完全真理を知ったことでその実践が必要になりますが、ところがその実践にはこの世の不完全な人間関係が必ず邪魔をすることになります。
それが恋人関係であったり夫婦や家族親戚や地域社会や仕事などの人間関係です。

すなわち完全真理によって、この世の不完全な常識や伝統風習や道徳から生老病死や喜怒哀楽や古今東西の信仰宗教や思想哲学の類までの不完全さを知る事になり、また医科学や生産技術やシステムなどの形を含め、この世の全ての不完全な形やその意識を改め修正することを意識した実践になりますから、当然ながらそれらが正しいと思っている人達と心・意識・思いが通じ合うこともままなりません。

それを無理押しすると胡散臭いカルトに染まった人間に思われたり、世間離れした人間に思われたりして(この世の時代にそぐわない意識が原因となって)誰彼と無く違和感・不信感を持たれて否定反発されることになり、それによって此れまで築き上げ維持してきた人間関係に支障が生じたりして、その中には離別・別居・離婚や家族やの崩壊にまで及んでいる場合も事実にあります。
たとえそこまでに至らなくても、完全真理を知ったことが原因で関わる人の中に新たな不平不満が出てきたり、その実践が不都合に思える人から否定反発されたりして、特に身近な人からが多くあり、その責任まで追及されて問題化する場合も有ります。

それもその筈です、何故ならこの世の人間関係は皆して束縛制限支配するための集合体・形ですから、己一人の意識のままに自由に生きることが(身近な人達から何かと)阻害されているのが現状です。
しかも皆がそれぞれに自分の思いは正しいと思い込んでいますから、その自分の意に添わない者を何かと否定反発して当前に思っていますし、なかにはその間違いを言い聞かせて(言訳・正当化で誤魔化してまでも)その過ちを悟らせようと戒められたり、またアメとムチを見せかけに使ってまで思い止まるように仕向けられたりと、何としてでも自由勝手にさせないように仕組まれ邪魔立てされている場合が多くあります。

その時に便利な言葉(事実や真実に関係なく使う言葉)が「愛情」「愛社精神」「愛国心」であり、世のため人の為に「尽くせ」、博愛精神を持て、高い目標・理想を持て、頑張れ、鍛えろ、耐えよであったり、その逆に使えるのが「薄情」「無関心」「自分勝手・気まま」「放任主義」「自己主義」と言う言葉を投げかけることです。
中には権威権力を使っての脅し文句やまた誘惑の甘い言葉や同情を誘う言葉も使っています。

そうなると概ね自信・自力の少ない人ほど弱腰になったり、触らぬ神にたたりなしで逃げ腰になったり、うまく丸め込められたり、また面倒なことに関わることを避けたがる傾向になりますが、そんないい加減な意識・気構え気力であれば完全真理の実践がままならないのも当たり前になります。
・・・だから自信・自力が無ければ「無理」をしてまで真理を実践する必要はありません。

だからこそまず先に完全真理を知識であってもかまわないから、何が不完全で何が完全なのかを深く知り尽くすことであり、それが自覚納得・確信にいたり、それを実践する気になれば、今の自分に無理なく出来る実践を試みればその結果・確かな答えが出てきます。
その試みで(他を巻き込まないで出来る)一番手っ取り早いのが(自分の中にある)過去や未来に「執着」しないことです。
そして執着しなくなったことで少しでも心が軽やかになればその実践の成果を身を持って自覚・悟った事になり、それが自力・自信にもなります。

そこで次に「質素」に生きることを心掛けていれば更に執着が消え、苦楽の山や谷の無い平坦な道を歩むが如くに穏やかな生き方を味わい知ることになり、それが自力・自信を高めます。
その無理の無い、余計な事が無い、すなわち無理も無駄も無い質素から今度は「素朴」に生きることが出来るようになります。
すなわち無駄になる余計なことさえも思い考え判断しないままに、そのまま・このままの「あるがまま」に生きることになり、「食って寝て糞をする」という人間本来の「素朴」な生き方を味わい知り悟ることになります。

ところが先程に書いたように今の不完全な意識の人間関係がその実践を邪魔しているのも事実ですから、それを自覚した上での自力でもって問題を解決するしかありませんが、まず円満解決する可能性がゼロに等しいというのがこの世の事実にあります。
だから(私としては)そんな不完全な人間関係・世間を気にしないで、独自独歩の自由な生き方や宇宙の仕組みのご縁必然の成り行き任せに生きる(不完全な形から脱却する)すべをこのブログで紹介しているのです。

そこで完全真理によって「完全」を学び知ることになり、この世の人間関係からは「不完全」を学び知る事になり、しかもその焼いても煮ても食えないお粗末な人間関係を深く味わい知ることにも宇宙の仕組みからすれば必然だったことも知るのです。
そして「不完全」からは<完全>が絶対に生まれないこと、すなわち不完全な意識の人間がどんなことをしても完全な自由・平等・調和の世界・人間関係を絶対に実現出来ない事を心から学び知り悟ることが私達に必要だったのです。

すなわち(完全真理によって)此れまで特別な余計なことで無理をしてその苦楽を味わっているのに、その成している事が不完全だから全てが無駄な事になるという、その「無駄な生き方」をしていることに心から気付くことであり、また頭の中で思い考え判断して想像している未練執着の「非実在の生き方」の過ちに気付くことが必要だったのです。

また不完全なこの世で生きているがだけにその完全なる調和の世界の素晴らしさに気付き学び知り悟ることにもなり、またその完全意識になる必要性をも併せて学び知ることになり、その実践で学び知ったことが自覚・自信や悟り英知となれば、それでもってその人間の命・意識の進化が「すべてはひとつ」の(一心同体の)宇宙の進化にもつながることを(新たに)知ることにもなるのです。

しかもそれが地球人類が創造された<原因>ですから、その完全な宇宙の仕組みから(必然から)やがて人間の役割使命を果たす時が必ず来ることから、その「終り」が新たな「始まり」となり、それが「進化」と言われる<結果>なのです。
すなわち<原因>があればその<結果>が必ず出てきますから、その原因が完全であればその結果も完全ですから、その結果が<進化>と言われる形でこの世に現れいますし、その進化が宇宙の中で永遠に続くのです。

そして人間が思い考え判断したことは非実在ですから不完全になります、その不完全があたかも実在しているように錯覚勘違いしているから不完全意識の人間と言われるわけです。
だからその非実在の不完全意識を消し去る実践が求められているのです。
だから思い考えないで<あるがまま>に生きるためにも「質素・素朴」に生きることが言われているわけです。

「改正」 此れまでの「質素に生きる」に「素朴に生きる」を加えて「質素・素朴に生きる」と改正します。

完全な宇宙・神の仕組みから、矛盾する不完全意識を持った「人間」を地球に創造した、その真実は!?

2011年02月14日 | Weblog
始まりなき終わりなき元はひとつの完全な宇宙万物の中に地球人類がいますが、その人間だけが「良いと悪い」で判断する矛盾・不完全意識を持って誕生・創造されたのは何故でしょう。
すなわち完全な宇宙から完全な万物が生まれるのが当たり前なのに、何でわざわざ人間の意識に良いと悪いで分離判断する矛盾・不完全意識を植えつけてまで、何故この地球で生かし続けているのでしょう。

その元々は完全な命・意識の人間になぜ矛盾する不完全意識で判断する事を必然・必要としたのか、その真実を完全真理で知ることが出来れば、いま人間として生きている本命・役割使命・真価が理解出来ます。

そして「不平不満」を持つ事も、それが原因で不安心配や怒りややきもち嫉妬などを持ったことが、無駄なことではなくなります。
また「私は正しい」やの不信感や守り闘う意識や自己主張や顕示することがあっても、それらも無駄なことにはなりません。
そして言訳正当化の偽善や嘘偽り搾取略奪も差別意識や特別意識やを持った事も、決して無駄にはなりません。
まして制裁・仕返し・復讐やの抗争や人殺しや戦争やテロが起きたことも、無駄ではなかったことになります。

また好き嫌いがあることも、富むことも貧することも、波乱万丈の人生も、呑気気ままな人生も、極限の環境でいることも、なんの変わり映えも無い環境でいることも、また生老病死を気にするのも、喜怒哀楽の苦楽を味わいもの、思考錯誤したり葛藤することも、神仏に関心が有ろうが無かろうが、この世で生きていることが決して無駄にはなりません。
すべてが宇宙の仕組みによる必然だったのです。

すなわち不完全なこの世の「すべて」が必然であって無駄にはなりません。
だから元はひとつの完全な宇宙・神、すなわち宇宙の仕組みから、必然で人間に不完全意識を持たせたわけです。

だから私達はあらゆる事を直接的にも間接的にも味わい知り学んでいる事になります。
すなわち宇宙・神の仕組みに添って生かされ、そして生きているのです。
だから「食って寝て糞をする」だけでは終わらずに、それ以上の「特別な思い」を頭の中に持って生きることにもなっているのです。
すなわち現実の事実だけではなくて、個の思い・個人意識でもって生きることを必要とされているわけです。

だから喜怒哀楽で生きることも、趣味嗜好娯楽を持つことも、世間の常識や伝統風習や道徳を守るのも、愛情で互いを束縛制限支配することも、信仰宗教や教祖や指導者の言う事を信じることも、またそれを布教宣伝することも、また政治家や企業家や学者先生で有ろうが無かろうが、非凡であろうが凡人であろうが、贅沢三昧であろうが質素倹約であろうが、都会であろうが田舎であろうが、極限の地・ジャングル・孤島・山岳・草原であろうが、人間として生きることに意味があるのです。
だから完全真理はそれらを否定していません。

ところがです、その不完全意識の自分さえ良ければの個人意識のままに人間を終えることになれば、(宇宙の仕組みから言えば)此れまで味わい知ったことが全て余計なことで無駄になるのです。
だから宇宙の仕組みの必然から一旦霊界次元(四次元)で止まり、また人間に生まれ変わる転生を何度も繰り返しているのです。

すなわち不完全意識のままに人間を終わることではなくて、その不完全を味わい尽くしたその矛盾を正す意識改革によって己の意識を完全になるように修正していくことが私達に求められているのです。

それを知るきっかけが「完全真理」なのです。
だから私の意識の中にある過去の全てがいま活かされているのです。
そしてこの世の不完全な人間関係でいやと言うほど味わい知った事と完全真理で照らし合わせる事で気付くことや自らの実践意識から新たに気付くことも増えているのです。

すなわち過去の生き方・人生が活かされ無駄に終わらないで済むことから、その過去の「不完全」と今の完全真理の「完全」の両方・裏表を学び知っている段階にあたるのです。

すなわち「完全」しか知らない宇宙・神意識の中で(宇宙創造以来始めて)「不完全」を知った「完全意識」の人間(意識・命)が誕生することになる、それが私達人間に課せられた役割使命だったのです。
だから完全な宇宙・神の仕組みによって、矛盾する不完全意識を持った「意識・命」(人間)を地球に創造・誕生させたのです。

もし此れが事実ではないと仮定すれば・・・宇宙の仕組みで地球・自然界を創造し進化発展させてまで、何で矛盾する意識を持った人間を創造する必然・必要があったのでしょう・・・そんな余計な無駄な事をせずに元々から完全意識の人間を創造すれば、この地球の自然界や人間界に何の問題も起きることなく、愛と調和に満ちた完全意識の人間が地球で至福を味わっていることでしょう。

そこで先ず「完全真理」を知ることから始まり、そしてその実践をし続けることから、宇宙初の不完全と完全を味わい知った「意識・命」が誕生することになり、此れまで止まっていた地球人類の(意識の)進化が(五次元まで)進むことになりますから、今の三次元界の意識・命の人間のままであれば用済みの格好になり、もう二度と三次元界・人間界に転生することもその地球で実在することも不可能になります。

しかもこの事実を宗教のように信じるか否かの問題でもなく、また神のお告げとか預言とか予言でもなくて、宇宙の仕組みの中にある「事実・真実」であることを完全真理を深く知れば理解できることになります。

実践の無い「思い考える」ための知識であれば、それは非実在の不完全な想像の世界になります。

2011年02月11日 | Weblog
生きる為に生きるその中に「食って寝て糞をする」ことが基本にあります。
その「食う」ための中に仕事や家事があります。
その食うために生きるのが普通であって、それを超える過ぎた思いは特別になり「特別意識」を持った事になります。

その思い過ぎる特別なことは、それを思い考え判断した頭の中にありますから、それを形で見る事は出来ませんし、個の中にあっても他の中に無いことから、それは実在していない「非実在」になります。
すなわち思い考え判断したことはすべて非実在になりますから、特別に思った特別意識も非実在になります。
その有もしない非実在を有る様に思う間違った意識を「不完全意識」と言います。

だから「食って寝て糞」をする普通の中に思い過ぎることが有れば「非実在」の不完全意識と特別意識で生きていることになりますから、実在で生きていない不完全な特別な生き方になります。
すなわち今の事実はそれ「ひとつ」しか無いのに、それを分離判断した頭の中には自分だけの思い描いた別物(良い悪いで判断した事柄)があたかも実在しているように思えるのです。
だから思い描いた「想像の世界」「白昼夢」の如くに生きていることになり、今の現実の実在で生きていることにはならないのです。

それが今の私たち人間でありその社会・国家・世界なのです。
だから思い描く想像の世界・非実在の世界・不完全意識の世界に、完全な自由・平等・調和の平和が訪れるはずもありません。
すなわち「無」から「有」が生まれることは絶対にありません。
すなわち「不完全」から「完全」は絶対に生まれません。
だからこそ矛盾の無い完全意識を説く「完全真理」を学び知る時なのです。

私達のその思いの中に過ぎた自信「自信過剰」「自惚れ」があればそれも不完全意識になります。
その自信過剰・自惚れは、過去の事を自惚れて人様に自慢することであったり、同じことが何度も出来ない事をいつでも出来ると思い込んでいることであったり、自分に出来そうもない事をやれば出来ると思い、その思い理想目的を無理してまで成し遂げようとするその思い上がり、すなわち今直ぐには出来ないことを無理にしたがるその過剰意識・特別意識に原因があります。

しかも特別な思いの非実在の不完全意識で始まったことなら、その成した結果も不完全で良いと悪いの矛盾が必ずあり、確かに良いこともあるがその弊害や副作用が必ず出てきます。
そして成した事を特別に思いえばそれが自己満足や自惚れ自信過剰にもなります。

だから無理なくいつでも普通に出すことができる(成すことが出来る)自力が自信でもあるのです。
しかも出来る限り文明の利器や物質金銭や人様の他力を使わずにして成せる「簡単」なことが自力・自信にもなりやすいのです。
すなわち人それぞれが常日頃から普通にやっていることが自力であり、それが「自信」になれば他と比較したり競争することもなく、当然の事をしているだけですから、何を成しtれも(人様から見て特別に思えることを成していても)それが当たり前のことになるのです。

そして自力や自信が少ない人ほど他の人のことが気になるのです(他と比較するのです)。
それで「劣等感」を持つことになったり、自信喪失になったり、また忌み嫌い、羨み妬み恨むやきもち嫉妬になったりするのです。

また生きていくための中の仕事や家事であれば、今ある文明の利器や金銭物質や人様の力を借りることは必然になり、その文明の利器や金銭物質を使いこなすことや人様の実力・能力・技術を借りて事を成すことが出来るその知恵・ノウハウが自力になります。
すなわち仕事・家事に自力・自信が付いた事になりますが、しかし他力を使ってまで成した事をすべて自力で成したと思えば、それが自己満足や自惚れになりやすく、それが特別なことを成したという特別意識にもなりやすいのです。
そこで他力を多く使って成した事を忘れて、自分の実力だけを過大評価する事になれば、それが自己満足や自信過剰になり、自尊心・見栄やプライドを持った不完全な特別意識になります。

そして何処の真理でも言われている「足りるを知る」ことですが、その「満足」は心・意識の中にあることですから、外側にある物質金銭やの形や人様の他力を必要としないだけの、その自らが「足りる」を知ったその自力・自信が心を豊かに満たしてくれるのです。
その「足りるを知る」ことが自信になるというその事実・真実を知るには「実践」しかないのです。
しかしそれを実践しないで「思い考える」だけであれば、それは非実在の不完全な想像の世界の(頭の中の)「知識」ですから、それは実在・事実・真実で知ったことにはなりません。

だから聖書経典や書物で勉強して知識にすることも先ず必要ですが、その知識を幾ら溜め込んでも実践がなければ、その知識を活かしてその事実・真実を味わい知ったことにはなりませんから、それらは絵に書いた餅で食べることは出来ません。
だから他の真理がどうであれ、完全真理は実践する真理なのです。
しかも知識で知った難解なことや無理な事を実践しなくても、今の自分に出来る実践をしている中に真実が見つかれば(気付けば)それが自信や励みとなって更に実践意識が高まっていくのです。

この世の人間関係でもっとも厄介なのが「不平不満」です。

2011年02月08日 | Weblog
この世の人間関係でもっとも厄介なのが「不平不満」です。
その原因の中に「私が正しい」が必ずあります。
だから相手の都合を考えずに自分の都合ばかり言いたがります。

そうなると叱責される方にも「私が正しい」がありますから、自分方の都合を主張して何とか解決を図ろうとしますが、それに納得していないからその不平不満を言っているのですから円満解決などありません、だからどちらか一方が引き下がるか折れ合う解決しかありません。 しかもそれが金銭がらみや欲得がらみになれば更に厄介なことになり長期化することにもなります。

その不平不満の多くが「嫌う」ことから出ています。
だからその反対の「好き」が原因で不平不満が出ることは先ずありません。
だから「嫌いなこと」が多い人ほど不平不満が多く、「好きなこと」が多い人にはその分だけ不平不満が少ないはずです。

すなわち不平不満がその人の人格を表しています。
また不平不満が多い人ほど人付合い・人間関係が難しくなります。
そして自分に出来ることが少ない人ほど「嫌いなこと」が多くあり、その分だけ不平不満も多く持つことにもなっているのです

その嫌いなことに多いのが臭い・汚い・きついであり、怖い・危ない・暗い、高所・閉所恐怖、孤独感・騒音なども影響していますが、面倒くさい、生産性に乏しい、また見栄や世間体のプライドも影響しています。
だから「嫌いなこと」が多い人ほどそれらから自分を守る意識が強いことからも「不信感」が強くなり、その分だけ信頼関係が薄くて信用していないだけに、その不信から相手を不足に思うことも多く、そして不平不満に思うことも多くなります。

例えば「牛舎は臭い」と思っている人には、その牛舎の臭いにおいが気になります、そして牛舎は臭いと感じ取ると、自分の中では牛舎は臭いと思うようになります。
そして何かの折に、人様に牛舎は臭いと話します。
そしてまたその話を聞いた人が「牛舎は臭い」と思えば、自分が直接行った訳でもないのに同じく牛舎は臭いと思ったり、それを知ったつもりにもなり、できれば自分が牛舎に近づかないようにしたがりますし、そして(毛嫌いしていただけに)牛舎に近づくことにでもなれば(意識していただけに)その臭い匂いを感じ取る事になります。

ところが(私の事例ですが)ご縁あって牛舎の下手間仕事のアルバイトをすることになり、当然ながら始めの頃は「臭い」「汚い」と思っていました。
しかし今では(牛舎が匂っていることは事実であっても)与えられた役割を果たす仕事に意識が使われていますから、臭いことも汚いことも忘れていて意識にありません。
すなわち臭い汚いが意識に無いということは、その事に意識が使われいませんから、その臭いや汚れが気にならないのです。
それを言い換えると、牛舎が匂っていることは事実ですから、それを「臭い」と思えば臭くなるし、「汚い」と思えば汚く見えるのです。
だから「人間は意識で生きている」と言われるわけです。

だから不平不満に思わなければ不平不満になることが無かった事になります(無は無で完全です)。
ところが不平不満になれば不平不満になることが事実・有ったことになってしまいます(無が有になる不完全)。
すなわち牛舎に居る事実は同じであっても、人によってはその思いに違いが出てくるのです。
そして人によってはその違いが特別になり、それが差になり、それを差別するようになります。

それと同じく、元はひとつで、宇宙はひとつで、皆が同じですから、宇宙・神に意識・命があれば宇宙万物にも同じ意識・命があります。
だから溶岩も岩石も石も砂も姿形が変わっただけで「元は同じ」で同じ意識・命を持っています。
すなわち砂漠の砂も地球も同じで、そして「ひとつ」です。
だから神がいるとすれば宇宙万物・皆が神です。
だから「特別」は無いのです。
ただ特別に思った人の中にその特別があるだけで、同じ特別なものが皆にあるわけではありません。
だから各々の意識次第でどうにでも思えるのです。
すなわち「人間は意識」で生きているのです。

だからこそ「不平不満」に思うことの過ち、すなわち事実に無いものをある様に思う誤った意識のその矛盾を知り尽くせば、また同じく思い考える想像の世界で生きているその過ちを知れば、その不平不満を思い持つ己の浅はかな意識やそれを人様にまで話して聞かせていた自分の愚かさに気付き知ることになれば、それがきっかけで不平不満に思うことが自分の中から減っていくのです。

そしてこの世がどうであれ(他がどうであれ)、自らの意識の中には不平不満のない穏やかな心で生きていくことが出来るのです。
とは言っても不平不満が完全に消えたわけではありませんから、何か事があると人様に対して不平不満を抱くときがあります。
しかし「執着」しなければ事を大げさにする事無く終わります。
しかも「質素」であれば何か事が起きることも少ないだけに不平不満を抱くことも少なくなります。
すると「厄介」な事になることもごく少なくなるし、ましてそれに執着することにもなりませんから(結果的には)心を乱すことなく終わり、いつも通りの平穏無事な日々を味わいながら生きることになります。


完全真理は「実践」真理ですから、確かな実践が無ければ本質・真価を味わい知ることにはなりません。

2011年02月06日 | Weblog
完全真理を知ることで此れまでの良い悪いで判断していたことが不完全意識で間違いだった事になるのですから、人によってそれが違和感・不信感(守り意識)になり、真剣に理解する事無く、上辺だけ知って終わるかもしれません。

だから喜怒哀楽や生老病死の苦楽があるのが当たり前の人間だと思い違いしていたことに心から気付くことにもなりません。
また愛よりも愛情が優ると思い違いしている人には真理の愛が薄っぺらい取るに足りないものに思えるかもしれません。
まして比較・差を味わう趣味嗜好娯楽・刺激が無ければ面白くも無い人生に思えるかもしれません。
それよりまして常識や伝統・風習・道徳まで不必要(不完全意識)となるわけですから否定反発する事になるかもしれません。
だからそこまで完璧ではなくて妥協も言訳もあってこそ調和が保たれると思い違いする人もいるかもしれません。

また過去からずーッと引き継いでいる宗教真理さえも不完全意識だと指摘していることからも反発する人も多いかと思います。
すなわち「神だから特別」が当たり前と思っているでしょうし、それを敬い奉り崇拝・信仰・祈願することは「正しい」と思い違いしていることに気付くはずもありません。
また自力・自信の少ない人ほど苦悩を持っていますから、その苦悩から早く逃れたいとか救われたたいとかで手っ取り早く終わらしてくれそうな「奇跡を成す」教祖・宗教に集まりたがるかもしれません。

それら宗教真理・宗教組織団体も必然で存在していますから、それなりにお役を果たしています。
それが神の存在・実在を示してそれを説かれていることであったり、お陰様やお互い様の関係を説いて自由・平等・世界平和を目指していることであったり、(天国のような)すべての意識が通じ合う自然界との調和や人間関係の調和のあり方を説いているわけですから、概ね何処の宗教であれ間違ってはいません。

だからお陰様やお互い様を実践して調和のある生き方をしている人も大勢いるかもしれませんが、ところが残念なことに形は調和であっても元々の意識の中に神は特別だ私も特別だと思っている「特別意識」を持っていますから、結果も特別な調和になります。
すなわち一般世間と離れた特別な調和ですから仲間内にしか通じなかったり、それに類する者に理解される、限りある調和・制限束縛のある不完全な調和、矛盾のある自由平等平和になっています。

そんなことはともかくとして、完全真理を実際に実践してみればすべての真実が実感で学び知ることが出来るのです。
その実践で多くのものを失うことになっても、新たに得るものがあります。 それが今まで味わえなかった「真の自由」です。
すなわち束縛制限されていた不必要なものが減っただけにその分だけ身軽な自分に適した自由を味わえるのです。
そして多くを持っていないのに(持っていないだけに)、(小さなことでも)確かな手ごたえのある満足できるものが増えるのです。
だから更に多くを必要としなくなり質素の意識が板につくようになるのです。

そして「自由」を味わうにも自力が多く必要となりますから、それが質素にもなっていきます。
その質素を味わうと、此れまで好き嫌いで選り好み・忌み嫌い毛嫌いしていたこと等を必然で味わい知ることから、それらの真価・事実を悟ることになり、それが確信自信となります。
だから反対に他力任せの多い人ほど実践を渋ることにもなり、それだけ自力も自信も自由も得ることが難しくなります。

また限られた人数の関係であってもそれで十分になります。
そして互いが必要・必然とするときに接し触れ合うのですから無用な無理も無駄も省けるのです。
しかも意識が似通った者同士・判り合える者同士・気心が知れた者同士ですから(水や空気のような存在になり)余計な気兼ねや遠慮も無く心穏やかに接し触れ合い過ごせるようになります。

また例え一時の感情のもつれがあったとしても、後悔未練執着することにもなりませんから、心に深い痕跡が残りません。
そしてまた必然ご縁があればいつもと同じ様に接し触れ合うことが出来るようになります。
それでまた感情のもつれがあれば(自然の流れから)次第にご縁が遠のいていくだけで後腐れもありません。

そして何よりも「自由と自力と自信」が意識・心の健康の元になり、それが肉体・精神体・感情体の健康健全になり、それが怪我や病を患うことにならない、心身ともに健康な生き方に結び付くと実感でもって悟っています。
だから未熟で不完全意識ながらも、それなりに欲張り無理する事無く、暇だ退屈だと思いながらも大したこともしないで、呑気気ままな過疎地での独居生活が9年以上続いているのだと思います。
しかも完全真理を知る以前から始まったことであり、更に過去の暮らしぶりとまったく逆な浮世離れした生き方(ただ食って寝て糞をするような生活)が無理なく始まったわけですから、過去のような暮らしに戻る事無く続くことが(私としては)宇宙の流れに添った「自分流の生き方」に思っているところです。

だから完全真理は「実践する者」の真理であって、「絵に書いた餅」や「棚からぼた餅」や「果報者は寝てまて」や「信じる者は救われる」の真理でもなく、また「二兎追うものは一兎も得ず」ですから、迷うことなく完全真理を意識した確かな実践とその気付きで先に進んで行くことが出来る真理です。

生老病死を特別に思う人にその未練執着やその守り意識やその不信感などの特別意識が育つことになる。

2011年02月01日 | Weblog
生老病死は自然の流れですから、そのまま、このままの「あるがまま」ですから特別では無いのです。
裸の赤子で生まれ、成長とともに色んなものを身に着けても、やがてそれらを捨て去り裸同然で死が時が来ます。
だからそれを特別に思うことは未練執着を持つことにもなり、その守り意識が強くもなり、その不信感から否定反発することも多くなり、日々穏やかな心で暮らすことが無理になります。

そして我が子・家族・両親を特別に思い、そのために自分を守りたがり、それを正当化し、その意に反する事になればその不平不満が強く出てきますから、それが更に不安心配の種にもなっています。
また不信感や自信の無さから先々のことまで考え用意周到を整えることにもなれば、その未だ現実ではない・非実在を気にすることになり要らぬ心配まで増えてきます。
また自分の老後を我が子に期待することにもなれば、アメとムチで厳しくも甘やかすこともあり、また子供の人生を親の思いで誘導することにもなって、それがまた意に反することになれば更に不平不満や不安心配の種が増えてきます。

ところで以前のブログで紹介したことがありますが、60代の男三人(友達同士)が揃って山へ遊びに来ることがありますが、それも三人三様でして、Sさん(私の甥)は俗世間に思いが強い人で何かにつけ小言文句を言うことが多くありますが、Yさんは世間を気にせずに自分の生き方個性を活かしていますから先では田舎暮らしを望んでいます、そしてUさんは少し物静かで私が精神世界を話すときに興味を示します。

ある時庭先で会話しているときにYさんに小さな蝶が止まりましたが、その次に小言が多いSさんには小さなハチが顔近くまで飛んできて追い払いましたが、それを見たYさんが「わしに蝶が止まりお前にはハチが止まったことは」小さな生物でも人を見る目があると自慢していましたが、(この世に偶然がないだけに)それが事実なのかも知れません。
そのYさんは資産があることから悠々自適の生活を楽しんでいますが、最近人から頼まれて(必然ご縁のお仕組みで)独居老人宅へ弁当を配達するアルバイトをしていまして、多くの老人から感謝の言葉をかけられている様を話してくれました。

先日は異常寒波で山道の根雪が凍り付いてスリップするところが三箇所くらいあることから、車で上がれる所まで来たら私の車で迎えに行くから電話を下さいと、リーダー格で車の所有者であるYさんに言っていたのに、あと少しのところからわざわざタイヤチェーンを装着してまで来ました。
・・・電話一本で事足りたのに(私の他力を使わずに)わざわざの面倒・手間の「自力」を使ってまで上がって来たことになります。

そして焚き火を囲んで話しているときに、Sさんがサイズの違うチェーンを使ったから途中で外れてまた装着し直した事をマジ顔・不機嫌な様相で言っていましたが、その事実を文句として言うのか笑い飛ばすように言うかでその性格・意識が見えてきます。
そんなことも知らずに(性格が見透かされていることを知らずに)Sさんは文句を言うことが「正しい」とさえ思っているからマジ顔でその不満を言って他の者にまで話すことになるのです。
その事に付け足すとすれば、済んでしまった過去の事を話すなら「朗らかな話題」として場を盛り上げる人であって欲しいし、また叱責された人も明るい冗談で返すような人柄であれば、皆して楽しいひと時を過ごせるわけです。 しかし叱責した人も叱責された人も互いが不満を言い合うようであれば、周りの人まで巻き込んで不愉快になる訳です。

Uさんは私の話の聞き役的存在でしたが、いつの間にやらそれが意識に影響したのか「私もこの世に何の未練も無くなった」と真剣に語っていました。
そこで私が付け加えたことにあるのが、年老いていくごとに精神世界に目覚めなければそれまでの苦楽・人生修行を活かすことが出来ないままに終ることになるから、それが重大事故や重病で入院したり寝たきりの老後になることでしか精神世界を自覚できない羽目になるかも知れないと話しました。
だから老後こそ精神世界を学び知るチャンスでもあり、それを学び知る意識で暮らすことが健康な老後にもつながり、そして一日でも多く生かされることにもなると話しました。

するとそのUさんの仕事場・作業場で事故が起きて一人死亡した話をしだして、それが普段どおりなら自分が座っている所に鉄骨が落ちたのだから自分が死ぬ運命だったのに、その事故当時だけきしくも席が入れ替わっていて自分は助かった事を言っていましたが、その事故の巻き添え(身代わり)で死んだ人は日頃から神仏を否定していた事を付け加えて話していました。
・・・そして「死ぬ時が来たら死ぬ」ことになるご縁・必然があるように思うようになったとも言いました。

そこでついでにSさんに「俗世間で生きる事を選んでいるお前がいつ精神世界を意識するようになるか楽しみだと」言いましたら、世話になった母親の恩返しの介護(痴呆症)で今は精一杯だから、それから開放されなければ余裕が無いと(親の性にして)、その親孝行していることが「私は正しい」ことをしているとして言訳正当化につながっているように感じましたから、そうなると多分ですが「親の介護」がまだまだ長引くかもしれません。

また「私見」が多くなりましたので、ご意見やご感想があれば書きこんでください。

自力を惜しみなく出し合えるお陰様・お互い様があれば自由・平等・調和の人間関係・世の中になります。

2011年02月01日 | Weblog
人間関係に自由・平等・調和があれば平和になりますが、先ずその前に個人の中に「自力」と「自信」と「自由」が必要です。
すなわち自分に出来る自力を多く持ち、その多くの自力を多く使うことからそれが自信になり、その確かな自信があればそれで満足していますから、他と差を付けるための比較競争や特別なことに無理して自力を無駄に浪費することもありません。

その自力と自信で心が満たされ満足していれば形・現状がどうであれそれで十分ですから、それ以上を自らが先走り欲張りそして無理も無駄もしませんから、自他共に不平不満を持つことにはなりません。

そうなると不平不満が原因の不安心配・恐れ・ジェラシー(やきもち嫉妬・仕返し制裁・復讐・破壊意識)や守り闘う不信感を持つことにもなりませんから、それら意識に束縛制限支配されることが無くなり、(特別な差の無い)平等意識と(束縛支配されない)自由意識を持つことになり、お陰様とお互い様の調和意識、安心安全・平和の穏やかな意識になります。

すなわち「個」に自力と自信と自由が無ければ決してこの世が平等・自由・平和にはなりません。
だから金銭物質の衣食住・財や名誉権威権力の他力が幾らあっても「自由」平等平和を得ることは出来ません。
・・・なのに衣食住・名権財を得ることに自力を使い果たしているのがこの世にあります。
また人頼みや奇跡や神仏頼みだけでは絶対に無理です。

だから完全真理で言うところの「良い悪い」で判断することから他を責め自分を責めてそれが不平不満になるとありますが、その良いと悪いで判断するのが人間ですから、その良い悪いで判断する個人意識を無くすることが無理だとなり、そして良い悪いで判断してもそれに執着しなければとか、質素に生きる事を意識していれば何とかなると言われるのを実際に実践していくにも、やはり「自力・自信・自由」が必要になるわけです。

その自力は人それぞれの個性によって様々な自力が身に付きますが、その自力を多く持つことに邪魔な意識が、臭い汚い暗いきついや怖い危いや寂しい等と思い、毛嫌いしたり色目で見たり好き嫌いで選り好みしていることにあります。
すなわち自力を付けるのにも良い悪いで判断していることが邪魔をしているのですから、(それを逆に言えば)その自力を多く持つ事になれば当然ながらそれだけ良い悪いで判断することが減る結果になります。

すなわち自力を多く使うことで質素な生き方になっていきますし、その自力を多く使うことが面白くもなり喜びにもなりそれが自信にもなり、またその分だけ他力を使うことも減りますから当然ながら毛嫌いしていたことや選り好みしていたことも必然になりますから、それらに自ずと慣れ親しみその本質を味わい知ることになり、毛嫌い選り好みしていた(良い悪いで判断していた)過ちにも気付くことになり、それらに対する不平不満を持つことも無くなっていきます。
すなわち良い悪いで判断する必要が無くなってきます。

その事を逆に言えば(時代と共に)自力を多く使わずに他力を当てにすることが多くなったことから不平不満が増え続け、その不平不満を解決することに意識が使われ続けた結果からそれが改善されれば、尚更にその他力頼りが拡大進化することになります。
そのイタチゴッコの結果が現在になるわけです。
だから現在の結果形を逆戻しするためには自力を多く使う質素な生き方になるわけです。

しかも「自力」は自分のことですから、世の中や人様に関係なく、自分なりに自由に使えます。
また無理をして得た自力を使う事になればそれと同等な無理が必要ですから、その無理が苦労になり、自分に過ぎた特別な事をしていることですから本物の自力とは言えません。

しかしこの世の全てを自力で成すことは出来ませんから他力も必要になります。
その他力を使い合うのが「お陰様」「お互い様」の関係ですが、それに依存するのは他力依存になり「自力」を使い惜しみしていることですから、それ以上の自力を身に付けることが難しくなりますから、やはり事を急がずに出来る限り自力を繰り返し使うことからしてその創意工夫・アイデアも生まれ、それが自分に適した自力となって事を成すことが出来るようになります。

その自力を惜しみなく出し合えるお陰様・お互い様の人間関係になれば自由・平等・調和の人間関係・世の中になります。
だから何処で何をしていようが(欲張り無理しないで)自力で生きることを意識していれば「成るように成る」ことから言えば、何やら先行きが明るくなった気がしませんか!