孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

時代の形(文化文明)に関係なく、今を生きていることに喜び楽しみがある。

2010年03月26日 | Weblog
戦中生まれの戦後育ちの「物不足」時代を経験し、昭和の高度成長期を堪能し、そして平成の物質文明頂点の今を生きていますが、その物不足の時代もそれなりに楽しみ喜びがありましたし、高度成長期に登場してくる新たな形・新物を我先に先取りしてきた楽しみ喜びがありましたし、今の過疎地での年金独り暮らしの生活をしている中にも・・・今までとは違った素朴な楽しみ喜びを見出しています。 (参考)http://blogs.yahoo.co.jp/utyu21

そして完全真理を実践している最中に気付いた事にあるのが・・・どんな立場・環境・境遇になっても、例え寝たきりや死にかけていても、(あるがままに)今を生きていることに喜び楽しみを味わえることが出来るという・・・その真理の気付き・納得・確信に至ることができました。

だから石器時代や縄文時代に生まれていようが・・・極寒の地や南海の孤島やジャングルの奥地で生まれていようが・・・物質文明から離れた山岳地帯や大草原で生まれていようが・・・ 戦国時代や徳川時代や明治大正に生まれていようが・・・その時代のその時を生きているからには・・・「生きて」いることにたいして同じような喜び楽しみがあるということです。

また貧困の家庭に生まれようが・・・路上チルドレンやマンホール生活者や路上生活者・ホームレス生活者であろうが・・・シングルマザー・未婚者・生涯独身者であろうが、孤独・無縁関係になっていようが・・・五体不満足の障害者であろうが・・・趣味嗜好娯楽が無くても・・・食って寝て糞をするだけであっても・・・ベットに横たわっているだけであっても・・・ (それを苦にしなければ)その今を生きている喜び楽しみが味わえるのです。
だから・・・生きる為に生きているだけのような時代に戻っても(戻しても)・・・間違った・不完全な金銭物質主義の今の形・・・例えば欲求不満から得た自己満足とはまったく違った人間性に満ちた喜び楽しみを味わえるのです。

ところがそれら生活に不平不満を持つことから(不平不満の表れである希望や理想も含めて)自らが苦労することになったり、他に無理な要求をしたり、叶わぬ願いを他に責任転換して責め立てたり、それが原因で苛立ったり怒ったり、不安心配・恐怖で眠れなかったり、精神体や感情体を酷使する事になって(執着・支配されて)生きた心地がしなかったり(精神疾患)、また独りよがりの生き様(自己満足)や生きる意味を履き違えて(名・権・財に執着して)いるのに「私は正しい」と自惚れ・・・結果的には比較競争差別し合う気苦労・苦悩に満ちた人生を歩む事になるのです。

人間の生き様・・・裕福・貧困、健全・不健全、健康・不健康、社会的・反社会的、思想哲学宗教、人種、国家社会・・・すなわち「形・結果」には関係ないところの「原因=人間の意識」の有様が<すべて>なのです。
だから幸・不幸、天国・地獄、差別、価値観、孤独感、潔癖・正義感、不平不満・不安心配・恐れ・怒り・嫉妬・仕返し復讐心などは・・・皆のものではなくて自分の中にあるもの(個人意識)なのです。
・・・だから世間や家族の意識を変えることは無理でも自分の意識を変えることは出来るのです。

ようするに・・・良い悪いで分離判断しなければ人を責めたり自分を責めたりしないから・・・「不平不満」にはならないのです。
たったそれだけで・・・己の中のすべての問題・苦悩が解決するのです。
そして不平不満がなければ(意識が支配されないことから)今まで見過ごしていた(忘れていた)小さな事にも楽しみ喜びを味わえるようになるのです。
また他と比較競争する事無く・・・生きている今を味わっていれば他に特別なものを求め欲しがることにはならないのです。

だから・・・時代・文化文明の形(集合意識の形・束縛制限支配の形)に惑わされることなく、また責任転換する事無く・・・与えられた自分の役割・個性を活かして生きていればそれだけで十分納得できる生き方になるのです。
そして人の評価や見栄・世間体を気にしなければ・・・貧疎・哀れ・気の毒に思われようが、世間離れした生き方に思われようが、薄情・不親切・無神経に思われようが、無縁孤独に思われようが、世間がどうであれ・・・それが自分に見合った生き方であれば十分納得した人生になりますから・・・この先の有事や老後や死を気にする事無く・・・安らぎの心で今を生きることになり・・・矛盾や妥協で形作られている不完全なこの世の闇意識から抜け出せるチャンスにもなるのです。

完全真理で知ることができる「結婚・家庭」の裏側=不完全な愛と矛盾

2010年03月21日 | Weblog
結婚に至るその感情・意識の中に・・・先ず「自分が幸せになりたい」「自分の立場が良くなりたい」「自分に都合の良い」相手であることが優先されます。
・・・その逆の「不幸」になることを望んで結婚する人はいません・・・
すなわち「自分さえ良ければ」の自己中心の個人意識から恋愛や結婚になっています。

その結婚にも良いときと悪いときがありますから、良いことばかりが続くわけには行きません。
その結婚生活が裏目に出て自分に都合が悪くなれば離婚や別居生活になったり、そこまで行かなくても互いが不平不満を抱え持つ関係で生活が続くことにもなります。

すなわち・・・自分の都合が良くなるように(自分の思い通りに)したがることから・・・不平不満になっているのです。
だから同じ屋根の下で暮らす以上、相手の顔色・ご機嫌を伺いながらの日常生活にもなります。
だから結婚生活を守るために我慢することも譲り合い妥協することも多くなっていきます。

だから何かと束縛制限されて自由が失われていくのが結婚生活です・・・反対に互いが自由だと結婚生活が成り立たなくなります。
また夫婦の快楽・刺激し合う事によって一時的に不平不満が消えることもありますが・・・それだけに快楽刺激を追い求める続けることにもなります。

しかし不平不満や苛立ちが消えたわけではありませんから、(結婚年数が長くなるほど)その抱え持っている不平不満を言い合う関係にもなっていきます。
そして結婚して良かったと思っていたのが・・・不平不満が積もるほどに結婚そのものに不平不満を持ってしまい味気ない関係になっていくのが多く見られます。

ところが常日頃の生活に不平不満が無ければ「至福」の結婚生活になります。

しかしその日頃の不平不満を解消するための行為行動は「至福」ではなくて自己満足になります。
だから夫婦の何かの記念日にプレゼントされたりレストランでご馳走を食べることが「至福」ではありません。
夫婦で旅行に行ったり買い物に行って満足することが「至福」ではありません。
特別なことがあって大喜びすることが「至福」ではありません。

テレビコマーシャルの「ハウスシチュー」の映像に描かれたシーンに「至福の時」が描かれていましたので紹介すると・・・
大雪の道路に車のタイヤが埋まり動かせなくなって雪をかき出している男の側に女性が立ち・・・暖かい車中からわざわざ外に出て男性の側に立ち止り、その男性のトラブル処理の様子を見つめているシーンがあり・・・その見つめている女性と、ふと何気なく見上げた男性との目線が合い、そして互いが微笑み合うシーンが「至福」を味わっていることになります。

・・・文句の一つでも出そうな寒い雪道のトラブル最中であっても、ふと互いの目線が合うことで微笑み合える関係・・・
大した喜び感謝が無くても、ふと目線が合っただけで微笑み合える、そんなごく小さな喜びが至福であり愛なのです。

すなわち・・・小さな事に喜べることは・・・それだけ不平不満が少ないからです。
すなわち・・・大きな喜びを欲しがるのは・・・それだけ不平不満が多いのです。

大きな喜び感謝を得るには特別な無理が必要ですから数が限られますが・・・ごく小さな喜びであれば気付けば幾らでもあります。
しかも大きな喜びは無理をして得た自己満足ですから心が満たされません、だからまた大きな望みを欲しがり続けます、しかも大きな事を望んでいる限り・・・小さな喜びに満足することもありません。
だから多くを望むほど無理・苦悩が付きまといますから、更に不平不満が増えて暗闇の中にさ迷い込みます。

至福の微笑みの多い結婚生活には他愛無い小さな喜び・愛・光(オーラー)にいっぱい包まれているのです。
・・・ささやかな生活であっても、好きな人が側に居てくれるだけで幸せを感じる・・・
・・・二人が寄り添って、同じ場所で同じ空気を吸っているだけで至福になる・・・
だから(満足しているから)多くを望みません。
だから無理をせずに「与えられる」まで待つことも出来ます。

理想目的を持って大きな事を成し遂げることが良いと思うから無理して不平不満の暗闇生活になるのです。
反対に小さな事に満足感謝できれば不平不満が消えてそれだけ光が増すのです。

大きな成果・光を求めることで逆の暗闇になっている事に気付かなければ決して小さな光は見出せません。
その小さな喜び・光を見出せないから暗闇(不平不満・苦悩)がいつまでも続くのです。

完全真理で知ることができる「恋愛」の裏側=不完全な愛と矛盾

2010年03月21日 | Weblog
人を好きになることから恋愛がはじまりますが、その感情の中に先ず「自分が幸せになりたい」「自分の立場が良くなりたい」「自分に都合の良い」相手であることが優先されます。
・・・その逆の「不幸」になることを望んで恋愛関係になる人はいません・・・

すなわち「自分さえ良ければ」の・・・自分優先が恋愛感情の中に入っています。
だから「自分が幸せ」に感じているときだけ(その期間だけ)・・・相手のことを「優しさ思いやり感謝」の気持ちで愛を表しますが・・・自分の意に沿わないことがあれば(直ぐにでも)不平不満や不信感を持ったりして、それがやきもち嫉妬になったり、それが強くなると執念深くなり恨み辛みを持つようになり、やがて破局になります。
・・・その破局だけで収まればいいが・・・復讐・報復・仕返しの行動になるときもあります。

恋人同士でプレゼントしあうのも・・・相手に感謝を込めているようでも・・・それをプレゼントや愛の言葉で見える形に表現するのは・・・自分の自信の無さや不平不満や不信感を打ち消したい思いが込められていたり、目移りしないようにいつまでも自分に引き付けておきたい思いや相手に嫌われないように努力しているのかもしれませんが、それで万事が上手く行くとは限らないのが・・・「自分さえ良ければ」の意識で共にくっつき引っ付きしあっているのが恋愛人間関係です。

だから(今より)他方に自分に都合が良いことがあればその方向に心が移ります。
だから、そうなっては困る側の人が懸命に引き止める策を講じるときに使うのがプレゼントだったり愛の言葉だったり献身的に仕えることだったりもしますが(形に表すこと)、それでも破局になる場合もあるし、それが免れても相手の言いなりに従うことだったり、暴力的な言葉や行為に耐えることになったりもしています。

それでも愛しているというのであれば・・・それは一方的な愛になり、自他共に負けたくない強がりから出ている愛であったり、自分の見栄や世間体・身分を守るための愛だったり、経済的な金がらみの愛だったりすれば、それも「自分の都合」から出ている自分優先の愛・偽善愛になります。
しかし・・・それらとは関係ない「純粋」「けなげ」な愛であれば・・・自分がどんな立場境遇であってもその人は幸せです。
でもそれは現実に無い夢物語であり「冬のソナタ」のように企画演出されたドラマや映画や芝居の中にあることですから・・・それらに憧れて熱中する事で(自分に置き換えて)自己満足するしかありません。
・・・だから物語の中の主人公に憧れたりしています。

失恋したときに相手に「裏切られた」とよく言いますが・・・(中には自分を責めて卑下する人もいますが)裏切ったのは「お互い様」であることを知る人は少ないでしょう。
すなわち・・・双方の目的・期待・理想を双方が裏切った結果なのに・・・自分だけが裏切られたと思うのも(自分を卑下するのも)「自分の都合」を優先した気持ちから出ていることであって、自分を卑下したり「裏切られた」と一方的に思うことで自分を言い訳正当化しているのです。
・・・互いの目的・期待・理想の行き違いや過不足が原因で破局に至ったのですから「お互い様」なのです。

恋愛感情は・・・熱にうなされた病人と同じ「恋の病」と病人扱いで言い表した先人がいましたね。
同じく・・・<愛>の字の「心」の下に人の「足」が動いていますから・・・愛には自由があります。
だから「愛」があれば束縛制限支配することはしません。
しかし・・・<恋>の字には「足」がついていませんから自由を束縛制限します。
だから・・・人を「好き」になることがあっても「恋」する必要はありません。
しかし・・・好きの裏に必ず嫌いがありますから、その好きが不動には成り難いものですから、人を好きになることが恋愛感情と似るのです。

既に「有事」(苦悩)を多く抱え持っている人ほど、完全真理の実践「チャンス」です。

2010年03月15日 | Weblog
完全真理は実践して何ぼ(価値)の実践真理ですから・・・日ごろの生活のなかで良い悪いで判断して人を責めたり自分を責めたりして不平不満を持たない完全意識になることですが・・・その不平不満を持たないように意識して(前もって)「気をつける」「注意する」ことではありません。 
生活の中でいつの間にやら不平不満が出たことに(結果に)自らが<気付ける>意識・自力を持つことです。

また真理で言われている「優しさ、思いやり、感謝」の愛を意識して「出す」のではありません。
すなわち・・・「気をつける」目的意識や「愛を出す」目的意識を先に持ってから実践するものでは有りません。

その目的や結果を先に意識して実践するのは・・・宗教と同じ「平和になるように神に祈りましょう」「人の為に尽くしましょう」「人を愛しましょう」と唱えることと同じことであって・・・自らが(原因)愛の意識になることよりも・・・先に愛の結果を「求める」形や結果を「出す」ことに意識がいっているから・・・どうしても無理な余計な努力をすることになり・・・その無理をすることがすなわち「特別」を求めていることであり、それを「特別意識」や「救世主意識」と言われ、人の為ならずして己の目的・理想・特別を得るための手段・偽善になるのです。

それを分かりやすく言えば・・・自らが完全な神の愛を知らない不完全意識なのに・・・持ってもいない完全な愛を出そうとしている矛盾があるから、その矛盾があることは完全ではなくて不完全ですから、何をやっても(実践しても)不完全な愛しか出せないのです。
更にそれを簡単に言えば・・・原因と結果は同じですから、原因が不完全意識であれば結果も不完全しか出ないのですから、結果的には全て無駄なことをしている事になるのです。
・・・まず完全な神・愛を説く完全真理を知り、自らがその完全になることが先なのです。

ゆえに完全真理は「結果」を先にしているのではなくて、その「原因」たる<意識>を学び知りそして気付く実践真理なのです。
ゆえに・・・行動よりも(結果を出すことよりも)、まず完全真理をしっかり学び知り、それを実際に実践してみることから始めて気付きが起こり、その気付きによって悟りと成り少しずつ完全に近づけるのですから・・・完全真理を聖書経典のように暗記・丸呑みして唱えるだけ(言うだけ、聞くだけ)では絵に書いた餅を眺めているだけになり、決して本物・実在を味わえることにはなりません。

しかしその実践をするにも完全真理をしっかり学び知らなければその完全を実践できません。
だから完全真理をしっかり学ぶための講演会に参加する事も実践になります。
また講演会でなくても著作やネットで学び知ることも実践の内になります。
しかし先ほど書いたように・・・知識を集めただけでは片手落ちですから、日々の生活の本番の中での実践が必要になります。

そして良い悪いで判断して不平不満を持たないようになれば結構なことですが、それでも慣れ親しんだ不平不満は必ず出てきます。
その日々の生活の中で不平不満を持ったり、それに執着しすぎて感情を高ぶらせることになれば、それらに早く気付いてその「執着を取り去る」ことが出来なければ完全真理を学び知っている価値は出てきません。
それが「実践」なのです。

実践とは・・・良い悪いで判断しないようにするのではありません。 不平不満・不安心配を持たないように心掛けるのではありません。 怒りを抑え我慢することでもありません。 言い訳正当化したり、守り戦わないように気を付けることでもありません。
また、あれはいけない、こうしなさいと指図・束縛制限するものでもありませんから自由です。

実践とは・・・他が(家族・地域社会・国家が)どうであれ・・・自らが自由平等・調和の「あるがまま」(普通=自然体)に生きている中に・・・もし不完全意識(比較競争・差別・束縛制限・特別意識・正義感)を持ったり出たりしたときに、それに「気付ける」だけの意識力・自力を身に付けていくのが実践のあり方です。
そして気付くことで未練や執着心を持たなくなり(忘れ去り・消えていき)、その不完全意識が少なくなるほどに意識・心が乱れることも同等に少なくなります。

だから不完全意識が多くて強く出る人ほどそれと同等の意識・心が乱れ苦悩することになります。
しかも・・・招かざる客(有事)が来る可能性もそれだけあります。
★その「有事」(苦悩)を既に多く抱え持っている人ほど完全真理の実践によって軽減されるのですから(身を持って実感・味わえるのですから)・・・その今が「大きなチャンス」でもあるのです。

だから「完全」になることが不可能であっても、不完全意識が減る事になる真理の実践は続けていける価値あるものです。
そして完全になる事無く生命が終わっても、その命・意識(原因体・意識体)は「あの世」で永遠に続く事になりますから、その分だけ「あの世」で苦悩の少ない意識体として存在・実在できるようですから・・・決して無駄にはなりません。


この世は「お金やカッコ」じゃないよと<始めて>自覚したのが完全真理の実践からです。

2010年03月10日 | Weblog
この世は「お金やカッコ」じゃないよ・・・と言われた先人の言葉を<始めて>自覚したのが完全真理の実践からです。

http://blogs.yahoo.co.jp/utyu21 「がばい婆ちゃん」の昭和(戦中・戦後・高度成長)と私・・・このブログを紹介する事になったのも・・・新たなことを知りたがり、それを実際にやりたがること・・・すなわち知ったことを実際にやってみることで結果が出ること・・・すなわち知識で知った完全真理も実際に実践して見なければその完全真理を自分の物には出来ないことを書くためでした。

物不足の昭和に育ち、やがて物が豊かになる昭和を先取りしたようなカッコよい生き様になり、その先取り意識が今度は摩訶不思議な事柄を知る事につながり、そして世界初の良い悪いを持たない完全真理を学び知る事になり、そのとき既に自らの生き様が見栄や世間体といった束縛制限の無い過疎地で暮らすことになっていたことからも・・・その完全真理の価値を理解できることにもなりました。

自転車を怖がれば自転車には乗れません。 水を怖がっていては泳げません。 昆虫生物を嫌がっていれば嫌なままが続きます。
遊んでいて怪我しても平気なら遊びが広がり遊び仲間も広がります。
しかし新たな遊びを反発否定すればその遊びを味わうことは出来ません。
同じように新たな器具・道具を怖がっていればそれを扱い使うことは出来ません。

すなわち嫌がる、忌み嫌う、怖がるのは「不信感」が原因にあります・・・その不信感の原因に「自信」の無さがあります・・・その自信の無さに「自力」の無さがあります・・・その自力が付かないのは忌み嫌う・怖がる性格、決心・決断を出せない性格、中途半端で諦める性格、すなわち真実・結果・答えを「知りたがらない」性格にあるようです。
すなわち・・・真実を知ればそれが答えですから、不信感で疑ったり不安心配や恐れが出たりしませんから自信にもなります。 

★それと同じことに・・・<宇宙エネルギー>が実在していても形で見えないから多くの人は信用しません。
だからその宇宙エネルギーを否定する現代の医科学に慣れ親しんでいる人ほど否定反発したがるのも当然になり、奇跡だとか偶然だと片付けますが・・・その奇跡や偶然が宇宙エネルギーが原因で起きている「必然」だとは知りません。

私がスイッチポンの快適便利な生活から離れて過疎地に移り住んで暮らすことで、その生活に不平不満・不安心配・恐れが出るのなら遠い昔にやめていたでしょうが・・・電子レンジや瞬間湯沸かし器が無くてもそれに「慣れ」てしまえばそれが当たり前になり、何か不足することがあれば創意工夫でカバーをする面白さも味わえるのです。
だから例え縄文時代に戻ったとしても、それに慣れればそれが当たり前になるのです。
それを不平不満に思うのは・・・慣れ親しむことよりも過去に執着したり未練を抱え持っているからです。

とは言っても・・・一度経験したスイッチポンの快適便利な生活が当たり前になり、そして使い捨てが当然になりましたから、いつもそれら便利な物が揃えられなければ不平不満になり、さらに他に有って自分に無ければそれも不平不満になるのが当然と思っています。

その不平不満を言っている本人は正しいと思っていますから(私は間違ったことを言っていないと思っていますから)家族の中で互いが不平不満を言い合っているのが当たり前になり、その不平不満を言訳正当化して強く主張した者やその味方を多く集めた者が結果的に正当化された形になり、それに負けた形のものが我慢することにもなります。
・・・それが家庭だけではなくて地域・社会・国家にも通用しています。
・・・それが勝ち組・負け組みとなり、その勝ち組が称えられるほど負け組みは遺恨(未練・執着)を残します。
そして諦める事無く(忘れ去る事無く)・・・その不平不満を抱え持ち、それらと戦うことが・・・人間として正しいことにもなります。
・・・ゆえに家庭・地域・社会・国家が安定することは絶対にありません。

★その不平不満は「己の意識の中」にあるものですから・・・<完全真理>を学び知り実際に実践してみれば・・・(すべてが無理でも)己の意識の中にある不平不満(未練・執着)を少しずつでも無くする事が出来るようになります。
しかし自分の頭の中に完全真理があるだけで実践していない形の中から己の不平不満が消えたり和らぐことにはなりません。
だから・・・完全真理は「実践真理」と言われているのです。

過去の私は世間で言われるカッコ良い生き方・仕事をしていましたが・・・
単純な草刈や野良仕事や雨水の泥にまみれて働くことも・・・実際にやればそれでけっこう満足出来るのです。
頼まれバイトで工事現場の単純な下手ま仕事や穴掘り穴埋め土砂運びもしましたが、その誰にでも出来る身体を使う単純作業の面白さも知りました。 現在は牛舎での餌やりバイトで一回一時間半の仕事を朝と夕方の一日二回働くのですが、それも二日おきの交代制ですが、そんな単純な作業を言われるがままにやってさえいれば「お金が稼げる」ありがたさを知ったのです。
しかも雇用主が・・・使い勝手の良い私の仕事振りを・・・有難いことだと感謝しているのだから・・・申し分有りません。

その雇い主・事業家と接することでその日々(経営)の気苦労が分かるようになったことから・・・その雇用主と同じ気苦労を「私自身」も過去に味わっていた事に気付いたのです。
すなわち・・・★事業主より雇われ人のほうが(多額の資金投入してないだけに)呑気・気楽に稼げることを味わったのです。

その事業家と雇用人の得る収入金額に違いがあるのは・・・その手腕・力量と投資のリスクもあることから当然ですが・・・・
その稼ぎ高の云々よりも・・・雇われ働くことの気楽さに始めて気付いたのです・・・しかも気楽だから不満が出ません。
だから、その収入(自分の力量・働き)に見合った生活にすれば・・・呑気気楽に生きていけることを知ったのです。

すなわち・・・世間にカッコ良く見せて自己満足するかわりに、それに見合った気苦労が伴っていたことに気付いたのです。
・・・自己満足の仕事の面白さの代償に、自己が背負った気苦労・リスクの両方を味わっていたのです。
だから・・・サラリーマンであれ現場で働く人であれ、その仕事に不平不満を持たずに(気楽に)・・・生きるために必要なお金を稼げる「ありがたい」仕事・犠牲であれば・・・それで十分満足していられることを知ったのです。
しかしそれでは物足りないと特別なことをすることから、その分だけ気苦労が付いて回ることになっていたのです。

だから不平不満が無ければあえて気苦労することも無いし、まして自分から気苦労を買うようなことをしなくて済むことを知ったのです。
すなわち先人が言っていたように・・・★この世はカッコじゃないよ・・・★この世はお金じゃないよ・・・を<始めて>知ったのです。
そうなったのも・・・それなりの過去があり、今は完全真理を学び知り実践しているからこそ・・・始めて知ることになったのです。

だから・・・この世はカッコが大切、お金が一番と思っている人には通用しない・・・ブログになります。

完全真理につながることになった私の昭和史を自己紹介風に書いたブログの紹介

2010年03月07日 | Weblog
私の「戦時中」の幼い記憶から 「終戦後」のアメリカ進駐軍 戦後の食糧不足・エネルギー不足の物不足時代の背景と子供 自然が豊かだった頃の小川や海岸での魚とりや子供の遊び 小学校の給食が始まった頃 「しらみ」の流行や「ほうそう」予防接種の始まり 回虫駆除 自動回線接続・ダイヤル式電話登場 見世物小屋の時代 太陽族・愚連隊 巨大隕石・志度湾隕石の落下 ヤミ米の取り締まり コカコーラー・インスタントコーヒーの出始め スーパーストアーの乱立 紙パック牛乳製造 アイスのクリスマスケーキ 冷凍食品普及  昭和のオートバイ ダイハツミゼット クストーのアクアラング潜水  8ミリフイルム映写機 ビデオ・VTR規格の乱立 第一次ボーリングブーム 第一次パソコンブーム カラオケブームの始まり イメージ映像と字幕入りカラオケと成人向けカラオケ映像、そしてポルノ映像 第一次釣りブーム 日本の洗剤とサプリメントの改革につながった会員紹介ネットビジネス ファックス通信「かもめサービス」 宇宙エネルギー・波動「水」 精神世界・完全真理につながるまでの一連の流れ・・・昭和から平成までの体験を自己紹介風に簡単に書いていますので・・・お立ち寄りください。

http://blogs.yahoo.co.jp/utyu21 がばい婆ちゃんの昭和(戦中・戦後・高度成長)と私

「愛に生きる」・・・それは<特別>なことではありません。

2010年03月03日 | Weblog
「愛に生きる」と言う事が言われますが・・・調和・普通に生きることが愛に生きることになるとは知らないから、その愛よりも強い愛情を重んじる人が多くいて、何か特別なことを成してくれる愛情が愛よりも優れていると思っていることでしょう・・・

だから普通・調和の愛よりも、特別なことをしてくれる愛情が個人的に喜ばれているのも無理はありませんが・・・しかし特別には必ず差がつき物ですから、その特別な愛情には差を付けた差別意識があり、しかもその差のある愛の裏には必ず個人的な思惑が隠れています。

すなわち、他と差を付ける差別意識から出た愛情を示すことによって、その相手やその形を自分の思い道理にしたがる裏心が隠れているのです。
それが・・・相手が喜ぶプレゼントなどの形や何らかの成績成果評価の差を示して自分を認めてもらいたい自己主張や自己顕示や誇示欲だったり・・・劣等感やプライドから出たものだったり・・・自分に都合が良い何らかの返礼見返りを求める思惑期待であったり、上手くいけば相手を自分の意のままに操る(コントロールしたい)思惑を持っていたりしますから・・・愛情には比較競争差別意識や束縛制限支配したがる特別な思い・裏心が隠れています。

それが世間で言う・・・恋愛・夫婦愛・家族愛だったり師弟愛・愛社精神・愛国心などの人間関係や社会関係にみられますが、それらは束縛制限支配欲を形にしたものですから、絶対に自由・平等・平和(調和)はありません。
だからどんなに時代が変わってもその人間関係や社会関係は変わらず、いつも諸問題を抱え込んだままに推移してきています。

すなわち・・・調和のある普通の愛では物足らずに・・・何事も「良い悪い」で比較判断して特別な差を付けることにして・・・そこで自分に都合が良いところだけを取り、反対の悪いところを排除したがっている・・・そんな自分中心の個人意識で特別なことを成して他と差を付けたがる差別意識や特別意識を持ってこの世の中を動かしているのだから、この先いくら時代・形が進化して光り輝いていても、そこで生きている人間の心はいつも闇の中でさ迷い続けて抜け出すことは出来ません。

そんなこととは知らずに・・・未だに差のある特別が愛と思い・・・その特別を成すことが愛になると思い、その特別を成す者を尊び奉り、聖人聖者、勇者・ヒーロー・主人公・恩人扱いし、その特別なことを達成できる育成に力をいれて更に「差」を磨き高める比較競争が受け入られてきましたから・・・
その特別な個人的な愛・愛情関係がゆえに・・・愛が変形して真の愛では無くなり・・・自分の都合で相手が気に入らなくなれば見限り切り捨て裏切る裏切り関係になったり、勝ち組・負け組みが言われたり、貧困格差が言われたり、無縁社会ニッポンが言われたりもしながら、それでも止まることなく(形を少し変えながらも)突き進んでいくのが・・・この世の人間界なのです。

だから・・・医科学を頼る人はその医科学を信頼するが、その信頼を裏切られれば後悔したり非難したりします。
それでも・・・その医科学は今の人間が生み出したものですから、時代と共に進化拡大していきます。
そしてまた・・・その医科学が原因の新たな問題・弊害副作用を造りだし続け繰り返されています。
それが・・・恋愛・夫婦・家族や社会・政治・経済・教育・宗教などであっても同じです。

すなわち・・・それぞれの人の集合意識が色んな形になって表れているのですから、それは必然で起きていることなのです。
だから・・・その必然で造られた形を見て「我を見る」ことができるのです・・・己の意識を見る鏡の役割がこの世の現象・前兆なのです。
だから・・・我が身や身近な人達に起きている災いや今の状況も(偶然ではなく)・・・その人の意識のあり様が形になって鏡に映し出されている格好になるのです。

すなわち・・・自己意識の間違いに自らが気付かない限り自らを変えることは出来ません。
例えば・・・この世に差別は実在していませんが、差別されていると思うことで差別が実在することにもなります。
だから実在していない天国と地獄も、天国に思ったり地獄に思うことで実在している事になります。
また・・・まったく同じ一つのことでも、それを幸にも不幸にも思えますから、幸福も不幸も実在しているように思えます。
すなわち事実とは関係なく・・・自分が見たいように見たり、思いたいように思っているのです。

★それは「自己意識」がその人の全てだからです・・・★だから「人は意識で生きている」と言われるのです。
だから身近な人がどうであれ、この世がどうであれ・・・その人の意識次第でその人が如何様にも成るのです。

その結果を出すのが実践ですから・・・ただ思い考えるだけでは自分のものには成っていません。
だから・・・気付いたことを実際にやってみれば(遅かれ早かれ・良しかれ悪しかれ)自ずと答えが出てきます。
・・・その時間を無駄にしたくないのなら・・・矛盾や妥協の無い完全を知る「完全真理」の実践しかありません。