戦中生まれの戦後育ちの「物不足」時代を経験し、昭和の高度成長期を堪能し、そして平成の物質文明頂点の今を生きていますが、その物不足の時代もそれなりに楽しみ喜びがありましたし、高度成長期に登場してくる新たな形・新物を我先に先取りしてきた楽しみ喜びがありましたし、今の過疎地での年金独り暮らしの生活をしている中にも・・・今までとは違った素朴な楽しみ喜びを見出しています。 (参考)http://blogs.yahoo.co.jp/utyu21
そして完全真理を実践している最中に気付いた事にあるのが・・・どんな立場・環境・境遇になっても、例え寝たきりや死にかけていても、(あるがままに)今を生きていることに喜び楽しみを味わえることが出来るという・・・その真理の気付き・納得・確信に至ることができました。
だから石器時代や縄文時代に生まれていようが・・・極寒の地や南海の孤島やジャングルの奥地で生まれていようが・・・物質文明から離れた山岳地帯や大草原で生まれていようが・・・ 戦国時代や徳川時代や明治大正に生まれていようが・・・その時代のその時を生きているからには・・・「生きて」いることにたいして同じような喜び楽しみがあるということです。
また貧困の家庭に生まれようが・・・路上チルドレンやマンホール生活者や路上生活者・ホームレス生活者であろうが・・・シングルマザー・未婚者・生涯独身者であろうが、孤独・無縁関係になっていようが・・・五体不満足の障害者であろうが・・・趣味嗜好娯楽が無くても・・・食って寝て糞をするだけであっても・・・ベットに横たわっているだけであっても・・・ (それを苦にしなければ)その今を生きている喜び楽しみが味わえるのです。
だから・・・生きる為に生きているだけのような時代に戻っても(戻しても)・・・間違った・不完全な金銭物質主義の今の形・・・例えば欲求不満から得た自己満足とはまったく違った人間性に満ちた喜び楽しみを味わえるのです。
ところがそれら生活に不平不満を持つことから(不平不満の表れである希望や理想も含めて)自らが苦労することになったり、他に無理な要求をしたり、叶わぬ願いを他に責任転換して責め立てたり、それが原因で苛立ったり怒ったり、不安心配・恐怖で眠れなかったり、精神体や感情体を酷使する事になって(執着・支配されて)生きた心地がしなかったり(精神疾患)、また独りよがりの生き様(自己満足)や生きる意味を履き違えて(名・権・財に執着して)いるのに「私は正しい」と自惚れ・・・結果的には比較競争差別し合う気苦労・苦悩に満ちた人生を歩む事になるのです。
人間の生き様・・・裕福・貧困、健全・不健全、健康・不健康、社会的・反社会的、思想哲学宗教、人種、国家社会・・・すなわち「形・結果」には関係ないところの「原因=人間の意識」の有様が<すべて>なのです。
だから幸・不幸、天国・地獄、差別、価値観、孤独感、潔癖・正義感、不平不満・不安心配・恐れ・怒り・嫉妬・仕返し復讐心などは・・・皆のものではなくて自分の中にあるもの(個人意識)なのです。
・・・だから世間や家族の意識を変えることは無理でも自分の意識を変えることは出来るのです。
ようするに・・・良い悪いで分離判断しなければ人を責めたり自分を責めたりしないから・・・「不平不満」にはならないのです。
たったそれだけで・・・己の中のすべての問題・苦悩が解決するのです。
そして不平不満がなければ(意識が支配されないことから)今まで見過ごしていた(忘れていた)小さな事にも楽しみ喜びを味わえるようになるのです。
また他と比較競争する事無く・・・生きている今を味わっていれば他に特別なものを求め欲しがることにはならないのです。
だから・・・時代・文化文明の形(集合意識の形・束縛制限支配の形)に惑わされることなく、また責任転換する事無く・・・与えられた自分の役割・個性を活かして生きていればそれだけで十分納得できる生き方になるのです。
そして人の評価や見栄・世間体を気にしなければ・・・貧疎・哀れ・気の毒に思われようが、世間離れした生き方に思われようが、薄情・不親切・無神経に思われようが、無縁孤独に思われようが、世間がどうであれ・・・それが自分に見合った生き方であれば十分納得した人生になりますから・・・この先の有事や老後や死を気にする事無く・・・安らぎの心で今を生きることになり・・・矛盾や妥協で形作られている不完全なこの世の闇意識から抜け出せるチャンスにもなるのです。
そして完全真理を実践している最中に気付いた事にあるのが・・・どんな立場・環境・境遇になっても、例え寝たきりや死にかけていても、(あるがままに)今を生きていることに喜び楽しみを味わえることが出来るという・・・その真理の気付き・納得・確信に至ることができました。
だから石器時代や縄文時代に生まれていようが・・・極寒の地や南海の孤島やジャングルの奥地で生まれていようが・・・物質文明から離れた山岳地帯や大草原で生まれていようが・・・ 戦国時代や徳川時代や明治大正に生まれていようが・・・その時代のその時を生きているからには・・・「生きて」いることにたいして同じような喜び楽しみがあるということです。
また貧困の家庭に生まれようが・・・路上チルドレンやマンホール生活者や路上生活者・ホームレス生活者であろうが・・・シングルマザー・未婚者・生涯独身者であろうが、孤独・無縁関係になっていようが・・・五体不満足の障害者であろうが・・・趣味嗜好娯楽が無くても・・・食って寝て糞をするだけであっても・・・ベットに横たわっているだけであっても・・・ (それを苦にしなければ)その今を生きている喜び楽しみが味わえるのです。
だから・・・生きる為に生きているだけのような時代に戻っても(戻しても)・・・間違った・不完全な金銭物質主義の今の形・・・例えば欲求不満から得た自己満足とはまったく違った人間性に満ちた喜び楽しみを味わえるのです。
ところがそれら生活に不平不満を持つことから(不平不満の表れである希望や理想も含めて)自らが苦労することになったり、他に無理な要求をしたり、叶わぬ願いを他に責任転換して責め立てたり、それが原因で苛立ったり怒ったり、不安心配・恐怖で眠れなかったり、精神体や感情体を酷使する事になって(執着・支配されて)生きた心地がしなかったり(精神疾患)、また独りよがりの生き様(自己満足)や生きる意味を履き違えて(名・権・財に執着して)いるのに「私は正しい」と自惚れ・・・結果的には比較競争差別し合う気苦労・苦悩に満ちた人生を歩む事になるのです。
人間の生き様・・・裕福・貧困、健全・不健全、健康・不健康、社会的・反社会的、思想哲学宗教、人種、国家社会・・・すなわち「形・結果」には関係ないところの「原因=人間の意識」の有様が<すべて>なのです。
だから幸・不幸、天国・地獄、差別、価値観、孤独感、潔癖・正義感、不平不満・不安心配・恐れ・怒り・嫉妬・仕返し復讐心などは・・・皆のものではなくて自分の中にあるもの(個人意識)なのです。
・・・だから世間や家族の意識を変えることは無理でも自分の意識を変えることは出来るのです。
ようするに・・・良い悪いで分離判断しなければ人を責めたり自分を責めたりしないから・・・「不平不満」にはならないのです。
たったそれだけで・・・己の中のすべての問題・苦悩が解決するのです。
そして不平不満がなければ(意識が支配されないことから)今まで見過ごしていた(忘れていた)小さな事にも楽しみ喜びを味わえるようになるのです。
また他と比較競争する事無く・・・生きている今を味わっていれば他に特別なものを求め欲しがることにはならないのです。
だから・・・時代・文化文明の形(集合意識の形・束縛制限支配の形)に惑わされることなく、また責任転換する事無く・・・与えられた自分の役割・個性を活かして生きていればそれだけで十分納得できる生き方になるのです。
そして人の評価や見栄・世間体を気にしなければ・・・貧疎・哀れ・気の毒に思われようが、世間離れした生き方に思われようが、薄情・不親切・無神経に思われようが、無縁孤独に思われようが、世間がどうであれ・・・それが自分に見合った生き方であれば十分納得した人生になりますから・・・この先の有事や老後や死を気にする事無く・・・安らぎの心で今を生きることになり・・・矛盾や妥協で形作られている不完全なこの世の闇意識から抜け出せるチャンスにもなるのです。