孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

信仰宗教のような対外的精神の実践と自らの精神に問い掛け気付く内なる実践があります。

2013年05月05日 | Weblog
信仰宗教等の精神世界のその実践となると形有る対外的な実践が巷で多く目に付きますが、内なる精神面での実践は如何なるものかを伺い知ることは出来ませんが、ハッキリ言って実践は無理なはずです。

何故なら精神面での実践がままならないから(その教祖指導者や先生方さえも)自らが知ったその神仏霊魂の信仰宗教を信じて頼るがために、そこで自らの意識からして係わっているといっても過言ではないその隠れた事実があるからです。

ちなみに親孝行が出来る人は人様から言われなくても既に親孝行をしています。
だから真面目正直に生きることであれ、謙虚素直であれ、努力・勤勉であれ、思いやり親切であれ、出来ることは既にやっているはずですし、またいつでも出来るはずです。

ちなみに人まねが出来る人はそれが出来る人ですが、その人まねが出来ない人はその真似が出来ない人になるのです。
ちなみに何でも全てが出来る人は絶対にいません。
だから様々な個性を持つ人が寄り集まっているのです。

また対外的なことは努力すればそれが少しずつでも可能になりますが、生まれながらにしてもつ本能や精神(心)意識を偽り隠すことが出来ても自らがその意識を根本的に修正改革することは無理があります。

だから艱難辛苦の修行者や神仏霊魂を説く教祖指導者や神懸り超能力者等自身でさえも無理なことは無理なその事実があります。
ただ個性役割からして与えられ持つ能力(自分に出来ること)を出しているだけです。


そして(教祖指導者&信者共々)互いが未熟で不完全ですから、その人間関係からしてこれまた自他共にその不完全意識に巻き込まれることにもなるのです。

だったら私たちは(不完全意識ながらも)(他力に巻き込まれること無く)自らに出来ることを自らがやるしかありません。

そして自らに出来ないことは諦めるしかありませんが、それを無理してその結果が出たとしても不完全ですからそれが無駄なことで余計なことになるのです。

ちなみに私自身も妻や子供や親戚や地域の人に限らずとも此れまでの様々な商取引関係を振り返ってみても、それら全てが結果的に無駄無理余計なことだったと自覚実感納得済みですからこうして書いているのです。

その不完全がゆえの無駄無理余計なことだけではなくして精神的な気苦労苦痛を味わい尚且つ潜在的ストレスまでも抱え込んでいた事に気付いたのです。

ちなみに何をやっても同じ不完全な結果になるのに気付いたからこそ、そんな余計なことをせずに必然ご縁の成り行きに任したままに呑気・気楽・楽チンにして生きるその術をブログに書いているのです。

とにかく皆さんと同じように自己拡大していた過去と現在の自己縮小のその裏表を味わっているから、その精神世界の真実事実をこうして実感でもって書くことが出来ているのです。