矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

複雑怪奇な精神世界だけに多くを学び知り実感し積み重ねて本物に近づく道筋を歩くことになります。

2012年08月29日 | Weblog
精神世界の中にも天国と地獄・飴とムチ・薬と毒の裏表の使い分けによって、それらを信じる人を束縛支配・虜にしたがる邪な意識の者がいます。
すなわち安心と不安を教えその人心を操り束縛支配する形です。

だから不幸があると信仰心の欠如や因縁や怨念の性にしたり善行の少ないことが原因のように思わせ、その不幸を救ってくれるのが我が神や教祖のように教えることで、その信者を思い通りに操ることから人集め金集めにしているのです。

私が仕組まれ精神世界・霊魂霊界を始めて知ったのが、世間に目立つことなく水面下で静かに霊魂の修正のお役を果たしている宇宙的愛の霊能者だったことで、それら信仰宗教組織団体や邪な霊能者の見極めから釈迦やイエスの過ちまで知ることになりましたので、今の完全真理も違和感無くスムーズに理解できました。

ところがもしも巷の不完全な人集め金集めの信仰宗教や邪な霊能者とご縁があれば初心者だけにそれに染まっていたかもしれません。
と言うことは世間的な信仰宗教や霊界を専門とする者たちと最初にご縁があった人であれば、完全な宇宙・神・愛を説く完全真理に馴染めずに違和感や否定反発しているかもしれません。

此れまでに幾多の信仰宗教に熱心な人とご縁がありましたが、何が原因からして信仰宗教に係わる事になったのか聞いたところ、身内に深刻な問題があったことからその人救いのため、またいろんな宗教を学び知っていたが此れまでと違った形に興味を持ったことからとか、生き甲斐探し、自分探し、神探しを書物で見つけたことからがありましたが、それらの人は能力・性格的にも羨ましいほどの人でしたが、やはり自分の思い思惑・欲が原因からして、その自分の思いに似合った都合の良い形を見つけたことから始まったようです。

だからあれこれと邪魔になるものを捨ててまでも熱心になれたわけです。
ところが問題なのは(何故かしら)盲信状態の一途さから(私は正しいとばかりに)他の宗教や真理に見向きもしません。

本来なら複雑怪奇な精神世界だけに(一筋縄では解決できないだけに)多くを学び知って実感しそれを積み重ね照らし合わせてながら本物に近づく道筋を歩んでいくほうが道を誤らないで済むと私は思います。
そして完全真理にたどり着けばすべてがつながり完結します。

また誰もが説いているように「欲」を捨てない限り本物に巡り合える事は絶対にありませんが、その欲を捨てることを説いている本人が知らない間に欲を持っことになっているのですから、何処もかしこもおかしな事になっているのです。

精神世界を説く者もその教えを聞く者も(人を集めたり人が集まりたがるのも)何らかの欲を持ったのに、その欲に気付いていません。
また特別な霊力・霊感・霊視を人知れず使うことなら問題は無いが、(金儲けでなくても)特別な形になる霊視を見世物・売り物にしているのも自分を目立たせる欲絡みになります。

すなわちこの世の人間であるかぎり何らかの欲・思惑期待を持っているだけにどうしようもないわけです。
だから薬にも毒にもならない、すなわち良くも悪くも無い、その裏表の矛盾の無い完全真理を学び知り、その欲から離れたような自己縮小の道筋を選んで、その無理も無駄も無いその自力と自信でもって穏やかに生きていくしかありません。
そして意識の進化の<時>を待つ事になります。
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欲を無くする為の精神世界でその欲に染まるような人間だけにどうしようもないのです。

2012年08月26日 | Weblog

巷の古今東西の信仰宗教には薬になる良いとこもあるがその裏に隠れている毒にも犯されていますから、その毒を無くする為にその薬に依存し手放せずにいますから、その繰り返しがいつまでも続くわけです。

その良いこともあるが悪いことにもなる信仰宗教を終わらすために薬にも毒にもならない完全真理が説かれているのですが、その完全真理を知ってそれを信じていただけではその薬と毒の繰り返しからは抜け出せません。

なんたって「転んでもタダでは起きない」人間だけにその欲を捨てない限りダメなのです。
だから昔からその欲を捨てたように修行行脚したり、少しでも神に近づくために高い山で信仰心を高めたり、人里から離れた場所で自給自足の貧しい生活をして欲を捨てることをしたり、艱難辛苦の修行をしながら欲を捨てる事に専念したり、お堂や洞窟にこもって座禅や瞑想の繰り返しから欲を捨てる人間修行をしていたと思います。

すなわち欲を捨てない限り精神世界や神の世界を知ったところで絵に描いた餅同然になることを知っていたから、自らの生き方でもって修行・実践していたのです。
ところがそんな形の精神修養や鍛錬でもってしても無理だったことはミイラ取りがミイラになった釈迦やイエスで理解できると思います。

その釈迦やイエスが成せなっかたのも、艱難辛苦の修行をしながら自らが神になることを目指したり、また集まる人を自分の知っている神の道に導こうと欲張ったことが原因だったと(多分ながら)思います。

その釈迦やイエスさえも無理だったことからして、そこで釈迦やイエスの教えを元にしてその神を説いて、その神を信じて祈願することで信仰心を高める信仰宗教化になっていったと思います。
しかしそれもいつの間にやら人集め金集めの勢力集団になったのは古今東西の信仰宗教を見て判る通りです。

そこで修行することも無く、信じて祈願することも無い完全真理の登場となるのですが、しかし完全真理が説く良い悪いで判断しない実践が必要になります。
そこで一般的な生活の中で実践する事になったのですが、その良い悪いで判断しないためにも欲を捨てなければ無理なのは同じでした。
ちなみに欲を出せば自己拡大と時代の進化拡大になりますが、欲を出さなければ精神・心・魂・意識の進化が仕組まれます。

ところが欲を捨てる事に相当な無理があることからして先ずは自己縮小が言われていますから、そこで普段の生活の中で修行するが如くに生きていく事になります。

ところがそれもどうやら無理があるようです。
何たって転んでもタダでは起きない人が多くを捨て去りその薬にもならない真理を実践する気にはなれないようです。
そこで奇跡を成して見せ、その奇跡が起こる元となるエネルギーが入ったファバラを使用する事でその奇跡的現象が生じてそれが薬が如くに効果があることを見せ示す事になったのかもしれません。

ところが奇跡を成す事ができる耕栄さんとそのファバラ信者が増えることにもなり、肝心要の完全真理の実践意識よりも信仰心のように信じることで良いとこ取りする方向になったのも事実にあります。

何でそうなるの? それが欲絡みの他力依存なのです。
日々の生活の中で修行するよりも耕栄さんやファバラを信じて依存するほうが都合が良いことになると信じる事になったのかもしれません。

前置きが長くなりましたが、兎に角も<欲>があれば何をやっても無駄なのです。
その欲を無くする為の精神世界に係わる人たちまでがその欲(他力依存)(神仏依存)(良いとこ取り)に染まるような人間だけにどうしようもないのです。

だからその欲から離れるために素朴に生きる実践しかありません。
それで欲がなくなることには絶対的に無理でも、その欲から離れることで此れまでの生き方の多くの矛盾・裏表に気付く事になります。

その矛盾・裏表を学び知った意識でもって欲張ることなく死する時まで生きて、その後のことは成り行きに任すしかありません。
そして精神世界では「取らぬ狸の皮算用」「絵に描いた餅」「棚から牡丹餅」「果報者は寝て待て」の思惑期待の欲や神ががかり奇跡の「他力依存」や神仏を信じる「信仰心」ではダメなことを知ることです。

そこで欲から離れた生活を実際に味わえば(修行が如くに)多くのことに気付き(精神修養)ますし、何たって楽ちんで安心安全の心持で生きていけるのですから、その欲を持って生きることに二度と戻らないでしょう。
すなわち欲を持っていてもその欲を出すことが無くなっていくのです。
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精神世界・霊界に係わるほどにその裏表の複雑怪奇な事実を知ることになります。

2012年08月24日 | Weblog
心にも無い感謝を言っても自他共にその効果効用があるのも事実です。
だから「ありがとう」「ありがとう御座います」「ありがたい」「お蔭様」と言うだけでその結果が出ることがありますし、その言葉を多く繰り返すほどにその結果も出やすくなります。

だから強く祈願したことから願いが叶うこともあれば、また強い怨念や呪うことで害を与えることも出来ます。

また文字や言葉で書かれていたり形を描かれていても、また神社仏閣・教団教会やその偶像や鳥居や十字架や卍模様などで形作られているものから洗脳的な影響を受けることがあります。

しかもその結果・影響が自らの中が原因か、また他力によるものか、また邪な類の者なのかは決め手に欠けますから、それを霊能者の類に見極めてもらうも不完全意識の者ですし、また学び知ったことを信じているその思いが入っていますからそれも不確かになります。

だから精神世界・霊界に係わるほどに(意識するほどに)良いこともあれば悪いこともある(薬にも毒にもなる)(裏表のある)複雑怪奇な事実を知ることにもなります。
だから信じるか否かになったり、また不安心配になったり、それが神仏・霊魂を恐れ怖がることにもなったり、また逆に敬い尊ぶことにもなったり、また奇跡も起きるわけです。

そこで世間では善行を重ねることを良しとして、悪事を重ねることを戒めることにもなっていますが、しかしその善悪を教えている宗教の神罰を受けたり願いが叶ったりしていると思うこと事態が真実事実ではなく、それもそれら邪な神仏や他力が原因ではなくして、すべてが己の意識次第で(良いことも悪いことも)起きていることを知ることが先決なのです。

何故なら邪な教えの神仏霊魂の影響を受けることになるその弱い意識・精神力からして自らが受け入れ招き入れているからです。
だから精神力・意識力・自信がある人は邪な宗教や霊魂の影響を受けることにはなりません。

反対に自信が無いことからして不信感を必然的に持つことになりますが、ところが信じることで自分に都合がいいことを得られるとなれば、その欲目からして、持ち前の不信感を奥底に隠し置いて、その都合の良い事になることを「信じたがる」ことになっているのです。

だから不信感があるのにそれを信じたがるのは思惑の欲目があるからです。
だからその不信感と信じたがる弱みに付け入るこの世の人間の企みやあの世の霊界・霊体によって変な事にもなっているのです。

だから結果が良しかれ悪しかれ自信が無いことが原因で起きていることです。
しかも結果が良かれば当然ながらその依存心が高まり、それが拘り執着習慣にもなり、いつの間にやら自己洗脳や他者洗脳や集合意識からして(邪な宗教や霊体が原因でなくても)そこから抜け出せなくなるのです。

また反対に悪いことにでもなればそれを己の信仰心の性にしたり善行不足の性にしたりと気になることが増えて更にその神仏霊魂に救済を求めることになり、次第にその虜になっていくのです。

だから複雑怪奇な精神世界に惑わされるのも自信の無さであり、その自信の無さが他力依存の欲に変わり、その欲から更に惑わされることになり、どんどん深みにはまっていく事にもなるのです。

また自信ありげな自惚れの満足感や幸福感からして目の前の困っている人や弱者を救済したくなるような人であれば、それが慈善奉仕活動や世直し人救いを掲げた信仰団体に身を置く事になり、そして私は正しいことをしていると自惚れ慢心してその団体活動のリーダー格を目指す人もいます。
それが宗教布教活動になっている人もいます。

だから神代の世界・精神世界・霊魂の世界・摩訶不思議の世界を知ることからしてそれらに係わる事になり、その安心安全の精神世界に係わることで逆に不安心配が伴う人生になるのも、その矛盾の世界で生きているからです。
そのことに気付かずにして更に欲張り無理し拘り執着して自己拡大し続けますが、その自己拡大意識からして自己破壊に進んでいることにも気付けません。

だから真実の宇宙・神・愛を学び知るのも、その良いとこ取りで急ぎ慌て欲張れば(善良な人でも)その意識が原因からして邪な者やその霊体に支配されることにもなるのです。

だから真の神・神の愛を知るのも自然体で知ることが重要なわけですから、その真の神の愛の仕組みに任せることになるのです。
そうすれば無駄なお金や時間を浪費することなく楽ちんで安心安全の心持の自信でもって歩いていけるのです。

だから欲からして神を知ることや精神世界に係わる事にならない為にも自然体の自己縮小が必然になるのです。
その自己縮小が進むほどに生きる自力・自信が多くなり、それが邪な宗教説教や神がかり奇跡に惑わされないその自信にもなります。

その自信も無いことからして信じる事になっているし、その自信を身に付けることを怠っているのにそれらを信じて係わることからして、その矛盾ある複雑怪奇な精神世界で惑わされることになっているのですから、早くそれらから脱さなければ自らが破壊に進んで先々で困るだけです。

しかしそのことにまったく気付けないでいるのもその精神世界に係わる者ですから、当然ながら矛盾する事になって複雑怪奇な精神世界に惑わされることになるのですが、更にそれが正しいと思い込むことにでもなれば「どうしよう」もなくなり「ほっとく」しかないのです。

巷に溢れている書物や講演会やそれら組織団体や個人的な霊力霊能者であれ、それらすべてが不完全であり、それを見聞する者も不完全なのですから、それらに頼ることなく、自らの自力と自信からして完全なる宇宙・神・愛の必然ご縁の仕組みに任すしかありません。

それも自力・自信が前提ですから、もしも思惑期待や欲絡みの他力依存があればその邪な方向に向いていくのも当然のことになりますから、やはり自己縮小の実践をしながら歩んでいくしかありません。
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精神世界の<薬>にも<毒>にもならないのが完全真理です。

2012年08月22日 | Weblog
自らの意識が原因からして不平不満や自己満足することにもなっているように、不安に思うのも、心配する事になるのも、それが恐怖や怒りになるのも、それらすべては自分の思い・意識・心の中から出たものですから、他者責任でも神仏や霊魂の性でもなく、すべてが自己責任になります。

だから世の中に差別があると思うのも(思ったのは自分ですから)、その差別の原因と結果が世の中や人様の責任にあると思うのは事実ではありません。

また人様をカッコよく思うのも、カッコ悪く思うのも、また優れた人や劣る人に思うのも、敬い尊ぶ人や蔑む人がいるのも、自分の思いの中だけのことだから事実ではありません。

また神罰に思うのも、その神罰の原因が信仰心にあるとか、悪行に原因があるとか、善行に欠けていたとか、先祖や両親や家族やに責任の一端があると思うのも、まらその先祖や両親に感謝が無いからと思うのも、その「思い」は自分の中にあるものですから誰のものでもありません。

だから身近な人に不幸が起きたと思うのも。また自分が不幸になったと思うのも。
その不幸が起きた責任の一端が自分にあると自分を責めることになるのも。
また家族の不幸が続くのは先祖の悪行のタタリと思うのも。また家族が幸せに暮らせるのは先祖のお陰だと思うのも。その思いは事実とは違います。ただそう「思って」いるだけの想像になります。

また神仏がその神仏を信じなさいとか、悪を戒め善行をしなさいと言ったのではありません。不完全意識の人間が自分の思いをなすために言っていることです。
また神仏が人集めや金集めを望んでいるのではありませんで、それを望んでいるのは邪な意識をもった人間やその霊体です。
また神仏が奇跡を見せて精神世界に引き入れることを望んでいるはずも無く、それも欲得絡みの不完全意識の人が自分勝手にしていることです。
また神仏がその神仏の偶像を創作してその偶像を崇拝するように望んでいることでもありません。

また神仏を説くものがその神仏の真実事実を見聞して知っているはずは絶対にありませんから、そこで自分が学び知った中の自分が信じている部分のその思い込みが必ず入っています。

だから神仏を説く者も絶対的な自信がありません。 だから信じる者が増えることでそれを自信に代替しています。 だから人集め人気集めにもなります。
ところが神仏を説く者がその神仏を盲信していると、そこに集まる者も盲信する事になりますから、その集合体が何かと世間を騒がすことにもなります。

良い悪いで判断する不完全意識の人間に愛(無償の愛)を出すことは出来ませんから、その愛の思いとなる愛情や人情や恩や儀という個人の思い情けの感情を表すことになっていますが、それには見返りを望む思惑が潜んでいます。
だからその見返りの思惑が外れると薄情に思えたりそれを裏切りと思って責め立てる事にもなっています。

その個人の思いが入っていなければ、あるがままの事実だけなら、そのままにほっとくなら、このままで過不足が無ければ、自然界の如くに成り行き任せなら、それを愛ですから、その愛という思いの言葉を必要としないのが真の愛になります。
だから愛には善悪・優劣・損得の判断はありません。
だから善人も悪人も善行も悪行も天国も地獄も幸福も不幸も自己満足も不平不満も無いのが愛の世界です。

その愛の世界を説く者に愛が無く、その愛の言葉を言って説くだけですから、その信仰宗教に係わらず精神世界を説く者にも愛はありません。
そこで愛(神)を説く者を信じるしかありませんでしたが、その愛を信じることではなくて愛を知ることからして精神世界に係わらなければ、その不完全なる者の偽善の愛を信じる事になったり、その愛ではない愛に惑わされたり迷い混乱・試行錯誤・葛藤することにもなっています。

だから良い悪いで判断しない「完全真理」を学び知ることからして精神世界に係わるほうが確かな歩みになります。

しかし良い悪いで判断するのが人間だけにどうしようもありません。
そこで自己縮小して、欲張ることや無理することや余計なことをしないままの成り行き任せ、判断が加わらない食って寝て糞をするだけのような生活の中で、自己拡大となる他力依存よりも自力と自信を身に付けて、全知全能の宇宙・神・愛の仕組みの自然体で生きるためにも、その全知全能の必然ご縁の仕組みに任せた生き方を実践しているのが今の私です。
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玉ねぎの皮を剥がすが如くにして芯・心・神に到達するのが人間の役割と使命です。

2012年08月21日 | Weblog
人間の体についた汗や汚れや垢(あか)は洗えば落ちます。
ところが内面の心・意識・精神についた汚れ垢を取り除くのは至難の業です。
そこで精神世界を学び知る必要があるのです。

ところでこの世は不平不満から事が始まるような不完全意識の人間関係ですが、あなたは不満を言うことが多いですか、それとも不満を聞くことが多いほうですか。
私は不満を言うことよりも不満を聞くことが多かったのです。
と言うのも、その不満を言わないタイプからして当然の如くに聞く側の立場になりますから、不満を言わないから不満を聞くことになるという矛盾があります。

それでは自分の不満を遠慮なく言って人を巻き込む人と、その不満を言われて巻き込まれる人と比べてどちらが精神的な汚れ垢が多くつくでしょうか。

当然ながら不満を言う人に精神的な汚れの垢が多く付くと思います。が
しかし不満を言った人は胸につかえていたものが吐き出せてすっきりします。
その反対に不満を言われた人は胸にしこりが残った感じでいやな気になります。
となると不満を言われた人が損をする立場になります。
そこでその仕返しを企む人もいます。

だからそんな不満を言われたり人様の悪口を聞かされても、それをさらりと聞き流せる精神力が必要になります。
すなわち気にしないでほっとくことになりますが、ところがそれでは相手に対しての思いやり人情愛情が無い(心が無い、聞く耳が無い)と思われて更に不満が増すかもしれません。

そこでご機嫌直しに喜ばせ楽します工夫もするが、その工夫さえも寸足らずに思われて不満に思ったりもまた別口の不満が出てきたりもすることがあります
だから不完全意識の人間関係だけはどうしようもないのです。

そこで逃げるが勝ちで逃げ出すと今度は孤独があります。
その孤独感に勝てなければ再び不完全な世の中やその人間関係の渦の中に巻き込まれながらの方向性を見失った生き方になります。

そこで孤独感に勝ってその孤独を続けることが出来ても、その孤独の価値を見出せなければやはり孤独感が出てきます。
その孤独感ではない孤独の価値からして自分の中の精神・心を見直し見い出すことが出来るようになれば、目を閉じて(孤独になったつもりで)やる瞑想・妄想とは違った、現実事実を見ながらの目を開けての精神修行にもなります。

だから仙人や修行僧とは違った現実の生活の中での精神修行になります。
そして玉ねぎの皮を剥ぐように汚れた垢が洗い流されて奥底に実在する芯・心・神に到達するのが人間の役割と使命ですから、そのためにも自己縮小が必要になるのです。

その自己縮小も孤独でなくても実践出来るその精神力があれば申し分ないのですが、それどころか自己縮小も孤独にもなれずにその不自由・不満・不信のままに人生の終わりを向かえ、その不自由・不満・不信感からして何だか人に見放され神仏にも見放されたような感覚の孤独感でもって、心身ともに苦労しながら死を迎えることになるかもしれませんし、あの世へ逝ってもそのままの意識でもって永遠に漂う事になるかもしれません。
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このブログは毒にも薬にもなりませんが肥やしにはなります。

2012年08月20日 | Weblog
宇宙・神・万物すべてがひとつで、そのすべてが神であることを知り、特別が一切ないことを知ります。

そして何で良い悪いで判断する矛盾意識の人間を地球に創造したのかその真実を知ります。

そこで表があれば裏があるというその善悪・損得・優劣の矛盾を精一杯味わう事になります。

その矛盾からして人生の苦と楽の喜怒哀楽を味わいながら生きることになります。
その自己満足と不平不満の繰り返しから自己拡大になりその時代ごとに進化発展することになりました。
その自己拡大が自己破壊につながっていることからして地球人類の破壊崩壊の末期的状況になりました。

その中に自分を守りたがる意識を持っていますから、その裏が出て不信感になり、それが敵対意識にもなり、その敵から守るために戦うという矛盾の中で双方が戦う事になっていますから、だから戦いは絶対に終わりません。

その自己拡大には絶対的に他力が必要ですから、その他力に依存することになりました。
そこで協力し合う人間関係が築かれ、皆して信じ合い、信じて頼る、その信頼や絆が言われ、その裏が出ると裏切り関係が言われています。

ところが自分に足らないその他力に依存することが多くなるとそれが習慣性にもなり、それが無くなれば不安心配になり、そこでまた別な他力に依存することにもなり、それが繰り返されているうちに更なる深刻な依存症候群にもなっています。

その中に趣味嗜好娯楽があり、スイッチポンの生活様式もあります。
また不完全な医科学や信仰宗教や神がかり奇跡の超能力に頼ることにもなり、その望み願いが叶うと更に依存することの繰り返しになり、その他力依存の積み重ね上塗りからしていつの間にやら自分・自力・自信を見失い、自己洗脳・自己陶酔・盲信することにもなっています。

その他力依存にはお金が掛かりますから、どうしても無理な仕事働きが多くなりますから呑気にはしておれません。

また他力依存に都合がいい集合化や巨大化を求めますから次第に街中や都会に出て行くことが多くなり過疎化が進みました。

だから呑気さも自然と触れ合うことも次第に減って欲絡みの他力依存の(他力の有効活用術による)自己拡大ばかり目指すことにもなりました。

ところが行き着くところまで行くと次は下ることしかない事に気付いた人はそこで自分探し神探しを意識するようになります。

しかし何処を訪ねても答えが見つかりませんから、古今東西の扉を開けて覗いてみたり、それが良さそうであれば中に入ってみたりもするが、それでも不十分に思える人はその箇所に止まることはありません。

そしてその見聞を広めた人の中で、この世に矛盾がある限りにおいて「どうしようもない」ことに気付き、その如何様にもし難いことを己の意識次第で如何様にも変えることが出来ることを知れば、そこで真実の本物に巡り合えたことになります。

すなわち己の意識が原因のその結果が今であり、その今を変えるのも己の意識を自力でもって改革修正するしかないことを知ります。
そして欲の上塗りやその他力依存の上塗りから脱して、己の自力と自信の独自独歩で歩んでいく事になります。

そして欲張り無理し執着するその苦楽で生きることよりも、変化刺激の無い素朴で穏やかな自然体(宇宙の仕組み)で生きることを知り、その実践によってその真価を味わう事になれば、その過去の自己拡大と今の自己縮小を味わった、すなわちこの世の裏と表を味わった意識体となって、新たなる地球人類の意識次元の進化の仕組みに仕組まれそうです。

それが「完全真理」です。
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何で、何でそうなるの。それが意識が原因の必然ご縁の成り行きの結果です。

2012年08月19日 | Weblog
何度も書くことになりますが、私が自己縮小したくて過疎地で単身生活する事になったのではありません。
また幾重の偶然(必然)の積み重ねが無ければ私が過疎地で暮らすことには絶対的になかったのです。

ところで「成り行き任せ」や薄情にも「ほっとく」ことが書かれていますが、これとて完全真理を理解してのことではありません。
幼いころから放任されて(ほっとかれて)成長して来たのと遊び好きから、高校卒業までに学び知ったことは英数字の読み書きと掛け算と割り算くらいですし、その他の科目も同じようなものです。

だから就職も結婚も、また妊娠出産も、その育児教育も、その時々の結果に対して今の自分の能力に見合ったことはするが、それを超えたことを無理する気もないから、自ずと成り行き任せに「ほっとく」ことになったのです。
だから結婚後は世間的しきたりを妻任せにして、自分に出来る仕事と家族と遊ぶことことしかしていません。

その無能・無知の反動からか、先駆け意識の先行逃げ切り形が得意となり、次々と先取りし上塗りし乗り換える事になりましたが、それも知らないことを知りたがる、そしてやりたがることから仕組まれたことであり、また欲目が少ないことからして乗り継ぎ乗換えが早かった事実があります。
だから過去の自己拡大の結果・形を惜しむことなく、その成り行き任せからいつの間にやら過疎地で単身生活することになったのです。

その過疎地に移住するまで、ご縁あった人に医科学の弊害副作用や環境や健康に関していろいろと助言アドバイスしたり、摩訶不思議なエネルギーに関しても同じく、積極的に知り合いや親戚で病や怪我で困っている人に推薦したり高額商品も無料配布しましたが、それも結論から言えば「成る人より成らない人」が多いのに、ネットの情報掲示で仕組まれた必然ご縁の見知らぬ人のほうに不思議なくらい結果が出たのです。

すなわち物質的であれ精神的であれ「必然」とする人にその「ご縁」が無ければ、私が先んじて何を企み企て成しても意味を成さない結果に終わるその無駄に気付いたのです。
だから情報公開やブログを書くことが多くなったのです。

そして物質で結果が出たり精神世界のことが理解できて「新発見だ」「始めて知った」「目から鱗が落ちた」「本当だったのね」となっても、次の新たなことにはチャレンジしなかったり、チャレンジしても次第に関心が薄れてそれ以上に進まないままになっています。
だから(私にすれば)「何で」となるわけです。
そこで「来るものは拒まず去るものは追わず」の心境になったのです。

人それぞれの意識が原因からして、絶対的に人の為になると思ったことが人の為にならずの結果になれば、成ることも成らなかったことになりますから、その成らなかったことはどうしようもないから後は必然ご縁に任すしかない、だからどうすることも出来ないことになれば「ほっとく」しかないのです。

それが身近な人や家族関係の中での世間一般的な諸問題であってもまったく同じ様な結果に成るだけに、やっぱり「ほっとく」しかなかったの
です。
そしてその方が余計な無理も無駄も無く楽ちんで利口なことになるのです。
すなわち不完全意識の者同士がどんな事をしても不完全な結果に終わるのです。

だからご縁あった人を影ながら見守り意識していているだけになるのです。
そして再度必然ご縁があることを待っているのです。
そして再度ご縁が出来てもまたそれ以上には進めないでいるのです。
だから完全真理になってからはメールさえも送る人がいません。

しかも耕栄さん信者・ファバラ信者とも言えそうな人までが先祖供養に心引かれる有様ですが、そこで「何で」となり、そして気付くまで「ほっとく」ことになるわけです。

だからこのブログは知ったことをそのままに書いていることよりも私の中で実際に起きたことや気付いたことや繰り返し感じていることを書いています。
ただ残念なのは「私のもの」であることです。
そして私が不完全意識の持ち主であることです。
だから幾ら書いても無駄な気がしていますが、此れも暇つぶしですからどうってことないわけです。
と言うことからして「お付き合いありがとう御座います」となります。
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不満を出せばその上塗り、不安心配も上塗り、欲は欲の上塗りをします。

2012年08月18日 | Weblog
人間界に良い悪いで判断する矛盾意識・不完全意識があるのも宇宙・神の仕組みの必然からしてあるものですから、完全真理を学び知ったからとて、無理に良い悪いで判断しないように心がけて実践するものではありません。

だから不完全意識であってもいいから、まずは過去・現在・未来に執着しない、すなわち後悔しない、欲張り無理しない、思い思惑をもたない、その自然体で生きる事になります。

その自然体で生きる中に自己縮小が言われていますから、そこで自力を多く使い他力をあてにしないことになりますが、その他力を多く使うことで自己拡大してきたことの事実を知ることになり、その苦楽・喜怒哀楽の矛盾で生きることで精神・感情・肉体を酷使して、自他共に、心身ともに「お疲れ」になっている、その事実を気付き知ることになります。

その自己縮小が田舎暮らしの形ではなくして、また質素倹約な形ではなくして、また自給自足の形を目指すものではありません。
しかしその田舎暮らしによって自力を多く使い他力(人様の力や便利な道具)をあてにしなくても生きていけることを学び知ることになります。

だから昔話に出てくるように、山へ芝刈りに行き川で洗濯するようなことも出来る、その「自力の必要性」を知り、それを実際に味わえば、それはそれで味わい深いものがありますから、むやみに他力を使うことが減ってきます。

そして生きていく生活の中に自力で解決できることが多くなりその他力を使わないほどに不平不満になることが減っている事に気付きます。
そしてその不平不満が減るほどに自己満足が必要なくなり趣味嗜好娯楽が必要なくなります。
すなわち不満と満足の裏表の関係にあるのです。

そしていつの間にやら欲張ることも無理することも執着することも無くなり、自分の自力の範囲の中で(私の場合は独自独歩で)生活している事に気付き、自力によって生きていける自信が出てきます。

その欲・無理・執着の無い自力で生きる自信が出来ると成り行き任せの自然体で生きることになり、必然やご縁以外の「自己満足と不平不満」の原因となる事柄からしぜんと離れていくことにもなります。
だから食って寝て糞をしながら生きているだけで十分に思えるようになるのです。

そこで気付いたのが、今は必然としていないことをあえてやる事は趣味嗜好娯楽の類になることです。
だから鶏やヤギや犬猫を飼うことでその苦楽・満足と不満を味わう事になりましたし、簡単便利な道具があるのに無理に手仕事にすることでもないことに気付きましたから、生活費に余裕がある限りにおいて簡単便利で快適になる道具や器具を購入し、それを使い尽くすことにし、貧乏からそれらの物が再購入できなくなればそこで自力でやればいいことなのです。

そこで物品購入や趣味嗜好娯楽のために収入を増やすのではなく、また有る物が無くなっても平気で暮らせれば自己縮小意識につながっていくのです。
そのどうでもいいような趣味嗜好娯楽を減らして、必然とする道具や器具を購入したり業者に依頼することがあってもかまわないのです。
とにかく欲張らない、無理しない、執着しないことから自己縮小はしぜんと進んでいくのです。

ところがそれら必然とする物品や業者に依頼する他力依存よりも、趣味嗜好娯楽・刺激変化で自己満足したいがために他力依存したり不必要な出費が増したり、また必然以上に医科学・薬剤に頼ったり、または宗教や神がかり奇跡に依存することからして、その「良いとこ取り」の裏が出て来て後々にその問題を招き入れることになっているのです。

更に身近な人間関係に依存することでその人間関係をも壊している事実にも気付いていません。

ところで精神世界を学び知ることを意識していない人でも「欲」がすべての問題の原因であることは概ね知っています。
なのに精神世界に係わっていながらも欲から脱却できていない人が殆どなのです。
だから不平不満も出るし困ったことにも思っているのですが、それを自分で解決しないで他力に依存する事になっているのです。

すなわち欲から出たことに欲を重ねて「欲の上塗り」をしている事に気付いていません。
だから信仰宗教・霊力や超能力パワーに頼って更に問題を上塗りすることにもなっているのです。

その不平不満も、困ったも、死にたいのも、自分の中の欲から出ているのです。
それを人様や先祖や霊界や神仏に摩り替えるから、その裏が出て、それらに頼ることにもなっているのに、それさえも気付いていません。

自分の中のものは自分でしか取り除くことは出来ません。

またその先祖や霊界や神仏真理を語る者の自らの不完全意識に気付いていないし、まして自らの持つ能力を人様に見せびらかしたりして収入を得ている形や名声を得ている形になっているくらいですから、この世のことは「もうどうしようも」ないのです。

だから自分で解決するしかないのです。

そのためには「欲」を捨てるしかありません。
その欲を捨てて困った事になれば、それも欲の裏が出ているのです。
すなわち欲を捨てれば「良くなる」と思っていたからです。
良くなる=欲なる=欲になる、のですから上塗りになります。

その欲を捨てることが無理であれば、有るものが失われていく事に執着しなければいいのです。
それさえダメならば、どうせ死ぬ時に手放すのだから、それ以前のその有事の際にも、失われていくことに執着しなければいいのです。
それさえダメならば、その執着を持ったままに死んでいくしかありません。
そして成仏できるか否かが仕組まれるのを待つだけです。
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太陽信仰・神道・先祖供養の伊勢白山道がおぼろげに判ってきました。

2012年08月17日 | Weblog
私がブログを書きながらも何気無くラジオを聴いている時があるのですが、「何かしら」気になることを聞けば(必然ご縁で仕組まれて)意識に残ります。 そして時が来ればそれが役立つことが多いのです。

そのラジオから聞こえる考古学者が言うには、長く続いた縄文時代には集合化が無くて、それぞれが思い思いに居場所を決めて(独自独歩で)生活していたのが、弥生時代になってから急変したかのように集合化が進み能率的効率的な生活様式になって行ったそうですが、その事を私は自己拡大が始まった時代と思っていました。

それと霊能者とご縁があったときに、その霊能者が宇宙から来たムー大陸のお姫様だった過去性の持ち主でして、またその時代は「お月さん」が自ら輝いていた時代だったようで、昼は燃える太陽で照らされ、夜は月が穏やかな光を放していいたのですが、その太陽が燃え盛る炎で月の光を奪い(侵略)、また月の水をも地球に注ぎこんだことから、その月を生命・水の無い死の星にしたようです。

ところが伊勢白山道のQ&Aの中にそのムー大陸が水没した年代のことが書かれていたことからして、私には珍しく(仕組まれて)歴史年表を検索したところ、地球の温暖化で海の水が増えたことから大陸と日本が離れた年代と、先ほどの縄文時代が弥生時代になる年代とがほぼ一致していたことが判りました。

それを簡単に言えば、燃えて焼き尽くす強い太陽意識「信仰」が温和で静寂な月意識「信仰」を打ち破ったことであり(陽が陰を滅ぼした形)、それが月信仰のムー大陸が水没した原因でもあり、その太陽信仰が自己拡大の時代になって行き、神と会話しながら自然体で(独自独歩で)静かに暮らしていたムー民族が消えた事になります。
すなわち自己拡大のこの世の始まりになります。

そしてその「太陽信仰」が「神道系」の伊勢白山道なのです。
そして「月が悪」「太陽が善」を説いています。
そして月信仰は悪魔物だから太陽信仰が勝ったというイメージに書かれています。
他にも「イシス」が魔物霊、西洋意識のヒッピー族・フリーセックスが日本家族の崩壊につながった等とありますが、その裏と表(自由と束縛)があるのがこの世ですから、悪いことばかりではありません。

そしてこの先に月が二つに見える時が来て、それが一つになったときが、神と人間が融合することになるようです。
(ご縁があった霊能者も月が二つになることがあると言っていました)

私は書物を深くは読まないことからしてイメージになりますが、すべてはひとつで、すべてが神で、必然ご縁の関係で成り立っているのに、それを善悪で分け隔てている限りにおいてその太陽信仰も伊勢白山道なる者も不完全意識になります。
すなわち不完全意識の者が不完全な自分の中の神・神仏・霊を正しいが如くに(もっともらしく)説いている事になります。

その伊勢白山道が説く宇宙・神・心・感謝を実践してその効果効用・奇跡・御利益があっても、その中の排他的要素の教えを潜在的に受けていますから、不完全な一時のもになり、絶対的な真の愛・神の神には結びつきません。
だから我神なり、自らが神の自神(自信)に至ることはありません。
また御先祖様の霊や内在神(自神)の光によって次元の高い居場所に導かれることは不確かです。

それでも先祖供養・霊・霊魂・霊界のことや他力依存の落とし穴・弊害を深く知るなら都合の良い本です。
だから他力依存の人にはお勧めですが、不安心配が先立つ人は逆効果になるかもしれません。

ちなみに、私は先祖供養を完全に疎かにしている事実と魔物霊の月信仰の流れに係わっていたこともあるし、家族崩壊の自由孤独を書いているし、頑張り努力しない成り行き任せ、必然ご縁の他はただ食って寝て糞をするだけのような生活をしていることからして、伊勢白山道の言うところの魔物霊を受けていることになります。

しかしこの世は不完全なだけに、その伊勢白山道なる者の霊感・霊視で見たその者の個人の思いを説く中には(先ほどのように)裏も表もあります。
だからその正否に係わらず、私は此れまで通りに仕組まれながらもその自信(自神)を持って歩いていくだけです。
だから地獄界に進むことになっても自己責任ですから、その変化刺激のある地獄界の裏も表も平気の沙汰で味わいつくす覚悟があります。

そんな覚悟の私が書く真実の完全な神を知り、我神なりの意識、自由平等調和の愛意識のことを知るならやはり完全真理です。
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この世もあの世も「すべて」があなたの意識次第で決まっているのです。

2012年08月16日 | Weblog
「すべてはひとつ」「宇宙はひとつ」「神はひとつ」「意識はひとつ」「愛はひとつ」「心はひとつ」「事実はひとつ」の<ひとつ>を説くのは「完全」です。
しかし人間の思いから(ひとつのものを)良い悪いで判断して比較競争差別すれば不完全な裏表のある矛盾が出てきます。
またその「思い」は想像ですから事実ではなくなります。
その事実ではない思ったことを実在・事実が如くに思い込み勘違いすることからして、この世が裏表のある矛盾の「思いの世界・想像の世界」にもなっているのです。

だから宇宙・神・愛・意識・心と言われるもの「すべて」が「ひとつ」になっての<ひとつ>です。 だから他には何もありません。 それを他にも「あると思う」(想像する)から変な事になっているだけです。
だから個別に分離して説くと不完全な説明になります。
だから何か「ひとつ」を説く中にも、宇宙や神があり愛があり意識・心・命などのすべてが入っていなければ片手落ちの不完全な説明の真理になります。

だから宇宙・太陽・地球などの宇宙だけを説く者、見えない神だけを説く者、霊魂・霊界だけを説く者、愛や心や意識命だけを説く者は、その事だけしか知りませんから、どうしても偏った不完全を説くことになります。
しかし宇宙のことや人の心・精神世界や霊魂・霊界・天界・神と言われる世界をそれぞれ別個に学び知っても、それらすべてが「ひとつ」につながっていれば完全を知ることにつながります。

だから学び知る道筋が様々に違っていても、その様々に学んだこと全部が一本につながっており、また新たな学びの道にもつながりそれが十分に役立てば、此れまですべてが無駄ではなかった事になります。

そこで私の場合は終着点である完全真理を学び知りその実践をしている最中ですが、一人の仲間が耕栄さんやファバラに愛想をつかして霊界を学び始めたのですが、その人にとっては霊界のことを学び知る必然があったからです。
それも完全真理を深く理解するにも実践不足だったのと、実在する霊魂・霊界のことを理解しないままに完全真理に来たものと思われます。

その点から言えば私は「知りたがる」「やりたがる」ことからして、最先端医科学や東洋医学や健康関連のことを知ることになり、それが奇跡・超能力などの見えない世界から霊魂・霊界までと広く浅く理解していましたので、そのすべてがひとつにつながる完全真理だっただけにスムーズに入っていきました。

それを今思えば、知りたがる、やりたがるで時おり欲することもあるが、それも「成り行き任せ」だったことが幸いしたようですし、「否定反発」するよりもそれを知りたがるほうでしたが、そんな私になったのも遊び好きで無学無教養の落ちこぼれであった事が幸いしたようです。

更に突き詰めると「広く浅く」が私にはお似合いだったのです。
すなわち熱中集中するが「過ぎない」、それ以上が無理になら諦めも早い、執着しない、だから損得を考えないで乗り継ぎ乗換えが早い、その繰り返しがありました。

なのになんで未だに完全真理に止まっているのか? それは実践しているとその答えが(気付きが)出てくるだけに飽きないのです。
しかも完全真理以上のものが無いのか(私に)仕組まれないのです。
だから何かあれば教えてください。

つい先日耕栄さんやファバラから離れた人から預かった「伊勢白山道」なる霊界・霊魂・先祖供養の「Q&A]出版本を見ていますが、何でここまで(信じるか否かの霊魂の世界のことを)事細かく・数多く事例を書く必要があったのか?(広く浅くの)私には違和感があります。

と言うことは伊勢白山道なる者は霊界に長けた霊能者で専門分野になります。
だから得意とする先祖供養を介して宇宙・神・愛・意識・命・心の真実を説こうとしているようです。
そして宗教化している形や奇跡を成して見せることや霊能者が人集め金集めで精神世界を食い物にしていることに注意を促すだけに、人前で自分の霊力を見せびらかすことはしていないようです。

その代わりに人様を引き付けその関心を持たすため?見栄えをよくするため?事例・事実を多く書いて判りやすく説いている形になりますが、それだけに精神世界に似合わないほどの相当数の人が関心を寄せているのも事実です。

しかし答えが出る先祖供養であっても宗教的な「信じるか否か」で出た結果ですし、何よりも不完全意識のままの先祖霊と言う形が関与する他力的結果であり、それを善悪・優劣・損得で書かれていることにも違和感があります。

また他力の弊害を自らが詳しく書いている中の、その事例の中で登場する様々な不完全意識の霊の成す他力効果効用が事実として書かれていますし、しかもそれに反すると不幸な結果を招くと言う風な感じがあったりして、またそれらを「信じるか否か」の宗教的にもなっています。

しかもその書いていることがまっとう(的確)なだけに、読者が未熟・初心者だと不安や恐れを抱くことになるのでは? その恐れ不安(逆効果)を抱かないように親切に説明されているが、その質量があまりにも多くありすぎる?  また今は知らなくてもいいものを知ったがためにそれを自らに当てはめて思い考え思考錯誤・疑心暗鬼・猜疑心からして、過去の事や身内の事で気になったり、もしかしたら?ひょっとして?やっぱり!?等と思えたり、また気掛かりな事からして自らを小悪な魔物に思えたりするかもしれません。

その霊魂・霊界を知ったがために精神異常になった人がいるのも事実にありますし、その注意を促すための事例・事実も書かれています。
そんなことからして精神世界・霊魂の世界を知らなければ良かったのにと後悔する時が来るかもしれませんし、逃げたくもなり忘れたくもなることでしょうが、それでも知ったからには(知ったかぶりで)人様に話すことにもなります。
それが裏表のあるこの世です。

だから「触らぬ神にたたりなし」が言われるわけです。
すなわち知る必要もあるが知り過ぎることの弊害・裏表があるのです。
注意信号が安全信号や危険信号にも思えるのが矛盾意識の人間です
だから広く浅くが適当なわけです。
しかも完全真理なら大丈夫なのです。

また欲の無い必然ご縁の成り行き任せの自力で生きていることを味わい、欲く絡みの他力依存が無ければ(不完全意識であっても)(先祖供養に関係なく)安心安全の心持で暮らせるのです。

宇宙・神・愛がどうであれ、また霊魂・霊界がどうであれ、先祖供養がどうであれ、今の現状がどうであれ、災いが起こる原因に必ず「欲」がありますから、その欲が原因の自己責任ですから、他の責任に擦り付けることなく、また自らが背負うことなく、その現われ出た結果を十分に味わえばそれで帳消しにもなるだろうし、味わうことで新たに気付くこともにもなり、それを今後に活かせることにもなります。
またそれら災いが起こる事に不安心配で怖いならば、やはり「欲」を捨てるしかありません。

なのにその欲を手放さないで病気を怖がり死を怖がりあの世を怖がるのですか?となるわけです。
この世もあの世も「すべて」があなたの意識次第で決まっているのです。

だから人間の肉体が終わり死して、その霊界とやらのあの世が地獄と思えるか、または天国に思えるかの、その色分け選択がもしもあれば、それも欲張らずに己に似合った色を選んで進めば私は大丈夫だと確信しています。
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