孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

この3月(見事に)仕組まれたことを紹介します。

2015年03月31日 | Weblog
過去に米屋をしていたことからして父親譲りの大口の納入先が一箇所だけ残っていて年に4回業者の順繰りで納入していました。

その納入月の月末の注文ファックス(妻が居座る所に設置しているファックス)がインクリボン切れになっていることに妻が気付かなかったことからして納入できずに迷惑を掛けました。

しかしそれ以前の納入時に次の注文が届いているのが通常なのに(インク切れで)届いていなかったから、そこで担当者に「次の注文は?」と尋ねたのですが、その返事を聞く寸前に退社中の炊事婦さんが来て長話になったことからしてあきらめそのままに私も黙って帰りました。
然るに妻がインク切れに気付かなかった仕組まれと、炊事婦さんに返事を聞く邪魔をされた仕組みが重なったのです。

その邪魔をされた仕組みを掘り下げると、担当者がその場で炊事婦を必要としていて私を必要としていなかったから、然るに私に返事を言わないままに炊事婦さんと長話になったことですから、然るに担当者が(意識的に)私を必要に思っていなかった証でもあります。

ちなみにその担当者は私のいる過疎地にたびたび来ていたし、また霊能者とも完全真理の講演会にも一緒でしたから、その精神世界に深いご縁があったわけなのに、それが次第にその会話も減り、やがて精神世界が禁句のようになったことからして言えば「私を必然」としなくなったわけです。

それを更に掘り下げると、その納入で年間約10万円の収益があったのですが、その10万円が妻の居座る地所の固定資産税に充当されていたことであり、それが娘夫婦が独立型二世帯住居を新築して妻と同居することになりその固定資産税を私が支払いせずに済むようになり、然るに私には余分な(あまり必要としない)10万円となっていたのですが、その余分な儲けを(必要とする)他の米屋さんに移ることになりました。
然るに儲けを必要としている者と必要としなくなった者のその成り行きが(別件で)仕組まれたことにもなるのです。

しかも更に仕組まれたことにあるのが、妻から私の車両保険に関する電話があったときに、その納入先からの郵便物が届いていることを言うので、念のためにその封筒を開けて中味を確かめてもらうように促したら(これまで固定資産税の充当にしていたのに=私を必要と思わない妻は)なんで私がとあっさり断われました。

ところがその封筒の中に契約期限切れによる更新手続きの書類が入っていて、然るにその提出期限が2月20日までとなっていて(私は3月初旬か中旬までと思っていたから)、然るに私が妻の居る所に帰って封筒を開けたときは3月1日でしたから、その更新手続きも出来ないままに納入業者失格になっていました。

然るにそれだけ私の役割・仕事・道中の往来が減ってその苦労・気遣い・気疲れから開放されたことにもなります。

然るに納入収益が無くなったことよりも(私としたら)此れまで精神世界にご縁があった担当者とのご縁が完全に切れたも同然になったことが(相手を思いやれば)悔やまれます。

ところでその道中をいつもなら軽四バンだったのですがエンジン不調続きからして軽四トラックに乗り換えたところでして、然るにお米の納入に雨ざらしになるトラックでは問題があると思案していたのが納入失格でその心配が難なく解決しました。

然るにその軽四トラックの買い替えにも牛舎オーナー絡みの見事な仕組みがあったのですが、ここらで終わります。

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己の精神世界を育み成長させるのに「初心に返る」ことも重要です。

2015年03月31日 | Weblog
スピリチュアル&精神世界&哲学思想に興味関心を持てば、それを育む元となる肥料&予備知識を様々なブログで学び知ることが出来る便利な世の中になっていますが、しかし良いこともあれば悪いこともある矛盾の世の中だけに、その精神世界の肥やしとなる予備知識ばかり溜め込むと根腐れして元も子もなくなります。

然るに先付けで役立っているようでもあるが、それが思い込み先入観(私は知っている=私は正しい)となってそれが成長の弊害にもなっているのです。

ちなみにこのブログに来られる方が初心者であれば素直に読んで知りたがりますが、ところが根腐れするほど予備知識を溜め込んだ人ならば、常に見慣れた活字・上っ面を見るばかりでその心底を読まずにして早足で素通りする傾向にあります。

然るにいつまで経っても本物の精神世界に巡り合えない訳です。

だから「初心に返る」ことが必要になります。
ちなみに初心に返るとは(幼子のような)「うぶな心」になることです。

ちなみに過去の私の場合は先付けの予備知識が無いままに(うぶなままに)直に霊能者とのご縁が仕組まれたことからして新鮮な精神世界に触れたことになり素直で且つ冷静に学び知り見極めようとしました。

然るに巷では悪霊と言われるものを(霊的障害を受けることを)(私も一度経験しました)怖がり恐れて「ここから去れ」が如くに神事で「お祓い」排除することが当然の事に言われていたのに、その霊能者はその悪霊を何ら恐れる事無く愛の心で受けとめて真摯に語り合い、そして邪悪な魂となったその方向性の間違いに気付かせて修正するお役を目立つ事無く自費でもって全国を巡っていたのですから、私としては「此れしかない」とまで思えたわけです。

その霊能者の次に娘が縁で完全真理にご縁があったわけですが、そのときは既に「否定反発&排除」しない愛を学び知っていましたから、その完全真理も(録音テープを寝床で聞きながら)概ね似たような内容に思えていましたが、しかし「良い悪い」で判断しなければ・・・云々を聞いたときに目から鱗が落ちた如くに目覚めました。

然るに初心に戻り100本程度の講演会録音テープを二度三度聞きなおしました。
そうすると聴いていたはずなのに聞き漏らしていたことが山ほど出てきました。
然るにそれが元となり現在の私があるのです。

だから精神世界を成長していくのに先付けの知識が邪魔をしていることは事実にあります。
然るに初心に返る、何もかも捨てる、裸になる、然るに無欲になることも必要なのです。

また確かな裏付け(納得確信悟り)が無いままに(私は知っている=私は正しい)自惚れ慢心することがないように常に謙虚でなければ己が土壺にはまったり墓穴を掘ることにもなるのです。

ちなみに異論反論があればそれを書き込むことが出来るブログならではの長所利点がありますから、然るに皆さんのご意見を求めています。
ちなみに初期の頃のコメントに「黙れ、死ね」がありましたが、そのままに残してあります。
また過去の投稿を手直ししたり新たに書き込んだりはしていません、そのままです。

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人間は「生まれ死ぬ」宇宙&神&愛の仕組みの中で生きていますから、この世に偶然はありません。

2015年03月30日 | Weblog
私たち人間は「生まれ死ぬ」(完全なる宇宙&神&愛の)仕組みの中で生きています。
然るにこの世に偶然はありません。

また「成るようになる」&「成らないものは成らない」その仕組みの中で人間は生きています。
だから「成せば成る」ことは、そんなに粋がらなくても、やれば出来ることだったのです。

また摩訶不思議な結果が出る製品や超能力などの結果が出るのも、それは「成ることが成った」ことであり、また結果がなければ「成らないことは成らなかった」ことですから、その矛盾からして「特別」に思うことではなかったのです。

然るにその結果が出るのも結果が出ないのもその人の意識が原因で仕組まれた結果なのです。

またそこで他力を使うことで結果が出ても、その結果は他力ですから、己が成したことではありません。
すなわち「かりそめの結果」であって本物にはなりません。
だから何度も他力を使うそのリピート客になります。

然るに自分で成せるその自力を高めることが人間本来の役割個性になるのです

また「どうしようもない」ことは「どうすること」も出来ません。
然るに不完全意識の矛盾がある「どうしようもない」この世人間関係だけは「どうすること」もできません。
然るに家族と言えども「ほっとく」しかありません。

然るにその矛盾する不完全意識からして何を成せどもその結果も不完全で矛盾しますから、然るに良いこともあるが悪いこともあるので、その自己満足と不平不満の苦楽の矛盾を味わって心を乱し土壺にはまり墓穴を掘ることにもなります。

ちなみに「死にたくても死ねない」また反対に「死にたくないのに死ぬ」のも仕組まれたことです。
然るに自殺を図って死ぬ人と助かる人がいるわけです。
また大事故や大災害で奇跡的に助かる人もいれば、本来なら死ぬはずではなかった人が思いもよらないその仕組みによって死に目に遭う人もいるわけです。

然るに「死ぬ時」がきたらその死ぬ仕組みが起きます。
そこで先ほどの人為的な超能力などをもってしても、また人工的な延命処置や臓器移植などを施しても遅かれ早かれ死ぬ時がきますから、完全なる宇宙&神&愛からしてみれば余計なことを無理して無駄にしたことになります。

然るに「死にたくない」その思いからして(自然の摂理&仕組みに逆らって)(他力依存の)人為的人工的な施しでもって長生きしてもそのしっぺ返しが仕組まれて心安らかに生きることも死ぬこともままならないことになるでしょう。
また自殺者同様に人間失格となれば来世で再び人間として生まれることが出来ないとも言われています。

ところで「親孝行したいが親はなし」も仕組まれたことです。
また自分のことで精一杯なのにその上に親の面倒まで見ることになるのも仕組まれたことです。

そして自分のことなら自分が一番の理解者ですから、その自分が出来ることは無理なくやることができます。
そして人様を巻き込まなければ自分のことだけに専念していても大丈夫です。
しかし人様を巻き込めばその自己責任を課せられ負わされます。

となみに「己の思いが叶う」のも己の意識が原因で仕組まれたその結果が出たわけですが、しかしそれは自己満足に終わりますし、その結果が出なければ不平不満になりますから、然るに矛盾があって不完全な形になります。

ところが「思わぬ」仕組みが起きてその結果が出ることは「後付け」の結果ですから、それが良かれ悪しかれその現れ出た「事実」だけが残ります。
然るにその事実を良い悪いと思うのも己の意識が原因です。
また仕組まれた事とも気付かずにいるのも己の意識が原因です。

それが私の場合だと(成り行き任せで何事もしていないのに思わぬ結果となったわけですから)その「成るようになった」その後付けの結果を素直に味わうだけになります。
然るにそれが(不平でも満足でもなく)私の(必然となる)思わぬ(不思議な出来事を味わう)実体験となるわけです。
だから(成り行きを受け止め素直に行動を果たすから)尚更に仕組まれごとが続くことにもなるのです。

然るに思い思惑理想目的や希望願望も待たないまま(己の思いに執着しないままの)「成り行き任せ」からして尚更に数多くの実体験を積み重ねてこれたと思っています。
然るに「自然体」が精神世界で説かれているのだと確信納得しています。

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新聞テレビで報道されていることは(偶然ではなく)すべて「仕組まれた」結果です。

2015年03月29日 | Weblog
新聞テレビで報道されていることは(偶然ではなく)すべて「仕組まれた」結果です。
ちなみに大事故や自然災害で死ぬのも生き残るのも仕組まれた結果です。

そこでNHKラジオ「東日本大震災」特集で聴いたことですが、帰郷していた息子が体調不良だったので、お父さんが気遣い「一日帰郷を伸ばしたら」と言ったことからして大震災に見舞われ家屋の下敷きになって死んだのです。
そうなると生き残ったお父さんは気遣ったことが裏目に出たその後悔と無念さ虚しさ苦悩に満ちた日々になりました。

その事例が私に起きたと仮定したら、確立が低い大震災に見舞われ、しかも息子がその犠牲になったことは(偶然ではなくして)「仕組まれた」たことですから、もしかして息子が犠牲&身代わりになることで私を守ったことかもしれないし、あるいは大震災で息子が死ぬ運命になっていたのかもしれないし、また息子を死なせて私が生き残ったことに何らかの意味があるとして、
そこで悔しがり嘆き悲しむよりも(執着するよりも)大震災を転機にして(多くを失った)私の生き様人生の方向転換&価値観の転換&意識転換するときが「仕組まれた」として受けとめることができます。

また酔っ払い運転の車が家族を乗せた車に追突して橋の欄干を突き破って転落し家族が死んだとしても(動揺することも執着することも無く)「仕組まれた」事として受けとめることができます。

すなわち「私に必然にして」仕組まれたことですから、
然るに相手が死んだ家族や加害者では無くして「私」自身に付き付けられた精神世界のことだから、然るに加害者を責めることにもなりません。

となると家族には薄情で加害者には温情に思う人もいると思いますが、薄情でも温情でもありません。
私自身が精神的に「土壺にはまって」もがき苦しみ中々抜け出せないでいたり、また自らが墓穴を掘って死んだも同然の生き方にならないためなのです。
だから艱難辛苦&試練を与えられたとか思いもしません。

然るに「成るように(仕組まれて)成った」ことであり、また「成らなかったことは(仕組まれて)成らなかった」だけのことです。
そんな意識になれば物事に拘ったり執着することも無くなるのです。

ところで私は家族であれ仕事であれ地域ごとであれ子供が通う学校のことであれ、私を必要とされればそれに応え続けますが、いつしか必要とされなくなれば事を荒立てる事無く静かに其処から離れてきました。
それが仕事であっても成り行き任せですから、然るに売り込み営業活動も殆どしていません。
然るに私方を必要とする先方から要請が来ればそれに応え続けてきましたが、取引先の人事異動などでトップが替わり、そこで邪険にされはじめると次第にやる気がなくなり、いつの間にやら(未練なく)撤退することになります。

しかし「捨てる神あれば拾う神あり」で何とか営業を続けて来れましたし、また「来る者は拒まず、去る者は追わず」の成り行き任せでも十分に生活が成り立ってきたのは事実なのです。
そして今の過疎地暮らしがあるのです。

その成り行き任せながらも単身過疎地暮らしが(仕組まれ)出来るようになったのも(母親や兄嫁や親戚などの人間関係から妻を守るために)結婚以来ほとんど妻の言いなりに従っていたのをやめて無視したら、その腹いせからして邪険にされ私が別部屋で寝る別居状態になっていただけに、その過疎地暮らしを強く反対する名分名目が無くなっていたから(妻自らが墓穴を掘っていたから)然るに私の思いが実現する結果につながったわけです。

とにかく仕事であれ家族であれ「必要」とされなくなったからには其処から離れたほうが(精神的ストレス&土壺にはまったり墓穴を掘らずにして)己の心身の為にもなるのです。
そして他力依存だった妻や家族の自力自信&自立心が高まることにもなるのです。

ちなみに夫や妻や子供を甘やかしていると他力依存になりやすいのです。
その反対に厳しくすれば否定反発されたり、その反発心からしてヘンテコな方向に進んだりもするのです。
だから当たり前の普通に接して後はほっとけばいいのです。

然るに(子供はほったらかしていたのに)私が妻を甘やかしてばかりでほっとけなかったその責任原因からして現在の夫婦関係になったとも言えるのです。

何はともあれこの世の仕組みからして必要としなくなった無用のものを自らが捨てれば、他の必要とするものが仕組まれて与えられるのです。
然るに欲張らずにしていても必要となれば与えられるときも来るのです。

然るに生きてさえおれば「成るようになる」し「成らないものはならない」だけのことです。
だから無理し頑張り欲張り見栄張りしないで呑気にして楽に生きていけばその方が己の為にも人のためにも世のためにもなるのです。

地球人類が五次元以上になる「宇宙の夜明け」「地球維新」が仕組まれ選ばれる人は

2015年03月28日 | Weblog
私とご縁があった愛の霊能者や完全真理の耕栄さんも言っていた事ですが、そう遠くは無い年代に現在の三次元界が終わり五次元以上になる「宇宙の夜明け」「地球維新」が仕組まれると説いていました。

然るに耕栄さんはマヤの暦「2012」説でしたが不発に終わりました。

また霊能者は次元上昇に仕組まれ選ばれる者は(精神世界を知らずにしても)この世の片隅で貧しいながらも生きている人やフリーター・ニート・ホームレスなどが多いだろうと言っていました。

それを私なりに言えば、俗に言う「落ちこぼれ」、すなわち不完全で矛盾のあるこの世人間界に馴染めずに社会の下積みに追いやられた人、然るに比較競争についていけなかった人、すなわち心が穏やかで優しい性格の人、貧祖ながらも素直真面目に生きている人、素朴な環境の中でそれが当たり前の如くに生きている人、

然るに欲張らない人、然るに自己満足も不平不満も少ない人、然るに不安心配恐れ怒り憎しみを持たない人、然るに世間で目立たない人、急ぎ慌てない人、快適便利を追及しない人、然るに他力に依存しない人、見栄や世間体を気にしない人、名誉名声・肩書き・権威権力を求めない人、

然るに心穏やかに「楽ラク」にして(無理も無駄も余計なこともしないで)普通に生きている人となります。

ちなみに不完全で矛盾のある信仰宗教や超能力・霊力・念力、手かざし・ヒーリング・チャネリング・セラピー・カウンセラー等を必要としない人、
然るに自力を多く使う人、生きていくことに創意工夫できる人、今に納得して生きている人、然るに不平不満が少なく自己満足や自惚れ慢心にならない人、

然るに未練後悔や執着を持たない人、

また思い思惑・理想目的や願望・祈願を持たないままに生きる人、

また不信感とその裏の私は正しいからして否定反発し排除し守り戦うことになるその守り意識を持たない人、

然るに完全真理を理解し納得し、未熟ながらも自己縮小の実践意識でいる人なら十分だと思っています。

超能力・霊力・念力、ヒーリング・チャネリング・セラピーなる者は不完全で精神世界もまだまだ未熟です。

2015年03月27日 | Weblog
超能力・霊力・念力、手かざし・ヒーリング・チャネリング・セラピー等は不完全ながらも、この世人間関係に必然からして生まれ出た形になります。

然るにそれら諸々の形に必然のご縁からして巡り合った人に己の成せる術・技を施し与えることからして、そのご縁があった人が精神世界の入り口に立ったが如くになるからです。

然るに精神世界の初心者向けなのです。

然るにそれら諸々の形を施し成せることに自惚れ慢心・自己満足する事無く(其処で止まらずにして)更に精神世界を深く学び知ることが先にあるべきなのです。

そして己とご縁があって施し成した人と仲間となって精神世界を共に歩んで行けるようになればいいのです。

しかし仲間と言えども寝食を共にしたり連れ歩き回ることでもなく、また一同に集まることでもなく、この世でのそれぞれの役目役割&働きを無理なく果たしながら、時として必然ならばその仲間同士の触れ合う時間があればいいのです。

とにかく己が施し成せる術・技を売り物にしたり、そのリピート客を作ることになったり、また世間で目立つ存在になることになれば、然るに己が精神世界の邪道を行くことになるのです。

ちなみに私の場合は摩訶不思議な効果のある製品のネットワークビジネスから始まっただけにその仲間意識が強く共に歩く形になりました。
そして摩訶不思議な製品だけにその摩訶不思議の世界の諸々も(全国的規模の)情報交換の形で共に学び知ることになりました。

然るに私が霊能者とご縁があったのもネットワークビジネスがご縁ですから、その霊能者の説く霊魂の世界にビジネス仲間を引き込むことにもなりました。
しかし殆どの仲間が私に付いてこれずにやがてビジネスだけの仲間関係に戻りました。

そして少人数ながらも霊魂の世界に関心を寄せていた人も私がネットビジネスから撤退して(収益性を捨てて)精神世界に専念することになったらその仲間とも縁が切れました。

それでも摩訶不思議の世界の情報交換仲間数人が残っていましたが、しかし現在ではその縁も途絶えています。
と言うように(結果の後付けからして言えば)物売りビジネスの儲け主義ではなくして摩訶不思議を知りたがる・やりたがるのが私だったのです。

然るにこのブログも全国規模の情報交換の流れが未だに続いているとも言えるのです。

何はともあれ精神世界は自己満足や自惚れ慢心の無い純粋さがなければ邪道にそれる事を学び知り気付いたのが現在なのです。

そして純粋でなければ結果的に己の墓穴を掘ることになると気付いたのです。

それも前もっての先付けで学び知ったことではなくして、知りたがる・やりたがる私の見聞知識や経験や実感納得でもっての「後付け」で気付いたことなのです。
然るに私の中では「本物」になっているのです。

超能力・霊力・念力、手かざし・ヒーリング・チャネリング・セラピー等は人心を惑わす邪道です。

2015年03月26日 | Weblog
ノアの箱舟のノアが神のお告げ通りにして大洪水から助かるも、その神を信じなかった人たちはすべて溺れ死にました。
然るに神を信じるものは助かるが信じなければ助からないとする、その飴と鞭の使い分けですから、然るにその神には矛盾があり不完全ですから、然るに不確かな嘘偽りがある偽善の神になります。

モーゼの十戒の中に「殺してはならない」とあるのに、そのモーゼの海割れ現象でもって追手の軍隊が溺死しました。
またモーゼの言う通り玄関に豚の血でおまじないをした人は助かったが、おまじないをしなかった者は疫病で死にました。
然るに飴と鞭の使い分けの矛盾&偽善になります。

イエスは(悪と思える)サタンと戦って殺しました。
然るにそれが「勝てば官軍負ければ賊軍」が如きの裏表の矛盾のある正義&正義感になりました。
そしてイエスが悪と思える者を否定反発&排除したわけですから、然るに完全なる=愛=宇宙&神&愛を知らなかったことになります。

また(世間に目立ち注目されたいが為に)神と対話した、霊魂・先祖霊と対話した、霊視した、等と言われる人がいますが、対話したのが事実なのか、嘘も方便では、また相手が事実にして本物なのか大いに疑問があることからして「信じるか否か」になるし、また対話する双方の思惑期待念願や先入観や潜在意識などが絡み合い入り混じることからしても絶対的に不確かなことです。

ちなみに私とご縁があった霊能者は(世間に目立つ事無く謙虚にして)動物霊となった魂や本来のお役を果たさずに邪な魂となった霊魂を(恐れる事無く)(イエスが如くに)否定反発「排除」することもなく、その愛意識でもって邪な霊魂の意識を修正するお役を果たしていましたが、人が大勢集まるようになってから摩訶不思議な効果がある物売り事業を始めました。

然るに完全真理の山田耕栄さんは「結果じゃないよ、心意識だよ」と説きながらも摩訶不思議な結果が出るファバラ製品を売ることに熱心ですから矛盾しますし、素朴に生きる自己縮小の実践にも矛盾しています。

となると神懸り奇跡の超能力・霊力・念力(手かざし・ヒーリング・チャネリング・セラピーを含め)などは客寄せパンダの如くにして人集め金集めしたり物売りのために見せびらかしたり、また己が目立ちたがるために使われる形&道具となっているのです。
然るにシャーマン(呪術者・巫・巫女・祈祷師)も同類になります。

何はともあれ、矛盾のある不完全意識の者が施し成すその超能力・霊力・念力・手かざし・ヒーリング・チャネリング・セラピー・カウンセラーなどの結果も同じ矛盾のある不完全な結果が出るだけですから、(結果的には)人心を惑わす邪な能力&特別意識を持った輩になるのです。

また人が集まることになれば精神世界の中で名誉名声・肩書きを持ったが如くになり、それが元で更に人が集まりやすくなります。
また人が集まることはそれなりの(大なり小なりの)権威権力=勢力縄張り=を持ったが如くになり、然るにそれが原因からしていつの間にやらヘンテコな方向に進むことにもなるのです。

何はともあれ、結果を出して見せる(結果を期待させる)それら諸々の形は精神世界の邪道になります。
だから「結果じゃないよ、心意識だよ」となるのが本来の精神世界なのです。

然るに私とご縁があった霊能者が言うところの(イエスの事例のように)否定反発&排除の無いのが愛だと説くだけで十分なのです。
また完全な宇宙&神&愛を説く完全真理とその自己縮小の実践だけで十分なのです。
然るにこのブログだけで十分なのです。

超能力・霊力・念力、手かざし・ヒーリング・チャネリング・セラピーなる者はこのブログに無縁なはずです。

2015年03月25日 | Weblog
この世人間関係は良い悪いで判断するその矛盾意識&不完全意識の集まりですから、然るに良いこともあれば悪いこともあります。
然るに超能力・霊力・念力、手かざし・ヒーリング・チャネリング・カウンセラーなる者も良いときがあれば悪いこともあります。

そしてこのブログに来られる人の中に超能力・霊力・念力、手かざし・ヒーリング・チャネリング・セラピー・カウンセラーなる技&術を成せるそのベテランの人が来ているはずはないと思っています。

何故なら自分が成せる業に自惚れ慢心しているから、然るに私が書く精神世界に(仕組まれることなく)無縁なはずです。
そして「私は正しい」として主張したりまた自分に都合が悪いことを否定反発排除したがるところも大いにあります。
だから「守り戦う」その守り意識も強いものがあります。

そして世間に目立ちたがるところがあります。
然るに「結果」を出したがります。
そして人集めや金集めや物売りすることにもなっています。

然るにそれら輩の元に集まる人も同じように目立ちたがりやで結果を捜し求めるタイプですから、然るに両者ともに邪な心意識の持ち主のままの、両者ともに欲絡みの精神世界になっているはずです。

またそれら輩に素朴さ、素直さ・真面目さ・謙虚さ、然るに「愛」はありません。
しかし人並み以上の能力からして偽の優しさ愛を見せ掛けることができるようです。

然るに本物ではないから、時々邪な本性が出てきたりしますから、そこで妄信していなければ客観的にして冷静に見極めることができます。

ちなみに超能力・霊力・念力、手かざし・ヒーリング・チャネリング・セラピー・カウンセラーなる者が己の中の力量・エネルギーを(補充するよりも)使い過ぎて老化が早まったり早死にしたり、またその技術能力の高い者ほど無念の死に方になることがあるようです。
然るに良いことばかりではなくて悪いことも併せ持っているのです。

その己の役割使命のお役柄からして強い力量・エネルギーを生まれながらにして持っている人が(惑わされたり欲にまみれて)その役割を果たせずに無念の死を遂げると(神社仏閣で奉られているような)俗に言う動物霊に成り下がるとも言われています。

それを言い換えれば、この世人間関係の必然ご縁の仕組みからして、その超能力・霊力・念力、手かざし・ヒーリング・チャネリング・カウンセラーなる者に見合うだけの様々な(人心を惑わす)動物霊&過去性パワーが宿っているのかもしれません。

だからそれら諸々の過去性のその不完全なままを受け継いでいるから世間で目立つ存在になっているとも言えます。

ちなみに私には「先付け」の超能力・霊力・念力、手かざし・ヒーリング・チャネリング・カウンセラー・セラピーなる能力はありません。
ただ己が見聞したことや現れ出た諸々の結果が出てから後に気付く、その「後付け」からしての実感納得確信したことを文書にしているだけです。

そして完全真理にご縁があったことからして、然るに矛盾も無く、飴と鞭の使い分けも無く、嘘も方便を使う必要も無く、時たま信じるか否かの不確かなことを書くときがありますが、しかしその裏打ちがある信じるに足りる確かな事を書いています。

然るに見せる結果と言えば柵シガラミから離れた素朴な過疎地での単身暮らし&孤独と自由&国民年金頼りの品疎な暮らしぶりしかありません。

しかも無縁死&孤独死を望むような世間離れしたところがありますから、然るに世間の常識・伝統風習や道徳や教養儀礼に劣る非常識なところも併せ持っています。

然るに(私には必要ないから)人を集めることも金を集めることも物を売ることもありません。

また趣味嗜好娯楽は必要なく、ただ暇と退屈からして(独り相撲の勝ち負けがある)1円パチンコに興じるだけです。

と言うような世間的魅力に欠けたこのブログに来られた人はその必然ご縁からして「仕組まれ」たことなのです。
そして深く理解するほどに仕組まれた事と「後付け」で気付くことになると思います。

不完全で矛盾のこの世人間関係を捨てることで、形の無い愛の心&意識命の世界で生きることが出来ます。

2015年03月24日 | Weblog
王家生まれの釈迦がその王子の立場を捨てて精神世界で生きることを選んだように、精神世界を知れば生きていく為以外の不要なものを捨てることになるのです。

ところがその釈迦も己の中にある欲だけは(修行を積み重ねても)消すことが出来なかったのです。

またイエスが私は正しいの自惚れ慢心からして否定反発排除したがるその正義感を持っていたことからして、(イエスから見て悪と思える)サタンと戦って滅ぼしたように、「守るために戦う」ことになるその矛盾意識を持っています。

然るに守りたがるのも欲なのです。

然るに人間として生まれたからには誰もが皆「どうしようもない」不完全意識&矛盾意識を持っているのです。

だから「どうしようもない」ことは「ほっといて」そこで自らが欲張らないその自己縮小をしながらにして「楽ラク」に生きていくことしか他に道は無いのです。

そして「捨てる神あれば拾う神あり」「捨てるから与えられる」言葉があるように、不要なものを捨てるから必然なものを(仕組まれて)与えられるのです。

然るに恋愛関係や夫婦家族関係などの人間関係&柵シガラミを捨てると自由になれるのです。

また世間の常識・伝統風習・道徳、見栄世間体・名誉名声・権威権力、金銭物質経済などを捨てるから、
然るに何も無い(形の無い)愛の心=意識・命の世界=精神世界で生きていけるのです。

然るに納得した生き方になるのです。

然るに形があって見える世界で生きることを捨てて、そこで形の無い見えない世界=精神世界=を意識して生きることにすればいいのですが、しかしそれが中途半端だと(二兎追うものは一兎も得ずにして)納得できないから不満にもなるのです。

しかも身近な人や友人知人や趣味嗜好娯楽仲間や仕事仲間やの大勢の人に囲まれた中にいるのに(精神世界で生きていないから=納得できていないから)その虚しさ孤独感を味わうことにもなるのです。

然るに、それでも不完全で矛盾のあるこの世人間界の中で生きることを守り続けるのですか、それとも何の形も無い愛の心・意識・命の世界で生きることを実践していくのですか、となるのです。

ところがそれでも中途半端になるのであれば、然るに精神世界なんか「どうでもいい」ことであって、時たまに思うだけ言うだけにして終わっているはずです。
そして自分に都合がいい精神世界を探し渡り歩くことにもなるのです。

然るに「どうしようもない」ままに人間を終えることになります。

特別な愛情で生きるのか、普通の愛で生きるのか、然るに「愛で生きる」とは

2015年03月22日 | Weblog
このブログに来られた人に精神世界に対する見聞知識や不信感や先入観のない「初心者」であれば、
このブログが精神世界&完全真理の教科書同然になりますから、然るに完全真理だけに信じるか否かも無く、また矛盾が無いから否定反発することもなく、また飴と鞭の使い分けや嘘も方便も無く、然るに真面目素直に読むことができれば何の違和感も無く納得確信に至るはずです。

そしてこの世人間関係が不完全でその矛盾に満ちている事からして、
誰が何を成しても同じ不完全でその苦楽&不平不満と自己満足&喜怒哀楽で生きることになることを自覚納得することになります。

だから何を成しても結果的には無駄になることを自覚納得していますから、
当然ながら何事にも無理し頑張り欲張り見栄張りしませんから、その分だけ生活が「楽ラク」になります。
然るにこの世人間関係で苦楽を味わう事無く、然るに何ら特別の無い普通の素朴な生き方にして「楽ラク」になります。

ところが己が独り身であれば問題がなくても夫婦家族であればそう簡単には事が運びません。
ちなみに私が(妻に対して)此れからは趣味嗜好娯楽の自己満足で楽しく生きることよりも自然界の中で素朴を味わい楽しみ、そして呑気気楽にして「楽ラク」に生きることにしたから、できればお前も自然が豊かな過疎地で一緒に暮らさないかと誘ったら、その妻は便利な街中の暮らしが好きだし友達も多いから絶対に田舎へは行きたくないと拒まれました。

然るに大方の人は(私の妻の事例のように)「楽ラク」に生きることよりも、少しでも「楽しく」生きることを選んでいるはずです。

と言うことは喜怒哀楽の矛盾で生きていることに「納得」しているのです。

だから納得できななければ否定反発することが「当たり前」であって、然るにその愚痴小言・不平不満から始まる不安心配・恐れ怒り・憎悪・嫉妬などは、別物・別格の「特別」なことに思えているはずです。

ところがその楽しく生きる自己満足の中に愛情があっても「愛」はありません。
然るにその特別な愛情が原因からして不平不満になるとそれが憎悪に変わります。

それなのに大方の人が(矛盾のある特別な)愛情で生きることに納得していますから、然るに如何なる精神世界をもってしても、この世人間関係の矛盾は「どうすること」も出来ないわけです。

ところが自然体&当たり前&普通の<愛>には否定反発・排除がありませんから不平不満にはなりません。
然るに自己満足にもなりません。
然るに特別な「苦楽」はありません。
然るに普通の「愛で生きる」ことになります。

ところがその「愛」を知ったはずなのに、
なんでか特別な愛情&苦楽でもって生きることになれば、
然るに宇宙&神&愛の仕組みから生まれた(神の子である)人間が持つ、その己の内なる神(内在神)「神=愛」を裏切って生きていることになりますから、
然るに生きてはいるが死んだも同然の愛の無い(特別な)生き方になっています。

だから(特別だけに)(私の過去と同じように=己が気付かなくても)皆さんは心身ともに「疲れている」はずです。
然るに自己縮小して欲張らずに「楽ラク」に生きることを実勢に味わってから気付けるのです。

然るにこのブログを真面目素直にして深く読めばそれらが無理なく理解納得できるはずです。