孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

普通が愛で、特別が愛情、その特別を守り戦うことからして「苦」を持つ事になる

2009年12月25日 | Weblog
良い悪いを持たない完全真理を理解するのに特別な学歴学力は必要ありませんから、素直に理解できる人なら年少者でも理解できます。
だだ理解しただけでは「絵に書いた餅」ですから、理解したことを実践しなければなりません。

ところが理解できなければ実践することは出来ませんから・・・先ず理解することからはじまります。
その基本が「良い悪い」で差を付けないことですが・・・その「差」を付ければ特別になります。 それを特別意識といいます。

そして「特別意識」を持てば・・・特別なだけに(大事なだけに)、それを守り戦うことになるからして、それが「苦」になります。
その反対に「守り戦う」ものが無ければ・・・「苦」はありません。

また・・・自分に出来ないことは普通ではありませんから、それは特別になり「苦」になります。
だから・・・自分の出来ることだけをしていれば「苦」にはなりません。

だから・・・学者先生であっても、それが自分に出来ることをしているだけなら「苦」は無い筈です。
それがもしも「苦」になっていれば・・・それは自分に過ぎた特別なことをしているからです。

恋愛や夫婦や家庭や子育てに「苦」があれば・・・それは特別なことを望み求めているからです。
その代表が・・・与えて奪う・損をして得を取る・見返りを期待する愛情に見られます。
だから愛情には・・・「捕らぬタヌキの皮算用」の(特別な)理想・目的や・・・(特別な)見返りを期待する裏心が隠れていたり、愛情を示すことで相手を束縛制限支配したがる特別意識を隠して持っています。

「けなげに尽くす」・・・「尽くしきる」見返りの無い、愛の犠牲には特別はありません。
しかし・・・(見返り期待が無くても)私は尽くしていると思っていれば・・・そう思う「私」という自己中心にした個人意識があり・・・そのことに自己満足していれば・・・尽くした行為の裏・心に「自分のため」が隠れているから偽善になります。

その「特別」が無ければ<愛>になります。
だから「普通」が愛なのです。
その・・・愛と愛情の違いに気付くことができるのが「完全真理」です。

だから学者先生で有っても・・・自分に出来ることを普通にやっていれば「愛」の行為表現になります。
だから学者先生で無くても・・・自分の出来ることを普通にやっていれば「愛」の行為表現になります。
すなわち・・・愛には差は無いのです。

その愛の行為表現に差が無ければ・・・良い悪い(善悪・優劣・損得)の差は無く・・・すべてがお陰様やお互い様になります。
すなわち・・・善人悪人や優劣・損得関係が原因の切り捨て・裏切り関係や被害者加害者関係もありません。
あるのは・・・原因から出たその結果の「あるがまま」の事実だけであり、原因と結果は離れていませんから、成る様に成るだけです。

だから・・・原因意識が普通であれば、その結果も普通ですから、すべてが「愛」になります。
すなわち・・・上下左右に分け隔てた距離・特別な差の無い・・・普通・調和が「愛」になります。

すなわち・・・良い悪いで判断しなければ・・・すべてが「愛」になります。
そして・・・良い悪いで判断する不完全意識を実感で味わい知り、それを悔い改めた後に「完全」な愛の意識・命を持った生命体・人間となり・・・
(完全の「ひとつ」しか知らない宇宙の中で)完全と不完全を学び知った意識・命が始めて誕生することになり・・・宇宙規模の宇宙維新が始まり進化拡大していく事になり・・・やっと人間(意識・命)の役割使命が果たせる事になります。

私達は特別が好きな偶像に従う奴隷であり、しかもそれらを守るために戦う剣闘士・戦士でもあります。

2009年12月22日 | Weblog
宇宙が地球を産み育てても、その地球は宇宙の一員(ひとつ)ですから・・・
それと同じく、人間が赤ちゃんを産み育てても、その赤ちゃんも人間ですから・・・それと同じく、神が人間を生み出せば、その人間も神になります。

その神である人間が特別なことを成して神になろうとしていた矛盾がこの世です。
だから特別なことで・・・人の上に人を作り・神の上に神を作ろうとしていたのです。

しかもそれら特別に思う「偶像」を守り戦うために、それらの意識の中には完璧な囲い(牢獄)があります。
すなわち・・・特別に思うその囲いの中(牢獄)で暮らし、束縛制限支配され、その指図に従う「奴隷」に下り、
それにまして・・・特別な人や神の偶像を守ることが・・・「私は正しい」と思い込み、信じ、託し、
そのあげくには・・・支配者・正義感・偶像心を守り戦うために人殺しさえも出来る聖人戦士になっているのです。

その特別な肩書き名誉名声・権威権力を持っていない人であっても・・・
人を特別に愛することは・・・個人的な「愛情」であって純粋な愛ではありませんから、その愛情が冷めるときが必ず来ます。
人を特別に思い・・・その人を「尊敬」することは・・・その人を上に思うことになりますから、自分を卑下した事になります。
人を特別に好きになると・・・裏側の嫌いを同時に持つことになり、その矛盾した結果を選ぶ事になります。
・・・それがこの世に蔓延している「裏切り関係」、切捨て、使い捨ての人間関係にみられます。

すなわち・・・特別に思う偶像心に束縛制限支配され、時には人を傷つけ殺すことも正しいと思っているのだから・・・
それなのに・・・この世で自由や平等、すなわち平和を望んでいる矛盾があります。

私達が何気なく使っている言葉に矛盾や洗脳が隠れていることに気付いている人は少ないことでしょう・・・
だから・・・その言葉のままに表現行動しているのですが・・・それが常識や伝統風習・道徳にもなったのです。
しかもそれが・・・正当、当然、当たり前、常識として伝わるのだから・・・
だから・・・新たなことに気付かないばかりか、何かのきっかけ(必然)で知った新たな事に対しても・・・それを納得できるまで知ろうとしないで・・・ただ自分の記憶・体験経験にあること意外は・・・不信感でもって否定反発したがるのです。

そして「先生」と肩書きで呼ばれて自惚れたり、尊敬していますといわれて有頂天になったりするのも・・・
しかも・・・先生を尊敬していますと言う人の意識の中にも・・・特別になりたがる偶像心を持っているのです。
すなわち・・・「同じ穴の狢」「井の中の蛙」同様に・・・強固な囲いの中で比較競争し合って暮らして、それを自慢したり卑下したりして自己満足し合っているのです。
・・・肩書きで呼ばれることや肩書きで呼ぶことをあえて嫌がるのも特別意識になります・・・
・・・また世間・結果のことではなくて・・・原因「意識」を見極めるのが真理です。

だから・・・皆を好きになる、皆を愛する、皆を尊敬しあう、皆を信頼しあう・・・互いに許し合うお互い様、皆のお陰様・・・特別の無い調和・・・皆が幸せな至福・・・ その皆が同じ神の愛で生きる時が来ている・・・それを知り学び実践するのが「完全真理」です。


人間の役割使命として・・・アダムやイブがリンゴを食べる必然があったようです・・・

2009年12月18日 | Weblog
どうやら・・・アダムとイブがリンゴを食べる・・・必然・必要があったようです・・・
それは人間の「役割・使命」として・・・今の不完全意識の人間が改めて「完全」を知るため・・・だったようです。

・・・前書きが長いですが・・・
相当以前から自然学者や環境保護活動している人らから酸性雨による酸性化現象や地球温暖化が言われていたが、やっとのことで地球温暖化対策が始まったばかりですが・・・それでも経済優先で取り組んでいる以上は言い訳程度で終わりますから・・・温暖化の影響がもっと深刻になってから慌てても・・・もう如何しようもない後の祭りになります。

今年の10月頃の完全真理の講演会録音テープで始めて知ったのですが・・・
活用するのは・・・最初から終わりまで使い切る・・・すると成仏することになる。
利用するのは・・・途中まで使って不用になれば捨てるから・・・殺生になる・・・すなわち「良いとこ取り」の切り捨て・使い捨てになる。
まさしく今の人間関係・社会関係を映し出しています。

そこで私の自慢話になりますが・・・
リサイクルで購入した3000円の二層式洗濯機が排水できなくなったときに、排水弁に針金をつなぎ合わせてから手動で引っ張りあげて排水できるようにして、此れまで約9年間使用していますがまだまだ活用できそうです。
同じく9年目になる電気オープントースターも毎日使っていますが、内側はサビで熱効率が悪いのでアルミ箔を敷き詰めて使っています・・・他にもありますが省略します。

15万円で買い取った四輪駆動のハコバンに乗っていますが・・・荷物が無いときは殆ど中古のオートバイで移動していますが、移動中に雨や風があれば・・・車のありがたさが味わえます。 また凍えるようなときにも防寒対策して出来る限りオートバイを使用しているだけに車の中の温かさがありがいことになります。
そのオートバイがパンクして動かなくなると・・・(不満に思うのではなくて)そのオートバイのありがたさを知ります。
そして山間過疎地だけに・・・車両の使えない積雪の時に此れまで3時間以上何度か歩いたことがありますが、それが苦になるどころか新雪の雪道を歩くことを楽しんでいます。
それだけに・・・我が身の健康を喜んでいますし、健康の大切さやありがたさが実感できます。

ここ半年ぐらい肉牛の餌やりのバイトをしていますが・・・一日二回の餌やりで正味3時間ですが、二交代で15日働き5万円以上の収入になりますが・・・体を使うだけの単純作業で、しかも元手いらずで丸儲けになります。
それを(過去)社長と呼ばれていた頃のカッコよい働き方と比べると相当見劣りがするようですが・・・さにあらず、気疲れしない単純作業の良さが理解できましたから、気苦労の多い過去の働き方に二度と戻りたくないのが今の心境なのです。

また過去の贅沢三昧の時よりも今の方が何でも美味しく頂けて、質素でも食べることに喜びや楽しさがあるのです。
すなわち生老病死・喜怒哀楽・趣味思考娯楽を意識していなければ・・・当たり前の「食べる」ことが楽しい事になるのです。
また人様から頂くことの喜び感謝もぜんぜん違ってきました。

今はそんな私ですが・・・過去は感謝の無い贅沢三昧をしていただけに・・・完全真理で言われることが実感で素直に判ることが出来るのです。
すなわち此れまでの生き方を変えて新たな生き方を実践したからこそ、その過去の生き方を実感で振り返ることが出来るのです。

・・・そこで本題になりますが・・・
生まれ育つ苦労をしながら、老いて苦労、病で苦労、そして死ぬ時も苦労の・・・その苦の連続である「生老病死」が何故に人間にあるのかが理解できたのです。
それは・・・人間として生きて苦労していれば・・・それだからこそ・・・その「苦労も無く」生きていられることが・・・「ありがたい」ことになり、喜び感謝になるからです。

すなわち「今を生きている」ことのありがたさを知るために、その反対の苦労するという矛盾になっているのです。
すなわち・・・今まで知らなかったことを「知る」ため・・・だったのです。

だから有事による喜怒哀楽や生老病死を味わっているのです・・・だからその有事にこだわり未練執着していれば更に長く止まることになり・・・(喜び感謝を忘れて)不平不満・不安心配・恐怖や嫉妬や仕返し報復・・・などの苦・苦悩が長く続くことになるのです。

そこでどうやら・・・表を知って尚裏も知る・・・その「裏表」矛盾を知る必要が人間に課せられていたようです。
すなわち(完全真理で言われる)不完全を知ってのち、完全を知る必要があったのです。
・・・先ほど書いたように・・・苦を知って楽を知る・・・必要があったのです。
すなわち元から完全意識・神意識であれば(裏が無いから)不完全を知ることが出来ないからです。

例えば・・・地獄(不完全)を知ったものが天国(完全)を味わえれば、その天国の幸せ・喜び・楽しさが意識に深く残りますが・・・元の始まりから天国に居続けていれば地獄を味わい知ることが出来ません。 すなわち、天国と言われる幸せ喜び楽しさが普通の当たり前ですから・・・それ「ひとつ」しか知らないのであれば片手落ちに思えたことから・・・
(光や神と言われる次元界から)地球の人間にだけ不完全意識・善悪で判断することを教えた(授け与えた)・・・と思われます。
どうやら昔話の・・・アダムとイブがリンゴを食べる・・・その必然・必要があったようです。

そして「最初で最後となる」有史以来の完全真理によって・・・今まで不完全だった人間が元の完全な神意識に戻ることになり(役割使命を果たすことになり)・・・不完全を知った完全意識・神意識の「命・意識」が宇宙にはじめて存在・実在することになるのです。
・・・ゆえに・・・★新たな宇宙が始まる「宇宙維新」とも言われているのです・・・

だから特別に無理して・・・苦を買うことでもなっかたのです・・・「あるがまま」に生きて楽しんでいればそれでよかったのです。
だから今の位置・居場所・状況で苦しむことよりも、まして病気で苦しんだり死を目前にして苦しむことより・・・早く意識変わりをして苦労・苦しみを味わうことのない(喜怒哀楽や生老病死を伴わない)普通意識(あるがまま)の自己縮小に向けた実践をすることです。

それを・・・知らないでいると・・・当然ながら「知らない」で終わるが・・・
新たなこと(完全)を知ることによって有史以来の完全真理を学び知ることになり、その今までの不完全な生き方に気付き、その悟り・確信でもって悔い改めることが出来るのです。
・・・リンゴを食べて眠り続けていたものがやっと目覚める時が来た・・・ようなものです・・・
言い換えれば・・・頭の中で思い想像する非実在の白昼夢から目覚めて・・・実在で生きる始まりが来るのです。

不安・不確実な世の中の時こそ、生活の安心よりも<心の安心>を選択する時です。

2009年12月17日 | Weblog
生活の「安心・安定」なのか「心の安心・安定」か・・・二兎追うものは一兎も得ず・・・その決断決心の時が今です。

自分さえ良ければの個人意識を持った我々の世の中は・・・矛盾のある不完全で、過去未来に執着して思い想像する非実在で生きているという・・・その真実を書き込んでいますが・・・

それだけに・・・誰もが(石橋を叩いて渡る)不信感を持ち、そして守り闘うことになる「私は正しい」を持ち続け、それを自己満足し主張顕示して更にプライドまでも持ち続けることから、更に不信感・守り闘う・潔癖・完璧・正義感・プライドを強め、更にそれらを守り戦うという同じ繰り返しで此れまで生きてきたことも書き込んできました。

そして・・・自分さえ良ければの「良いとこ取り」ばかりしてきたそのツケである裏側の悪いところの部分が地球環境や人間関係の崩壊破壊に出ていることも書いてきました。
しかもそれらが<氷山の一角>が見えているだけの前兆ですから、まだまだ治まるはずも無く拡大してきますから、この先々にいろんな「真坂の有事」が待ち構えていることも書いてきました。
・・・はっきり言って崩壊破壊が止まることなく地球全体の危機を避けることはもはや無理です・・・

だから・・・誰もが平常心を装いながらも奥に隠している不安感はどんどん高まっています。
それでは「生きた心地」がしませんから・・・反対に安心を得たがります。
すなわち・・・★心の安心が無いから、代替に生活の安心で平常心を保とうとしているのです。

だから・・・「小さな」エコや環境保護で誤魔化して、その反対の生活の維持拡大、経済の維持や発展ばかり願っています。
すなわち・・・今の自分さえ良ければの「良いとこ取り」をやめようとはしません。
だから・・・地球規模の破壊崩壊が止まることは決してありません。

その「生活の安心」ばかり気にしている人の意識は・・・神や愛の心を忘れた<闇>意識の人になります。
だから此れまで(有史以来)闇意識が支配していたことから、その闇意識の勢力拡大による政治経済主導の舵取りによってここまで進化拡大してきたのです。
しかも・・・「心の安心」「調和・安定」の光意識を育てる役割使命だったはずの宗教までもが舵取りを間違えてしまって(ミイラ取りがミイラになって)、反対の闇意識(名誉・権威・権力・財力)の組織力・勢力拡大をもくろんで、それを正義・聖戦と偽り争い戦っているくらいだから・・・この世の闇が濃くなるのも当然でした。

その真実を説き明かすことが出来る完全真理であっても・・・
(聞きなれないだけに)胡散臭いカルトやインチキかもしれない完全真理よりも・・・赤信号(闇)も皆で渡れば怖くない・・・ことから、その間違った皆の集合意識の中(井の中の蛙・同じ穴の狢)でいる方がかえって安心しておれるのかもしれません。

しかし・・・生活の安心よりも先に「心の安心」を意識する生き方に方向転換・意識変わりしない限りにおいては、今まで通りの闇意識に巻き込まれたままに生きることになります。
だから・・・生活の安心も大切ですが(それを守り戦うことなく)、それよりももっと大切な心・意識を指針にして、これから生きることを決心・決断しなければ・・・二兎追うものは一兎も得ず・・・どっちつかずの中途半端な結果に終わります。

この世で初の最後となる「完全真理」によって既に<答え>が出ているのですから・・・その完全真理を信じるか否かではなくて、その答えを知る実践さえしていれば・・・完全なだけに何処にも矛盾・不完全はありませんから、思考錯誤・葛藤することも無く順調に理解納得に至ります。
しかも・・・既存の宗教のように行為行動を指図されたり形に制限束縛されることは一切ありませんから、常日頃の生活を通して気付き学び知ればいいだけです。

★生活の安心を求めている限り心の安心は得られませんが、先に心の安心を得れば自ずと生活の安心が得られる事に早く気付くときが着ているのです。

そして・・・理解力や実践力が未熟であっても、完全真理が導き出している答えを得るための実践意識でもって、「その時」が来るまで穏やかに生活していればいいのです。

完全真理で言われるところの「完全」を解りやすく説明すると・・・

2009年12月15日 | Weblog
完全真理で言われるところの「完全」を解りやすく説明すると・・・
例えば一本のリンゴの木が命を持って生まれ育ち、やがて実をつけて食べられるようになると、それがリンゴの木の使命・役割を果たしたことですから・・・ 宇宙・神から与えられた命の役割を果たしているそのリンゴの木の命は完全です。

そして、その内の一個のリンゴを二つに切っても、その二つのリンゴはリンゴです。
それを一つはリンゴで片方のリンゴを柿だと思えば、その人の意識は完全ではなくて不完全となります。
だから「原因と結果」は同じですから・・・リンゴの形がどんなに崩れてもリンゴはリンゴです・・・だから<完全>といえるのです。

また、原因のガラスがコップに形を成せば、それは「ガラス」で出来ているから結果はガラスのコップになります・・・それを省略して「ガラスコップ」と簡単に言っているだけです。
また、そのガラスコップが壊れても・・・コップと言う形が無くなっただけで、元の原因であるガラスは無くなっていませんから、いつでも再び再生することが来ます。
すなわち・・・コップの形は消えても原因のガラスに「命」があるから・・・再び「ガラスコップ」に戻ることも出来るのです。

だから・・・人間と言う結果の姿形が滅びても、その原因である「命」は永遠に続くのです。
しかも(万物の)命には意識があります。
その命と意識は離れていなくて「ひとつ」ですが、その命・意識には宇宙・神・愛と言われる全知全能のエネルギーの授受があることから、その自らの出力で動くことも出来るし、その命・意識が終わることなく永遠に続くのです。

だから・・・★すべての宇宙・万物は・・・原因(命・意識)の結果(姿形)なのです。
だから・・・その結果だけを見ずに・・・★その結果の元となる「原因」に気付くことを完全真理で説かれているのです。

その原因(命・意識)を持って人間として生まれた結果のその集まりが私達人間社会なのですが、その私達人間をそれぞれの頭の中で想像判断して、それを自分の都合が良いようにするために「良いと悪い」で分離して「差」を付けていることからして・・・「不完全」な意識と言われているのです。
・・・リンゴはリンゴなのに、人は人なのに・・・その姿形を見て(思い想像して)それを「良い悪い・優劣・損得」で分離判断して、自分に都合が良いほうを選んでその「良いとこ取り」をしたがっていることを・・・自己を中心に考えている「個人意識」であり、同じひとつのものを良い悪いで分離判断している「不完全意識」と言われているのです。
・・・そして「思い想像」は頭の中にあることですから事実・実在ではありません、だから思い想像は「非実在」になるのです。

そこで何度も書いているように・・・不完全意識の非実在で生きている人間界・この世に真実・事実は見当たらないのです。
皆の意識・原因が不完全で非実在なのに・・・何で<完全な結果>を出すことが出来るのでしょうか・・・ だから皆が寄り集まって結果を出そうとしても、良いや悪いと思う者同士の勢力権力や多数決や中途半端な妥協による解決策しかないことから・・・(原因と結果は同じだから)その結果の形が以前と少し違うだけで終わり(三角が四角になった程度)・・・また似たような問題が再発して同じことが繰り返されている格好になるのです。

だから・・・この世の不完全・矛盾に(政治経済・医科学・宗教・常識・伝統風習・道徳)束縛支配されない生き方、過去や未来に拘り未練執着しない生き方の実践によって・・・(まさかの有事に見舞われる前に)・・・己の肉体が破壊破滅する前に・・・「意識改革」して、次の新たな地球の命・意識として迎えられる「完全意識」になることしか残っていないのです。

たとえそれがまだ未熟であっても・・・完全真理を理解・納得できている命・意識であれば・・・原因と結果は離れていませんから・・・可能性がゼロではありません。
・・・そして「ファバラ」の完全意識エネルギーがどんどん高まっていることからすれば・・・今後も可能性が高くなるでしょう・・・

人間らしく「生きる」秘訣は、まず「自分を好き」になる、そして「楽しむ」ことにあります。

2009年12月14日 | Weblog
自分を好きになるには・・・「差」を持っていれば・・・まず好きにはなれません。
その差であるプライド・優越感があれば・・・自分が好きではなくて差を付けて喜んでいる自己満足・自惚れ・自尊心になります。
反対の劣等感があれば・・・他と比べて差のある自分を卑下しているのだから、当然ながら自分を好きになれるはずもありません。

その差は何処からl来るのか・・・皆と違うと思うことから差が生まれています。
その典型的なのが・・・私は正しいと思う自惚れ、潔癖・完璧・正義感があります。

その「私は正しい」は自らが他を否定して寄せ付けない完璧な囲いの中(城壁で囲まれた中)に入ることと一緒ですから、そこで閉じこもっていれば制限制約され限定されるから、井の中の蛙や同じ穴の狢や自閉症や対人恐怖症と同じで楽しいはずもありません。
それでも「知ったかぶり」して自己満足し合い、主張顕示し合っているのが精一杯で、それも堂々巡りしているだけになります。

それでも多種多様の趣味思考娯楽があり、それらを楽しむことが出来ます。

ところがそれらには制限制約・限界がありますから、それを超えると楽しみが「依存」症になることがあります。
だから・・・程よい加減で止まっていなければなりませんから、いつも楽しんでいられなくなったり、我慢しなければならなくなれば楽しさが楽しさでなくなったり、評価判断・比較競争の差を持つ事になれば、新たな悩み・苦悩を抱えることにもなって・・・無心で楽しめなくなります。

すなわち・・・楽しみだけを満喫していれば無心・無欲の楽しみになり、生きている喜び・至福になりますが、ところが依存症の危険・心配があったり、制限制約や比較競争が気になっていれば本当に楽しんでいることにはなりません。
しかし・・・過去や未来に関係ないところの、今のその時、その時の与えられた必然であり、それに拘り未練執着を持たなければ、喜び感謝で楽しめます。

私は暇で退屈したときにパチンコが好きですから、一円パチンコに行くときがあります。
それも勝ち負けの勝負性ではなくて醍醐味を味わいに行くのですが、やはり負けるより勝つほうが楽しいのは当たり前です。
ところが劣等感の強い人が負けると(裏側のプライドが出て)元を取り返すだけでは物足りなくてそれ以上の額を勝ちに行きたくなって(過去・未来に執着して)、それが勝ち負けに執着する事となり、やがてパチンコ依存症にもなります。

世間では各地の美味しい物めぐり・食べ歩きや娯楽観光が当たり前になっていますが・・・その出費の為に余計に稼ぐ(残業や成績アップやバイト)必要になれば・・・楽しむために苦労をするという矛盾を持つ事になります。
それと同じことにあるのが・・・過ぎた生活(衣食住)の為に苦労しているのであれば、それは楽しい生活にはなりません。
すなわち、苦労が無いから楽しめるのですから、楽しむためには苦労をしないことが条件になります。

だから・・・何事も(仕事・家事・雑事)生きるためにしていることですから、それを過不足で思い悩んだり苦労と思わないで、当たり前や楽しいことにすれば苦がなくなるのです。
それが「意識改革」です。

でも・・・苦労になることを苦労に思わないようにして裏に隠すのではなくて、今の自分が生きてやっている事に喜び感謝を持つことです。
例えば・・・制限制約・障害があって、やりたくてもやれない人やそのチャンスさえも失われている人でも、また何とか動き働ける人や、貧しくても食って寝て糞をしながら何とかやって「今を生きている」ことが・・・喜び感謝なのです。
そして・・・他と比較して差さえ持たなければ・・・そんな自分が好きになり、そして何事にも(喜び感謝があるから)楽しくなれるのです。

真実を知らないために命をかけてまで<守り闘う>ことになっている、その原因・事実を知ることが先です。

2009年12月13日 | Weblog
私達は此れまでに無かった完全真理(この世の最初で最後となる)によって・・・私達人間があまりにも「真実」を知らなさ過ぎた欠陥人間・不完全人間だったことが証明されています。

例えば・・・有史以来の歴史を顧みれば・・・自分の命をかけてまで守り・闘ってきた典型的な事実がたくさんあります。
中には・・・思想弾圧や宗教弾圧と闘って命を落とした人も大勢います。
それを日本で言えば・・・島原の乱で有名になったキリシタン弾圧やその「踏み絵」が語られていますし、戦前戦中の共産主義弾圧の「赤狩り」や宗教思想の弾圧もありました。

ところが、そうなる前に・・・自らの命をかけてまで、己の信じる思想活動や布教活動に加わって広めてきた人も大勢います。
その中には・・・布教の為に未開の地に入り原住民に殺された布教師や、異教徒の迫害に屈せずに闘い敵対側を倒して(大勢を殺して)勝利した勇敢な布教師や、その途中半ばで惜しくも命を落とした布教師などがいて、それらが聖者として奉られている場合も世界各地で多く見受けられます。

また旧約聖書?に、弾圧・迫害から逃れて新天地を目指して海岸に来たときに、運悪く追手の軍隊が迫って来て困りましたが、モーゼ?が海面を割って避難民を対岸まで導き、その後に迫ってきた軍隊は海に飲み込まれるという話が有名ですが、その軍隊命令に従っていた多数の兵士にも命があり家族があるのに・・・何でそこで無残な死に至ることになるのか変に思いません?兵士は悪の手先だから殺しても正義だから神が祝福するの?

それが近代戦争となると・・・自らが選択した、今で言う自爆作戦・自爆テロと言える爆弾三勇士や突撃隊や特攻隊があります。

それらには・・・他の命(味方)を守るために、他の命(敵側の命)を奪うという矛盾があります。

何故そうなるのか・・・ 命の大切さ、尊さと言うよりも、持って生まれてきた(当たり前の)「命」そのものの真実を知らなかったからではないの? ・・・神の名の下に洗脳・思い込み・自己暗示にかかっていたとしか思えませんが・・・

だからか、それ以後にも・・・特定の思想や特別な宗教やその時代の社会国家が正しいと思い込み・妄信したり洗脳されたり自己暗示にかかってしまった挙句に・・・命をかけてまで宣伝・布教・侵略・戦争することになり、また勝ち得たその成果を守るためにもまた命をかけて敵対するものと戦うという・・両者・両側・対立の堂々巡りがいつまでたっても終わりません。

もしも現在の私達が・・・島原の乱のときのように・・・「踏み絵」を踏まなかったら十字架に張付けられて処刑されるのを知っているのに、その踏み絵を足で踏みつけるどころかその踏み絵に口づけをする人がいますか?・・・
もしも十字架で処刑されることを選択したとしたら・・・他の命を守るために他の命を奪うモーゼ同様の意識・・・派閥抗争・闘争や戦争・自爆テロをするような偽善者と同じ意識になっていると思いませんか?・・・そして「私は正しい」ことをしたと思う正義感を持っていませんか?・・・その正義とやらは何処にあるのですか?・・・
その思想や宗教や社会国家が言う正義が正しかったことが此れまでの歴史に一つでもあったでしょうか?・・・中途半端な妥協ではなかったの?・・・それが真実の正義なら遠い昔にこの世の混乱や戦争が消えていると思いません?

そこで「完全真理」で言われているのが・・・
宇宙の創造主が神であれば、その神から生まれたすべても同じ神です。 
宇宙から生まれた惑星・地球が宇宙でなければ、人間から生まれた赤ちゃんが人間ではなくなります。
だから創造主が神で無ければ、すべても神ではありません。
しかしその神と言われる名称・形がなくても・・・宇宙・万物はこの世に実在しているではありませんか?
そうすると神が居ても居なくても同じでしょう・・・「あるがまま」にあるだけでしょう・・・それが<真実>なのです。

形姿が違っていても、すべてが同じなのです・・・すべてが「ひとつ」なのです。
だから特別は無いのです。 だから特別になる必要・必然は何処にも無いのです。
その特別に生きようとする者の意識は・・・真実・実在で生きているのではなくて非実在で生きていることになり、宇宙でも神でも人間でも無い不完全意識で生きている「命」になるのです。

そして特別なことをしているだけに必ず「私は正しい」を持っていて、それを守るために闘います。
それが潔癖・完璧・正義感になります。
その「私は正しい」が無ければ皆と同等・平等となり、特別が無ければそれに執着・束縛制限されないから自由があります。
そして皆と同じですから、良い悪いで判断せずに「お互い様」「お陰様」の調和の関係で争うことも不満に思うこともありません。 

しかし・・・如何に完全とは言えども・・・此れを他の人の意識に当てはめ託すことには絶対無理がありますから・・・先ず自分が意識して生活する実践が先でなければなりません。
だから・・・この世の矛盾・不完全にあまり関知せずに(どうしようもないことに)巻き込まれないようにして、自分に過ぎた特別の無い日常の生活の中で真実を学び知り悟る方向に意識を向けて進んでいくしかありません。

それ以外の事(この世の)不完全・非実在にいくら意識を向けても、その結果は同じ不完全・非実在しかありません。
まして自分が不完全なのだから特別なことをせずに・・・まして「私は正しい」と意地を張らずに、自己主張・顕示・救世主・正義感を持たないようにして・・・矛盾・不完全な他のことに巻き込まれないためにも(やぶへびにならないために)、あまり介入・お節介しないでおいて、人それぞれの中の意識・命に任す・・・ほっとけ・仏に任す・・・しか何の手立てもありません。

この世(宇宙で最低の三次元界)に残された人間の果たす役割・課題は完全意識になることだけです。

2009年12月08日 | Weblog
この世(宇宙で最低の三次元界)に残された人間の果たす役割・課題は完全意識になることだけです。
それが実践できなければ・・・如何に有能な人であっても(釈迦やイエスのように)・・・ミイラ取りがミイラになるだけです。

良い悪いで判断しない完全真理を知らない限り、その良いと悪い(善悪・優劣・損得)で判断する事になり、その矛盾・裏表の判断で迷い悩み混乱するだけですから、あらゆる問題を絶対に解決することはできません。
だから、残る解決策は中途半端な「妥協」しかありません・・・それがこの世です。

すなわち・・・悩み迷い混乱している正常ではない(精神を病んだ)精神科医が、同じく精神を病んだ人を相手にしているのと同じです。
また・・・良い悪いで判断している不完全な信仰宗教や宗教家らが、同じ不完全意識で悩み苦しんでいる人・信者を助けようとしている矛盾があります。
また・・・生活や悩みの相談にアドバイザーしたり、カウンセラーをやっている人も精神科医や宗教と同じ矛盾を抱え持っています。

すなわち・・・妥協しか知らない不完全意識の人が、同じ不完全意識の人を何とかしてあげようと取り組んでいるのだから無理な話なのです・・・それらを否定しているのでは有りません、何かと気付きを与えたり、何かの妥協策で役に立っているはずですから・・・

それでも根本解決は出来ないのは事実であり、無理は無理だと事実を書いているのですから、その事実に気付く必要が有ります。

すなわち・・・この世の矛盾で悩み苦しんでいる私達が如何に人助け援助救済しようが(不完全からは不完全しか生まれないことから)、それが中途半端な結果や妥協で終わってしまうのも事実ですから、一時しのぎや一時の気休めにしかなりません、そしてまた同じ悩み苦しみの繰り返しが続くだけです。

しかも(殆どの人が)それらに巻き込まれて(執着しすぎて)身動きできななくなり、自らがそこに止まる事になり、そこの居場所にある問題に悩み苦しみ思考錯誤・葛藤して、自らがひどいめにあって窮地・精神異常に陥ることにもなるだけです。
そしてその精神を病んだままに(不完全意識のままに)人間を終えるかもしれません。

だから・・・このブログに来られている人の中にもそれらに準じた行為行動をしている人もいるかと思われますが(私も一時やっていましたから)・・・そこではっきり自覚したことにあるのが・・・私の如何なる自力を持って事に当たろうが(たとえ釈迦やイエスであっても同じですから)・・・人の意識(問題原因となっている意識)を変えることは絶対に出来ません。 ただそれらに巻き込まれて「ミイラ取りがミイラになる」だけです。

そして正しいと信じていることをやることで「私は正しい」ことをしたという自己満足をしたり、それを主張顕示することでまた自己満足をするというような、そんな繰り返しで止まります。
・・・だから、それ以上に自力・意識がステップアップ(個人意識からの脱却)することはまずありません。

だから・・・人様のことより(救世主意識より)先ず先に自分が良い悪いで判断しない「完全意識」になることが先決なのです。

それが・・・この世(宇宙で最低の三次元界)に残された人間の果たす役割・課題なのです。

自分が生きていることを実感したいために「苦労}=自傷行為をしているのかな?

2009年12月02日 | Weblog
生老病死や喜怒哀楽は感情であり、その感情を大きく波立たせる結果になります。
・・・穏やかな湖面・海面とは違い、上下のうねりが伴いますから、穏やかに暮らすことは出来ません。

また見栄や世間体を気にすることは己のプライドから出ているのですから、そのプライドに相反する劣等感を必ず持っています。
すなわち・・・劣等感を持っているからこそ、己を守るためのプライドが出ていることに気付いていません。
しかも・・・プライドを守るために自己主張・顕示・誇示して、その結果を自己満足したり自己嫌悪になったりして、己の感情や精神面を波立たせていますから、けっして穏やかな生活とは言えません。

しかもそれが人間として生きていれば(感情を波立たせるのは)当たり前に思っている錯覚勘違いを持っています。
それは・・・穏やかな心になれば生老病死や喜怒哀楽や見栄や世間体といったことも必要なくなることを知らないからです。
しかも・・・穏やかな生活が人間らしくないと思い違い・錯覚勘違いしている人も多いようですから、更に執着することにもなり、それが原因で更に感情・精神を乱す結果になり、心が落ち着く暇もありません・・・だから日々ストレスが加わり蓄えられます。

そこで「心を癒す」必要が出てきます。
・・・カッコよく美化して「癒し」と言っていますが・・・(癒しが必要になることは)乱れた感情から一時的に逃げ出したくなる「逃避」だとは気付いていません。 
その癒しの対象で身近なものが趣味嗜好娯楽ですが、それらを通して刺激を味わい感じることで一時的に逃避することが出来ます。
・・・一過性とは違って・・・依存性の高い形でそれを習慣としていたり執着していることであれば尚の事ですが・・・

だから<癒し=刺激>となる形が次々と拡大進化して巷に氾濫している世の中になっています。
それらに併せて経済成長・経済発展になり物質・文化文明が多様化し豊かになってきましたが、その裏では自然環境や人間関係までがおかしくなっています。

だから喜怒哀楽や生老病死の感情に支配されない生き方や見栄や世間を気にしない(優越感や劣等感に支配されない)生き方が出来る人ほど・・・もっとも「人間らしい」生き方をしているとは気付いていません。
そればかりか(特別が好きな人には)・・・刺激の少ない平凡・普通・穏やかに暮らしている人を見ると(見掛けで判断して)努力が足りない人とか能無しの人に思い、それが原因でつまらない生活をしていると勝手に判断して思い違いしている人もおりますが、穏やかに暮らせるだけの自信・自力・意識を持っているからこそ・・・現実的・物質的な癒し・刺激に逃避しないですむのです。

その癒し・刺激によって一時的に逃避している人は・・・(今を生きる実在ではなくて)非実在の過去・未来に執着して、それらを思い考え想像する「仮想の世界」「実在しない世界」で生きていることから・・・(自傷行為・リストカットと同じで)様々な刺激を受けたり体を鍛錬・酷使することで我が身が生身の人間であることを(心の奥底で)確認しなければ、生きていることが実感として感じられないようになっているのです。

だから色んな形で喜怒哀楽の感情を味わったり、生老病死で感情を出したり、プライドを気にしたりして自己主張したり顕示誇示することで自己満足したり自己嫌悪に陥ったり、熱中したり放棄したり、喜んだり悲しんだり、不安心配で悩んだり怒ったり、やきもち嫉妬・ジェラシーで心を燃焼したりそれを静めたりして・・・精神体・感情体・肉体を酷使して・・・
更に、自分を守るのに都合が良いように段取りしておいて(家族や仕事の人間関係を持っておいて)、その人間関係が自分にとって不都合になれば平気でそれらを裏切り切り捨てることをやっているのも・・・
・・・そのような山や谷や壁や波風のある刺激的・過激的な人生を過ごすことによって、そこで我が身の五体(感情体・精神体・肉体)が確かに働いている実感を味わっていたいのです。

だから「苦労を買って」することでもなくて・・・ 自分の背丈に見合った普通の生き方で十分「生きている」ことを実感出来るのですから、今からでも決心して実践すれば必ず納得確信出来るはずです。
それを知らずに特別な生き方をしようとして無理をすることから、その裏の特別が出て困ったことになっているのです。
それがこの世で見られる華やかな表と・・・裏側の困った現実です。

その裏側の困った現実・有事に見舞われているのが・・・表の華やかな「良いとこ取り」ばかりしてきた人達の今の実情です。
その困った現実に今は直面していない人でも決して安心はできません・・・私も同様ですが・・・

そして(完全真理を知ったことで言える事ですが・・・)今の不確かで不完全な現実から逃れることはどうやら無理な様相・世相が見えてきています。 そしてその結末が・・・今まで延々と続いてきた不完全が終われば「ゼロ」になることから・・・当然にして・・・新たな「完全」が始まるのです。