人間以外の万物は人間が居なくても生きていけますが、人間は万物がなければ生きていけません。すなわち万物の「お蔭様」によって人間は「生かされて」生きているのです。
例えば動物や植物は人間がいなくても生きて役割使命を果たすことが出来ますが、人間だけの力では動物はもちろんのこと葉っぱ一枚足りとも生み出すことは出来ません。
だから全てが元々から必然・仕組まれて存在しているのです。 それが自然の法則&宇宙の法則であり、それが神・愛・全知全能、光・意識エネルギーと言われるものです。 全て元々から有るのだから、何ら特別なことではないのです。「あるがまま」にあるだけです。
ところが、自分が知らない事を特別に思っている人もいるし、その皆が知らない事をいいことにして特別仕立てにした偽善者が過去にもいたし、それを真似て主張顕示して繰り返している人がいるだけです。
お蔭様で起きていることは必然であり特別ではないのです。 世間で言われる奇蹟も、元々から有ったものが現れただけのことで、皆が知らなかったことが起きて現れただけのことです。 自分の意識のあり方で見えなかったものが見えるようになったり体感できるようになっただけです。
お互い様、お蔭様には特別意識も差別意識もありません、互いが感謝しあうアリガタイ心があるだけです。
だから特別な神、特別な愛、特別な命はありません。すべて同じです。
すべて同じだから分離差別することはできないのです。それを自分の都合がいいように良い悪いで分離したのが個人意識なのです。
特別な神、特別な教祖、特別な先人・先生などは、自分に都合がいいから「特別」に思っているだけの個人意識になります。 また、神を偉いと思っている、宇宙や太陽・自然界を偉大に思っている人が信仰心を持っているだけであって、大切に思う心が信仰という形になったのです。
全てがあってこそのお蔭様なのに、そのありがたい感謝が特別な限られた個々に名指しされているのは、分離差別意識の個人意識が作り出した偽善になります。
例えば身近な両親やその先祖に感謝するのもいいが、それよりもっと先の元となるお蔭様の存在・実在を大切に思わないでいる自己中心の個人意識に大きな問題があるのです。
すべての万物のお蔭様で人間は生きていますが、その人間も一人の力だけではすべてを(衣食住等を)まかなうことが出来ません、だから身近な人達だけではない全ての人間同士もお互い様・お蔭様同士なのです。
それなのに人間同士が差別したり、相手を束縛制限支配したがり、人殺し戦争までもしています。 だから自分が参戦することになった戦争さえも正当化しているでしょう・・・報復爆撃・自爆テロも正当化するように原爆を正当化したり侵略侵攻を正当化したり、あらゆる武器で人の命を狙うのも正当化するでしょう・・・これらの原因には必ず不平不満があり、その不平不満から人の命を奪うことを正当化したのが正義感です。
しかも、私は正しい事をしていると自惚れ錯覚勘違いしているからなお始末がつかないのです。
自分が正しいと思っている人は自己主張自己顕示が強い人ですから、自分が気に入らなければ必ず反発否定拒否したがります。目立ちたがり屋の場合は黙って居れずに一言でも口出ししたがるタイプもいます。しかも、自分が自己主張顕示の強い問題児だとはまったく気付かないから、いつも私は正しいと言い張り続けて更に厄介なことになっているのです。
自己主張顕示していつも自分が主人公で居たい人には「お蔭様」の言葉が出てきません。
自分に都合がいい時だけは「ありがとう」を言いますが、誰彼と特定されないお蔭様の「ありがたい」の言葉は出てきません。
我々が忘れてしまっているお蔭様の存在・実在を知ることで謙虚になり、今までの自分中心の個人意識を素直に改めることが出来るようになるのです。
そして不平不満の原因となる生活の安定よりも先に心の安定が必要な事に気付き、その心の安定こそが生活の安定に直接つながっている事が納得理解・悟ることができるのです。
例えば動物や植物は人間がいなくても生きて役割使命を果たすことが出来ますが、人間だけの力では動物はもちろんのこと葉っぱ一枚足りとも生み出すことは出来ません。
だから全てが元々から必然・仕組まれて存在しているのです。 それが自然の法則&宇宙の法則であり、それが神・愛・全知全能、光・意識エネルギーと言われるものです。 全て元々から有るのだから、何ら特別なことではないのです。「あるがまま」にあるだけです。
ところが、自分が知らない事を特別に思っている人もいるし、その皆が知らない事をいいことにして特別仕立てにした偽善者が過去にもいたし、それを真似て主張顕示して繰り返している人がいるだけです。
お蔭様で起きていることは必然であり特別ではないのです。 世間で言われる奇蹟も、元々から有ったものが現れただけのことで、皆が知らなかったことが起きて現れただけのことです。 自分の意識のあり方で見えなかったものが見えるようになったり体感できるようになっただけです。
お互い様、お蔭様には特別意識も差別意識もありません、互いが感謝しあうアリガタイ心があるだけです。
だから特別な神、特別な愛、特別な命はありません。すべて同じです。
すべて同じだから分離差別することはできないのです。それを自分の都合がいいように良い悪いで分離したのが個人意識なのです。
特別な神、特別な教祖、特別な先人・先生などは、自分に都合がいいから「特別」に思っているだけの個人意識になります。 また、神を偉いと思っている、宇宙や太陽・自然界を偉大に思っている人が信仰心を持っているだけであって、大切に思う心が信仰という形になったのです。
全てがあってこそのお蔭様なのに、そのありがたい感謝が特別な限られた個々に名指しされているのは、分離差別意識の個人意識が作り出した偽善になります。
例えば身近な両親やその先祖に感謝するのもいいが、それよりもっと先の元となるお蔭様の存在・実在を大切に思わないでいる自己中心の個人意識に大きな問題があるのです。
すべての万物のお蔭様で人間は生きていますが、その人間も一人の力だけではすべてを(衣食住等を)まかなうことが出来ません、だから身近な人達だけではない全ての人間同士もお互い様・お蔭様同士なのです。
それなのに人間同士が差別したり、相手を束縛制限支配したがり、人殺し戦争までもしています。 だから自分が参戦することになった戦争さえも正当化しているでしょう・・・報復爆撃・自爆テロも正当化するように原爆を正当化したり侵略侵攻を正当化したり、あらゆる武器で人の命を狙うのも正当化するでしょう・・・これらの原因には必ず不平不満があり、その不平不満から人の命を奪うことを正当化したのが正義感です。
しかも、私は正しい事をしていると自惚れ錯覚勘違いしているからなお始末がつかないのです。
自分が正しいと思っている人は自己主張自己顕示が強い人ですから、自分が気に入らなければ必ず反発否定拒否したがります。目立ちたがり屋の場合は黙って居れずに一言でも口出ししたがるタイプもいます。しかも、自分が自己主張顕示の強い問題児だとはまったく気付かないから、いつも私は正しいと言い張り続けて更に厄介なことになっているのです。
自己主張顕示していつも自分が主人公で居たい人には「お蔭様」の言葉が出てきません。
自分に都合がいい時だけは「ありがとう」を言いますが、誰彼と特定されないお蔭様の「ありがたい」の言葉は出てきません。
我々が忘れてしまっているお蔭様の存在・実在を知ることで謙虚になり、今までの自分中心の個人意識を素直に改めることが出来るようになるのです。
そして不平不満の原因となる生活の安定よりも先に心の安定が必要な事に気付き、その心の安定こそが生活の安定に直接つながっている事が納得理解・悟ることができるのです。