孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

お蔭様によって生かされている人間

2008年05月26日 | Weblog
人間以外の万物は人間が居なくても生きていけますが、人間は万物がなければ生きていけません。すなわち万物の「お蔭様」によって人間は「生かされて」生きているのです。
例えば動物や植物は人間がいなくても生きて役割使命を果たすことが出来ますが、人間だけの力では動物はもちろんのこと葉っぱ一枚足りとも生み出すことは出来ません。
だから全てが元々から必然・仕組まれて存在しているのです。 それが自然の法則&宇宙の法則であり、それが神・愛・全知全能、光・意識エネルギーと言われるものです。 全て元々から有るのだから、何ら特別なことではないのです。「あるがまま」にあるだけです。 
ところが、自分が知らない事を特別に思っている人もいるし、その皆が知らない事をいいことにして特別仕立てにした偽善者が過去にもいたし、それを真似て主張顕示して繰り返している人がいるだけです。 
お蔭様で起きていることは必然であり特別ではないのです。 世間で言われる奇蹟も、元々から有ったものが現れただけのことで、皆が知らなかったことが起きて現れただけのことです。 自分の意識のあり方で見えなかったものが見えるようになったり体感できるようになっただけです。
お互い様、お蔭様には特別意識も差別意識もありません、互いが感謝しあうアリガタイ心があるだけです。
だから特別な神、特別な愛、特別な命はありません。すべて同じです。
すべて同じだから分離差別することはできないのです。それを自分の都合がいいように良い悪いで分離したのが個人意識なのです。
特別な神、特別な教祖、特別な先人・先生などは、自分に都合がいいから「特別」に思っているだけの個人意識になります。 また、神を偉いと思っている、宇宙や太陽・自然界を偉大に思っている人が信仰心を持っているだけであって、大切に思う心が信仰という形になったのです。
全てがあってこそのお蔭様なのに、そのありがたい感謝が特別な限られた個々に名指しされているのは、分離差別意識の個人意識が作り出した偽善になります。
例えば身近な両親やその先祖に感謝するのもいいが、それよりもっと先の元となるお蔭様の存在・実在を大切に思わないでいる自己中心の個人意識に大きな問題があるのです。

すべての万物のお蔭様で人間は生きていますが、その人間も一人の力だけではすべてを(衣食住等を)まかなうことが出来ません、だから身近な人達だけではない全ての人間同士もお互い様・お蔭様同士なのです。
それなのに人間同士が差別したり、相手を束縛制限支配したがり、人殺し戦争までもしています。 だから自分が参戦することになった戦争さえも正当化しているでしょう・・・報復爆撃・自爆テロも正当化するように原爆を正当化したり侵略侵攻を正当化したり、あらゆる武器で人の命を狙うのも正当化するでしょう・・・これらの原因には必ず不平不満があり、その不平不満から人の命を奪うことを正当化したのが正義感です。
しかも、私は正しい事をしていると自惚れ錯覚勘違いしているからなお始末がつかないのです。
自分が正しいと思っている人は自己主張自己顕示が強い人ですから、自分が気に入らなければ必ず反発否定拒否したがります。目立ちたがり屋の場合は黙って居れずに一言でも口出ししたがるタイプもいます。しかも、自分が自己主張顕示の強い問題児だとはまったく気付かないから、いつも私は正しいと言い張り続けて更に厄介なことになっているのです。

自己主張顕示していつも自分が主人公で居たい人には「お蔭様」の言葉が出てきません。
自分に都合がいい時だけは「ありがとう」を言いますが、誰彼と特定されないお蔭様の「ありがたい」の言葉は出てきません。 
我々が忘れてしまっているお蔭様の存在・実在を知ることで謙虚になり、今までの自分中心の個人意識を素直に改めることが出来るようになるのです。
そして不平不満の原因となる生活の安定よりも先に心の安定が必要な事に気付き、その心の安定こそが生活の安定に直接つながっている事が納得理解・悟ることができるのです。



実践してこその真理

2008年05月17日 | Weblog
完全真理の実践で不平不満が無くなる

良い悪いで分離判断しなければ「不平不満」が無くなります。
家庭家族から不平不満が消えます。
仕事に対する不平不満が消えます。
人を責めることも自分を責めることもありません。

あれこれと書かなくても・・・万事が解決できます。
思考分析、議論する必要もありません。
実践すれば確かに不平不満がなくなるのだから、誰にでもわかることです。
だから人様に言うことではなく(言うだけ)、自分が実践する価値のあるものです。
他はさて置き、自分が先に実践してこそ値打ちがあるのです。
自分に不平不満があれば自分に混乱が起こるだけです。例えば、自分の性で他の人に迷惑混乱が起これば、それは(結果的に)自分の責任ではなくて、混乱した人の分離意識、不平不満に問題があったのです。

不平不満の無い「心の安定」があってこその生活の安定です。
生活の安定安心がないから不平不満になるのではなくて、先に自分の心に安心安定が無くて乱れているから不平不満になっているのです。勘違いしやすいところです。
考えるだけでわかっても接し触れなければわかったことにはなりません。だから、わかったつもりいてもついつい不平不満が出るのです。
実践すればわかることなのです。実践でわかれば二度と元には戻りません。その一つ一つの実践の積み重ねが大切なのです
机上の論理ではありません、実践してこその真理です。

自分の首を自分で締めている無知な人

2008年05月15日 | Weblog
人間は意識を表現して生きている意識体です。
日々の生活を表現しているのは意識が働いた結果です。
意識が原因で生活が結果の関係にあり、原因と結果は離れていません。
だから、私が生まれてきたのも私にその意識があったからです。すなわち両親の赤ちゃんとして誕生する以前から私本来の意識が働いていたのです。その意識が原因で両親の元に赤ちゃんとして誕生する結果になったのです。すなわち、私の意識が両親を選んだ結果になるのです。結果的に親を選んだのは私自身だったのです。
同じように、今の私の境遇・環境、居場所・生き様は私の意識が原因で現れた結果なのです。
すなわち自分の「思い通り」に生きてきた結果が「今」の私なのです。
生まれる以前から自分の思い通りに生きて来たのに、自分の思い通りに生きられないと不平不満に思うのは筋違いであり、それを更に他の性に責任転換すれば大間違いのお馬鹿さん(無知な人)になるのです。
その不平不満を持つお馬鹿さんになる原因が「良い悪い」で分離判断評価した結果です。自分で自分をお馬鹿さんに仕立て上げているのです。すなわち、自分で自分の首を締めている人になります。すなわち原因と結果は離れていないのです。

すべて自分の思い通りに生きているのに不平不満を持つのは自分の意識、自分に責任があるのです。 そして勘違いしやすいことにあるのが、外側の他から不本意に邪魔をされたと思えることがあっても、それも自分の意識が下した外観の良し悪し、好き嫌い、優劣・損得勘定した意識が鏡となって映し出された結果であって、自分の意識が招いたもので、自己責任を課せられたような結果になっているのです。 
だから、いじめを受けたり、ストーカーや痴漢に遭うのも、花粉症・アレルギー症状も、ノイローゼやうつ病になるのも、必ずどこかで自分の意識が原因にあります。

人間の命は意識なのです。大切なのは意識なのです。結果ではなくて原因が重要なのです。
現れた結果ばかり気にして大元の原因を知ろうとしない人間に人間の真価は見出せません。だから衣食住・財、趣味嗜好娯楽、名誉名声・権威権利に意識が傾くのです。
その結果があらゆる形でこの世に現れているのです。
だから結果・形には必ず原因・意識があります。その原因を知るために結果があるのです。それがこの世です。だからこの世は原因・意識を知る為の仮の姿形なのです。すなわち原因があるからこの地球に人間として生まれてきたのです。だからその原因を知ることです。

結果を求める(理想・目的)為に意識を働かすのでは後先が逆なのです。だから思い通りに行かないと不平不満に思うのです。そして人を責めたり自分を責めたりするのです。
だから自分の思い通りになっていないのなら自分の意識を換えればいいのです。
「そのまま、このまま、あるがまま」の意識になれば、現れた結果の全てが自分の思い通りになったことになりますから、いっさいの不平不満はありません。その不平不満から逃げる手段だった趣味嗜好娯楽・刺激を求めることも無くなり、平々凡々の安心・安定した生活が続きますから何ら問題が起きません。 すなわち問題が起きないことは全ての問題が無くなる事です。 その平々凡々ガがいやで問題が無ければ面白くないやつらが牛耳っているのが今のご時世です。その犠牲者であり加害者にもなっているのが我々個人意識の人間です。 殆どの人は平々凡々より刺激の多い問題側に立ち向かって生きているのです、この世を牛耳る側に協賛協力して生きているのです、それなのにこのご時世に対して不平不満・文句を言うことがあれば、それは自分の出した結果に自分が文句を言っているのと同じですから、自分が自分に文句を言っている鏡現象であり、自分の首を自分で締めていることになります。
それでも自分を正当化・言い訳して、喜怒哀楽の多い、生老病死で悩み苦しみ悲しむ、趣味嗜好娯楽・刺激の多い、問題続出の人生、波乱万丈の人生、艱難辛苦の修行の道を歩むことが正しいと言い張り、自己満足・自己主張・自己顕示しているのです。

良い悪いの無い「あるがまま」の平々凡々の真価を知るのは、先ず自己縮小の実践しかありません。先ずは意識改革です。
結果(境遇・環境・居場所・現状)を先に変えようとするのではなくて、先ずは原因・意識が先です、原因が変われば自ずと結果が変わるのです。

すべてはひとつ、真実もひとつ、あとは非実在です。

2008年05月14日 | Weblog
あの世にも、この世にも、天国地獄はありません。
実在する中に幸・不幸もありません、不自由、不平等・差別もありません。
個人の頭の中の思いですから非実在になります、だから元々から無かったのに個々の思いが集まって常識化され、非実在で無いのに有る様に「思っている」だけです。

皆さんが幸せに思っている中には、人と比較差別して幸せに思っている人も大勢います。
また、競争して勝って幸せに思っている人も大勢います。
また、戦争やテロで英雄になって幸せに思っている人もいます。
また、人を責め立てて幸せに思っている人もいます。
また、良い悪い、優劣損得で判断して幸せに思っている人も大勢います。

人を排除して幸せに思っている人もいます。
人を陥れて自分が幸せになっている人もいます。
人を蹴落として自分だけがのし上がり幸せに思っている人もいます。

過ぎるほどに万物を犠牲にしてまで自分の幸せを得ようとしている人も大勢います。
過ぎるほどまで贅沢することが幸せに思っている人も大勢います。

人を殺してでも自分が幸せになろうとしている人もいます。
人のものを奪ってまで自分が幸せになろうとしている人もいます。
人を騙してまでも自分が幸せになろうとしている人も大勢います。
人を偽善で操り自分が幸せになろうと企んでいる人もいます。

それらの原因は、自分が幸せではないと思っているからです。
その原因は不平不満に思っているからです。
その集合意識がこの世の形になっているのです。
しかし個の思いが集まって形になっているのは実在ではありません、単にそう思っている人が大勢いるだけです。皆が皆ではありませんし、それぞれにばらつきがあります。
だから妥協が必要になり、妥協が正当化されているのです。

人の思いは人それぞれですから、万人のそれぞれの思いに差も違いもあります。
だから実在ではないのです、現れ出た事実だけが実在していることになりますが、それも単なる表現が結果・形になっているだけで、実在するのは命(意識・愛・光・神と言われるエネルギー)です。だから特別意識、特別な愛、特別な神(様)は非実在の偽善なのです。

これらを矛盾無く教えてくれているのが山田耕栄さんの完全真理です。
すべてはひとつだから分離することは出来ません。
すべては命・意識・愛・光・神だから差別はありません。
そして、すべての人が意識改革できるようにと、サイエンスである常温核融合エネルギー・意識エネルギーを形にした製品がこの世に始めて商品として現れてきたのです。
だから世界初の製法による世界初の製品・商品なのです。

この世で始めての完全真理を言う人が現れたことは、必ず出来るから言うのです。
出来ない事を言えば偽善になりますから、元の始まり最初から完全真理を言う必要もありません、単に人寄せパンダ・奇跡現象を使って人を引き寄せるだけで十分です・・・此れまでがそうだったようにです。
真実もひとつです。その真実を知るものが真実を言えるのです。それが山田耕栄さんです。




田舎と町中の当たり前の生活の違い

2008年05月13日 | Weblog
過疎地で田舎暮らしをしていて気楽なのは、衣食住・生活環境に派手さがあまり無くて地味な生活が当たり前に出来ることです。
私の場合は質素倹約・エコ生活をするために田舎で暮らしていると皆に言っていますから、リサイクル品や使い古したものでも平然と使い切っています。
リサイクル品では・・・動作しなくなった排水弁を針金で引張って排水している二層式洗濯機を自慢して見せているし、フィルタ式掃除機なんか相当古いものですから珍しがられるし、ガスレンジやオープントースターも焼け焦げやサビや腐食している箇所が目立ちますが、ちゃんと役目を果たしてくれています。 小汚い小型冷蔵庫も機能的に役立っています。 めったに使わないがモーターカバーの壊れた扇風機もあります。
廃屋だったから部屋・窓・畳や壁も調度品も古く、すべてがオンボロですから汚れが気になりません、だから精出し綺麗に見せるものはいっさいありません。オンボロが当たり前だからです。
シミがついている下着でも着心地が悪くなるまで着用しているし、バスタオルも生地の端が磨り減ってボロボロになっていますが、新しい方のバスタオルより肌にやさしく馴染んでいるし、吸水性がよくて重宝しています。
それに寝る時の母屋と風呂以外はすべて靴を履いたままで生活が出来るようにしていますから、日々の清掃や整理整頓は殆どしないで来客があるときに掃除するだけで十分です。
このような生活を「みじめ」と思う人がいても当然ですが、私はそんな自分を好きになったし、そんな生活を大いに楽しみ喜んでいます。

妻が居残っている家の中も親戚兄弟の家の中も、山田耕栄さんの真理を実践している3児を持つ娘もですが、大型液晶テレビに大型冷蔵庫や自動洗濯機や真新しい乗用車や調度品や衣類に溢れ、室内やダイニングキッチンや風呂場の手入れが行き届いて清潔感に溢れていますし、玄関や庭などの外観も整っています。 
だから快適便利で豊かな衣食住の為の金銭的出費に比例して大型ゴミなどのゴミを出す量も多く、水洗便所の下水使用料金で水道代が倍になっているし、ガスや電気のエネルギーも私の10倍は使っているし、優れた食材も豊かだし、日々の衛生を保つための清掃整頓にも力を入れているから、それだけに公的エネルギーも私的エネルギーも相当に使っているようです。 そして仕事・収入もその分だけ頑張りますから、労的エネルギーも精神的エネルギーもそれだけ必要となりますから、それが過ぎたものとなっている今日では、あらゆる「エネルギー」の使いすぎはもはや当たり前ではなくなっているのです、公私共に深刻な(意識・エネルギー)問題なのです。

いつも玄関や部屋をきれいにし、台所や風呂場をいつも清潔にしたいのも当然です。
収入に余裕があれば新品に換えたいのもわかるし、何処までが必要か非かは人それぞれが決めることです。
でもお金があるから必要以上に贅沢するのは意識に問題があります。 また潔癖症の過ぎた綺麗好きや過ぎた衛生観念には問題があります。 そして人様に綺麗に見せよう、良く見せよう、良く見てもらおうと思ってやっているのも意識に問題があります。 他の人と優劣で比較するのも意識に問題があります。 それらは自己満足・自己主張・自己顕示したがる個人意識であり差別意識・特別意識の偽善になるからです。
良い悪い(善悪優劣損得)で分離判断せずに、当たり前・当然の事として普通にやっているのであれば不平不満も比較差別競争も無いから問題にはなりません。でも無理かも。

山にはゴキブリは居ないがクモやアリが多く時にはヘビやネズミやムカデも、夜にはガや虫が光に飛んでくる、一日であちこちにクモの巣が出来る、そのように汚れることが当たり前の田舎であれば掃除もおろそかになるし、(ご近所の衣食住も含め)贅沢は無くてオンボロで古臭いものばかり、野良仕事が主だからつぎはぎの衣服もしみや汚れが残る着衣も当たり前。 そんな風に古臭くても当たり前、汚れていても当たり前、暗い部屋や照明でも当たり前。 大金が無くても当たり前、不便でうす汚い生活が当たり前、しかし一歩外へ出れば自然の恵みの中にいるのが当たり前になる、それだから田舎暮らしなのかも知れません。

すべてに命・意識がありその姿形は表現体です

2008年05月10日 | Weblog
すべてはひとつで、すべてに命・意識がありその姿形は表現体です。
すなわち見えない命・意識の仮の姿が見える万物の姿形となっているのです。

例えばガラスが無ければガラスコップが形作れないように、ガラスが原因(命・意識)でコップは結果(仮の姿・表現体)なのです。

また宇宙万物「すべてはひとつ」ですから、実在するもののすべてが命・意識なのです。

命・意識は全知全能(エネルギー)がありますから、人が生きていくためにも必要なものが必然で生まれ作られています。 
しかも人は進化する必要があるから、昔と今とでは必要とするものの形内容が違っているし、次なる新たなものも必要になります。

例えば火を燃やす燃料が草木などの植物から石炭石油などの資源になり核燃料へと進化しているように、平行して衣食住も進化して当たり前なのかもしれません。

しかし多くの人が気付いていないのは、あまりにも急ぎすぎた、早く求め過ぎた、欲張りすぎた、使い過ぎた、等とその時々の人間の意識が原因で様々な問題が末期的状態で表面化しているのです。

例えば、生きるために一番大切な水や空気の汚れは、人間の意識の汚れが水や空気の意識に伝達記憶転写されて反映され、
それが鏡(作用)となって映し出されているとも言えるのです。

すなわち人間の汚れた意識を水や空気が人間に見えるように表現して見せて教えてくれているとも言えるのです。

だから空気や水に限らず人間の意識の有り様があらゆるものに反映されているのです。
だから偶然や奇蹟ではないのです、すべて必然で起きていることなのです。 

天変地異・自然災害や人身災害・事件事故・病気などや倒産リストラも、生まれ死ぬことも、人殺し戦争もテロも、すべての事があらゆる意識が絡み合って現れた結果だから偶然ではないのです。

その点で言えば世界中のニュース報道は人間の意識・集合意識を忠実に表現してくれているのです。

その原因と結果は意識にあるのです。

ちなみに欲し求め過ぎた、待てずに早く欲しがった、強欲になったことで自然界も人間界も変になってしまったのです。 

必要以上を望めば必要以上にエネルギーを消費します。

それが天然資源や動植物の命・意識エネルギーの犠牲を必要としたり、
原因である人間(肉体・精神体・感情体)の意識エネルギーの使い過ぎになるのです。

だから自然災害・人的災害災難の有事に遭遇するのも、ノイローゼ・うつ等の精神病になるのも、自分が困った事に陥るのも、成るようになるのも、すべて意識が原因の必然・結果の現れです。

満足を知るものと満足を知らないものとは大きな違いが結果に出ていますし、此れからも更に違いが拡大していきます。 

また矛盾の中の中途半端な妥協で我慢している自己満足や、矛盾があるのに言い訳正当化して「私は正しい」と自己主張・自己顕示して生きているものには思いやり優しさの感謝が有りません。 

その矛盾が有る中途半端な意識とは違う「あるがまま」の普通意識になるには「良い悪い」の分離意識を無くして不平不満を持たないようにすることです。

また努力し頑張りして求め過ぎる、また持ったものを守り過ぎる、その過ぎた意識が自己満足・偽善の結果になります。

ところがその人にとって相応しものであれば・成り行き任せの必然ご縁で必要とするものが必ず得られますから、急ぎあわてずに時を待つことも大切です。 

また待って得たものには喜びと感謝の心があるはずです。 

単なる自己満足で終わるのか、ありがたい感謝の心になるのか、そこに意識の違いがあります。

(2008・05・10投稿リメイク版)

相手を思いやる、思いやり、優しさ、感謝

2008年05月08日 | Weblog
お金第一主義の生活の安定を意識している人達に良い悪いを持たない実践真理を紹介してもなかなか理解できません。あれこれと言い訳正当化して反発否定拒否されるだけです。

それにもめげずに?・・・価値の転換・意識改革が進んでいくほど不平不満が消えて心が安定し、それが生活の安定にもつながってくる事実を私の年金暮らし・田舎暮らし・スローライフ・エコ生活の実践を通しても紹介していますが、それも他人事ですからなかなか理解できません。まして想像するだけですから無理もあります。たとえ私の生き様を目で確かめてもたぶん理解できないと思います。自らが良い悪いを持たない実践・触れ合いで実感するが必要なのです。
そして勘違いされやすいのが、私の生活様式を真似しなさいと勧めているのではありません。あくまで新たな価値・意識の事を私の実践から書いているのです。

食って寝て糞をするだけのような生活にも他人様と接し触れ合うこともあります。
3ヶ月前に昼間から呑気に犬と散歩しているときに、顔見知りの人から暇なら作業を手伝いに来いと誘われ、今も土木作業や建築作業の下手間から草刈・草抜き掃除清掃作業などに誘われて出かけています。田舎暮らし8年目で初めてのことです。
それもこれまでのように自主性で動いているのではなくて、幾らかの労賃が伴うので何かと指図命令注意されてそれに気遣い従う必要があります。
ところがそれほど難しい事を言われるのではないから、暑かろうが寒かろうが天気が悪かろうが汚かろうが疲れていようが、命令指図されたことに快く「ハイ」と答えて気遣い従い働くのも当たり前ですし、勘違いされて不本意な事や注意を言われても「ハイそうですね、判りました」と答えます。 言い訳や正当化するほど相手の気に障ります。 だから素直謙虚が必要なのです、それが欠けているのが個人意識の強い人達です。

今まで何日間働いたか記録メモしていません、朝8時から午後6時までの一日幾らの労賃かも聞いていません、相手任せですから計算高く損得勘定しません、何日分か与えられた金額だけありがたく頂いております、そして私から出した条件である昼の弁当はありがたく頂いています。

たぶん雇っている側は損得勘定で得をしていると思っているでしょう。
だから何度も私の働き場所を探し与えてくれているのでしょう、だから手まめな手作り弁当を与えてくれるのでしょう、だから笑顔で互いが話し合うこともできるのでしょう、だから私に労賃を払うのでしょう・・・すべてがありがたいことなのです。
もし反対に損得勘定で損していると思われているのなら私も辛い立場になります。
今までのように笑顔で話し掛けてくれることも無くなり、何かと疎んじられてご機嫌が悪いことになるでしょう。 そんな仕事場・働き口になれば私から笑顔が消えて、精神的にも肉体的にもしんどい事に変わるでしょう。 
だから相手が得するように配慮することで自分の存在・価値が認められることにもなるのです・・・自分を認めて欲しければ先ずは相手の立場を思いやり配慮し認めることも必要なのではないでしょうか・・・だから良い悪い、優劣、損得の判断を自らが差し込まなければ、それが相手を思う「思いやる」優しさ、感謝になるのです。  


田舎暮らし…価値の転換・意識改革

2008年05月03日 | Weblog
世間的なしがらみや趣味嗜好娯楽・刺激から離れて、ただ食って寝て糞をするだけのような田舎暮らし・スローライフ・エコ生活・年金暮らしとしてネットに紹介していますが、その一風変わった内容を素直には理解しがたいと思います。
幼い頃から馴れ親しんだ地元の老人達ならいざしらず、数年前まで町中で派手なカッコいい生活をしていたものが何ゆえに満足しているのか?・・・あれこれ読んだところで合点がいかないかもしれません。何故なら、実際に触れ合い味わっているのは私であって皆さんではないからです。

皆さんが理想に思っている田舎暮らしは、今までの快適便利な生活スタイルを田舎に持ち込んでおき、あとは目玉である自家菜園や散策や趣味を存分に楽しみたいのではないでしょうか? または田舎レストランや何かの工房を開いて世間に注目される存在になることを思い浮かべていたり、同じ仲間を集うグループ活動的な夢を持っていたりするかもしれません。 しかしそれで成功している人は極まれですし、それも単なる自己満足だったり、人と接する気疲れでストレスが潜在していたり、未経験の領域に踏み込んだものの多くが馴染めずに苦労していたり、実状は見た目ほど面白くないのにはた目では楽しんでいるように装って見せ掛けているのかもしれません。
自分さえ良かったらの自己中心・個人意識(自己主張・顕示、自己満足)や良い悪いの分離意識のままで田舎暮らしを続けても、以前と変わらずに不平不満の生活が継続延長されるだけにならまだしも、不便・不適・不衛生などから家族夫婦関係・人間関係の亀裂やすれ違いから、夢と現実が噛み合わないままに笑顔・感謝の乏しい生活になる可能性が十分あります。

戦後の高度成長以来お金第一主義が長く続いて、お金さあれば何でも出来る意識が高まり、お金さえあれば欲しいものが何でも買えるようになり、中にはお金で健康が買える意識の高まりや、輸血や人工移植によって命さえも買うことができる医療制度が当たり前になっております。 
そして、世界では貧困が原因で大勢の人が飢えや病気で死んでいるのを知っていながら、身近な一人の命を救うためにだけ募金活動して集めること(命に差をつけること)が美談にもなっています。

お金がお金を生む資本主義の経済発展が生活の安定になる経済主義が蔓延している中で、(心休まると思っている田舎暮らしに憧れて)単に暮らしを田舎に移しただけでは「心のやすらぎ」は得られません。 何故なら「生活の安定」が先にあり、「心の安定」が後になっているからです。 命は一つ、意識は一つです、二つ同時には働きません、だから先に意識した方向性に向いていくのです。 二つの事を交互に働かせると矛盾してくるから、どうしても中途半端な妥協になりますから、生活の安定と心の安定が得られているように思う自己満足や、見せ掛けの自己主張や自己顕示で終わります。

先に価値の転換・意識改革を学び知ることから「心の安心安定」を得る事が出来ると、後から自ずと(自然体で)「生活の安心安定」を得る事が出来るのです。
心の安定に必要なのが不平不満を持たないこと、すなわち「良い悪い」で分離判断評価差別しないこと、ゆえに人を責めたり自分を責めたりしなくなる、そして未練執着・こだわりがなくなる、ゆえに幸とか不幸とかに分離して思わなくなる、「そのまま、このまま、あるがまま」に事実を見て、今を生きるようになる。

望む事が多い生活の安定から望む事が少ない心の安定に価値・意識が移行すれば、少なくとも「お金に支配」されなくなり、それが人に支配・制限されなくなり、見栄や世間体や人間関係が気にならなくなり、気疲れしなくなり、心の健康と体の健康が得られ、心の安定が生活の安定になります。