私達が欲張ることで虐げられる人が必ず出てきます。
そのことは誰でもが気付いているはずです。
しかし欲張った者が勝ちとばかりに皆して欲張り続けています。
然るに人間として生まれたからには誰もが自分さえ良ければのその欲を持っていますから、その大なり小なりの欲を持った人が世界中のいたる所に実在していて、その居場所で皆してドングリの背比べが如くに欲張り競争を続けています。
然るにその欲張った結果からしてその加害者にもまた被害者にもなるその矛盾関係がいつまでも続いて、その苦楽&喜怒哀楽で生き続ける事にもなっていますから、然るに満足納得する事無くそれを繰り返し続けます。
そしてその結果を見る人の意識によっては(立場によって&人それぞれにして)天使にもサタンにも、また正義の味方にも極悪非道の輩にも、また親切な優しい人にも憎たらしい人にも、その加害者側にも被害者側にもなるその矛盾を繰り返します。
また欲張ったことからして富む者が世界中にいることは、過去の奴隷制度や身分制度や小作人制度と同じくして(こき使われる関係になり)自由を束縛制限され比較差別されている者や、またその結果からして貧困に喘いだり食うにも困っている者が世界中のいたる所にいることにもなります。
またその富む者が貧困飢餓の者を見て気の毒可哀そうに思って施しをするも、その富む者がその加害者であることを気にしていませんから、それで善を成したとばかりに自己満足しています。
そして神仏霊魂の信仰宗教や精神世界に係わるも、それさえもご褒美欲しさの欲絡みになっていますから、然るに信じて頼って(信者意識&他力にして)救われて心身が楽になりたいその欲絡みからしての信仰行動になります。
然るに何で欲張ることから卒業できるでしょうか!
然るにその欲張る邪な我が意識のその醜さ穢れに自らして気付き、そこでその精神意識心を悔い改めて、そして玉ねぎの皮を剥がすが如くにして己の精神意識心を磨き高めることが無ければ、然るにこの世に人間として生まれ出たその役割使命を果たせずにして、然るに善と悪の矛盾からしての苦楽を味わう事になり、その中の不自由&不平等&差別関係となるのその加害者にも被害者にもなるその繰り返しを続ける事になるのです。
ところがその欲張ることをやめてもそれが当然だけに何のアメ玉ご褒美もありません。
然るに実践するにもその魅力に欠けています。
その魅力もアメ玉ご褒美が無いのにそれでも読み続けるだけの意識を持っているならば、然るに欲張ることをやめる実践に近づくための(一歩手前の)学び知り気付くことが出来る意識、然るに実践できるその意識になっている証かもしれません。
そのことは誰でもが気付いているはずです。
しかし欲張った者が勝ちとばかりに皆して欲張り続けています。
然るに人間として生まれたからには誰もが自分さえ良ければのその欲を持っていますから、その大なり小なりの欲を持った人が世界中のいたる所に実在していて、その居場所で皆してドングリの背比べが如くに欲張り競争を続けています。
然るにその欲張った結果からしてその加害者にもまた被害者にもなるその矛盾関係がいつまでも続いて、その苦楽&喜怒哀楽で生き続ける事にもなっていますから、然るに満足納得する事無くそれを繰り返し続けます。
そしてその結果を見る人の意識によっては(立場によって&人それぞれにして)天使にもサタンにも、また正義の味方にも極悪非道の輩にも、また親切な優しい人にも憎たらしい人にも、その加害者側にも被害者側にもなるその矛盾を繰り返します。
また欲張ったことからして富む者が世界中にいることは、過去の奴隷制度や身分制度や小作人制度と同じくして(こき使われる関係になり)自由を束縛制限され比較差別されている者や、またその結果からして貧困に喘いだり食うにも困っている者が世界中のいたる所にいることにもなります。
またその富む者が貧困飢餓の者を見て気の毒可哀そうに思って施しをするも、その富む者がその加害者であることを気にしていませんから、それで善を成したとばかりに自己満足しています。
そして神仏霊魂の信仰宗教や精神世界に係わるも、それさえもご褒美欲しさの欲絡みになっていますから、然るに信じて頼って(信者意識&他力にして)救われて心身が楽になりたいその欲絡みからしての信仰行動になります。
然るに何で欲張ることから卒業できるでしょうか!
然るにその欲張る邪な我が意識のその醜さ穢れに自らして気付き、そこでその精神意識心を悔い改めて、そして玉ねぎの皮を剥がすが如くにして己の精神意識心を磨き高めることが無ければ、然るにこの世に人間として生まれ出たその役割使命を果たせずにして、然るに善と悪の矛盾からしての苦楽を味わう事になり、その中の不自由&不平等&差別関係となるのその加害者にも被害者にもなるその繰り返しを続ける事になるのです。
ところがその欲張ることをやめてもそれが当然だけに何のアメ玉ご褒美もありません。
然るに実践するにもその魅力に欠けています。
その魅力もアメ玉ご褒美が無いのにそれでも読み続けるだけの意識を持っているならば、然るに欲張ることをやめる実践に近づくための(一歩手前の)学び知り気付くことが出来る意識、然るに実践できるその意識になっている証かもしれません。