孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

このブログにアメ玉&魅力は無く、それでも読まれているならば実践意識になっている証かもしれません。

2014年03月31日 | Weblog
私達が欲張ることで虐げられる人が必ず出てきます。
そのことは誰でもが気付いているはずです。
しかし欲張った者が勝ちとばかりに皆して欲張り続けています。

然るに人間として生まれたからには誰もが自分さえ良ければのその欲を持っていますから、その大なり小なりの欲を持った人が世界中のいたる所に実在していて、その居場所で皆してドングリの背比べが如くに欲張り競争を続けています。

然るにその欲張った結果からしてその加害者にもまた被害者にもなるその矛盾関係がいつまでも続いて、その苦楽&喜怒哀楽で生き続ける事にもなっていますから、然るに満足納得する事無くそれを繰り返し続けます。

そしてその結果を見る人の意識によっては(立場によって&人それぞれにして)天使にもサタンにも、また正義の味方にも極悪非道の輩にも、また親切な優しい人にも憎たらしい人にも、その加害者側にも被害者側にもなるその矛盾を繰り返します。

また欲張ったことからして富む者が世界中にいることは、過去の奴隷制度や身分制度や小作人制度と同じくして(こき使われる関係になり)自由を束縛制限され比較差別されている者や、またその結果からして貧困に喘いだり食うにも困っている者が世界中のいたる所にいることにもなります。

またその富む者が貧困飢餓の者を見て気の毒可哀そうに思って施しをするも、その富む者がその加害者であることを気にしていませんから、それで善を成したとばかりに自己満足しています。

そして神仏霊魂の信仰宗教や精神世界に係わるも、それさえもご褒美欲しさの欲絡みになっていますから、然るに信じて頼って(信者意識&他力にして)救われて心身が楽になりたいその欲絡みからしての信仰行動になります。

然るに何で欲張ることから卒業できるでしょうか!

然るにその欲張る邪な我が意識のその醜さ穢れに自らして気付き、そこでその精神意識心を悔い改めて、そして玉ねぎの皮を剥がすが如くにして己の精神意識心を磨き高めることが無ければ、然るにこの世に人間として生まれ出たその役割使命を果たせずにして、然るに善と悪の矛盾からしての苦楽を味わう事になり、その中の不自由&不平等&差別関係となるのその加害者にも被害者にもなるその繰り返しを続ける事になるのです。

ところがその欲張ることをやめてもそれが当然だけに何のアメ玉ご褒美もありません。
然るに実践するにもその魅力に欠けています。

その魅力もアメ玉ご褒美が無いのにそれでも読み続けるだけの意識を持っているならば、然るに欲張ることをやめる実践に近づくための(一歩手前の)学び知り気付くことが出来る意識、然るに実践できるその意識になっている証かもしれません。

「良くなりたい」そして「信じたい」その<欲>からしてヘンテコな世の中になっているのです。

2014年03月30日 | Weblog
大方の人は善を望み悪を憎みます。

然るにアニメの鉄腕アトムやブラックジャックが人気になります。
また時代劇の水戸黄門や暴れん坊将軍などに人気があります。
また恋愛物語や人生行路物語であればハッピーエンドでなければ消化不良になって人気が落ちます。

ところが自分が悪くなりたくてその悪いことを先に始める人はいません。

そして自分が良くなりたくて始めたことだが、しかし結果的には悪いことになる場合があります。
だから結果が良くなりたいその思いの裏が出て結果的に悪にもなるわけです。

然るに善の心からして悪の結果が出ることもあるわけです。

だから泥棒をしたり人殺しをするのも元は(原因は)良くなりたいからです。

然るに貧困に喘いでいる人を見かねて(善意からして)金持ちから泥棒をしてそれを分け与える義賊(ねずみ小僧)を正義の味方の如くにして褒め称えることも人情としてあります。

然るに現状に反抗抵抗する組織や秘密裏に戦闘工作する者や暗殺狙撃手や民間組織の地下組織や義勇団やまた自爆テロや体当たり特攻隊が味方側であればその成績成果を褒め称えることになりますがそれが敵側だと憎しみ怒りまた仕返し報復することにもなります。

そのテロ戦闘戦争も良くなりたことからして始まり、そして勝てば官軍で負ければ賊軍の結果になるわけです。

そして英雄ヒーローにもなるがその反対の裏切り者や罪人悪人や反逆者や異教徒&異端児&魔女サタン&極悪非道に呼ばわれすることもあります。

ところがしかし、それらの結果はまだ途中の結果であってこの先で様々に変化していく事に気付いている人も少ないことでしょう。

然るに善に思っていたことが悪になったりまたその反対があったりもします。
また真相が究明されて善人が悪人だったりまたその反対もあったりします。

ところがその「良くなりた」その欲な思いが無ければ何の問題も起きません。
然るにその良くなりたい思いが<欲>だと自覚できている人は少ないはずです。

また信じる裏に不信があります。
然るに誰もがその不信を持っていることに気付いているはずです。

だから自分の都合&欲目からして「良くなりたい」その思いからして誰かに頼ることになれば必ず持ち前の不信感が出てきます。
しかしその不信感のままでは人に頼れませんから、そこで「信じる」(信じたがる)ことが必然になるわけです。

然るに欲心が無ければ望むことも信じること(信頼する)にはなりませんから、然るに元からして不信感が出てくるはずも有りません。

然るに信じたがるのも不信感が原因であり、しかも「欲心」からしてです。

だから「良くなりたい」&「信じたい」その<欲>が出ることからしてヘンテコな世の中になっているのです。

然るにその欲を出さないようになれば自由平等調和になります。
とは言っても皆一緒は到底無理ですから、然るに欲張ることの愚かさに気付いた者からして(自らの為にも&他のためにも)その実践をするしかないのです。

欲張ることから卒業しない限り(元は神意識の人間の心は正直ですから)納得が出来るはずも無いのです。

2014年03月29日 | Weblog
私達が欲張ることからしてその私達よりも弱い者を(支配者の如くにして)(奴隷が如くに扱い)(身分制度や小作人や使用人が如くにして)結果的に(都合よく&便利に)こき使うことになり、そしてその上に立つ私達が豊かになっている事実があります。

然るに過去の奴隷制度を正当化していた頃は、然るに飢え死にしている黒人を食べさせることが出来るから、その見返りに動労奉仕に従事させることからしてその国家経済が発展し国家国民生活が潤う事になると正当化していました。

ちなみにその過去の奴隷制度や身分制度や小作人制度の形が消えていても、しかしそれと似通った事柄が(アメとムチを与えることが)正当化され平然と行われています。

ちなみに一般的な事例として「美味しい牛乳」「美味しい肉や卵」を私達がたらふく食する為に使われているその輸入穀物からしても他国の弱い者を虐めていることにもなります。

また人件費の関係からして他国に進出する企業のお陰で低価格の製品商品が大量に消費されていますが、しかし進出した国の経済弱者&弱い者をアメとムチでもって更に(結果的には)虐めているようにも思います。

然るに童話昔話の欲張る爺さんや婆さんが(私達が)その弱い者を虐めることになる「意地悪じいさんやばあさん」でもあり、また搾取略奪する「赤鬼青鬼」でもあり、また時代劇の「悪奉行や悪徳商人」(欲得の利権者)のようでもあります。

そこで精神世界に目覚めたものが心を入れ替えてその欲バリ集団から抜け出すにも(欲張ることが正当化されていますから)余程の(修行が如くの)覚悟が無ければ無理になります。

然るにその罪悪感を隠し持って仕方なく生きることにもなります。
そして皆の前では心優しい善人ぶって(見せ掛けて)その偽善で生きることにもなります。

しかし欲張ることから(精神的にも形の上でも)抜け出せていませんから、然るに真面目な人ほど心の中では(潜在的にも)穏やかではないはずです。

然るにそこで実践が無いままに神仏霊魂の信仰宗教や精神世界に係わることからして、その精神&美しい心を持っているとばかりに美化してその言訳&言い逃れにしたり、己の心&罪悪感を偽善でもって自慰的に慰めているようにも思えます。

然るに神仏霊魂を信じてひたすら祈り続けたりまた過ちの許しを請うもしかし自らが納得できていないはずです。

然るに欲張ることから卒業しない限りにおいて(元は神意識の人間の心は正直ですから)納得が出来るはずも無いのです。

だから釈迦が邪な欲に惑わされない為の修行を幾ら積み重ねてもそれが無理で無駄だと悟ったのです。

然るに其処で欲心が出たことに内心で気付けば、それを表外に出して無理に欲張らなければ&執着しなければ、その時点からして内心の欲が次第に消えていくのです。

然るに何がしが欲かを自らが見極め見定めてそれに気付けるようになれば、然るに小さな欲にも気付けるようになれば、その欲を出さずにして一旦終わります。

そしてその繰り返しからして次第に内なる欲心さえ出てこなくなります。
然るに知識で覚えるよりも先ずは馴れることから始めればいいのです。

然るに頑張り見栄張り欲張りしないままに、無理無駄余計なことをしないままに、その呑気気楽楽チン&省エネにして、然るにタダ食って寝て糞をしているだけが如くの生き方が次第に性に合ってそれが板に付くのです。

そして必然ご縁に限ったその成り行き任せにすることで(思惑期待することも執着することも無く)(自分さえ良ければの不完全意識ながらも)心穏やかな平常心でもって長く生き続ける事が出来るようにもなるのです。

欲張り続けている私達は童話昔話の「欲張り爺さんや婆さん」「赤鬼や青鬼」にあたります。

2014年03月28日 | Weblog
大なり小なり欲張り続けている私達は、然るに他の者を丸め込んだり蹴落としたりと両刃を使っています。

然るに欲張る為にはアメとムチを使い分けます。
しかも幼い子を含めたその家族同士でも同じ事をしています。

そして欲張ることが罪悪とはそんなに思っていません。

しかしながらそれを例えば
童話の昔話に登場してくる「欲張り爺さんや婆さん」になります。
そして鬼退治の桃太郎から見れば「赤鬼や青鬼」にあたります。
またシンデレラから見れば「こき使う親娘」にあたります。

テレビドラマの水戸黄門からすれば「悪代官や悪徳商人」になります。
また海外ドラマの時代劇であれば、然るに罪人や奴隷やまた貧民や領民を食いものにする貴族や大富豪や大地主、また儲けるためなら何でする貿易商、然るに密貿易商人や人身売買の奴隷商人の如くと同じになります。

然るにそれら憎たらしい役柄を私達が平然としていることに気付いていないのです。

然るに両刃を使っていることからして自分が加害者にもなりまた被害者にもなっているから、然るに虐める側と虐められる側の両方を同じように味わっているからしてそれが悪い事と自覚できないようです。

また欲張り続けることの成り行きからして知らないまに蹴落とした形になった人々を(報道などで)見て、そこで哀れ気の毒に思い(然るに)お金や物品や人力でもって施すというその偽善&矛盾にも気付いていないようです。

また大は大なりに背比べしているし、小は小なりに背比べしているし、その大も小も同時に入り混じっているから、そのことで心身が精一杯になっていて気付けないのです。

しかもその先の行き着くところが他者破壊や自己破壊やまた自然環境破壊や地球人類の破壊滅亡に繋がっているというその危機感に乏しいのです

然るに欲張ることは意地悪爺さん婆さんや赤鬼青鬼やの悪人であり、また財産を持つ者が時たま施す偽善であったり、また悪代官や悪徳商人や悪魔サタンの手先でもあったり、また地球人類滅亡に至る道筋のその張本人にもなるのです。

そして貴方が欲バリ爺さん婆さんとなって人を苦しめ憎まれ恨まれ嫌われしながらもそれが(我が身に降り掛かり)貴方自身の首を絞めていることにもなっているのです。
然るに自らの意識からして(赤信号を渡る)(自らの首を絞める)「自滅の道」を突き進んでいることになるのです。

「欲が我が身を滅ぼす」「人を見て我が身を振り返る」「人間関係は利害関係」

2014年03月27日 | Weblog
此れほどまでに「欲尽くし」を書いているのに誰一人として文句を言って(書いて)きません、何故でしょう。
然るに皆さんは既に「欲が我が身を滅ぼすこと」を心の中で(潜在的にも)悟っているのです。

しかしその実践となるとその欲が出てきて邪魔をする矛盾があるのです。
また此れくらいの欲ならば私は大丈夫とばかりに手前勝手に判断している場合もあります。

また「愚痴を言わぬがまし」「怒れば損」然るに「知らぬが仏&ほっとけ」と既に悟っているはずです。
それなのに何で愚痴小言を言うのでしょうか、何で怒るのでしょうか、何で見過ごせないのでしょうか?
然るにそれが損をしたくない「利害関係」なのです。

然るにその利害関係が無ければ街中で人とすれ違っても何ら問題にはなりませんが、しかしぶつかったり衝突すれば其処で利害関係が生じます。
そして謝罪があれば許せるかもしれないが、その謝罪が無ければ腹立ち怒りにも喧嘩争いにもなります。

だから孤独だとその利害関係が起きないのです。
また成り行きからしての必然のご縁であればその結果も成り行き任せになりますから、然るに前もっての思惑期待の利害関係とは異なります。

然るにこの世に利害関係が無ければ自由平等調和になるのではないでしょうか、
だからせめても家族の中に利害関係が無ければ家庭平和にして平穏に暮らせるのではないでしょうか、
ところがしかし幼子からしてまでも欲張ります。

また「人を見て我が身に振り返れ」と言われるように
ちなみに私は愚痴小言を言う人が嫌いでしたから、然るに私が愚痴小言を言うことはありませんでした。
また人から押し付けられるのがイヤでしたから私も人に押し付けませんでした。

また私に必要なことは自ら動いてその自力で何とかしてきましたから、然るに自分の都合からして妻や家族に押し付けたこともありませんでした。
そして愚痴小言を聞くのがイヤでしたから、その為にも妻や子供の要望を出来る限り聞き入れてきましたから、そこで何とか穏やかに暮らしてきました。

然るにその分だけ自力とその創意工夫からしてそれが自信にもなりましたから、尚更に他力に頼ることになりませんでした。
然るに過疎地での単身生活が可能にもなったわけです。

また知りたがる&やりたがるその性格からして自由にしてきましたから、然るに家族や係わる人様にも自由を尊重してきました。
然るにそれが成り行き任せにもなりました。

然るに欲が我が身を滅ぼすことを自覚しているならば、然るに欲張らずに気楽に生きることを望むのならば、我が身の為にもその実践をすればいいのです。

そして我が身の為にしたことが(欲張らなかったことが)(後々までも&後世までも)(結果的には)家族や人様に迷惑をかける利害関係も少なくなるのですから、その人様や家族の為にも遠慮しないで実践すればいいのです。

そこで理解納得のために書き添えますが、
ちなみにそこで欲張り続けることを選んだ家族や人様の立場に置き換えればどうなるでしょうか? 
当然ながら、その人が欲張れば欲張るほどにその人の家族や他の人様にもその累が後々までも及ぶことにもなり、然るに真面目にして謙虚質素に生きている人を邪魔している形にもなり、然るにどうしようもない&何ともし難いおかしな事になっているその現実史実があります。

だからそれら家族や身近な人を気にすること無く実践意識になった者からして(後々&後世の為にも)独自に実践していくしか他に道は無いのです。

また此れまで欲張ることの繰り返しからして自然環境の悪化と人間関係の崩壊が進んできただけに、ここらで心を入れ替えて、その欲張らない生き方を自らの意識でもってして味わう時が来ているとも言えるのです。

信じる裏に<欲>があり、然るに生き辛いことにもなっている事実があります。

2014年03月26日 | Weblog
他力に依存することの不完全さは、その他力を信じる裏に不信感が隠れ潜んでいるその矛盾からしてです。
然るにそれが信じるか否かになり、その裏に善悪&優劣&損得で判断してその良いとこ取りをしたがる裏心が潜んでいて、然るに自分に都合が良いか悪いかの判断が加わっています。

然るに損するか得するかの損得計算からなるその欲絡みなのです。

然るにその欲が無ければ絶対的に信じるか否かになりませんで、そのまま・このまま・あるがままにほっときます。

だから他力を信じて頼るのも欲からしてです。
然るに特別な神仏霊魂を信じて頼るのも欲からしてです。
また不確かな見えない世界&精神世界&神懸りを信じるのも欲からしてです。

ちなみに巷の冠婚葬祭に信じるか否かの神仏が係わるのも、その神仏を信じることで自分の都合が良くなりたいその欲絡みからです。

だから私はその不確かな矛盾のある神仏霊魂が係わるその(欲得&見栄世間体&欲絡みの)冠婚葬祭の必然性か見当たらない違和感からして(完全真理の実践意識からして)その参加参列をやめています。

ところで(皆さんは)己の死後にお寺さんや教会の祭壇に祭られるその葬儀を望みますか、
また多くの花輪献花や供養物に飾られ、そして多数のお坊さんに見取られながら、またご縁のあった多くの人から別れを惜しんでくれることを望みますか、
また死後の戒名が必要ですか、また命日などの法要を望みますか、然るにお墓や仏壇に祀られることを望みますか、

然るに何故ですか? 何の意味があるのですか?
またそれらの必然性に自信確信納得できていますか?

然るに己の意識が原因からして死後も成るようになるだけなのに、何で不確かな矛盾のある神仏霊魂の他力を信じてまで(欲張ってまで)自分の都合が良くなることを願うのでしょうか、

然るに己に自信が無いから(不確かでもいいから)(念のために)(信じている振りをして)その他力で補いたいその欲からしてでしょうか、

となれば精神世界に係わることで己の自力自信精神力を高め磨くことでは無くして、信じるか否かの他力を信じて頼って自分の都合が良くなりたいために(その欲のために)係わっていることになり、然るに自力自信精神力の欠如した信者意識&信仰心となります。

然るに信じているその裏が出れば裏切りになります。
ちなみに私が信仰宗教や冠婚葬祭に馴染めずに違和感を感じていたことは、どうやらその信じることの間違いに気付いたその過去性を持っているようです。

そこで信じていなければ成るようになるだけです。
然るに自然体にして(欲の無い)成り行き任せになります。

ところが欲張るほどに心身の疲労&ストレス&心の痛みが伴います。

また信じて頼るその他力に依存期待することで(思い通りにならずにして)(期待を裏切られて)精神心を乱すことになり、然るに不安心配や怒り恨み妬みジェラシーが伴うことにもなります。

然るに安心安全の心持&生き様が味わえずにして、然るに生きてはいるが事実にして生きていない、然るに生き辛い日々の繰り返しがいつまでも続く事になります。

自力自信精神力の弱い人ほどに邪な輩が説くアメとムチのある神仏霊魂を信じて頼りたがるようです。

2014年03月25日 | Weblog
自力が少なければその分だけ他力に頼りたがりますから、その生き様は他力依存型になり、然るに生きていてもその味わいが薄れます。

そして特別な自力の人、ちなみに凄い人を羨み憧れ慕い尊びまた信じて頼りまた期待することにもなります。
また立役者主人公や英雄ヒーローや奇跡の人が表れ出ることを待ち望むことにもなり、またそれらの人の足下に喜んで集ることにもなります。

ところで持ち前の個性からしての体形体力や能力技能は人それぞれですから、然るに力持ちとか早く走れるとか泳ぎが上手とか木登り山登りが得意などと様々な特技分野があっても当然です。

ところが歩くも走るも出来るのに歩きたがらない走りたがらないのであれば自力不足になります。
また木登り山登りが出来るのに疲れるとか下手だからとやる気が失せればそれも自力不足になります。
また水を怖がる、然るに泳げないのも自力不足になります。

然るに暗闇が怖い、高所や地底が怖い、洞窟が怖い、狭いのが怖い、一人ぽっちが怖い、然るに寂しいのが怖い、また獣や犬猫畜生の類や昆虫の類やまた食中毒や伝染病を怖がることからしての微生物ばい菌や不衛生を怖がるのも自力不足になります。

然るにその分だけ他力に頼りたがりますし、また自ら自力で成すことが少ないから、当然ながらそれら自然界の有り様をしっかり味わいまた楽しむ事も少なくなります。

そして恋愛や結婚は自分の立場都合見栄が良くなるためのその欲絡み&性欲絡み&他力絡みになっています。
然るに巷の人間関係も欲絡み他力絡みになっています。

だからそれらの苦楽が伴いそして自由も制限束縛されまた否定反発し合う関係や裏切り合う関係にもなっています。
然るにそれも自力自信の精神力不足からしての他力依存が原因になっています。

また趣味嗜好娯楽も自力自信の精神力不足からしての現実逃避とその他力依存が絡んでいます。
然るにその依存症が現れ出ています。

そして生きているからには怪我も病気もまた死ぬことにもなります。
しかしそうなる前から恐れ怖がりまた用心し過ぎるのも自力自信の精神力不足ですから、然るに他力依存にもなります。

その他力依存からして様々な物品製品器具道具に頼ったり、また医薬品や医者医術に頼ったり、また難手術ともなれば神の手を持つ医者に頼りたがったり、また占い予言予知に頼ったり、また神社仏閣教会教団に救いを求めたり祈願したり神がかり奇跡に頼りたがります。

然るに自力自信の精神力の弱い人ほど(実在していない)(アメとムチのある不完全な)(邪な輩が説く)神仏霊魂を信じて頼りたがるようです。
ちなみに自力自信の精神力が弱い人ほど他力依存にして欲張ることが多いのかもしれません。

然るに自力自信精神力からして成すことが少ないから、その分だけ生きていることに満足納得できずにして、その中途半端な結果のままを何度も繰り返し終わっているようです。

皆さんが精神世界を学び知り気付き納得確信悟りに至りその実践が出来ている事柄に何があるのでしょうか、

2014年03月24日 | Weblog
皆さんが精神世界を学び知り気付き納得確信悟りに至りその実践が出来ている事柄に何があるのでしょうか、
ちなみに私は此れしか無いとばかりに欲張らずにして心身ともに気楽に生きることを意識してその実践中です。

然るに欲張り頑張り見栄張ることにもなりませんから、然るに他力に依存すれことも少なく、然るに持ち前の自力を多く使うことになり、然るにそれで生きている価値を味わえるようになりましたから、然るに孤独からしての孤独感を味わうことにもならずに、また己の思いのその価値観に惑わされないままに、その正味&価値を十分に味わえるようにもなりました。

また私が自由に思うがままにしていたいことからして人様を否定反発束縛制限することもありません。
然るに我が子家族と言えども私が余計な口出し手出し介入することなくそのままにほっといていますから、然るに私が気疲れ苦労することも無く、ただその成り行きを見守ることになります。

そして来る者は拒まず去る者は追わずの必然ご縁お仕組みに任せた、その成り行き任せの自然体からして、然るに前もって思い思惑理想目的を持つことも無いから、然るにその期待感を持つことも裏切られることにもならずに、また自分さえ良ければの個人意識&不完全意識の者同士が寄り集まるその人間関係に係わることも少ないことからして、然るに何事も起こらなければ(必然ご縁が無ければ)タダ食って寝て糞をしながら生きているだけのような生き様にもなっています。

また不確かで不完全で矛盾がある、然るに良いと悪い&アメとムチの使い分けがある神仏霊魂の世界に自らの意識でもって係わることもありません。

然るに世間的な冠婚葬祭や伝統風習に係わることもありませんから、然るに私がそれら面倒に巻き込まれたり、また私が人様を巻き込む事にもならないようにと、然るに私の生前から死後のことまでも含めて身近な人や地元の人にも前もってしっかり言い伝えてからの(必然ご縁に限られた)お付き合いになっています。

だから神仏霊魂の世界の不完全さに納得確信したとき以来(約13年間)それらに係わったことはいっさいありません。
また如何なる関係であってもお祝い事やお見舞い事にも係わっていません。

然るに不完全な人間関係の柵シガラミから離れています。
だから見栄や世間体を気にしたりプライドを守ることにもなりません。

然るに此れと決めたからにはその道一筋にして揺らぐことも無く、然るにそれだけの真面目さ真剣さ覚悟の元からして、その自力と自信の精神力でもってして迷うことも無く、その独自の生き方を通していますから、それら矛盾のある不完全なままにして中途半端な妥協や(有ったり無かったりする)いい加減な対処をすることにはなりません。

然るに世間の人から違和感や不信感や嫌悪感を持たれようがそんなことは気になりません。
だから世捨て人に思われても、また見掛けからして気の毒く哀れ可哀そうに思われようが、また見放されたような独居生活にしても、この先で孤独死無縁死&無縁仏になることも(成り行きに任せた)覚悟納得済みですから、何の拘り執着未練もありません。

然るにこのブログに書いていることの殆どが私の生き様からしての実感納得確信した内容であり、その書いている事と矛盾する生き様にはなっていません。
だから欲があっても欲張る事無く、その自由と孤独からしてのこのままがずーっと続くでしょう。

納得できない生き方ならば「今を生きて」いてもその価値が軽薄で心の奥まで届かないのです。

2014年03月23日 | Weblog
頑張り欲張り見栄張りすることの愚かさを根堀り葉堀り書いていますが、然るに心から納得できているのでしょうか、

また皆して欲張っている時代に自分だけが欲張らずにいると置いてきぼりにされることを心配もするでしょう、
そんな違和感&不信感からして守り意識となり、それを言い訳正当化&自己弁護することにもなっていることでしょう、

ちなみに偉人賢人超人魔人が如くの者が現れ出て欲を戒めて説くも、心底から見極め味わったことが無いからして、それら輩までが何かと欲張っている事実があるくらいですから凡人には尚更です。

然るにまた精神世界に係わるからには何らかのあめ玉ご褒美を期待している人が多いはずです。
ちなみに安心安全に守られたい、病気や悩みが解消されたい、また行動を共にしたり語り合う仲間が欲しい、または人並み以上の一角の人間になりたい、徳を積み重ねた人柄や人格者に思われたい、然るに世間に認められ多くの人に慕われ羨まれ尊ばれたいなどの欲があります。

しかも欲張らなければ、然るにこの世では生きていけない、また反対に苦労するのでは、また人から蔑まされるのでは、身近な人にほっとかれるのでは、そして先行きが気になる、然るに不安心配になるのです。

然るに違和感不安心配不信感からして納得できないからその実践が伴わないのです。
また知識や思い考えた道理理屈で納得できても実際に味あわなければ心から納得できないのです。

だからこの先も精神世界を意識して生きていく覚悟があるならば、先ずは自由な心持でして思い通りに動いてみることです。
然るに精神世界を意識しているその己の意識からして動けばその結果が良かれ悪しかれ納得できるのです。
その納得の繰り返しからして更に新たな気付きが起こりつつ前進していけるのです。

そして付け加えれば
如何なる偉人賢人超人魔人であれ、また如何なる立場状況の人であれ、この世で生きているからには、今の状況は途中結果であってその先は不確かなのは皆同じなのです。

だから己が納得できない生き方ならば、然るに「今を生きて」いてもその意味合い価値が軽く薄くて深みが無いのです。
然るに心の奥まで届かないのです。

そこで手っ取り早く結果が出る(精神世界とは異なる)(上辺だけの)趣味嗜好娯楽&変化刺激快感快楽のその苦楽の繰り返しを味わう生き方になっているのです。

他力依存と不自由と孤独感vs自由と孤独、その自由を味合わずにして何とする!

2014年03月22日 | Weblog
人間は自分の都合で生きているからして愛が憎しみにもなり、また好きが嫌いにもなります。
然るに人を愛するのも好きになるのも自分に都合がいい時だけです。
また好きになることが愛することになると思い違いしています。

だから自分にとって都合が悪い人を愛したり好きになることはまずありません。
そして好きな時は「あばたもえくぼ」に見えますがそれが嫌いな時は「えくぼがあばた」にも変わります。

然るに自分の都合で良くも悪くもなるその人間関係に何を望んでもまた何を成してもその結果もその都合で良くも悪くもなります。

なのに何で人間関係が重要なように言われるのでしょう、
然るにそれが他力依存とその期待感からしてとは思いませんか、

然るにその人間関係を大切に守ったことでその人間関係が進展して自由平等の調和にして事が運ぶようになったでしょうか、
ちなみに得手勝手な自分の都合でもって良くも悪くも(好き嫌いで)評価判断しているだけでしょう。

然るに自分さえ良ければの個人意識の人間関係からして自由平等の調和は望めませんから、然るにその自由さえも味わうことが無理になっているのです。

然るに自由が無いのに何で宇宙&神の愛意識&調和を味わうことが出来るでしょうか、
なのに何で宇宙&神&愛の精神世界を意識しているのでしょうか、

然るに此れまでの不自由の中での無駄なことを繰り返すことよりも先ずは確かな自由を味わうことが先決ではないでしょうか。

然るにその自由が味わえる立場状況になれなければ如何なる精神世界を学び知り悟ってもそれが自分のもの&本物として心から納得できるはずもありません。

然るに思い描くだけの絵に書いた餅を見詰めているだけ、また棚に飾っているぼた餅が落ちて来るのを期待しているだけ、またウサギが飛び出て切り株にぶつかるのをタダ待っているだけ、
然るに超人魔人が現れ出て結果を出してくれることを願い期待しているだけにして、然るに自力でもって事を成すことよりも他力的に望みが叶うことを意識しているその弱い精神意識のままにして人間人生を終えるのでしょうか。

然るに孤独にして生まれ孤独にして死するその人間本来の孤独と自由な生き様を味合わずにして、反対に不自由にしてその孤独感に苛まれながらにして(我が心身を傷つけながらにして)生き続けるのでしょうか。

ちなみに実質的には自由なのに、その自力不足からして他力依存になり、また見栄や世間体やの自尊心からしてその自由を行使できずにいて、その自由が居心地悪く&都合が悪くて、その自由が不自由にも思えるのが孤独感なのです。

ちなみにして我が心身に自由が無いのは自力(己の身の丈)(役割個性)を超えた、然るに他力依存的であり、また自分に都合が良くなることを期待したがる、その欲心が原因にあります。

然るに自らの意識で欲張ることが少ないほどにそれだけ自由が多く味わえます。