孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自問自答して精神力の未熟さに気付き続ける「終わりなき精神世界」

2015年08月31日 | Weblog
私は戦後の義務教育をドン尻で卒業し夜間高校卒の学識知識も低く、また遊び好きの世間知らずからして教養格式能力も低く、然るに劣等感丸出しで世渡りしてきました。

そんな私が仕組まれて霊能者とご縁があったことからして「否定反発」「束縛制限支配」の無い<愛>を学び知ったことからして、
この世の矛盾や人間関係の矛盾に気付き、また聖書経典も釈迦やイエスもまったく無関心だったのに巷の神仏霊魂・信仰宗教・精神世界の矛盾に気付き、

ちなみにノアの箱舟の矛盾、神に生贄を貢ぐ矛盾、モーセの神を信じるものは助かるが信じない者は死に至るとかの飴とムチの使い分けや海割れ現象で追手を無残に滅ぼしたり、イエスがサタンと思うものを殺して正義ずらしている矛盾、

また釈迦が貧困差別を見て「此れではダメだ」として人を集め釈迦の思いを語り300人ほどの弟子を育てるも貧困差別が無くなることも無く、結果的には言うだけ聞くだけ思うだけにして信じ願い祈り期待するだけの他力依存的有様になっていると書くまでになりました。

そして最近では釈迦やイエスを超えること、然るに教祖・師匠・先生・親を越える事がその恩返し孝行になること。

ちなみに完全真理を説いた耕栄さんが自己縮小の重要性・必要性を説くも、その実践が成されずにファバラを売ることに専念しているようでもあり、また耕栄さんからその自己縮小の言葉さえも伝わってこなくなり、既に死語になっている感じからして言えば、その自己縮小の実践をし続けている私が(超能力はないが)耕栄さんを超えたことになるかもしれません。

と言うことからして(過去の釈迦やイエス)(耕栄さんを含めて)超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・カウンセラーなるものを施し成すことに満足して止まる事無く更に精神を磨き高め続けることの必要性を書いています。

然るに己の未熟さに気付き、いま以上に自力自信の精神力を磨き続けることになればいいのです。

それには諸々の自惚れ慢心や私は正しいの特別意識を無くし、そして否定反発・束縛制限支配することのない愛の自由関係にして、また信じるか否かの不確かなことに関わる事無く、また飴とムチの使い分けがある他力依存から卒業しなければなりません。

その為には、頑張る事無く、欲張る事無く、見栄張る事無く、余計なことに無理する事無く、素朴謙虚にして生きる「自己縮小」の実践しかありません。

ちなみに私の自己縮小の実践を超える人が大勢出てくれば申し分ないわけです。

何かを成すことではなくして「精神の安定」が精神世界の基本・本命になります。

2015年08月30日 | Weblog
良い悪いで判断しない「完全真理」を理解することでこの世人間関係が矛盾・偽善・不完全なことの事実を知ることになります。

そして不確かで「信じるか否か」のある神仏霊魂の世界・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなる不完全な形に惑わされ染まることにもなりません。

また良い悪いで判断する矛盾意識・偽善をもっていながらも「私は正しい」として主張している主義主張や哲学思想や真理や原理原則や法則や摂理や理念や人間心理だの、思惑理想目的だの、また伝統風習や道徳だの常識だのと言われていることのすべてに矛盾・偽善があることにも気付きます。

また人情・愛情・義理恩義・絆・信頼・助け合いや恩師・師弟愛・愛国心などと、愛だの情けだのと言われていることの矛盾・偽善にも気付きます。

然るにこの世人間関係だけは「どうしようもない」事実に納得確信することになります。

そこで頑張らずに・欲張らずに・見栄張らずに、余計なことに無理しないで「楽ラク」に生きる自己縮小の実践に気付き納得確信することになれば本物の精神世界を見極めたも同然になります。

ところが自己縮小の実践の必要性を確信したとしても見栄・世間体・プライドからして簡単には実践できないでしょう。
また趣味嗜好娯楽でもって楽しく生きてきただけに戸惑うことでしょう。

また信じるか否かのスピリチュアル関係でもって不確かなことを正しいが如くに説いたり、神仏霊魂を信じ祈り願う他力依存的な形が当たり前の如くになっていたり、世の為人の為に思い思惑・理想目的を掲げて頑張ることを善しとしていたり、
また精神の安定は神仏霊魂や先祖に対する信仰心にあるように思わせたり、
また自分さえ良ければの個人意識を罪悪のように思わせたり、呑気気楽に生きていることを蔑む思いにさせたりしています。

だから頑張らない、欲張らない、見栄張らない、無駄なことや無理しないで「楽に生きる」ことの中に本物の精神世界&精神の安定があるとは此れまで誰も語っていなかったと思いますし、それらを理解し納得してその実践を確かにしている人はまずいないと思います。

そして仮に私の中に神業超能力があることからして他力依存的な人が訪ねて来られたとしても、
今の私の自由にして楽に生きているその生き様の中に「精神の安定」があることの事実を語り、その自由と楽に生きる自己縮小の実践を説明するだけでしょう。

だから私に人が羨むような神業超能力があっても(世間に目立つ事無く)自らが素朴に生きている様を現実的な見本として人様に見せることで(多くを語らずとも)(根堀り葉堀り書いたブログを読まなくても)その自己縮小の実践の重要性を促すことになると思います。

とにかく誰も皆が「何かを成す」ことではなくして<精神の安定>が精神世界の基本・本命となります。

ストレスの無い「精神の安定」からして穏やかな「地上の天国」を実感することになる。

2015年08月29日 | Weblog
良い悪い(善悪・優劣・損得)で判断してその「良いとこ取り」をしている自分さえ良ければの個人意識・矛盾意識・不完全意識からして、その良いことも悪いことある表裏一体の中途半端な結果になっています。

然るに此れまで様々な形制度でもって国家社会が成り立っていた史実がありますが、それが君主制度や階級制度であれ、自由主義や封建主義であれ、民主主義・共産主義・社会主義であれ、
またそれらを覆す維新や革命やクーデターが起きたりカリスマ指導者が現れても結果的には良いこともあれば悪いこともある中途半端な結果が未だに続いているだけです。

また過去の釈迦やイエスが貧困差別を何とかしなければと神や仏を説くも未だに貧困差別が公然にしてあります。

然るにこの世に誰が現れ出て音頭をとろうが「どうしようもない」のです。

何故なら良い悪いで判断する不完全意識が原因から始まったからにはその結果も不完全で中途半端になるのが当たり前なのです。

と言うことは如何なる国家社会制度であれ、また如何なる神仏霊魂の宗教や巷の精神世界であれ、また如何なる神業・超能力者が出てこようとも、それら不完全意識が原因からして「ダメ」なことは元からして「どうしようもない」わけです。

そこでこの世で始めての「良い悪い」で判断しない完全真理が説かれたのですが、しかしその実践に無理がある事が解り、そこで良い悪いで判断する必要もなくなる自己縮小の実践が重要になったのです。

然るに如何なる制度や神仏や神業を持ち出してもダメなことはダメなわけですから、そこで絶対的に言えば「自己縮小」の実践をし続けながら生きていくしか他に精神世界で生きる道は無いのです。

そこで頑張らない、欲張らない、見栄張らないで、余計なことに無理しないで「楽ラク」に生きていくことになります。

そして此れまで「楽しく生きる」ことがその矛盾からして苦楽・地獄と天国を味わうことになっていたのですが、
自己縮小をして「楽ラク」になれば不平不満と自己満足の苦楽を味わないで精神的にも安定して穏やかに暮らせることは事実です。

然るに日々の生活の中で<精神が安定>していることが如何に重要なのかを私は実感しているのです
だから「精神の安定」からして今は「地上の天国」にも思えているわけです。

楽しく生きることで矛盾・偽善を味わうが、楽に生きることで人間として生きる価値・真実を味わう。

2015年08月26日 | Weblog
私の若いころは昭和の高度成長期でしたから衣食住から趣味嗜好娯楽に至るまで新製品ばかり先駆けて味わい楽しんでいました。

ところが戦後の無い物尽くしの幼い頃の海や山や川や田んぼで遊んでいた頃のほうが自然的・人間的な本物の楽しさがありました。

ちなみにフナやドジョウやザリガニ・カエルを捕まえたり、トンボやスズメやウサギを追いかけ、山でターザンごっこやチャンバラをしたり、枯れた小枝や落ち葉を集めて燃料にしたり、広場でボール遊びやメンコやビー玉やコマ回しや缶けりや竹馬や竹とんぼで遊び、かまぼこ板で船や飛行機の形にしたり、海草や貝類やエビやカニや手長タコやウナギを捕って食用にしたり、ミカンや柿やイチジクの収穫やニワトリの餌やりや田植えや稲刈りを手伝ったりと殆ど野外で過ごしていました。

そして現在は自然界に囲まれた集落人口3人の限界集落で孤独にして穏やかな老後を過ごしています。

その食って寝て糞をしているだけのような生活の中に自然的・人間的な生き様の価値を見出し味わえるまでになり、それら事実をブログに書いてきました。

ちなみに巷の宗教やスピ系の「言うだけ」「聞くだけ」「思うだけ」の思い込み・錯覚勘違い・妄信・妄想・洗脳・陶酔・信者意識でもなく、また一般的な思惑・理想・目的・期待でもなく、また「祈るだけ」「願うだけ」の祈願願望でもなく、また「思いを込める」念力や超能力や信念念願の類でもなく、
また不完全意識の偽善者が私は正しいとして解き語る「信じるか否か」の矛盾がある原理・原則・法則・摂理・心理でもなく、

私自身がこの世人間関係の柵シガラミから離れたその孤独と自由を味わうことからして学び知り気付いたことであり、
そして個人意識丸出しながらも頑張らない・欲張らない・見栄張らないで余計な無理をしない、そんな生き様からして学び知り気付いたことであり、

然るに食って寝て糞をしているだけのような生き様の中から学び知り気付いたことを根堀り葉堀り書いているブログですから巷の精神世界とは趣きが異なります。

そして結論からして言えば
何だかんだと言っても人間が思い考え作られた古今東西の精神世界関連のすべて不完全で矛盾があり偽善の積み重ねになります。

そして楽しく生きることで矛盾・偽善を味わうが、しかし楽に生きることで人間として生きる価値・真実を味わうことになるのは「事実」です。

だから皆さんも「楽しく生きる」ために此れまで幾多の矛盾・苦楽の繰り返しを味わってきたのだからこの辺で止まり、此れからは「楽ラク」に生きる実践になれば人間として生きている中味の価値が見出せ味わえて納得人生で終わることが出来ると思います。

それを宇宙時間=神意識・愛意識=からすれば、
幼く未熟で楽しく遊ぶ子供時間を卒業して人間本来の価値を味わうことのできる大人の時間になります。

「不信感と守り意識」「不信感と私は正しい」「不信感と信頼」「不信感と信者意識」はリンクしています。

2015年08月24日 | Weblog
私たち人間は「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断するその「矛盾」意識と差を付ける「特別」意識と、また「私は正しい」と主張したがる意識と自己中心の「自分さえ良ければ」の個人意識を持っています。

その不完全意識&矛盾意識からして絶対的に「不信感」をもっています。
その不信感からして誰もが「守り」意識をもっています。
然るに不信感と守り意識はリンクしています。

そして自分独りでは生き辛いことからして他力に頼りたがる「依存心」をもっています。
ところが持ち前の不信感からして他力に依存するにも一抹の不安心配があります。
そこで必然になってくるのが「信じて頼る」=信頼=が必要になります。
然るに不信感と信頼もリンクしています。

然るに見えない世界・摩訶不思議の世界・神仏霊魂の世界・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなるものに対しても「信じるか否か」の矛盾からしてその不信感が出てきます。

しかし「困ったときの神頼み」からして、それらを信じて頼ることになっているのが事実にしてあります。

そしてその不信感を打ち消して相手を信頼するためには自らが信じ込む・思い込む・自己洗脳・陶酔するしかありません。
然るにそれが「信者」意識と言われるものです。

だから信仰宗教とは言わないスピ系の信じて頼るその信者意識は同じです。
然るにスピ系は信仰宗教ではないとして区分けする必要もありません。

また信者意識の者が一同に集まるとそれが集合意識となって更に信者意識を高め合うことにもなっていますから、その信者意識から抜け出せないで困ったことになっている事例も事実にしてあります。

また超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなるものを施し成している者にも不完全意識・矛盾意識・自分さえ良ければの個人意識をもっていますから、それを誤魔化すために「世の為人の為に役立っている」と自己正当化し「私は正しい」ことをしていると思い込む必要からして、その特別意識・差別意識・偽善意識をもっている者となるのです。

然るに誰も皆が個人意識・偽善をもっているのは事実ですし、その個人意識を無くすることが絶対的に無理なことも事実ですから、
そこで個人意識ながらもその偽善の積み重ねにならない生き方として自己縮小の実践が言われているのです。

だから自己縮小の実践をし続けている私の経験や実感からして言えるのが、いつの間にやら自己満足を求めることが次第に減り続ければその裏の不平不満が出てこなくなるのは事実です。

その不平不満が原因からしての不安心配・怒り・憎悪・嫉妬・仕返し報復・やけくそ意識に至ることも無くなり、それが何やら地上の天国に思えるが如くの平穏無事・呑気気楽・楽ちん省エネにして過ごすことが出来るようになったのです。

人間から猿が生まれるかもしれないし猿が人間になるかもしれないのが巷の精神世界の不完全さです。

2015年08月21日 | Weblog
完全は絶対です。
然るに宇宙=神=愛意識は完全で絶対です。
ちなみに人間から人間が生まれますから完全で絶対になります。

ところが人間から猿が生まれるかもしれないとなれば絶対ではなくなり不完全で不確かで不安に駆られます。
また猿から進化したのが人間かもしれないとなるとそれを信じるか否かになり不完全で矛盾があります。

上記のように不完全で不確かで矛盾があるのが巷の神仏霊魂・信仰宗教・精神世界、超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなるものです。

ちなみに神を信じる者は救われ神を信じない者は不幸になるとなれば、それは「ご褒美と罰」「飴とムチ」の使い分けの矛盾があり、その不確かなことを如何にも「私は正しい」が如くに正当化して偽っている偽善があります。

ちなみに「日本ブログ村」の中の哲学・思想ブログに約一万件のブログがリンクされていますが、それらすべてに絶対とは言えない不確かな部分が多く含まれていて、然るに「信じるか否か」や「飴とムチ」の使い分けがありますから、その矛盾と偽善があります。

しかも特別な超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなるものを施し成して、そこで如何にも神懸り・神の如くに見せ掛けたり神の如くに説いて人集め金集め物売りをしている輩もいますから、然るにそれを信じて信頼する人や妄信する信者意識の人も多いことでしょう。

然るに不確かな見えない世界・精神世界を如何にも見えている事実が如くに語り説いている感じながらも、しかし内容的には不確かで不完全ですから、
然るに人間から猿が生まれる可能性があると語り説いているのや猿が頑張れば人間になれるかもしれないと説いているのと同類同等なのです。
だから不完全・不確かな矛盾・偽善のある諸々に関わらないほうが=触らぬ神に祟りタタリなし=となるのは事実であり絶対と言えます。

とにかく私たち不完全意識の者が何を成せども同じ不完全な結果が出ることも事実であり絶対です。
然るに「原因と結果」は同じだから、原因である石ころを磨き続けて少し姿形が変わっても絶対にダイヤモンドにはなりません。

また私たちは自分さえ良ければの個人意識を持った偽善者です。
しかもその個人意識を無くすることは神様仏様でも絶対に無理なのです。
だったら個人意識丸出しで生きていくしかありません。
それが事実であり絶対となります。

その生きていくために絶対必要なのが食って寝て糞をすることです。
しかも誰も皆が同じですから公平で矛盾も無く完全です。

そこで個人意識丸出しながらも、頑張らない、欲張らない、見栄張らないで、余計なことを無理しないで「楽ラク」に生きる実践を書いています。
しかも古今東西の老若男女の誰も皆が実践できる公平さ絶対さが事実にしてあります。

更に実践が進むほどに自己満足することが減り続けますから、その自己満足の裏にある(諸悪の根源である)不平不満が出難い生き方になるのも事実にあります。
また真の精神世界は他力的で対外的なものではなくして己の内なる自力自信の精神力にあることだと気付くことにもなります。

然るに人間として生きている中に重要なのは否定反発排除・束縛制限支配されない自由があり誰も皆が公平であること、そして現れ出た確かな事実・真実・絶対・完全を見ていくしかありません。

だから上記の「石ころ→ダイヤモンド」「猿→人間」と同等の不完全で不確かさがあり、それだけに私は正しいと主張することにもなっているし、しかも対外的で他力依存的な方向性にある、そんな巷の神仏霊魂の世界・信仰宗教・哲学思想・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなるものに惑わされずに済みます。

それをハッキリ言えば不完全で不確かで信じるか否かの矛盾があることを学び知ることは余計なことで無駄なことで精神的ストレスが増すだけですから、
不確かで不完全な矛盾や偽善から早く卒業しなければなりません。
その為に自己縮小が絶対的に必要になるのです。

自由に生きることで愛に生きることになります。 

2015年08月18日 | Weblog
頑張らない、欲張らない、見栄張らない、余計なことに無理しないで「楽ラク」に生きることで自己縮小になり、
そして自由に生きることで愛に生きることになります。 

自由と愛は同体ですから何事も否定・反発・排除しないで束縛・制限・支配することにはなりません。

しかし私たちは自由でもなく愛に生きているわけでもありません。
何たってこの世人間関係に束縛制限支配されていますし、何かと否定反発排除したがる「私は正しい」を持っているからです。

そして本来ならお互い様・お陰様の調和でもって共に生きるのが基本なのに、
ところが自分さえ良ければの個人意識の人情・愛情の感情体で生きているところがあるだけに、その感情的な喜怒哀楽の矛盾を味わうことになり、それが原因からして裏切り関係にもなっています。

すなわちお互い様・お陰様の関係が他力依存関係に様変わりして、その結果しだいで自己満足や不平不満になることからして、それが双方の裏切り関係にもなっているのです。

とにかく矛盾と偽善の人間関係を卒業しない限り自由にはなれません。
然るに自然体の愛で生きることにもなりませんし、完全なる宇宙=神=愛意識を知ることにもなりません。

ちなみに他力依存が無くなれば独自独歩の自由にして生きていくことが出来ますが、それなりの自力と自信の精神力が無ければ無理になります。

また信じて頼る信頼や人間関係の絆を守る事が美徳のように思われていることからして、己だけが自由に羽ばたく事が罪悪感にもなります。

ところが自分さえ良ければの個人意識を無くすることは神様仏様でも釈迦やイエスでも絶対的に無理だとなったからにはその個人意識のままに生きていくしかありません。

ところが人間として生きているからには世の為人の為に何か役立つことをしなければと思っているかもしれませんが、個人意識の者が良かれと思って何を成せどもそれが矛盾のある偽善なのは事実です。

ちなみに食って寝て糞をしながらにして生きているだけでも、その生き様の中には作り手と使い手の金銭の授受関係・人間関係がありますから、結果的には人の為世の為に役立っているのです。

なのに「それではダメだ」として大掛かりなことを成せば偽善の積み重ねも大きくなり偽善の上塗りになることに早く気付くことです。

何はともあれ不自由・不平等の「愛の無い」偽善の生き様のままに人間を終えることで果たして大丈夫なのでしょうか、

ちなみに神仏霊魂の宗教や超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・カウンセラーなる不確かで偽善のあるそれら「他力」を信じて頼っているから大丈夫と思っていませんか、
またそれらを施し成している人たちはそれが「偽善」とは知らずに人の為に役立つことをしているからと自惚れ慢心して私は大丈夫と思いこんでいませんか、

また己の自力自信の精神力の無さ実践力の無さを棚に上げて置いてそれを家族の為と摩り替えても、老後と共に皆から取り残されて孤独感になるのは事実ですから、そんな自力と自信の精神力のままでほんとうに大丈夫ですか、

ちなみに「真の精神世界」は対外的な外&他力にあるのではなくして、己の中の自力自信の精神力が基本=事の始まり原点=すべての原因が我にあり=と気付くことです。

とにかくこの世人間関係を気にしない個人意識丸出しでもって独自独歩の自由にして生きながらも、そこで頑張らない・欲張らない・見栄張らないで、無駄なことを無理しないままに「楽ラク」に生きていけば、結果的には世の為人の為になっているし、それが己の心身の健全保全になるのは確かな事実です。

そして不完全意識ながらも自由に生きることが宇宙=神=愛に生きることにつながっていることに気付くでしょう。

「愛情」は破壊につながるが、<愛>は生み出す力になります。

2015年08月15日 | Weblog
<愛>の漢字に「心」の字があり、その心の字の下に「足」が付いています。
然るに「愛」には自由があります。
だからその自由が愛でもあります。

しかし<恋>の漢字の「心」の下には「足」がありません。
然るに「恋」には自由がありません。
だから否定反発されたり束縛制限されたりします。
また「恋は盲目」と言われるのも何だか分かる気がします。

ちなみに人間は「肉体」「感情体」「精神体」でもって成り立っていますが<愛>は肉体・感情体・精神体の次元を超えた「神意識」になります。
だから次元の異なる神意識の愛を三次元の形や言葉で表すには無理があります。

ちなみに自然体、そのまま、このまま、あるがまま、仏に任す=ほっとけ・ほっとく等が言われています。
また神意識の愛の質量に差はありませんから、肉体や感情のような大小や強弱もありません。
また愛は完全ですから矛盾・偽善はありません。

なのに世間では人間的な感情の人情愛情を表すのに愛の言葉を安易に使っている人が大勢います。
だから誰もが簡単に愛を口に出します。
だから安っぽいのが愛で、重厚なのが愛情と思われています。

しかし愛情は破壊につながるが、愛は生み出す力になります。

ところが世間一般では愛を告白するのに何がしのプレゼント・差し出し貢ミツぐものが無ければ受け取ってくれない人がいます。
然るにその中に双方の体が接し触れ合う形・体を差し出し貢ミツぐ形が当たり前のようになっています。

また愛の思いに熱い情熱を加えることが愛情の強さだと思っている人がいますが、それは情熱ではなくして感情の高まりになります。

ちなみに感情体から出る愛情が憎悪に変わり破壊意識にもなるが、精神体から出る情熱であれば新たな形を作り出すのに役立つことになります。

また肉体的・感情的に好きになるのと。
精神的に好むのとは趣が違いますから、時として感情的になったり欲情しても精神面では確かですから、そのことに執着し拘り未練にはなり難いから、その時々の必然ご縁だけで一旦終わり、肉体的にも感情的にも束縛制限支配する形にはなりませんから自由です。

またそれが性行為に至らなくても満足し合えることもあると思います。
何故なら精神的な満足を得られたことからして欲情(肉体・感情体)に拘り執着することが薄れたり無くなることもあると思います。

ところが精神的な満足が無理となると代替に感情面や肉体面での満足を求めることになります。

また肉体的な満足や感情的な満足はその変化刺激・快感快楽の自己満足になるが、精神的な満足は精神が満ちて穏やかな気持ちになれます。

然るに趣味嗜好娯楽の変化刺激・快感快楽が無くても差し支えありません。

これ等は私の個人的な思い考えが多く含まれていて絶対ではありませんから参考程度に止めておいて下さい。

「それではダメ」の特別意識には矛盾偽善があります。

2015年08月14日 | Weblog

人間の基本は食って寝て糞をしながらにして生きることにあります。
だからそれら基本以外の特別な物や形は無くても生きていくことには何ら支障がありません。

ところが先人・賢人・特殊能力のある輩が「此れではダメ」だとして己の思いを説き語り先導したり先駆けたことがいつの間にやら集合化・恒例化・常識化されたりしながら現在に至っているのです。

だからこの世の仕組みや人間関係はもとより、巷の神仏霊魂・精神世界・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなるものや、また趣味嗜好娯楽の類や伝統風習や常識・道徳などは元から無かったことですから「特別」になります。

然るに冠婚葬祭や先祖供養や親孝行も特別になります。
また医科学や教育指導や文化芸術や思想哲学の類や主義主張も特別になります。

それら特別には「差」がありますから、その矛盾・偽善が原因からして何かと問題が起きてこの世・世間を騒がせています。

そこで生きていくための衣食住を基本にしてそれ以外の特別なことを次第に縮小していく自己縮小を書いています。

そこで欲張らない、頑張らない、見栄張らない、余計なことに無理しないで「楽ラク」に生きることを旨にした、東西南北・老若男女の誰もが自由にして公平で且つ簡単に実践できる真理を書くまでになりました。

私がその「楽ラク」に生きることの実践をして諸悪の根源である不平不満が出にくくなったのは事実です。
然るに穏やかに暮らせることからして地上の天国にも思えています。

しかし残念なのは、私一人の内なる心意識の中にあることですから皆さんに見せることは出来ません。
だから外見は過疎地で貧乏丸出しにして単身暮らしをしている哀れげな爺さんに見えるから誰も真似をしたがらないでしょう。

だから過疎地暮らしが云々よりも
先に書いた諸々の特別な大掛かりなことを手懸けることよりも先ずは己の中の不平不満が出にくくなる生き様に方向転換することです。

そして「私は正しい」の否定反発がこの世人間関係を複雑にしてややっこしいことになっている事実を自覚認識する必要もあります。

不自由なままの形や不公平なままの形に<情熱>を注いでいませんか、

2015年08月13日 | Weblog
皆さんには情熱があります。
だから趣味嗜好娯楽を極めてその先生や匠や芸術家にもなれます。
また神仏霊魂・精神世界に身を投じ入門・出家したり精神修養に励んだり艱難辛苦の修行も出来ます。

ところが情熱を燃やさずにして単なる趣味嗜好娯楽に興じるだけで終わったり、
また神仏霊魂・精神世界を知ったかぶりで聞くだけや言うだけで終わったり好き嫌いの恋愛が如くに引っ付いたり離れたりの繰り返しをしながらその道のマニアやオタクが如くで満足している人が大勢います。
また神仏霊魂・精神世界の知識を溜め込むために趣味嗜好娯楽が如くに渡り歩きながらもそれを面白がり楽しんでいる人も大勢います。

また超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなるものを施し成して自己満足・自惚れ慢心して、それで人集め金集めしたり、また物売りリピート客を作ってそれを飯のタネにしている輩や世間に目立つことで満足している人も大勢います。

しかしそれらすべて「特別」ですから矛盾・偽善があります。
だから誰も皆が出来る公平さに欠けています。

そこで諸悪の根源である不平不満が出てこないためにも、頑張らない・欲張らない・見栄張らないで、そのまま無理しないで楽に生きることの実践真理をここに書いています。

然るに「やる気」の情熱さえあれば誰も皆が簡単に実践できます。
そしてこの世人間関係を気にする事無く自由になれます。
然るに自分さえ良ければの個人意識を素直に出して「自分の為」になることに情熱を注ぐことになります。

ところが現実ではどうでしょう、
少しでも楽しく生きたいと頑張り欲張り見栄張り無理していませんか、
不自由なままの形や不公平なままの形の偽善に情熱を注いで無駄にしていませんか、

然るにその苦楽・喜怒哀楽の繰り返しをしているでしょう!
それで己の人生に納得できますか、
それで本当に大丈夫ですか、自問自答していますか、

しかし情熱の使い道を誤ったままに結局は此れまで通りの不平不満の繰り返しだけの人生で終わろうとしています。

ちなみに私は頑張らない欲張らない見栄張らない無理のない楽チンの生き方に情熱を注いでいます。
だから諸悪の根源である不平不満が出難い生き方になっています。