孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

<欲>が無ければ「何事も始まらない」その事実が私達の意識です。

2014年04月30日 | Weblog
少しでも自分の都合が良くなるようにと思うその欲目からして始まったことが原因からしてそれぞれが現在の状況環境や立場になっていますが、しかしそれもあくまで途中結果であってその先は不確かです。

然るにこの世に生まれながらにして(元からして)極悪非道の(世間で言われる)悪人はいません。

然るに太古の人達が「良かれ」と思ったその欲からして始まったことが史実事実の痛ましい結果としてその足跡を残しながらも、然るに今現在の途中結果&未来にもつながり続けているのです。

然るに(過去も現在も)その良かれが悪いことにもなるのがこの世&矛盾の世界ですから、然るに中途半端なままで納得できずにいるのです。

その中で釈迦が邪な欲だけは「どうしようもない」と悟ったようですが、
そこでハッキリ言えば神仏霊魂の宗教や真理に係わっているのも良くなりたいと思うその欲からしてですから、結果的には無理で無駄で余計な事になるのです。

そしてその神仏霊魂の精神真理を生業にしている輩を儲けさせ喜ばせることにもなるし、それら輩の名誉名声や権威権力&勢力争いにまで巻き込まれたりするわけです。

ちなみに私の娘が私の過疎地暮らしや耕栄さんの完全真理の録音テープを持ちかけてきた張本人&道先案内の仕組まれ役を果たしたのですが、
ちなみにその娘も巷の占い運勢から始まり摩訶不思議の波動や念力の集会に熱心に通うもやがて主催者の言動に失望し、また田舎暮らしの真似事を数年経験しています。 そして完全真理&超能力の耕栄さんやファバラに魅せられて神の如くに崇めるも脱税とその釈明ばかりが続いたことで失望し、そこで霊能者の伊勢白山道に乗り換えるも短期間で終わり現在に至っています。

然るにその娘も(私同様に)精神世界に係わることは無駄な金銭出費や時間の浪費になるだけだとして、自らが気付き後悔しているところがあるようですが、結果を求めたがることからして何か魅せられる都合の良い形があればまたその気になるかもしれません。

とにかく太古の偉人賢人&超人魔人より始まる精神世界も欲絡みですから、然るに人身御供や生け贄を捧げる&お供え供養し&信じ祈り願えば何らかの欲が叶うとなったり、また良いことを率先すれば、然るに世の為人の為に善行奉仕&援助救済&布教宣伝活動をすれば思い願いが叶うとなれば、その欲心からして言われるままに従いその実践を始める者が大勢集りだすわけです。

然るに精神世界に何らかの良いこと&特別なこと&ご褒美や魅力が無ければ人も集ってこないしその実践も疎かになるわけです。

然るに欲が無ければ何事も始まらないのが私達なのです。

だから欲張らない真理の実践となれば、然るに誰でもが簡単に始めることが出来るのに(欲から離れるだけに)実践し辛いようです。

と言うことからして、人が集る所に何らかの欲が渦巻いているわけです。
そして自らがヘンテコな事になったり、またヘンテコな事に巻き込まれたりするわけです。

然るにこのブログは私の思い思惑&理想目的&希望期待を書いているわけでは無くして、
現実事実にして自己縮小しているその生き様からして実感納得し事実にして(本物の)結果が出ることをアレコレと根掘り葉掘り書くも、
しかし精神世界に特別な形やその恩恵を望む者からすればその魅力に乏しいところがあるようです。

然るに「どうしようもない」(本物にならない)精神世界に魅せられて係われるのに(なのに)誰でもが実践できて本物の結果が出ることには(特別な魅力が無いために)係わらないでいられる、その皮肉さ愚かさの意識からして「どうすることも」出来ない、
然るに己の意識を自力でもって改革修正できるはずなのに、ところが「どうしようもなく」然るに「どうすることも出来ない」その愚かな人間&意識命のままに終わろうとしているわけです。

良かれと思って始めたことが悪&後悔を残すことになって心から「納得」出来ないままに終わるのです。

2014年04月27日 | Weblog
(皆さんの)自覚認識を深める為に要約して繰り返します。

皆して欲張ることからしてこの世人間界がヘンテコになったその事実&史実があります。

然るに欲があっても、その欲に執着して欲張らなければ(自由平等調和にして)この世人間界が地上の天国にも思えるようになります。

しかし皆して欲張らないで生きていくとなると絶対的な無理があります。
然るに己が独りでもって実践しながら生きていくしかありません。
然るに己一人が(地上の楽園とも思える)その生き様を味わう事になります。

然るに「欲張らない」真理には無理も無駄もありませんし確かな結果が出るだけに余計なことでもありません。

また誰でもが独りで実践できる真理でもあります。
だから人が集るその必要もありませんし、簡単な内容説明だけにその道の専門書を購入したり講演会に参加することも必要ありませんから、然るにこのブログだけで十分です。

然るに無理も無駄も無く余計なことにもなりません。

尚そこで欲張らなければ無理もしませんし、また無駄な出費も余計な時間の浪費もありませんので、然るに楽チンにして省エネ節約倹約にもなります。

然るに願ったり叶ったりですから、何か不都合なことがあるのでしょうか? 何かあればそれを書きこんでください。

(不都合が無ければ)(他に実践することが無ければ)然るに欲張らない生き方の実践が成されて当然だと思っています。
なのに自力自信の欠如からしてのそのプライドや不信感やその守り意識などからして実践できずにいます。

然るに実践できない真理では無くして、その実践をしたがらない得手勝手な我欲エゴからして実践できないでいるのだとも思います。

然るに「どうしようもない」ままの「人間失格」のままの「納得」できないままに人間を終えるのですか? となっているのです。

ちなみにこの世は矛盾の世界だけに、最初は(天子の心で)良かれと思って始めたことが良いとこ取りの自己拡大になり、その苦楽&喜怒哀楽を味わいながらも結果的には数々の悪行を残す(サタンの結果になって)(後悔する)ことになって、然るに「納得」出来ないままに終わっているのです。

ちなみに(此れまで自己拡大を味わっているだけに)その欲張らない自己縮小を実践して実際に(正味にして)味わえば納得出来るはずです。
そして二度と自己拡大に戻ることにはならないはずです。
然るに(終わり良ければすべて善しとなり)過去の自己拡大が無駄では無くなるのです。

然るに(成り行きからして)私に自己縮小が仕組まれなければ過去の自己拡大の愚かさやその苦楽を繰り返し味わう虚しさにも気付かずに、またこのブログを書くことにもならなかったはずです。

何はともあれ、その最初の「良かれ」の思いが<欲>なのです。

また巷の「悪」と思われるものを「良かれ」と思って滅ぼすのも(束縛制限&否定反発&排除するのも)己の欲目&自惚れ慢心&思い上がり(驕オゴり)から出た<悪行>になるのです。

然るにその悪行&後悔(サタンの結果)の大から小までの<史実&事実>を(私の事実を含めて)根掘り葉掘り事細かく書けるのも、私の自己縮小の生き様からして納得し実感しているからこそなのです。

この世の矛盾&苦楽を味わい続けるその結末結果で人間を終わろうとしていませんか?

2014年04月25日 | Weblog
人間はこの世で学ぶ為に生まれ生かされています。
然るに産まれたばかりの幼子からして早くも学ぶ事になっています。
だから何かをすれば何かを学ぶことになります。

そして「納得」することが多くなるほどに(それらを使い分ける)利口で賢い人になれるのです。

ところがしかし良い悪いで判断するその矛盾意識からしてその納得したことにも裏と表&善と悪の矛盾がありますから、然るに本心から納得確信できないままに(中途半端に)終わるかもしれません。

また先行きが不確かな事となれば(持ち前の不信感からして)「信じるか否か」になり、然るに信じていても裏切られる結果になることもあります。

また事実にして見えない不確かなことを事実にするにはその裏表&矛盾を見極めることが出来るその精神意識が必要にもなるのです。

だから完全真理を学び知り理解し納得確信に至ることも必要なのです。

然るにこのブログの完全真理からしてこの世の矛盾とその事実を学んだことでしょうが、その内の肝心な自己縮小&欲張らない生き方の真理にすれば、その欲尽くしの根掘り葉掘りの内容に納得し確信に至ってなければ、然るに頭で理解した知識と同然になりますから、然るに心には届いていないから、心なし「信じるか否か」になっているはずです。

何故なら心意識に素直に届いたことならば、然るに迷わずにしてその実践意識になっているはずだからです。

ところが実践できないで迷っているのであれば、然るに自力と自信の本物に達していない中途半端なままになっている証でもあり、またその中途半端な矛盾のままにしてタダ言うだけ聞かせるだけの実践の伴わない見せ掛けの納得になっているはずです。

また幼い頃からしての学び知り気付き納得確信したことが数少なく、また不信感からして諸々を嫌う&否定反発排除することが多くあり、また自他共に束縛制限し合う人間関係からして自主性に欠けていてその分だけ自力と自信で納得したことが少ないはずです。

だから当然ながら他力依存的な要素を多く持っているはずです。

然るに(自力を多く使わずにして)何がしの結果を求める意識が強いはずです。

そして「少し」でも良くなろうとして(結果を求めて)(執着して)然るに欲張る事にもなっているはずです。

然るに「足るを知る」心意識になっていないはずです。

然るに今に納得して(生きて)いないはずです。

また(失うことを恐れる)守り意識が強いはずです。

然るに心からして納得できないその中途半端なままの惰性でもってしてこの世の矛盾&苦楽を味わい続けるその結末結果で人間を終わろうとしていることにもなりますが、さて如何なる意識なのでしょうか?

納得できずに幾度か繰り返し転生していたことから卒業して新たな次元意識の人間が始まるのです。

2014年04月22日 | Weblog
何度も根掘り葉掘り書いているので端的に書きますが、
この世人間界のことは(矛盾意識&欲絡みだけに)「どうしようもない」と書いています。

然るに「どうしようもない」この世人間関係を「何とか」しましょうとは書いていません。
然るにそれは無駄なこと、余計なこと、無理なことだとして、その事実を書いています。

然るに国家社会や地域社会や職場や身内家族関係さえもどうしようもありませんから、然るに身近な夫や妻や我が子さえもどうしようもありません。

ちなみに(矛盾意識&欲絡み)神仏霊魂の信仰宗教や神懸り奇跡を成す超能力や霊力の他力でもって何とかなると思っている人もいるでしょうが、その他力でもって何とかなるほどにこの世人間関係が単純ではなかったのです。

然るに「百害有って一利無し」になる、その史実事実を書いています。
然るに「触らぬ神にタタリなし」とまで書いています。

そこで人が集る所に矛盾意識と欲が渦巻いているその「どうしようもない」この世人間関係のことはさて置いて、己の自力自信&独自独歩でもって「己の意識命」を修正改革するしか他に道は無いと書いているのです。

然るに他の人はさて置いて己だけが実践するしかないのです。
尚それだけに「誰もが」実践できる事柄が望ましいわけです。
またそれだけに実践するのか、それとも実践しないのか、その単純な選択&見極めさが必然になります。

そこで(矛盾意識からして)良い悪いで判断して、その良いとこ取りしたがる「欲」からして動くのでは無くして、
然るに「足るを知る者は富む」諺から言えば、今を 満ち足りたものとし、現状に不満を持たない者は、満ち足りた心で生きていける。 己の 身の程を知り、それ以上を望まないことが、豊か生きるということである。 となります。

然るに「どうしようもない」この世人間関係だけに、尚のこと「足るを知る」その意識からして何がしの欲を出さずにして、
その穏やかな心持からして楽チン省エネに生きていくことになれば、
然るに過去の自己拡大で生きていたことの過ちに心から気付く事になり、そこで納得して二度と自己拡大の生き様に戻らなければ、
そこで「終わり良ければすべて善し」の結果となり、然るに己の人生&生き様に心から納得して人間を終えることになるのです。

そして欲張ることの苦と楽のその矛盾からして納得できずに人間を終っていたその繰り返し転生から目出度く卒業して(始まり終わる宇宙の仕組みからして)新たな高次元意識の人間としてスタートすることになるとも書いているのです。

まったく「どうしようもない」ことからしてその人間をやめますか?

2014年04月15日 | Weblog
人間は良い悪いで判断してその「良いとこ取り」をしたがる欲をもっていますし、また悪いところを否定反発排除したがるところがあります。

そして神仏霊魂の宗教や精神真理に魅せられて集る人もまた人を集めたがる教祖指導者側にも欲が絡んでいますから、その欲絡みからして世間を騒がせることにもなっています。
然るに人が集る所に欲が渦巻いています。そして相手を巻き込んだり、また相手に巻き込まれたりして、共に裏切り合う関係や加害者や被害者の関係にもなっています。

また不信感を持っていますから信用していません。しかし信用しなければ人様他力に頼れませんから、然るに不信ながらも信じて頼る矛盾でもって人間関係が成り立っていますから、そこで愛情人情&義理恩義や絆が必然にして言われますが、しかしそれを裏切り合う関係にもなっています。

また不信感からして己を守ろうとしますが、守る為には闘わなければなりりません、然るに敵対意識を隠し持っています。
また不信感&敵対意識からして否定反発排除したがるところからして個人の自由を束縛制限したがるところがあります。

然るに個人の自由が無くして平等&調和関係にはなれません。
然るに常に比較競争しあって善悪優劣損得で評価判断して差別しています。

そして善を尊び悪を憎みますが、しかしそれは自分の都合からして判断していますから、その立場が違えば善が悪にも悪が善にもなりますから、その立場の関係都合からしてその諍いは絶えません。

然るに勝てば官軍負ければ賊軍となりますが、互いが殺しあったことに変わりはありません。然るにどっちもどっちのお互い様の関係になります。
なのにモーゼやイエスが聖者に祀られるからには殺された側を邪なサタンに仕立てるその矛盾があります。然るに都合の悪い方を異教徒や異端児やサタンや魔女に仕立て上げることにもなります。

また生きていることの価値では無くしてそれ以上の価値観を求めることからして衣食住や趣味嗜好娯楽や生活の向上を追い求めることからして豊かになりましたが、しかしその分だけ自然環境の悪化崩壊荒廃&資源の枯渇&エネルギー不足&食糧不足にもなり、そして貧困弱者を虐める結果になっています。

とにかく不完全意識が原因からしてその結果も同じ不完全ですから、然るにこの世で何を成しても不完全な結果になります。

しかも少しでも良くなりたいと思うことも欲ですから、その欲から始まったことが皆して寄り集まり大掛かりになって、然るに史実に残る残忍悲惨な結果になった事例史実が幾多もあります。

然るにすべては小さな欲から始まっているその事実を自覚認識していないから、その欲張ることがやめられないのです。

然るに不完全意識を持っているからには「どうしようもない」現実事実がありますから、そこで欲張ることをやめればそれだけ穏やかに生きて行けるのに、しかし見栄や世間体プライド&守り意識からして無理があるようです。

然るに誰でもが実践できるはずの無理しない頑張らない見栄張らない欲張らないで「楽にして生きる」ことが無理となれば、まったく「どうしようも」ありません。

然るに「人間をやめる」しかありませんが、しかし生きているからには欲張らないその実践をするしか他に道は無いとして、(皆一緒は無理だから)己が使命が如くにして(誰がどうであれ)取り組んでみれば如何でしょうか、

しかしそれでも無理ならば、その命意識からして(あなた自身からして)(宇宙の仕組みからして)人間をやめる方向性に向いていくことでしょう。

人間やめますか?

2014年04月14日 | Weblog

欲絡みでもってして巷の神仏霊魂やの精神世界や真理に係わることの愚かさを書き続けていますから大方の人は理解できていると思われます。

然るに何らかの欲が絡んでいればそれが無駄になるだけではなくてその被害者にもまた加害者にもなることも理解できたことと思われます。

ちなみにオウム真理教のサリン事件を例えれば、その信者になったことからして何がしの被害を受けているし、その事件に係わっていたならば加害者側にもなっています。

また過去の事例で思い浮かぶのがキリシタンの天草四郎が絡んだ島原の乱ですが、然るに信者になったことで弾圧されてその被害を受けていたし、またその乱に加わっていれば何がしの被害も受けただろうしまた他者に対する加害者にもなっていたはずです。

ところが何がしの欲が無ければオウム真理教の信者やキリシタン信者になることも無かったはずです。
然るにその被害者にも加害者にもなりません。

然るに生まれながらにして欲を持っているのが私達人間ですから、だから信仰宗教や精神真理の組織団体に係わらないでいる方が(触らぬ神にタタリなしで)無難なのですから皮肉なものです。

然るに世間一般的な生活の中にも欲が絡まなければその被害者にも加害者にもならずにすむのです。

然るに諸々の問題の原因が欲にあることを自覚していなければなりません。

ところがそれでも欲張る事がやめられないのであれば、然るに人間をやめる方が己の為にも人様の為にも世の為にもなるのです。
しかし自らの命を絶つのは道理に反しますから、その余命を欲張らないで生きるその実践にすればどうでしょうか、

そうなれば此れまでの生き様とは異なる新たな生き様になるはずです。

然るに此れまで欲張り続けてきた自己拡大からして反対の自己縮小の生き方に変わるわけです。

然るにそれしか他に人間として生きる道&生き残る道は無いと思いませんか。

然るにこれとは違った別な生き方があればそれを教えて下さい。

このブログは精神世界に係わる私の想念を皆様にお伝えするその「お伝え」文書でもあります。

2014年04月13日 | Weblog
私自身の思惑理想&目的期待からして神仏霊魂&精神世界に係わることになったわけではありませんから、然るに私の人生の予測予定&目論見からすれば「真坂の想定外」になります。

然るに巷の神仏霊魂の信仰宗教やそれらが絡む伝統風習に違和感や不信感を持っていたことからして、私としてはそれらと無縁にして出来れば避けて通りかったのが私の本心だったのです。

ところがご縁がご縁を呼び込む仕組みからして宇宙的愛の霊能者が我家にやってきたことも、またご縁が仕組まれ続けた結果にして過疎地で単身でもって年金暮らしになったのも、また娘が縁からして耕栄さんの完全真理を学び知ることになったのも、然るに前もって予測できなかった想定外になります。

また暇ついでに完全真理のブログを立ち上げてその学び知った知識やまた己の生き様からして納得確信したことを投稿していたのですが、しかし書きながらにして閃き気付く(前もって学んで得た知識とは異なる)仕組みからして、今では巷の神仏霊魂の世界&精神世界は「百害あって一利なし」とまで納得確信でもって書くまでになったのも想定外のことです。

然るに私の内にある思いを次々と文書化している内に更なる気付きからして自然と内容が進化したとも言えます。

すなわち欲張ることから離れている現実からして暇で退屈することになるが、その変化刺激の少ない穏やかな静寂の中でして常に精神世界を意識し続けているその実践意識が原因となって仕組まれ気付くことになるようです。

然るに巷で言う座禅とか冥想とは異なる気付きになります。

ちなみに自らの意識からして前もって学び知ったのは(寝床で聞いた録音テープの)完全真理だけです。
然るに諸々の多くは私が係わる中での会話&耳知識や巷の映画ドラマですから、その道の専門書を購入したこともありません。

然るに精神世界を形にして人が集まりその仲間になることでは無くして、然るに人が集る所に欲が渦巻いていることからして、然るに自由&孤独にして欲張ること無く、また共に学び合うその人間関係からして「人の振り見て我が振り直せ」の如くにして、己からして(他力では無く)気付くその実践意識でもって「己の為に己が気付く」ことの繰り返しからしてその精神力を磨き高めることになればいいのです。

然るにそれを勘違いして人の為や世の為としてその己の能力を「おごる」=驕(おご)る平家(へいけ)は久(ひさ)しからず=ことからして未熟なままの中途半端にして終わったり、また過去から現在までの名立たる者が現れ出るも己の驕りの欲絡みからして世間を騒がすだけの「ミイラ取りがミイラになって」終わることになったのです。

ちなみに私の自惚れですが、己の内なる想念からして感じ気付いた事を文書にして伝える中に、邪なところ(欲)が無くて真面目にして素直に読み取れその内容に道理があれば、その時々に必然とする「お伝え」になるとして霊能者から言われ、然るに私が思いつくままに書いた文書数編がそのお伝えとして霊能者仲間に配布されたことがあります。

然るにこのブログは私の霊魂&命意識からして気付いたその精神世界をお伝えすることになる「お伝え」文書とも言えます。

その文書作成の始まりの元ばビデオ撮影制作の営業活動や副業のネットワークビジネスを発展させる為(自己拡大のため)に始めたことですから、それが見えない世界&神仏霊魂の精神世界や真理を伝えることに役立つ事になったのも想定外のことになります。

その想定外ということは成り行きからしての結果ですから自然体になります。

私に超能力が仕組まれ無かったが自己縮小が仕組まれただけに、このブログの価値が十分あります。

2014年04月12日 | Weblog
成り行き任せのその必然ご縁の巡り合せのそのお仕組みからして過疎地暮らしになり、そして娘が縁で完全真理に出会い、そして矛盾の無い宇宙&神&愛意識を学び知ることからして巷の神仏霊魂の世界&精神世界&神懸り奇跡の超能力霊力霊感のその不完全さに気付くことになり、
結果的に、その不完全意識が原因からしてその結果も不完全なこと、然るにこの世で何か事を成すことではなくして、然るに「結果じゃないよ心意識だよ」として、その精神世界&意識の世界で生きることを本質として、

然るにこの世人間関係が不完全がゆえに「どうしようもない」ことからして、そこで素朴謙虚にして静かに生きるその<自己縮小>の実践が言われ始めた頃には(私は)既に世間の柵シガラミから離れた孤独にしての自由な過疎地暮らしが始まっていました。

そして時間つぶしにして書き始めたこのブログも、その書きながらにして気付くと言う仕組みからして徐々に内容が様変わりしながら、今では人が集る所に欲が絡んでいるとして、この世人間関係がヘンテコなのは「すべてに欲が絡んでいる」からとして、その事実を根掘り葉掘り多角的に捉えて書いています。

然るに学び知ったその知識を書くことから卒業して、
然るに自己縮小した己の生き様からして気付き納得確信した事柄にして、然るにその裏表の矛盾が無く、また不確かなことの信じるか否かも無く、その真実事実を多く書くようになったのです。

そして過去の釈迦やイエスの類からして、また完全真理の言い出しっぺである山田耕栄さんも含めて、それら開祖教祖や指導者先生の不完全意識を遠慮なく指摘することにもなりました。

然るにその特徴からして「何処にも無い」内容のブログになっていると自負しています。

また摩訶不思議な結果&神懸り奇跡を出して見せる巷の超能力や霊力の類が私に仕組まれたのではなくして、私達人間の生き様の原因となるその意識&精神の根幹に係わるその実践、然るに自己縮小が私に仕組まれたことからして、

すなわち摩訶不思議を成して見せる(魅せる&惑わす&矛盾のある)結果形では無くして、内なる精神世界の真理とその実践意識からして気付き味わい知り納得確信した事柄だけに、

然るに何処そこの誰のブログよりも、また超能力にして奇跡を出して見せることよりも高い価値が有るものと自負しているところがあります。

然るにこのブログに違和感&不信感や疑問や何か知りたいことがあればそれを書き込んでください。
またこのブログよりも確かで信じるか否かも無く、然るに矛盾やアメとムチの使い分けが無くて、また誰でもが実践できる真理があればそれを書き込んで皆さんに教えてください。

精神世界は欲絡みだけに「百害あって一利なし」の結果で終わるのでしょうか?

2014年04月11日 | Weblog
思い気付くままにブログを書き続けているうちに巷の神仏霊魂から始まる精神世界が結局は欲絡みの不完全で特別なものだと判りました。
然るに(如何なる所であれ)人が集る所&人を集める所には欲が絡んでいたからです。

ちなみに過去の釈迦やイエスらの教祖指導者の類にも何かと欲があり、またそれら類に魅せられ引き寄せられ集る輩も何がしの欲があってのことだったから、次第に世間とは異なる特別な集り集団になったのです。

然るにその人集め金集めの役割を果たしたのが俗に言う神の力&神の手と言われる神懸り奇跡の超能力や霊力霊感や念力の類です。

またこの世で初めてと言われる完全なる宇宙&神&愛を説くその完全真理も完全だけに実践できない真理となり、そして人集め金集め&特別な物売りの形で止まっています。

然るに欲が絡めば、その原因からしてその結果も欲絡みの形で終わるのです。
然るに如何なる戒め説教真理を説いても、その説を説く者からして欲心を持っているような人間には無用の長物&不適だったのです。

そこでこのブログであらゆる欲尽くしを書き続けることになったのですが、その反応が鈍いのも当然でして、結局は実践できないのが精神世界なのです。

然るに先ほど登場した輩が客寄せパンダの如くにしてその精神世界を賑わしているだけであり、しかもその裏が出てトンでもない事になったその事実史実までが世界中の至る所で賑わうことになりました。
然るに「百害あって一利なし」の結果になっています。

となると素朴で謙虚で自力を多く使うことからして欲が少ない人であれば元からして精神世界に係わる必要が無かったのに、その邪な輩が集る精神世界の布教宣伝に(素直&真面目から)惑わされて(魅せられ)(その思惑期待からして)これは凄いとなって、その欲が深くなった人が世界中に大勢いるかもしれません。

だからここで欲張ることの愚かさをアレコレと書き続けることにもなるのですが、しかし、今一つ何か魅力に欠けるところがあるようです。

然るにそれが<欲>なのだと気付いているでしょうか?

そしてその欲に執着すると欲張る事になるのです。
然るにその欲の多くが他力依存&他力願望なのです。

だから欲が出たことに精神力で気付いてそれに執着しなければ何とか収まって問題になりませんし、また自力でもって成して解決すればいいのです。

然るに欲張る人は他力依存が多くまた他力願望が強く、またそれだけ不信感も強いことからして「信じる&信頼する」必要があり、そしてそれを思惑期待し過ぎて盲信することにもなるのです。

然るに欲は強いが自力自信精神力が弱く然るに不信感が強い「どうしようもない」人間失格と言っても過言ではありません。

然るにそんな人ほど巷の神仏霊魂の信仰宗教や超能力霊力霊感に魅せられ引き寄せられ、また盲信&自己陶酔することにもなるのです。

またそんな人達の中に欲が強くてその行動力に長けた者がいれば目立つ存在になり、然るにそのリーダー的役割までして指導&扇動することにもなるのです。

然るにすべては欲から始まったことからして事と次第が大きくなり世間を騒がせる結果にもなっているのです。

然るに欲を出さずにして静かに生きる方が自分の為にもなり、それがまた人様の為にもなる、その事実に気付くことです。

納得できなければ、天子と悪魔の心からして混乱した生き方になり、結局は悪の結果で終わります。

2014年04月10日 | Weblog
私達人間は良い悪いで判断するところからして天子にも悪魔にもなります。
然るにモーゼが神を信じない人を疫病で殺したり、また追手の兵隊を海割れ現象でもって溺れさせたのが事実であれば、然るにそれが良かれと思った天子の心からして(神の力を借りて?)人殺しをした悪魔になります。

またヒットラーが今の現状に納得していない人達を扇動してユダヤ人などを迫害したり虐殺したのも、然るにそれが良かれと思った天子の心からして始まった悪魔の仕業になります。

然るに今の現状に納得していない人達を集めて世直しを企てるのも、然るにそれが良かれと思っている天子であり、それが結果的に人殺しや戦争になれば悪魔になります。
ちなみに天子の心からして始まったのが悪魔の仕業になったのが事実史実に数限りなくあります。

然るに今の現状に納得していなければ、そこで何とかして良くなろう&良くしてあげたいとして、内なる天子の心でもってして頑張り欲張ることになります。
しかしその欲張ることからして他の者に被害を及ぼせば(害を成せば)悪魔の仕業になります。

ちなみに神懸りの超能力や霊力の自力でもってして今以上に善い方に変化させることは天子の行いでしょうか、
また人の為に援助救済&善行奉仕&犠牲になることは天子の心でしょうか、
然るにそれも欲になると思っています、だからその裏が出れば神頼み人頼みの他力依存になったり自力不足や精神力不足の人が増える結果にもなりますから、然るに悪魔の役割も果たしていることになります。

ちなみに今の現状に納得していればどうでしょうか?、然るに天子にも悪魔にもなりません。

だから今の立場が怪我や病気で寝たきりであったり死に掛けていても、また宿無しのホームレスやネットカフェで寝ているフリーターであれ、また貧乏人や庶民や資産家の立場であれ、またリーダー指導者や名誉権威権力者であれ、今に納得していれば天子にも悪魔にもなりません。

しかし今以上に良くなりたい欲があったり、またそれらを守ろうとする欲があれば、然るに天子にも悪魔にもなります。

ところが食って寝て糞をしながらにして今を生きていることに納得していれば天子にも悪魔にもなりません。

ところで皆さんは今に納得して生きていますか?

それとも今以上に良くなりたいですか?

然るにそこで欲張るとそれだけ苦労するし、その結果が出て最初は良く思っていても(途中結果ですから)それが後で都合が悪いことになることは、先ほどの史実事例と同様です。

然るに苦労したのに(とどのつまりは)(大局的に見て)(何処かしこで)悪い結果になっているのです。

然るに「終わり良ければすべて善し」では無くして、始まりは善くても終わりは悪になるのです。

然るに今の時代を見れば歴然としています。

ちなみに自力自信が少なくて他力依存が多くなり、然るに信頼するもそれだけ不信感が多くなり、その不信感からして守り意識が強くなり、然るに安心安全に欠けた精神からして穏やかさの欠けた、然るにその矛盾からして納得できないままに生きているのです。

だからその矛盾に早く(心からして)気付くことを書き続けているのです。

そして不完全意識の人間関係からして己一人の独自独歩&自力と自信の精神力でもって実践しながらに(納得しながらに)して生きていくしかないのです。