孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

常日頃からお陰様・お互い様の意識を持つことが出来ればそれが調和の生き方になっていくのです。

2011年01月30日 | Weblog
何処の真理でも「調和」が言われていますが、無理に調和することはまずありません。
何故なら不完全意識の人間同士が皆して仲良くする事に無理があるからです。
だから教祖・指導者が言ったとか書かれていたとかでそれを守らなければならないと思うことは洗脳された事になります。
しかし先生が生徒に無理押ししているわけではありません、生徒が調和を端的に捉えたことに原因がありそうです。

また完全真理では(耕栄さんが)形を言っていることに思えても、その形の中の原因である「意識」の事を言っているのです。
だから何かの事例・形を言っても鵜呑み丸呑みすることでは無いのです。
自分で自分なりに理解・解釈しなければ真実を読み取る読解力も感じ取る感性も育たなければ気付きも起きませんし、それにまして自分勝手に自己暗示・自己洗脳にもなる危険があります。
そこが言われた事を信じたがる宗教との違いでもあるのです。

だから前もって(言われた事を目的にしたりそれを守る為に)調和の生き方を心がけることではなくて、常日頃からお陰様・お互い様の意識を持つことが出来ればそれが調和になっていくのです。
しかしそれも互いが同じ意識にならなければ無理になります。
それでも(互いが無理でも)一人一人がお陰様・お互い様の人間関係を学び知り自覚悟りになれば、それを意識実践していることで人を責めることも自分を責めることにもなりません。
だから不平不満にならずに済みますから、それが原因の不安心配や怒り意識にならずにそこで終わるのです。
すなわち良い悪いで判断しなかったのと同じになります。

ところで私達は人それぞれに違った個性を持っていますから、その個性を活かすことも必要になります。
(私事ですが)私の個性に先取り意識があったお陰で色んな事を先取りして学び知り味わうことが出来ました。
またその先取り意識のお陰で私の人生で最も必要とした完全真理につながり、そしてそれを実践することでどうやら私の人生が終わるかもしれませんが、未熟なだけに皆と調和で生きることは出来そうもありませんから、今まで通りに「来るものは拒まず去るものは追わず」でやっていくしかありません。

その「来るものは拒まず去るものは追わず」の生き方であれば、私を必要としている人や私が必要としている人と接し触れ合うだけですから、互いに余計な無駄も無理も無く、またお互いに気心が分かり合えている関係から素直に接することも出来るから、楽しいことがあっても余計な苦労や気疲れをしないで済みます。
もし苦労や気疲れするようになれば不調和ですから、未練執着や欲が無ければ、そのご縁はしぜんと遠のき離れる事になります。
だからむやみに多くの人と接し触れ合うことが無いだけに気楽でのんきで自由が束縛されることにもなりません。

すなわち限られた人となら一時的に調和できる可能性がありますが、それでもお互いが不完全意識を持っているわけですから長続きしないで不完全のままに終わる時がくるでしょう。
だから私は完全意識の者同士でなければ調和にならないと思っていますから、今の不完全意識の人間関係から(見せ掛けの調和なら何処にでもありますが)調和は絶対に無理だと思います。 

そこで自由に気兼ねなく自分の個性をどんどん出していけば、いま守っている人間関係を乱したり崩壊破壊するかもしれないが、それも仕方がないことでもあり、必然の当然の事をしたまでの結果になりますが、それが原因・意識変わりで「新たな」必然ご縁の巡り合わせで成る様になって、そこで似通った意識の人と新たなお付合いが始まり(来るものは拒まずで)、そこで互いが学び知ることも多くあると思いますが、その必然・必要がやがて無くなれば(去るものは追わずで)その関係が終わっても未練後悔・執着にはなりません。
そしてまた必然のご縁で以前に増して似通った人との新たなお付き合いにつながることになるかもしれませんが、それも意識のあり方しだいで変わります。

しかしその結果はどうであれ金銭物質欲・肉欲・名誉欲で生きている無理・無駄な生き方よりかは、普通の人間として生きている実のある実感で味わえる生き方になると思っています。
それが成り行き任せに生きてきた私の人生であり、生き方・個性でもあります。

それによって必要とするものが少なくなったとしても、結果的には不要なものが無くなった事からその重荷が降りて身軽・自由になったのは確かです。 そして拘り・未練・執着も少なくなり、余計な無理や無駄も減り、結果的には(欲も減り)形の質素だけではなくて、意識的にも無理や無駄が減り意識面でも質素な生き方になっていくのです。
だから人間関係の調和や自然界との調和がダメでも、その調和に向けた方向には一歩ずつ進んでいるとは思っています。

今回も私見が多くなりましたのでご意見やご感想を書き込んでください。

私達は「お陰様とお互い様」の調和・愛の関係で生きていますから一切の特別もありません。

2011年01月29日 | Weblog
生きる為には「食って寝て糞をする」必要があります。
その生きているからこそ起こる生老病死も当たり前です。
だからその生きることが普通であって、その生きる中に特別はありません。

だから誰からも特別に束縛制限支配されることのない自由があります。
そして人間は一人では生きていけないことから、どうしても他力の「お陰様」と皆が同じの差の無い「お互い様」の関係で生きることになりますから、その生き方が違っていても皆が平等になります。

だから都会で暮らそうが田舎で暮らそうがその違いはあっても差はありません、だから平等です。
また金持ちであろうが貧乏であろうが、健康であろうが病気であろうが、生きていることに差はありません。
ところがそれらを特別に思えばそれが特別意識となり、それらの生き方の違いを特別な差に思うようになります。

だから生きていることが同じでも、都会で忙しく働いている人を特別に思えばホームレスの人達やルンペンも特別に思います。
また自分を特別に思うことは他の人も特別に思うことになります。
だから特別に思うとそこに差別意識が出てきます。

そこで先祖を特別に思えば恩返しに特別な形にして奉ります。 両親を特別に思えば特別な恩返しを思います。 恩師を特別に思えばその恩師を特別に尊びます。 また特別な事をしてくれた人を特別な恩人に思います。 だから特別な義理や特別な人情を尊びます。
ところがその特別に思った人にも同じく先祖・両親・恩師・恩人が過去にいました。 その過去の特別な人にも先祖・両親・恩師・恩人が過去にいました。 と言うように過去を追えば尽きることがありません。

ところがその過去を逆回しにすれば皆が順繰りに同じ事をしている事に気付きます。
例えば今の親が子育てをしていることは過去の親がしていた事と同じですから、自分を育ててくれた親の恩を今の子供に返している事になります。 だから両親を特別に思うことでも無いのです。 我が子を大切に育てればいいことです。
また自身の子供でなくても大切にすればいいのです。
・・・「親孝行」を言うのは特別意識なのです、またそれを願うのは我欲なのです。
・・・親は親の勤めを果たせばいいのです、あとのことは成り行き任せにするしかありません。

だから今の恩人恩師も既に過去の恩師恩人に面倒を見てもらっていることからすれば皆が同じ恩を受けていたのだから特別ではなかったのです。 お互い様とお陰様の関係で順繰りに回っているのです。 またそれが直接的な関係でなくても回りまわって恩を受けたり恩を返しているのです。 だから恩を特別にして恩儀に思うことも無いのです。
それが「生きている」ことの中に含まれているのです。 だから生きている中のすべてに特別は無いのです。

ところが特別意識の見栄やプライドを持つと、事を成した(恩を成した)ことの多い少ないの違いを「差」にして、少ないほうを軽蔑したり、多いほうを特別に尊び奉り、また差別する名称肩書きが付けられたりしているのです。
それを自己満足したり人に自慢したりして自惚れていれば(自分が偉いと思っていれば)それこそ過去の様々な恩を受けたことを棚に上げての「恩知らず」の恥じるべき意識の人になるのです。
だから偉そうにしている人ほど「恩知らず」の自尊心・我欲で生きていることにもなります。
・・・もっと突き詰めて言えば、私達は宇宙の恩を忘れた「恩知らず」の恥じるべき(動植物らに劣る)最低の人間なのです。

そこで過去に受けた様々な「お陰様」を皆が自覚していれば、すべてが差の無い「お互い様」の当たり前になって、その結果事実を味わってそのままに終わります。
それが人間関係に限られたことではなくて宇宙万物のすべてに通じるのが「お陰様」「お互い様」なのです。
それが「愛」なのです。 だから愛は特別では無いのです。
だから文句を言わずに、苦楽に思わずに、生老病死を気にせずに、そのまま、このまま、あるがままに生きていれば愛に生きていることになるのです。
それがまた「宇宙・神」と一心同体になれる「完全意識」なのです。


この世に偶然は無くすべては必然といわれる、その宇宙の「成るべくして成る」仕組みがこの世にあります。

2011年01月28日 | Weblog
今回も「浦島太郎」に登場してもらいますが・・・事実は「ひとつ」ですべてが「意識」にあります。
だから子供たちと亀が一緒に居るところに浦島太郎が通りかかったと言う事実があります。 ところが人間の意識に思い考え想像することが出来ますから、浦島太郎の意識次第でおとぎ話の内容が違ってきます。
すなわち「事実はひとつ」であっても、原因の意識次第で結果も様々に違ってきます。

だから浦島太郎がその事実を見て子供が亀を相手に「遊んでいる」と思うかもしれませんし、それを「いじめ」に思うかもしれませんし、また浦島太郎がそれに加わって「一緒になって」遊んだり虐めたりするかもしれませんし、また浦島太郎が「理想目的」に目指して忙しく動いていれば、その忙しさで事実を見逃していたり、関わりたく無くて見てみぬ振りをして通り過ぎたり、つまらない事をしていると蔑むかもしれないし、何の苦労もしないで(勉強もしないで)呑気にしていると腹が立って叱り付けるかもしれません。

また浦島太郎に「欲」があれば、子供たちから亀を取り上げ略奪したり、策略で騙して横取りするかもしれませんし、その亀を売って儲ける事を考えるかもしれないし、食欲を満たす事になるかもしれませんし、亀の甲羅を装飾するかもしれませんし、それを人に自慢するかもしれません。

また浦島太郎が何かのお役に立ちたいと思いそれを理想目的にして歩いていれば、その亀を助けたことで自己満足できます。
そうなれば「龍宮城」へ招かれることも無く終り、再び世の為人に為になる事を探しながらボランテア精神の旅を続けることでしょう。
そして自己満足だけに、私は亀を助けました、難儀している人を助けましたと、自慢そうに話すかもしれません。
・・・自分から買って出た苦労は欲がらみになります、そして私は正しい事をしたと主張・自慢したがるのです。

また浦島太郎が子供と亀を見て虐めていると判断したから、亀を助けたことになりました。
しかし遊んでいたのか虐めていたのかは人それぞれの意識の中にあることですから、虐めているように見えても事実とは違っているかもしれません。 そうすると浦島太郎が勝手に判断したことになりその事実は不完全で不確かになります。
それを子供と亀が一緒に遊んでいると判断すれば、その遊んでいる事実を見たことになります。
またそのあとのことは宇宙・神やその当事者に任せることになり、それらのみが知る事実が続くだけです。
その「判断」こそが事実が非実在に変わったり、良いと悪いで判断して矛盾すると不完全意識となるのです。

ところで地球に水や空気が自然に出来た事は、すなわち何一つ不完全の無い「完全」なる<成るべくして成る>仕組みがこの世にあったからです。 それが不確かな偶然であれば、それは不確かな不完全を意味しますから、その不完全な仕組みから(天地がひっくり返っても)完全な水や空気が出来るはずもありません。
だから完全な仕組みで動いていることから(何が起きても)この世に不完全な偶然はありません。
ゆえに浦島太郎が子供や亀に出会ったことは偶然ではなくて、宇宙の仕組みの必然・ご縁になります。

また龍宮城に招待されるのも、招待されないのも、それは必然の結果であって原因は浦島太郎の意識にあります。
・・・また龍宮城に行ったとしても良いことばかりではなくて悪い事になるのも、この世に矛盾があるからです。
だから先程の事例も浦島太郎の意識が原因のその思いやその結果になります。
すなわち元の原因とその結果は離れていません。

だからその必然・ご縁・お仕組みと言われる形にもその原因があるのです。
それは「元はひとつ」で「すべてはひとつ」ですから、宇宙すべての意識がひとつであり(そのひとつの中の)この世のあらゆるすべての意識が同じく「ひとつ」につながり絡み合っていることからして起こる必然の結果・事実・現象になります。

だから自然体の成り行き任せでも、または欲がらみであっても、それらのすべての意識が入り交り絡み合って、それが必要・必然としている意識のところに引き寄せ集められたりして、その必然・ご縁・お仕組みとなって「形」に現れているのです。
・・・だから宇宙の仕組みであっても、その必然・ご縁・お仕組みの起因・原因は、自らの意識が原因になっています。

だから必然で似た者同士が集まったり、相反する者同士がつながったり、それらが複雑に絡み合ったりしていますが、概ね意識することが肉欲であれば肉体につながり、精神欲は精神につながり、金銭物質欲はその欲につながりますが、同時にその他の欲も併せて持っている者同士ですから、やはり欲が入り乱れて感情がもつれたりして、一筋縄で事が成せませんから、どうしても苦楽が伴います。

ところが思い憧れや理想目的とする欲も無いその成り行き任せの自然体であれば、それら欲意識・欲情に惑わされることが無いだけに、その時々の宇宙の意識の流れ(波長・波動)や同じような意識の人につながりやすいことから、そのご縁が必然で仕組まれたり、また閃き気付きが起きたりして、自ずとその自然の流れに沿った生き方になっていきます。

もし私達が意識ではなく「形」で生きていると仮定すれば、「花咲か爺さん」の形・真似を「意地悪爺さん」がしても同じように枯れ木に花が咲きます。 浦島太郎の真似を次郎がしても龍宮城に招待されます。
しかし現実は絶対に無理です。
それはその「形」の物真似をしただけで、原因となるその「意識」のままを完全に真似ていないからです。
だから耕栄さんの物真似を完全にしても、同じ宇宙意識エネルギーを出すことは出来ません。

だから私達は結果「形」を気にして生きるのではなくて、その結果・形が出た原因意識を学び知ることが先決なのです。
それを教えてくれているのが完全真理であり、その実践をしなければその結果はついて来ません。
だから完全真理は実践の真理と言われるわけです。

完全真理を実践していれば、この世の不完全な荒波をまったく気にもせずに平然と歩んでいけるのです。

2011年01月27日 | Weblog
元はひとつの宇宙の進化拡大の流れから(必然から)此れまでに神の啓示を受けたとかで「選ばれし者」として世界中に様々な人が現れてきては何かと足跡を残してきましたが、それが宗教思想・真理となって現在まで引き継がれてもいますが、未だに根本的な救世・解決には至っていません。
その原因が良いと悪いで分離判断しているその矛盾・差にあることが山田耕栄さんの完全真理によって明らかとなりました。

その完全真理と此れまでの宗教・思想・真理と根本的に何処が違うかを既に気付いている人も多いかと思われますが、その完全真理であっても他と概ね似通ったことが言われているのは事実です。 だから人真似だとかすり替えているとか言う人もいます。
例えば「すべてはひとつ」「一神にして多神」「皆同じ神の子」「神に任せて生きる」「自然体で生きる」「あるがままに生きる」また「優しさ思いやり」「慈愛」「慈悲」「お互い様」「お陰様」「許しあう」「認め合う」「執着しない」「質素に生きる」等と言われています。

ところがそれらを説教している組織団体・宗教などの形に中に神を特別にして偶像化したり、それを敬い奉ったり、またそれら教祖・聖人・指導者を特別扱いすることがあったり、その組織の中に上下の身分・階級・差別があったりしていますから、説教することと現実とは矛盾しています。
だから同じ「すべてはひとつ」を学び知ったとしても、その中に矛盾や妥協や正当化された不完全なことが必ず含まれていますから、いつしかそれに気付いて疑心暗鬼・不信感を持つことになり、その宗教真理から離脱することにもなります。

ところがそれでも自分の身分・位置・肩書きを捨てる事に未練が出てきたりして、そこで自分を偽り他を偽りながらその宗教・真理に留まる事を選んでいる偽善者がいるかもしれません。
そんな偽善者に成り下がった者に教えられていると(簡単には見破られないから)その裏宗教・裏真理の闇意識・闇カルト意識の者に意識を支配されたり上手く操られることにもなりますから、その宗教・真理から(不安・恐れから)なかなか離脱出来ないままに長居居座ることにもなります。
・・・いずれにしろ、この世にある宗教・真理が不完全なことは事実です。

しかし完全真理は「すべてはひとつ」を良い悪いで分離判断しないことからして、その指導者やその形がどうであれ、その完全真理の本質に何一つ矛盾することには絶対にありません。
だからそれら言葉のすべてが事実・真実として語られていますし、それを信じる・祈る・願うでは無くて、確かな実践で活かされてその結果が出ますから、虚偽・偽善で誤魔化されたり、また思い悩み迷うことも思考錯誤や葛藤することにもなりません。

その完全真理の山田耕栄さんは大病が元で宇宙意識・愛意識に目覚めたとか言われているように、生死をさ迷ったり、落雷を受けたとか、神が現れた、眩い光に包まれたとか享けたとか・・・様々なことから意識が様変わりするようです。
また生まれながらにして普通の人とは違った感性・個性・霊力・能力が有って、それが年を重ねるごとに力を増してきたことから教祖・指導者になり宗教・組織団体などの看板を背負う事にもなっていますが、中には教祖・指導者らしく見せるために艱難辛苦の荒行や修行を重ねたことを肩書き看板としている場合もあります。

すなわち「修行」したことが無ければ肩書き看板が無いのと同じで、なかなか世間一般に受け入れてくれないとか、皆に認められないと思っていることに原因があったり(不信感)、もっと霊力・念力を高めるためにしたことであったり(欲)、知っているはずの神をもっと知りたがることであったり(自己不信・自信不足)と言うようなことであれば、はやり真実の神・完全な神や愛を説くことが出来そうもない不完全意識だったことは間違いありません。 ところで耕栄さんは修行していません。

そして修行に次いで奇跡を成して見せなければなかなか人が集まってきません。
すなわち笛や太古で踊ってみせる人寄せパンダ的な奇跡を成す必要があります。
特に大勢の人を呼び集せ人気を得るためには奇跡を成すことが必要になってくるようです。
・・・教えと修行と奇跡の三点セットが必要なのかも?

その点から言えば耕栄さんは宇宙・愛の意識エネルギーによって奇跡を成して見せる事はしています。
だから完全真理といえども(普及させるための信用を得るために)奇跡を成して人に見せることは必要だったようです。
特に初心者や未熟な人ほど強い不信感を持っていますから、先ずは奇跡を見せて引き寄せる必要もあります。
またそれだけにその奇跡・形に魅せられ惑わされてとんでもないことにもなる場合があります。
・・・私は耕栄さんの肩書きよりも完全真理の真実に気付いたことからこの道を歩むことになりましたが、やはり直に奇跡を見ることが出来たことで更に自信となったのは事実です。

ところがしかし完全真理でも宗教真理でも本質は心・意識の導き救いにあります。
だから宇宙・神から「選ばれし者」と言われるものが不完全意識を持っていれば、それを「選んだ者」も同じ不完全意識の神や愛を学び知ることになりますから、どんなに真面目で頑張りやで熱心であっても、その学びや実践の中に必ず矛盾することが含まれていますから、完全な真実の神や愛を知ったことにはなりません。

だから世の為人の為に役立っているようでもあるが、その裏には迷惑がられたり、邪魔立てしていたり、間違った方向を示していたりと矛盾も有り、お節介で余計なことで無駄な事にもなっている事実が裏に隠れていますが、しかし当の本人は自己満足していますからそれに気付くはずもありません。
だから「選んだ者」同士やその集団・教団・組織内でしか通用しないことも多くあり、ましてあの世の意識の次元に通用する(門を通過する)ことにはなりません。

ところが(人様の意識や奇跡がどうであれ)「完全真理」は完全ですからその点大丈夫です。
しかも「実践」真理ですから、実践結果に何か矛盾があれば、それは(耕栄さんやスタッフであっても)実践している者の意識に矛盾があったことから起きた結果であって、完全真理に矛盾があるわけではないからです。
すべて自己意識・個人意識の矛盾に原因があります。

だから完全真理の真実を深く学び知れば、その自力で一人歩き・実践できますから、耕栄さんやスタッフや仲間内などの他力を多く必要としなくなります。
すなわち宗教のように「集団化」することも「組織化」することも、「偶像崇拝」や奉ることもなく、またそれらを「信じる」ことも「願い」「頼る」ことにもなりません。 だから裏宗教や裏真理に意識を支配されることにもなりません。
だから「完全」であり、安全なのです。
だから誰にも惑わされずに、誤魔化されずに、真っ直ぐな一本道を確りと独自で歩んでいけるのです。

この点に気付けば「完全真理」が頼もしくもあり、学び知り・気付くことに喜び楽しみもあり、それが自分の意識にも活かされることから更にそれが自信となって、完全真理さえあれば、それを実践さえしていれば、未熟であっても、大船に乗った気分で安心して流れに身を任せていられることから、この世の不完全な荒波をまったく気にもせずに平然とあるがままに任せて進んでいけるのです。


私の「自己縮小」が本物に思えたときがあります。

2011年01月24日 | Weblog
私がこのブログに書く内容の中に、人様からの書き込みや数少ない私とのご縁がある仲間内との交流がきっかけヒントになっているのも多くあります。
先日「自己縮小のしすぎ」ではないの?と書き込まれたときに、あれれ・・・と戸惑い、過去の書き込みにあれだけ自己縮小という言葉を使って書いていたのに、その自己縮小と言う言葉をすっかり忘れていた自分に自分が驚いたのです。
すなわち人様から見れば自己縮小に思えるのに、既に私の中に自己縮小しているという自分の姿が無くて、それが当然の生き方になっていたということです。 それを言い換えれば自己縮小が本物になっていたということになりますが・・・

またそれ以前のことですが、仲間内に「献体登録」をしている事を言うと、遺体をホルマリン漬けにされてしばらく保存され、そして医学生が解剖で体を切り刻み、皆であれこれ確認するのでしょうと言い、それを思っただけでゾッと身震いした鳥肌が立った寒気がしたと言って、そこまでし無くてもいいのにやめまい、と反対を親切心で言っていましたが、私自身は魂・意識・心の抜けた脱け殻に何の未練も無く、魚のように三枚にされようが牛のようにロースだのバラ肉だのと仕分けされようが痛くも痒くもないし、死んだ事を哀れみ可愛そうに思われたり悲しまれることさえご無用にしてもらいたい私ですから、献体登録して医学生のお役に立てるほうが屍を活かせるし、無料で法要供養までしてくれるのだから身内親族の手間も少なくて済むし、一般の葬儀参列やお悔やみの面倒臭いことも省けることから、私にしたら自信を持っての最高の選択をしたことになります。

すなわち、完全真理によって死に対する意識が変われば病気も老後もその死も何の変哲も無い当然の事になりますから、勇気だの決断・決心も必要なくなります。
それに加えて不完全なこの世の形やその人間関係を知り尽くせば、この世の人間である事に何の未練も無くなってきます。
またそれが当然のことのように思えるくらいでなければ、それが特別に思える様になり、死に未練や生きる事に執着が出るだけで終わらずに、そのために身近な人を含め多くの人に要らぬ余計な影響を与えてしまうことにもなるからです。

こんな事を書くと、ある人は「世捨て人」「孤独独居老人」として、寂しい人だの可哀想だの惨め哀れに思えて涙が出てくるようですが、そんな人の意識には、やはり孤独死はしたくない、無縁死や無縁仏になりたくないと思っているようです。

ところで、仲間内で気心が知れた人で時々予告無く山へくる人達がいますが、その人達が私の白骨死体を見た第一発見者になると笑いながら会話したり、その散骨場所を何処にするかを決めたりしたことがあります。
そんな意識の私に、もし死に際に望むことがあるとすれば・・・山へ遊びに来た仲間内や孫達の明るい笑顔や声を聞きながら静かに死んでいき、それにやっと気付いた仲間内の子供や孫達が「おっちゃん」または「爺ちゃんが死んでいるよ」と平然としていてくれれば文句なしの死に方になります。

そんな私の過去では金銭物質三昧を我が世の春の如くに味わっていました、それが今では金銭物質に縁遠いような暮らしをしながら自由三昧に我が世の春を味わっていますが、その過疎地で三日は持たないと思われていたのが今では9年になります。
ところが一昨年の春まで月5万円の年金で悠々と生活していましたから、その後のご縁からの肉牛飼育のバイト代約7万円の使い道があまりありません。

だから生活に余裕が出てきたので「お金持ち」に成った感覚でいます(笑どころです)。
それでも生活に余り必要としないものを「ショッピング」したり「お食事どころ」へ行ってまで自己満足するつもりはありません。
だから質素倹約に暮らすために色んな事を我慢・辛抱しているのではありません、質素に暮らすことに味わい深いものがあるからです。
また病気や怪我や老後の事を考えての預貯金をするつもりもありません。
また伝統風習や儀礼に出費することもなくなりました。
だから遊びと時間つぶしにもってこいの一円パチンコに行く回数が増えています。

そしてパチンコの景品を孫達にあげることで、その喜ぶ様子を見るのが楽しみにもなっていますが、エサで魚を釣るような感覚ではなくて、お金の使い方がパチンコですから、その余計な産物である景品を渡す相手が気心が知れた孫達になるだけです。
だから孫達で無くても喜んで受け取ってくれる気心の知れた人なら誰でもいいのです。
だから私が差し出した物を素直に受け取ってくれる人であって、しかも必然ご縁があったときに限りますし、また運良く景品や山の産物が手元にあったときに限られています。 すなわち成り行きでそうなるだけです。

ところが素直に受け取って頂けない人が多いのも事実です。
そんな場合になれば私は失意で気が落ち込みます、そして余計なこと・無駄なことをしたと後悔し、意識を改める事になります。
だからそれが儀礼的に遠慮されているとしても、(後悔事無く無難に早く終わらせるために)それ以上深入りしないで素直に引き下がります、そして同じ事を繰り返せばその失意をまた味わう事になりますから、今後は注意することになります。

ところが素直に喜んで受け取ってくれる人であれば私も同じく嬉しくなりますから、また次の機会があれば何度でも同じ事をします。
それらの人が気心の知れた人達であり、そのご縁必然が続き、時には意識が通じ合うようなこともあります。
だから姿や形ではない「意識」のあり方で人間関係も人生も変わるのです。

いつもの如く細々と書き足しましたが・・・皆さんがこの文書をどう思うかは、読んだ人の意識次第でどうにでもなります。
だからそれが人間は「意識」で生きている「命」であるという証になります。
そして不完全意識を改める意識改革の必要性に目覚めることにもなります。

見栄や世間体を気にしている人達のその意識の不完全さに気付くことに「質素に生きる」本質があります。

2011年01月23日 | Weblog
「質素」に生きる中にも、何でもかんでも質素にする、その無理をすることはありません。
自分に出来ることから先ずやっている内に、その質素の本質が理解できるようになれば更にしぜんと質素が進んでいきます。
だから無理をせずに、いま有るものを大事に使いこなし最後まで使いきる事や食品などを無駄に捨てる事無く食べきることであり、見栄や世間体・プライドを守る為に無駄遣いしたり義理立てしたりしなければ自ずと質素になっていきます。

また先々の不安心配から貯蓄することや保証保険システムに加入することも必然であればそれも結構ですが、貯蓄するために生活に無理が生じてそれが不平不満になったり、またその分だけ余計な働き苦労を抱え込む事になれば、それは質素に生きていることにはなりません。

そんな中に目立つのが、日常生活が質素なのに冠婚葬祭に義理立て出費したり、人様の誕生祝や入院見舞いや退院お祝いや新築お祝いから入学や就職祝いや季節の節目の贈答や記念日のお祝いなどと、心がともなわないその義理立て義理受けの繰り返しにはその意識に問題があります。
また例え心がこもっていたと思っても(正当化しても)、見栄・プライド・上から目線の恩着せ意識が隠れていたり、また返礼・恩返しを(裏心に持っていれば)期待していれば、それも偽善・儀礼になります。
また記念日だからとかの何々だからと「名目」目的が付けば、必要であろうが無かろうが名目を果たすために差し出し・プレゼントしていることから儀礼になるし、名目を付けて「与えた」という自惚れ・自己満足にもなりやすく、必然性に欠ける儀礼・見栄・プライドから余計な無駄な事をしていることになります。

しかもそれが人付合いの原点のように思われていることからも、その自分を守る守り意識・プライドが質素を邪魔することにもなっていますが、しかしそれらを無視して生きることにも無理があるかもしれません。
だから「質素に生きる」ことが言われている中にあるのが、質素の形が云々ではなくて、質素に生きる実践をしている中で気付き学び知る、その個人意識の不完全さに気付くことが質素の本質なのです。

すなわち先々の事を思い予想することが非実在を意識した不完全意識である事を自覚することや、見栄や世間体や常識・伝統・風習・道徳に意識が支配されない真の自由を味わい知ることであり、喜怒哀楽や生老病死に意識が支配されないことであり、その為にも自力を多く使い他力を少なくし、頼らない依存しない自信を身に付け、その結果からいつの間にやら質素に生きることになっていたのが自然体なのです。

すなわち完全真理を実践していた結果から質素が身に付いた事になります。
とは言っても、その意識では無くて「形」を尊ぶ不完全意識の集まりがこの人間界・人間関係ですから、その「形」を気にしないで質素意識を充実させるのは無理があるかもしれません。
しかし先程書いたような見栄や世間体などの質素に反する事を意識することで、その原因意識・個人意識を心から学び知り気付くことになれば、(まだ実践が未熟であっても)その質素の本質を学び知り気付いたことと同時に完全真理の本質をも学び知り気付いたことになるのです。
だから執着をなくする実践や質素に生きる実践意識を持ち続けていることが出来れば・・・何とかなるでしょうと言われているわけです。

すなわち「実践」意識でいれば必ず「気付き」が起こります。
その気付きによって不完全意識・個人意識の有様が手に取ったように見えてくるのです。
だから実践意識のあり方しだいでその気付きも違ってきますから、やはり根本の完全真理を如何に深く理解しているかでその気付きも違ってきます。
すなわち「実践」とその「気付き」の繰り返しから完全真理の理解も深まっていくし、その実践が確かな自信に結び付いていくのです。

そして今の人間関係の維持が必要ならば、その儀礼・形を「無理に廃止」することもありません。
ただ私の場合は収入に見合った生活をしていますから、儀礼なんかで無理な出費をしたくないのです。
またこの世の人間関係の矛盾・不完全を知り尽くしていることから、それが家族親戚友人知人といえども、その儀礼を尽くすことは無駄で余計な事だと自覚していますから、その儀礼のために無理をすることはありません。
それで私とのご縁が途絶えるようであれば、それも必然であり、去るものは追わずの成り行き任せにしていますが、それでも私を必要としている人であれば、その必要とされている間はご縁が続きます。

だから質素の形の実践意識よりも、質素の本質を心がけていることから気付き学び知ることができる、そのこの世の不完全さや人間関係の不完全さを心から気付き学び知る事にあります。

「質素」は何でもケチることでは無くて、欲張り無理をしないで自力や他力を無駄にしないことにあります。

2011年01月22日 | Weblog
私達は良い悪いの無い完全意識・愛や宇宙意識と言われるものを実感で味わっていなければ、それら意識に到達するための実践に自信が持てないことから、その分だけ実践が疎かになったり、または完全真理に不信感さえも持つことになるかもしれません。

そこで完全真理の「あるがまま」の自然体・成り行き任せに生きることを意識して暮らすことで、それが質素になれば、欲を出して自らが捜し求めたりしませんから、今あるものを使い切る事になったり、それが無ければそれだけ自力を使う事になるし、その自力を今は持っていなくても(他力を使わずにして)自分なりに何とか創意工夫してやっている内に、それが自分なりの自分に適した自力になります。
そして自力で事を成したことで満足を味わいそれが喜び自信にもなります。
・・・「付記」・・・
ちなみにその満足を自慢するようであれば自己満足になりますが、質素なだけに(大したことでは無いだけに)その自慢することさえも馬鹿らしくなるし、大したことでも無いその自己満足をするために無理に何かをしでかすと言うような余計な事に足出し手出し口出ししなくなります。 だから以前にまして質素・簡素になっていきます。

自力で創意工夫しても問題が十分に解決できなければ(自力不足であれば)それを補ってくれる便利な機材器具が必要・必然になったり、それらを専門に解決してくれる他力人頼みにもなりますが、そこで出費が必要になります。
・・・だから仕事で収入を得る手立てがこの世に(選り好みしなければ)平等にあります。
そこで出費して新たな機材器具やその中古品を買うことになったり、または業者に依頼することにもなりますが、例え出費したとしても、今まで自分に出来なかったことが機材器具のお陰で出来るようになったり、人様のお陰で問題が解決できることになったのですから、その喜び感謝もしぜんに出てきます。
そして新たな機材器具を大事に使い切ることにもなるでしょうし、そのことで金儲けになった販売店や業者も同じ喜び感謝になりますから、共に喜び感謝のお陰様やお互い様の関係になり、そこに協調調和があります。
・・・だからむやみやたらと何でもケチることが質素ではありません。

ところがその出費できる金銭が不足していたなら、それも自力不足のひとつですから、その自己責任で納得して(執着しないで)あきらめることが肝要になります。
そこで無ければ無くても平然と生きていくことが出来れば、それが「あるがまま」の意識で生きていくことになります。

そしてそのままに、無理をせず欲張らずの「あるがまま」の成り行き任せであっても(何もし無くてもいいということではありませんから)、何事にも自力を使って出来る事を惜しみなくやっていれば、(それが巡り巡って)先程のこの世のお陰様・お互い様の関係から、いつしか必然のご縁の巡り合せで自分に適した仕事が出来たり、余計になった余りものや中古品を人様から頂く事になったり、その時々でご縁があった人から優しくされたり、惜しみなく協力・助力してくれることになったりします。
・・・私にこのような事例・実例が数々あったことから、それが自信になり、その実感を込めてブログに書いているのです。

だから「質素」に生きることの真価を理解して納得確信自覚の意識になっていれば・・・質素に生きているだけに、いつの間にやらプライド・見栄や世間体を気にしていたことが馬鹿らしいことにも気付きます。
しかもプライドが無くなれば世間の常識・伝統風習・道徳さえもどうでもよいことに気付きます。
まして財を成すことや名誉名声肩書き・権威権力にこだわる人(無理している人)が気の毒にさえも思えてきます。

だから(私の場合)それらにこだわっている人との接点が薄れてきてそのご縁が遠のき、それがやがて孤独にもなります。
ところが孤独になればその孤独に、今までに無かった「自由」がある事に気付きますから、その孤独を大いに味わう意識にもなります。
すると余計なことでよそ見をすることも減り、それだけ今まで見逃していたことに気付いたり、まったく知らなかった新たなことに気付きが起きたり、忘れていた大切な事に気付き蘇り、それらがこれからの人生に活用できるまでになります。

★そして何の無理も無く自然体で自分に出来ることを素直にしていることが愛であり、それが宇宙意識・神や愛の意識であることに気付き、そしてこの世に「特別」がいっさい無い事に気付き、それが「あるがまま」の愛で生きていることだと気付きます。

そうすると好き嫌いで選り好みすることよりも、自分に出来ることだからやることになったり、また大したやる気でもなかったのにいつの間にか喜びあふれる結果になっていたこともあるでしょうし、また自分に出来そうなその自信があるからこそ目新しい事をやり始めることもありますが、それが例え失敗しても自力不足を味わっただけでそれ以上の無理も執着も無く終ります。
それでもその途中までやれたことはそれが自力にもなり自信にもなります。
そしてそれらを繰り返しているうちに、やれなかったことまでがやれるようになったりして、それがまた自信にもなる、その繰り返しが自力・能力となって更に自分に出来ることが増えていくことになり、それが「鬼に金棒」の自信にもなります。 すなわち無理の無い生き方に自信が付きます。

そのやれる事をやっている内に遅かれ早かれ結果が出ていることからして、欲を出して急ぎ慌てる無理をし無くても、やれるだけやっていたら遅かれ早かれ「成ることは成る」ことに実感で気付くことになります。 そして焦らず欲張らずに成り行き任せに待つことの出来る意識にもなります。
・・・だから欲のある特別な暮らしをしなければ(田舎暮らしで無くても)「質素」は実践出来るのです。
それには見栄や世間体・プライドなどを無くしていかなければ実践に無理が生じてきます。
すなわち「執着」にしても「質素」にしても個人意識が実践の邪魔をするのは同じです。

だからやはり「完全真理」を学び知り自覚・納得・悟りに至ることが先決になるのです。
ところで矛盾の世界だけに「逆も真なり」の結果があります。
だから世間の隅や底辺でいる人ほど何かと真理の理解が進むことになったり、失うだけ失った人のほうが(元から質素なだけに)真理の実践に活かされることにもなりやすいのですが・・・しかしその「完全真理」を読み取り感じ取ることが出来るか否かはその人が持っているその意識にあります。

だから人間は姿形に関係ないところの(見えない)「意識」で生きているのです。 そしてそれが「命」なのです。
そして「意識」「命」にエネルギーがあるから、人間の姿形を維持することが出来ているし、その姿形を使って行動表現して見せることが出来ているわけです。 だからその意識の現われが肉体・感情体・精神体で表現されているのです。
すなわち人間の姿形は意識を表す「道具」にしかすぎません。
だから意識が大切になるわけです。

「完全真理」であっても、それを読み取り感じ取ることが出来るか否かはその人の意識にあります。

2011年01月20日 | Weblog
良い悪いを持たない完全真理をこの世に始めて出したのが山田耕栄さんですが、それも宇宙の進化の流れの中の必然からであって、その宇宙のメッセージを感じ取ったのが耕栄さんであり、その耕栄さんの感じ取った真理の言葉を読み取り感じ取る人達が仲間内の人達ですから、それを特別に思うことになれば不完全意識・闇意識になりますが、そのことを想念の世界で学ぶ人には「選民意識」とも言われています。

また良い悪いを持たないことから、次に執着しなければいいとなったのも、また質素がいわれだしたのも、その進化・変化していく宇宙の流れ・メッセージを耕栄さんが感じ取って皆に伝えていることにないます。
だから良い悪いを持たない意識の時代(意識の世界)がこの先に訪れる事を示していることであり、その前に執着しない意識の人になることであり、また最近の質素が言われだしたことは、その質素な意識で生きる時が必然で来る事を示していると(一連の流れから)私は思っています。

それでも執着しなければいいとか、質素であればいいという端的なことだけではなくて、その前提に必ず良い悪いで判断しない完全意識になるための実践をしている中でのことになります。
だから完全真理の理解なくして事が進むはずは絶対にありませんから、途中で脱落する人もいると思います。

そこで私見になりますが、この世は深い闇意識・集合意識に覆われて末期的症状を示していることから言えば・・・「一人こければ皆こける」将棋倒し「連鎖」が起こることがこの世にあります。
例えば過去の歴史や史実にあるように、皆の集合意識に連なって一緒に踊らされ(ヒトラーや毛沢東などの指導者・リーダーの思いのままに動かされ)、その時代や国家や社会・地域を揺るがし激動・混乱することがあったように・・・カリスマ的指導者が現れて世界を揺るがすことにもなるかもしれません。
また何かのきっかけから経済崩壊することもあるし、巨大都市や帝国の崩壊や最終的には核戦争が起こることも予言されています。

その予言が当たらなくても今の状況からして、この先に「質素」に生きることが、自然災害などで否応なしに起こり、余儀なくされる事態になる、その確率が高いのは間違い無いようです、特に闇意識が多く集まっている都会ほどその確率も高くなります。
それが天変地異やの自然災害であったり、またゲリラやテロなどの人為による災害混乱もありそうだし、人的事故や被害も多く起こっているし、それらを避けられたり事無く上手くすり抜けることが出来ても、自分自身の意識が原因で起こることだけは避けようがありませんし(何度も書いているので事例は省略します)、また誰もが平等に起こる事にあるのが、時間の経過から年老いていくことや死に至ることは絶対に避けられませんから、最終結果的には誰もが「質素」になります。
ところが自らの意識で質素を選択したのと、質素になってしまったのとでは大違いです。
・・・その事例も以前に書いているので省略しますが・・・

先程の選民意識のように「選ばれし者」がいれば、それらを「選んだ者」もいます。 その選ばれた人も選んだ人も同じ人間には変わりありません。 それを特別にするから選民意識だの特別差別意識の不完全意識・闇意識となり、それら集合意識が「闇」となって世界を覆っていると言われるのです。

特に「選ばれし者」の中に特別差別意識があればとうぜん「選んだ者」の中にも特別差別意識が定着してきます。 それが現在です。
ところが「選ばれし者」が特別意識になっていても、その教え真理に矛盾・特別が無ければ問題を起すことにはなりません。
また「選ばれし者」に特別意識が無くても、選んだ者に特別意識があればその人だけに特別意識が定着するだけで、他の人にまで特別意識が及ぶことはまずありません。

そこで「完全真理」であれば、「選ばれし者」も「選んだ者」も、その矛盾の無い完全真理が原因で問題・混乱を起すことにはなりません。
だから完全真理は完全真理のままに定着していきます。
だから完全真理を選んだ人はその真理が説く「完全意識」に到達することが出来ます。
ところが今は不完全意識だけに、完全真理の教えを実際に「実践し続けて」いかなければ完全意識には到達できません。

そこで先程に戻りますが・・・良い悪いを持たない実践をしてきました、しかし無理が有って今度は執着しなければいいということで実践してきました、しかしそれも無理なことから今は質素にしていればいいことになりました、だから今は質素に生きる実践を心がけていればそれでいいということです。

すなわち一連の流れの中で真理の一つでも実践し続けていればそれでいいということです。
それが実践真理で有り、その実践意識を各々に問われているのです。
それも教えられ言われた事を「信じる」ことでは無くて、真理を理解し確信し悟ったことを「自信」でもって実践しているその実践意識が重要なわけです。

それでも未だ未熟なために「信じる」ことから始まっていても、それを「実践」している内に自覚確信・悟りになれば、それは意識して「実践していた結果」であって、ただ信じていたから得た結果ではありません。
だから実践が重要なわけです。
だから実践さえしていれば何とかなるでしょうと言わんばかりに実践意識を緩和したり、脱落者が出ないように助け舟・ファバラを出したりして、完全真理の実践を促しているのです。

すなわちこの世の不完全な形や宗教真理に留まらずにいたことから、その意識がゆえに必然のご縁から完全真理にたどり着いたわけですから、その完全真理を「選んだ者」の個人意識・闇意識に「灯台」のごとくに一筋の光に照らしだされて、その闇に覆われた不完全なこの世・不完全意識から、「自らの自力」で抜け出し浮かび上がり救われることになるから、講演会などで完全真理の「実践」を口すっぱくなるほど言い聞かせてくれているのです。

だからこのブログに来られたことは必然のご縁お仕組みと思って「完全真理」を学び知りそして実践する事にでもなれば、それが完全真理を「選んだ者」であり、その選択が間違いではなかった事を「確かな実践」でもって深く味わい知ることにもなるのです。

何で完全意識だの神や愛意識だと言って完全真理を理解し、何でそれを実践しようとしているのでしょうか?

2011年01月18日 | Weblog
完全真理が説かれ始めた初期の頃は「良い悪い」で判断しないことが大前提になっていましたが、その実践が難しくてなかなか進展しなかったことからか、次に良い悪いで判断してもそれに「執着」しなければ忘れる事になるからそれでもいいとなりましたが(この時点で始めてファバラ・シールを実践の補佐・促進的な役割として必然で出たと思っています)、ところがそれさえもなかなか実践できないことからか? 最近は「質素」であればいいと言われているようです。

それを私流に勘ぐれば、それだけ実践が難しいと言うことです。
だったら今回の「質素」であればいいという事もなかなか実践できないかもしれません。
もしそうなると次回は「ファバラ」さえ使っていればいいとなるやも知れません。
・・・私の予想ではそうなる可能性が大きいと思っています。

人間として生まれたからには良い悪いで判断することが当たり前であって、しかもそれがこの世で正しい事に思っていたのだから無理もありません。 そして「執着」しなければいいとなっても、それも執着しているからこそ事が成り立っている世の中で暮らしているのだから、それも無理だと思います。

となると「質素」もどうやら無理があります。
此れまで目的理想を目指して懸命に頑張ることやその喜怒哀楽・苦楽を味わってこその人間本来の生き方に思い違いしていたのだから、今更それを改めるのも無理だと私は思っています。
・・・私の独断と偏見ですが・・・今も「質素」に生きている人が全国津々浦々にいますが、それもその質素を何かの事情が有って・余儀なく・仕方なくやっているだけであって、肝心要の完全真理の理解・納得確信・悟りに至っていない限りにおいては、質素に生きることの本質を知っていることにはならないと思います。
それと同じく真理を学ぶ仲間内の人達であっても、質素でいいというその本質を理解していないかもしれないし、また今までと違った生き方が素直に実践できるとは、私は思っていません。

だから耕栄さんがどんなに条件を広げても(宇宙意識の門を広げても)土台無理なことは無理だと思っています。
すなわち此れまでの宗教真理のように「信じていなさい」「唱えていなさい」「願っていなさい」「祈りなさい」「広めなさい」の実践と違って、我が身を実践で使ってそれが事実であることや眼には見えていない真実を実感で(感性・霊感・意識で)気付きそれを深く味わい知ることですから、自信確信があっての実践・実行力・決心やその持続性も必要ですから、そんなに簡単なことではないと思います。

例えば霊力・霊感・感性・技能・能力等の実力・自力・気付きが有ればあるほどにそれに匹敵するだけの世間的なものやその形を多く抱え持って大事にしている筈ですから、それら此れまでに築き上げてきたものをいつでも手放すことが出来るだけの意識・実践力が無ければ、やはりそれを守りたがる意識が出てきたりしてそう簡単に質素を実践できるとは思いません。

しかも欲を完全に捨てることも出来ないのが人間だから、未練や執着心もあり、また見栄や世間体・プライドを持っているし、また言い訳や正当化したがる偽善や私は正しいを持っていることだし、それを自己主張・顕示したり、それを守り闘う守り意識もあるし、そのために否定排除したがる不信感をも持っているからです。
すなわち完全真理と相反する個人意識を全部持っているからにはやはり無理だと思っています。

ところで今の私は自分が思うがままにして、それを成り行き任せに任せて歩んでいたらいつの間にやら摩訶不思議な世界・霊魂の世界・意識次元の世界を知ることになり、そしていつの間にやら田舎暮らしに至っているわけですが、それが質素に生きる「形」にはなっていると思います。
しかし元々から持っている個人意識が消えているわけではありませんから、その個人意識の全てがいつでも裏心に出てきます。
それでも完全真理を理解した上で今の質素な形を味わい気付いていることから言えば、これからの先々に自信めいたものを確かに感じてはいます。
それがブログに書いている喜怒哀楽や生老病死に関することであったりしますが、その自信がもろくも崩れるのが人間だと言うことも自覚できていますから、今は自信があってもそれが絶対では無いだけに定かではありません。

そこで自分の意識を知る手立てとして、先々に必ず味わうことになる病気や老後や死を当てはめてみて、それでも守り闘わずに成り行き任せにして生きていける自信があるか否かを自分に問う形で思い考えています。(それがブログにもなっています)
すると確かにこの世に未練も無いようだし(不完全でどうでもいいようなこの世の形やその人間関係の裏表を十分に味わっただけに)、また死ぬ時が来たら死ぬその覚悟も出来ているし、それが世間で忌み嫌う孤独死であれば私には(家族のためにも)それが都合が良いことに思っているし、孤独を孤独として味わっているだけに独居老後を気にしているようでもないし、また死に至る重病が発覚しても守り闘わないでファバラ任せにしてみる自信も有りそうだし、寝たきりになっても(此れまで味わったことが無いだけに)それを味わい楽しむ心構えも出来ているようだし、またこの世に未練が無い事を示す形で葬儀無用の献体登録を始め仏壇やお墓やの、この世で生きていた足跡を残さない手立てを講じていますから、それらがかえって変な自信にもなっていることからして言えば、その死にざまやその死後が果たしてどうなるのかと言う(今まで味わい知らなかったことが実感で味わえると言う)期待感や興味めいたものもあります。
・・・とは言っても先に書いたように・・・そう簡単に「問屋が卸してくれない」というのがあるし、真坂の思いもよらないことで精神錯乱状態になったり大きな挫折を味わって元に戻れないと言うこともあり得ますから先々は不確かです。

ところで何で完全意識だの、われ神なりの神意識だの愛意識だのと言って、今まで知らなかった完全真理を理解しそれを何で実践しようとしているのでしょう・・・われ神なりの意識になって何か得をするような良いことでもあるのでしょうか・・・また良い悪いの無い平坦な真っ直ぐな道を呑気に歩くよりも山あり谷ありの波乱に満ちた人生の方が味わい深いのではないの?・・・また豊かな衣食住財や名誉肩書き権威権力を持ったり、文明の利器を使いこなしたり、また喜怒哀楽や生老病死や趣味嗜好娯楽や刺激や快楽を味わえる人間の方がいいと思いませんか? 私もそう思っていた時期が確かにありましたから・・・多分皆さんの中にも有ったことでしょう・・・

すなわち誰もが一度も神意識・宇宙意識・愛意識の真髄を実際に味わっていないのに(絵に書いた餅しか見ていないのに)何で実践できるのでしょうか? そう思いません? だから無理だと思いません? またそれを理想目的とすれば思い描く非実在の不完全意識だけに(原因と結果は同じですから)実際に実践しても不完全な神・愛の意識になりますから、懸命に努力実践したことの意味がなくなり無駄になります。

また生きる為に日々忙しくしているうちに完全真理の実践さえも忘れていたりしませんか? また実践しなければと思うことさえも(理想目的になり)不完全意識なのだから一体どうすればいいの?と迷ったり混乱したりしていませんか? または実践に自信も無く実感も味わえないことからして逆にそれが不信感になったり、または面倒臭くなったり、できればもう忘れたいと思っていません?
そしてその原因を完全真理や耕栄さんの性に責任転換したり自分勝手に言い逃れすることができますから、もしかしたらそれで楽になって正当性が出てくるかもしれません・・・

また「ファバラ」エネルギーでどれだけの効果効用の結果があったでしょう? ひょっとして裏心に不信感があって胡散臭く思って使っていません? また反対に思い込み・妄信・自己陶酔・自己催眠・自己洗脳になっていません? それとも真理の実践よりも耕栄さんとファバラを信じることで安心していません? それとも期待しすぎていません? それにしても価格が高すぎると思いません?

あれこれと書きましたが・・・此れらが完全真理の実践の難しさにつながっていることは事実だと思っていますし、仲間が脱落していくのも、新人が思うほどに増えないのも、一般世間に真理もファバラもなかなか受け入れてくれないもの・・・やはり私達の個人意識に完全真理を受け入れさせようとしている無理があるのかも?・・・と私は思っています。
ゆえに耕栄さんも「皆の集合意識」が影響して邪魔をしていると(奮起を促すために)説明することがありますが、(私としたら)元々から不完全な人達の集まりなのだから、そうなることは当然の結果だと思っています。

だからか、耕栄さんも背に腹はかえられないことから(お役目を果たすためにも)、宇宙意識入門の門を広げたり、宇宙船耕栄丸のファバラを数々出したりしているのだと私は思っていますが・・・ 此れまでの経緯からすれば当たっている確立は高いと思います。

そのファバラをこの世に出したことの私の予測・推測が、もしもハズレならば!・・・この世に宇宙意識エネルギーのファバラを出したことは(完全真理だけで十分だったのに)・・・(笛や太古で踊って見せて)奇跡現象を見せびらかして人気を得たり、そのついでに金儲けを企んでいることになりませんか・・・

もしもそれが事実となり私が言い当てたことにでもなれば(さあ大変)・・・それこそ神も仏も無い闇意識の中に耕栄さん共々に私達がスッポリ囲まれてしまって、(一点の光も無い)まったく「救いようが無い」状態になっていることになりますから・・・それならば元々から「この世で始り終りとなる完全真理なんか」今の人類にまったく必要なかった無駄なことにもなりますが・・・この逆説を肯定しますか?それとも皆さんはどう思われます?
・・・これらは私の私見ですから、ご意見やご感想があれば書きこんでください。

★勘違い・誤解されないように付け加えますが・・・「完全真理」はこの世の不完全意識(闇意識)に「光をさす」これまでに無かった新たな真理であり、宗教真理のように信じるか否かもなく、また神仏他力本願でもなく、自力実践してこそ真価が判る実践真理です。
だから基本的には・・・あれこれ言われている宇宙や神仏や愛や奇跡や異次元がどうであれ、また同じく、この世・地球・人間がどうであれ、また耕栄さんやファバラがどうであれ、また学びう合う仲間や私のブログがどうであれ、何よりも先に、兎に角、この完全真理を学び知りそれを実践さえすれば、嘘偽りの無い真実や事実やの本物に「気付き」「味わい」「知る事」になるのは「絶対」確かなことです。

完全真理の実践で真の自由があれば、それが平等・調和・平和の至福になる。

2011年01月15日 | Weblog
私が想念・霊魂の世界に関わっていた頃に学んだのが「魂は自由である」ことです。
その自由を奪って支配したがるものが偽りの神・矛盾のある宗教・不完全な真理を説いて広めたことから、支配する者と支配される者の関係が生まれ、しかもその加害者でも有りまた被害者でもあるという矛盾の支配関係がこの世に築かれたと言われていました。

それを今に言い換えれば「意識・命は自由である」になります。
すなわち何一つ束縛制限支配されない「完全な自由」です。

そして自由だから我が子であれ夫婦であれ恋人であれ、その関係に一切の束縛がありません。
また常識や伝統風習や道徳にも束縛されません。
また「皆が自由」になるということは互いを認め合っていますから、人それぞれに違いはあっても差がなく平等になります。
だから平等が無ければ真の自由とはなりません。
そして自由であり平等ですから、皆が調和・平和に暮らすことになります。

ところがこの世にその自由が無いのですから平等や調和の世界になるはずもありません。
また我が子だから夫婦だから恋人だからと言って自由を束縛していれば平等・調和はありません。
すなわち束縛制限支配する意識は差のある差別意識・特別意識になります。
ところがそれを正当化したのが(特別な愛)愛情であり、その個人感情から出た愛情を完全な愛と錯覚勘違いしているのですが、その特別意識が無ければ我が子だから夫婦・恋人だからと特別に区別・分離した差別関係・人間関係にはなりません。

そこで例えば我が子だからと言う特別意識が無ければ運動会で一番に走るのもビリで走るのも皆が同じになります。
だから上位で走るのも下位で走るのも差は無く、一生懸命に走る子供たちを皆が見て楽しむ事になりますから、最後まで走りきった子供にも、また体力や体調の加減などで途中で棄権した子供にも暖かい拍手が送られます。
すなわち比較競争して差を付けるのではなくて競技を楽しむことになります。

また夫や妻が仕事に熱中していても自由ですから問題ありません。 また夫や妻が浮気をしていても自由です。 
すなわち同じ屋根の下で一緒に暮らしていてもそれぞれが自由に暮らすのです。
それらが嫌で離婚しようが別居しようがそれも自由ですから誰も反対しません。
だから協力し合って互いが楽しむときは楽しんだらいいことだし、援助協力出来るときは援助協力するし、それが無理なときは無理し無くてもすみます。

また同じ屋根の下で一緒に暮らさないで、独自が自立して暮らすのも自由です。
そして逢いたい者同士が逢瀬を楽しめばいいし、逢いたくないときはそのままに離れていればいいのです。
皆が自由なのだから、その自由をそれぞれに適したようにすれば(皆も同じだから)文句・不平不満が出るはずもありません。
だから夫が仕事に熱中しているときに妻が外で自由に遊んでいても互いがやりたい事をしているだけですから問題はありません。
また反対の状況立場であっても同じです。
それが意に反することなら元々から一緒に暮らしていることはありません。 それぞれが自立して暮らせばいいことです。

今の私達にそんな自由があれば不平不満も出てきません。
ところがその不平不満を自らが持ったり、また人様から聞くことからして、それで面白くなくなるし腹も立つこともあるし不安心配を持つことにもなっています。
しかしその不平不満が無ければ一緒に居て楽しいことがあっても何ら不服不足は出てきません。

そこで此れまでの不平不満と自己満足があるのが当たり前の生活を改めて、その不平不満の無い生活が如何に素晴らしいものかを実践によって会得することが望まれているのです。
その為にも皆して「自由」を楽しめばいいのです。

そして生きていくための仕事も多種多様に用意されているのですから、それを選ぶのも皆が自由になっています。
そして仕事を多くすればそれだけ収入が増えて生活が豊かになりますが、その仕事の時間だけは犠牲が必要になります。
反対に仕事をすることよりもお遊ぶことが多ければそれだけ暮らしが貧しますから、その分だけ遊ぶことも支障が出てくることになりますが、それによって生活の自由や遊ぶ自由を束縛されていることにはなりません。

また子育てにしても皆が自由ですから、血縁親族に関係なく、子供が欲しい人が子育てをすることになります。
その子育てを事情で放棄する人がいても、その子供を引き取って育てる里親も出てきます。
そのことで子供がたらい回しされる様になっても、その子供も育ての親・里親を自由に選ぶことができますから、自分にお似合いの大人・家族を選ぶことから問題は有りませんし、また子供が好きでその面倒を見たい人が変わるだけですから、結果的には(子供にすれば)邪険にされる産みの親よりかは条件のよい面倒見のよい里親のほうが都合が良いことになります。

また人間だからその時々で賑やかに暮らしたいときや静かに暮らしたときもあります。
だから人と接するときも、その時々の気分に任せてそれに似合った人と接することが出来れば至福の時間を過ごせます。
それも自分次第であり相手次第で事が決ります(必然ご縁の成り行き任せもあります)、それに時間の制約制限もありませんし、くっ付いたり離れたりの繰り返しも自由です。
またご縁があってもご縁が無くてもその時次第ですから、それ以前から自由を阻害していることにはなりません。

また皆が同じ意識(感情・精神)を持っていますから、今が内向的でも積極的でも、陽気な時や陰気な時でも、刺激が欲しいときや落ち着きが欲しいときでも、優しさが欲しいときや厳しさが欲しいときでも、それらが入り交わっていても、(似た者同士が集まる必然ご縁のお仕組みがありますから)その時々に相応しいお似合いの意識の人と気分よく接することも出来ます。

だから誰からも押し付け強要されることも、また自らが押し付け強要することもありません。
その時のその今を不平不満無く穏やかに過ごしている時が至福にあたるのです。
またその至福の時間が有ればあるほど欲張らずに無理をせずに自然体・質素でいられるのです。
しかし比較競争の差のある特別意識には自由はありません。
だから皆がどうであれ、自らが真の自由を得るしかほかに道はありませんし、同じ仲間を増やしていくしかありません。
それが完全真理の実践なのです。