何処の真理でも「調和」が言われていますが、無理に調和することはまずありません。
何故なら不完全意識の人間同士が皆して仲良くする事に無理があるからです。
だから教祖・指導者が言ったとか書かれていたとかでそれを守らなければならないと思うことは洗脳された事になります。
しかし先生が生徒に無理押ししているわけではありません、生徒が調和を端的に捉えたことに原因がありそうです。
また完全真理では(耕栄さんが)形を言っていることに思えても、その形の中の原因である「意識」の事を言っているのです。
だから何かの事例・形を言っても鵜呑み丸呑みすることでは無いのです。
自分で自分なりに理解・解釈しなければ真実を読み取る読解力も感じ取る感性も育たなければ気付きも起きませんし、それにまして自分勝手に自己暗示・自己洗脳にもなる危険があります。
そこが言われた事を信じたがる宗教との違いでもあるのです。
だから前もって(言われた事を目的にしたりそれを守る為に)調和の生き方を心がけることではなくて、常日頃からお陰様・お互い様の意識を持つことが出来ればそれが調和になっていくのです。
しかしそれも互いが同じ意識にならなければ無理になります。
それでも(互いが無理でも)一人一人がお陰様・お互い様の人間関係を学び知り自覚悟りになれば、それを意識実践していることで人を責めることも自分を責めることにもなりません。
だから不平不満にならずに済みますから、それが原因の不安心配や怒り意識にならずにそこで終わるのです。
すなわち良い悪いで判断しなかったのと同じになります。
ところで私達は人それぞれに違った個性を持っていますから、その個性を活かすことも必要になります。
(私事ですが)私の個性に先取り意識があったお陰で色んな事を先取りして学び知り味わうことが出来ました。
またその先取り意識のお陰で私の人生で最も必要とした完全真理につながり、そしてそれを実践することでどうやら私の人生が終わるかもしれませんが、未熟なだけに皆と調和で生きることは出来そうもありませんから、今まで通りに「来るものは拒まず去るものは追わず」でやっていくしかありません。
その「来るものは拒まず去るものは追わず」の生き方であれば、私を必要としている人や私が必要としている人と接し触れ合うだけですから、互いに余計な無駄も無理も無く、またお互いに気心が分かり合えている関係から素直に接することも出来るから、楽しいことがあっても余計な苦労や気疲れをしないで済みます。
もし苦労や気疲れするようになれば不調和ですから、未練執着や欲が無ければ、そのご縁はしぜんと遠のき離れる事になります。
だからむやみに多くの人と接し触れ合うことが無いだけに気楽でのんきで自由が束縛されることにもなりません。
すなわち限られた人となら一時的に調和できる可能性がありますが、それでもお互いが不完全意識を持っているわけですから長続きしないで不完全のままに終わる時がくるでしょう。
だから私は完全意識の者同士でなければ調和にならないと思っていますから、今の不完全意識の人間関係から(見せ掛けの調和なら何処にでもありますが)調和は絶対に無理だと思います。
そこで自由に気兼ねなく自分の個性をどんどん出していけば、いま守っている人間関係を乱したり崩壊破壊するかもしれないが、それも仕方がないことでもあり、必然の当然の事をしたまでの結果になりますが、それが原因・意識変わりで「新たな」必然ご縁の巡り合わせで成る様になって、そこで似通った意識の人と新たなお付合いが始まり(来るものは拒まずで)、そこで互いが学び知ることも多くあると思いますが、その必然・必要がやがて無くなれば(去るものは追わずで)その関係が終わっても未練後悔・執着にはなりません。
そしてまた必然のご縁で以前に増して似通った人との新たなお付き合いにつながることになるかもしれませんが、それも意識のあり方しだいで変わります。
しかしその結果はどうであれ金銭物質欲・肉欲・名誉欲で生きている無理・無駄な生き方よりかは、普通の人間として生きている実のある実感で味わえる生き方になると思っています。
それが成り行き任せに生きてきた私の人生であり、生き方・個性でもあります。
それによって必要とするものが少なくなったとしても、結果的には不要なものが無くなった事からその重荷が降りて身軽・自由になったのは確かです。 そして拘り・未練・執着も少なくなり、余計な無理や無駄も減り、結果的には(欲も減り)形の質素だけではなくて、意識的にも無理や無駄が減り意識面でも質素な生き方になっていくのです。
だから人間関係の調和や自然界との調和がダメでも、その調和に向けた方向には一歩ずつ進んでいるとは思っています。
今回も私見が多くなりましたのでご意見やご感想を書き込んでください。
何故なら不完全意識の人間同士が皆して仲良くする事に無理があるからです。
だから教祖・指導者が言ったとか書かれていたとかでそれを守らなければならないと思うことは洗脳された事になります。
しかし先生が生徒に無理押ししているわけではありません、生徒が調和を端的に捉えたことに原因がありそうです。
また完全真理では(耕栄さんが)形を言っていることに思えても、その形の中の原因である「意識」の事を言っているのです。
だから何かの事例・形を言っても鵜呑み丸呑みすることでは無いのです。
自分で自分なりに理解・解釈しなければ真実を読み取る読解力も感じ取る感性も育たなければ気付きも起きませんし、それにまして自分勝手に自己暗示・自己洗脳にもなる危険があります。
そこが言われた事を信じたがる宗教との違いでもあるのです。
だから前もって(言われた事を目的にしたりそれを守る為に)調和の生き方を心がけることではなくて、常日頃からお陰様・お互い様の意識を持つことが出来ればそれが調和になっていくのです。
しかしそれも互いが同じ意識にならなければ無理になります。
それでも(互いが無理でも)一人一人がお陰様・お互い様の人間関係を学び知り自覚悟りになれば、それを意識実践していることで人を責めることも自分を責めることにもなりません。
だから不平不満にならずに済みますから、それが原因の不安心配や怒り意識にならずにそこで終わるのです。
すなわち良い悪いで判断しなかったのと同じになります。
ところで私達は人それぞれに違った個性を持っていますから、その個性を活かすことも必要になります。
(私事ですが)私の個性に先取り意識があったお陰で色んな事を先取りして学び知り味わうことが出来ました。
またその先取り意識のお陰で私の人生で最も必要とした完全真理につながり、そしてそれを実践することでどうやら私の人生が終わるかもしれませんが、未熟なだけに皆と調和で生きることは出来そうもありませんから、今まで通りに「来るものは拒まず去るものは追わず」でやっていくしかありません。
その「来るものは拒まず去るものは追わず」の生き方であれば、私を必要としている人や私が必要としている人と接し触れ合うだけですから、互いに余計な無駄も無理も無く、またお互いに気心が分かり合えている関係から素直に接することも出来るから、楽しいことがあっても余計な苦労や気疲れをしないで済みます。
もし苦労や気疲れするようになれば不調和ですから、未練執着や欲が無ければ、そのご縁はしぜんと遠のき離れる事になります。
だからむやみに多くの人と接し触れ合うことが無いだけに気楽でのんきで自由が束縛されることにもなりません。
すなわち限られた人となら一時的に調和できる可能性がありますが、それでもお互いが不完全意識を持っているわけですから長続きしないで不完全のままに終わる時がくるでしょう。
だから私は完全意識の者同士でなければ調和にならないと思っていますから、今の不完全意識の人間関係から(見せ掛けの調和なら何処にでもありますが)調和は絶対に無理だと思います。
そこで自由に気兼ねなく自分の個性をどんどん出していけば、いま守っている人間関係を乱したり崩壊破壊するかもしれないが、それも仕方がないことでもあり、必然の当然の事をしたまでの結果になりますが、それが原因・意識変わりで「新たな」必然ご縁の巡り合わせで成る様になって、そこで似通った意識の人と新たなお付合いが始まり(来るものは拒まずで)、そこで互いが学び知ることも多くあると思いますが、その必然・必要がやがて無くなれば(去るものは追わずで)その関係が終わっても未練後悔・執着にはなりません。
そしてまた必然のご縁で以前に増して似通った人との新たなお付き合いにつながることになるかもしれませんが、それも意識のあり方しだいで変わります。
しかしその結果はどうであれ金銭物質欲・肉欲・名誉欲で生きている無理・無駄な生き方よりかは、普通の人間として生きている実のある実感で味わえる生き方になると思っています。
それが成り行き任せに生きてきた私の人生であり、生き方・個性でもあります。
それによって必要とするものが少なくなったとしても、結果的には不要なものが無くなった事からその重荷が降りて身軽・自由になったのは確かです。 そして拘り・未練・執着も少なくなり、余計な無理や無駄も減り、結果的には(欲も減り)形の質素だけではなくて、意識的にも無理や無駄が減り意識面でも質素な生き方になっていくのです。
だから人間関係の調和や自然界との調和がダメでも、その調和に向けた方向には一歩ずつ進んでいるとは思っています。
今回も私見が多くなりましたのでご意見やご感想を書き込んでください。