不完全が完全になることはないが、完全真理が完全であっても解釈判断を間違えれば「あるがまま」では無くなって、完全であっても方手落ちの不完全になります。
例えば、完全な人が言ったからと、その人の言葉を鵜呑み丸呑みにすると不完全な勘違いになることもあります。
以前に書いたこともあるかもしれないが・・・完全な人がインターネットは偽善・不信感に溢れていると真実事実を言えば・・・その事だけをとらえてインターネットは偽善・不信感の固まりで出来ているからと(あるがままにしないで)否定・排他的に思い、インターネットから撤退したり、書き込みを削除したり、インターネットを利用していなくて助かったと思っている人が居たり、インターネットは儀善だと言って必要性のないことを他の人に広めていたりする人もいます。
インターネットも世の中の必然で生まれたものですから「あるがまま」になりますが、必然で生まれたものを良い悪いで判断して否定・反発に思えば「あるがまま」にはなりません。
完全な人が・・・「知識」は頭の中にある記憶だから非実在になる、知識ではなくて心の悟り・英知でなければ実在にはならない、言うだけ・思うだけの知識より実践、というような説明をすれば・・・ それを聞いたものが丸呑みで端的にとらえて・・・それは知識だから本物完全ではない、それは知識だからダメといった風に知ったかぶりで人に説明して、その言葉だけを広めることになっている場合があります。
これも特別意識・救世主意識の仕業なのかもしれませんが・・・ 自分が真実本物を悟り・英知になっているという自惚れからか・・・自分が一番だと思っているから他に負けたくない思いからか・・・先ず始めに「知る」ということの大切さを大切に思わなくなっているのか・・・ 「知る」ことだけでは立派な仕事・お役を果たすことにはならないからと、如何にも無駄なことのように言って知識を否定的にしているところがあるのです。
誰もが先ずは「知る」ということから始まったことを忘れた説明になります。
知るという実践が大切なことを最初に言わないで、その知った知識だけではどうだからと否定・反発・排他的に受け止められるような説明をしていることもあるのです。
知ることから始まらなければ、誰もが一足飛びに完全にはなれないのです。
世間に満ち溢れている不完全な思想哲学や宗教・真理とは違った山田耕栄さんの「完全真理」にこうして巡り会い「知った」ことは素晴らしいことなのです。
知ったことで世間の常識・比較競争や風習・伝統・道徳に縛られている大勢の人たちとは違った意識・知識を持っことに至ったことは喜び感謝になるのです。
未だに極僅かの人数しか知らない「完全真理」を知り、気付き学び目覚め始めたということは大海から真珠を探し当てたようなもので、他の何ものにも換えられない価値ある実践にもなっています。
知らなければ何も起きていませんから、知っただけでも既に実践していることになるのです。 深く知り尽くすと言うのも重要な実践になります。 確かに知識だけでは未熟でも、その未熟さは全員皆同じです。 多い少ないも上も下もありません、99の人も1の人も同じ未熟者になります。
ただ良い悪いを持たない自己縮小が進んでいる人は迷いや混乱や不平不満になることは少ないが、知ったばかりの人で実践が少なければその分多いだけです。
また先輩として熟知して知ったことを何かと言いたがる人がいますが、その言いたがる人も書きたがる人も不完全な意識が元になっていることは確かですから、それを丸呑み鵜呑み盲信にならないように受け止めることができれば、それが自分の自信になり精神力・自力を高めることにもなります。
己が未熟・不完全・中途半端であっても!この先々で迷い混乱錯覚勘違いしないためにも!途中で立ち止まり中途半端で終わらないためにも!・・・完全なる「完全」を少しでも早く知り、より深く知ることが基本であり重要になるのです。
生半可な知識からでは確かな実践に結びつきません。 だから、先ず始めに完全を完全に知る知識も重要になります。
先輩ぶらないで、知ったかぶりをしないで、止まることなく今以上にもっと知識を深め高める必要もあるのです。 その「知る」為に恒例の講演会が開催されたり数々の本が出版されているのです・・・ それにもインターネットが役立っている事実もあります。
例えば、完全な人が言ったからと、その人の言葉を鵜呑み丸呑みにすると不完全な勘違いになることもあります。
以前に書いたこともあるかもしれないが・・・完全な人がインターネットは偽善・不信感に溢れていると真実事実を言えば・・・その事だけをとらえてインターネットは偽善・不信感の固まりで出来ているからと(あるがままにしないで)否定・排他的に思い、インターネットから撤退したり、書き込みを削除したり、インターネットを利用していなくて助かったと思っている人が居たり、インターネットは儀善だと言って必要性のないことを他の人に広めていたりする人もいます。
インターネットも世の中の必然で生まれたものですから「あるがまま」になりますが、必然で生まれたものを良い悪いで判断して否定・反発に思えば「あるがまま」にはなりません。
完全な人が・・・「知識」は頭の中にある記憶だから非実在になる、知識ではなくて心の悟り・英知でなければ実在にはならない、言うだけ・思うだけの知識より実践、というような説明をすれば・・・ それを聞いたものが丸呑みで端的にとらえて・・・それは知識だから本物完全ではない、それは知識だからダメといった風に知ったかぶりで人に説明して、その言葉だけを広めることになっている場合があります。
これも特別意識・救世主意識の仕業なのかもしれませんが・・・ 自分が真実本物を悟り・英知になっているという自惚れからか・・・自分が一番だと思っているから他に負けたくない思いからか・・・先ず始めに「知る」ということの大切さを大切に思わなくなっているのか・・・ 「知る」ことだけでは立派な仕事・お役を果たすことにはならないからと、如何にも無駄なことのように言って知識を否定的にしているところがあるのです。
誰もが先ずは「知る」ということから始まったことを忘れた説明になります。
知るという実践が大切なことを最初に言わないで、その知った知識だけではどうだからと否定・反発・排他的に受け止められるような説明をしていることもあるのです。
知ることから始まらなければ、誰もが一足飛びに完全にはなれないのです。
世間に満ち溢れている不完全な思想哲学や宗教・真理とは違った山田耕栄さんの「完全真理」にこうして巡り会い「知った」ことは素晴らしいことなのです。
知ったことで世間の常識・比較競争や風習・伝統・道徳に縛られている大勢の人たちとは違った意識・知識を持っことに至ったことは喜び感謝になるのです。
未だに極僅かの人数しか知らない「完全真理」を知り、気付き学び目覚め始めたということは大海から真珠を探し当てたようなもので、他の何ものにも換えられない価値ある実践にもなっています。
知らなければ何も起きていませんから、知っただけでも既に実践していることになるのです。 深く知り尽くすと言うのも重要な実践になります。 確かに知識だけでは未熟でも、その未熟さは全員皆同じです。 多い少ないも上も下もありません、99の人も1の人も同じ未熟者になります。
ただ良い悪いを持たない自己縮小が進んでいる人は迷いや混乱や不平不満になることは少ないが、知ったばかりの人で実践が少なければその分多いだけです。
また先輩として熟知して知ったことを何かと言いたがる人がいますが、その言いたがる人も書きたがる人も不完全な意識が元になっていることは確かですから、それを丸呑み鵜呑み盲信にならないように受け止めることができれば、それが自分の自信になり精神力・自力を高めることにもなります。
己が未熟・不完全・中途半端であっても!この先々で迷い混乱錯覚勘違いしないためにも!途中で立ち止まり中途半端で終わらないためにも!・・・完全なる「完全」を少しでも早く知り、より深く知ることが基本であり重要になるのです。
生半可な知識からでは確かな実践に結びつきません。 だから、先ず始めに完全を完全に知る知識も重要になります。
先輩ぶらないで、知ったかぶりをしないで、止まることなく今以上にもっと知識を深め高める必要もあるのです。 その「知る」為に恒例の講演会が開催されたり数々の本が出版されているのです・・・ それにもインターネットが役立っている事実もあります。