孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全を知り、不完全を排除したがる学び人

2008年10月31日 | Weblog
不完全が完全になることはないが、完全真理が完全であっても解釈判断を間違えれば「あるがまま」では無くなって、完全であっても方手落ちの不完全になります。
例えば、完全な人が言ったからと、その人の言葉を鵜呑み丸呑みにすると不完全な勘違いになることもあります。
以前に書いたこともあるかもしれないが・・・完全な人がインターネットは偽善・不信感に溢れていると真実事実を言えば・・・その事だけをとらえてインターネットは偽善・不信感の固まりで出来ているからと(あるがままにしないで)否定・排他的に思い、インターネットから撤退したり、書き込みを削除したり、インターネットを利用していなくて助かったと思っている人が居たり、インターネットは儀善だと言って必要性のないことを他の人に広めていたりする人もいます。 
インターネットも世の中の必然で生まれたものですから「あるがまま」になりますが、必然で生まれたものを良い悪いで判断して否定・反発に思えば「あるがまま」にはなりません。 

完全な人が・・・「知識」は頭の中にある記憶だから非実在になる、知識ではなくて心の悟り・英知でなければ実在にはならない、言うだけ・思うだけの知識より実践、というような説明をすれば・・・ それを聞いたものが丸呑みで端的にとらえて・・・それは知識だから本物完全ではない、それは知識だからダメといった風に知ったかぶりで人に説明して、その言葉だけを広めることになっている場合があります。 
これも特別意識・救世主意識の仕業なのかもしれませんが・・・ 自分が真実本物を悟り・英知になっているという自惚れからか・・・自分が一番だと思っているから他に負けたくない思いからか・・・先ず始めに「知る」ということの大切さを大切に思わなくなっているのか・・・ 「知る」ことだけでは立派な仕事・お役を果たすことにはならないからと、如何にも無駄なことのように言って知識を否定的にしているところがあるのです。

誰もが先ずは「知る」ということから始まったことを忘れた説明になります。 
知るという実践が大切なことを最初に言わないで、その知った知識だけではどうだからと否定・反発・排他的に受け止められるような説明をしていることもあるのです。
知ることから始まらなければ、誰もが一足飛びに完全にはなれないのです。

世間に満ち溢れている不完全な思想哲学や宗教・真理とは違った山田耕栄さんの「完全真理」にこうして巡り会い「知った」ことは素晴らしいことなのです。
知ったことで世間の常識・比較競争や風習・伝統・道徳に縛られている大勢の人たちとは違った意識・知識を持っことに至ったことは喜び感謝になるのです。
未だに極僅かの人数しか知らない「完全真理」を知り、気付き学び目覚め始めたということは大海から真珠を探し当てたようなもので、他の何ものにも換えられない価値ある実践にもなっています。

知らなければ何も起きていませんから、知っただけでも既に実践していることになるのです。 深く知り尽くすと言うのも重要な実践になります。 確かに知識だけでは未熟でも、その未熟さは全員皆同じです。 多い少ないも上も下もありません、99の人も1の人も同じ未熟者になります。
ただ良い悪いを持たない自己縮小が進んでいる人は迷いや混乱や不平不満になることは少ないが、知ったばかりの人で実践が少なければその分多いだけです。
また先輩として熟知して知ったことを何かと言いたがる人がいますが、その言いたがる人も書きたがる人も不完全な意識が元になっていることは確かですから、それを丸呑み鵜呑み盲信にならないように受け止めることができれば、それが自分の自信になり精神力・自力を高めることにもなります。

己が未熟・不完全・中途半端であっても!この先々で迷い混乱錯覚勘違いしないためにも!途中で立ち止まり中途半端で終わらないためにも!・・・完全なる「完全」を少しでも早く知り、より深く知ることが基本であり重要になるのです。 
生半可な知識からでは確かな実践に結びつきません。 だから、先ず始めに完全を完全に知る知識も重要になります。
先輩ぶらないで、知ったかぶりをしないで、止まることなく今以上にもっと知識を深め高める必要もあるのです。 その「知る」為に恒例の講演会が開催されたり数々の本が出版されているのです・・・ それにもインターネットが役立っている事実もあります。

完全真理「早わかり」=ありがたい命・意識で生きる

2008年10月29日 | Weblog
「命」はありがたいものです。
人間が生きていると肺呼吸で窒素を出していますが、その窒素は植物のお役に立っています。 その植物を食べて動物が育ちます。 その植物や動物を人間が食べれば排便をしますが、その排便は微生物のお役に立っています。 その微生物がいなければ地球に生命は存在していません。 
単純な植物連鎖とか弱肉強食とは違い、すべての「命」はありがたいものです。 

だから人間が着ている衣服や住居など生活に必要なものは他の生命から奪って作られたものですから、それらの保存育成、生命を慈しみ育てる環境を整える必要があります。 奪えば奪うほど、その調和の為に大切に育てなければなりません。 
ところが感謝の心も無いことから更に著しく調和が乱れている状態が現在にあります。 特に弱いものいじめの弱肉強食の資本主義・経済主義の競争意識に原因があります。
そして人間が欲しがっている趣味嗜好娯楽・刺激や名誉名声や権威権力は人間だけの自己満足だから、結果的には宇宙・地球・命・愛から奪っての無駄な浪費を拡大しているだけであり、それで色んな依存症や弊害が出てきたり、比較競争差別意識から世情に混乱を招いています。 だから宇宙・地球・命・愛に迷惑をかけているだけで何のお役にもなっていません。

また人間が自分勝手に作った神を神と崇めている人が大勢いるから、その人為の神、私の神である偽りの神の力比べ、比較競争・勢力拡大・侵略侵攻による混乱から何度も何度も悲惨な結果を歴史に残しています。 それでも懲りずに今も続いています。 そんな馬鹿げたことを平気でやっているのに「私は正しい」正義だと、まだ言い張って続いています。
それが俗に言う偽善者・救世主ですから、それらが神・命・愛を教え語ることで更に世情に混乱を招いています。

宇宙・地球・命・愛のお蔭で人間が生きているのに、なんで宇宙・地球・命・愛を大切にしないで奪うことばかり続けるのでしょう、なんで宇宙・地球・命に役立ちもしないことに一生懸命になるのでしょう・・・それが「我神なり」を忘れた人間、自分さえ良かったらの個人意識で生きているのです。

だから個人意識を無くしていかないと不平不満・不安心配・悩み・怒り・嫉妬・ジェラシーを持つことになり、その原因である自分の意識が招いた結果で自他共に困ったことになるだけです。 自分の中に原因があるのに、それを何かと他の性・責任にするのも個人意識ですから、表の自力で生きようとしていないから裏の他力が気になります、そして表と裏の分離意識、良い悪いの比較競争差別意識を持つことになります。

あたり前の普通には(自分に出来る)自力であるがままに生きていますから、他と比較競争することはありません。
比較競争で過ぎた衣食住や肩書き権威権利財力を求めて生きようとするのか
普通の自力で無理なく安心安全に生きながら心を豊かにしていくのか
どっちでもない矛盾や妥協で中途半端に生きるのか
いずれを選んでも必ず結果は出ます。原因と結果は離れていません。
そして結果は必ず後からついてくるものだから、結果が出て気付いたのでは・・・あとの祭り・・・ですから、そうならないように(後悔しないように)気をつけたいものです。


「光りと闇」の疑似体験

2008年10月28日 | Weblog
「前ページ」で
思わぬことから・・・あの世・魂の世界の疑似体験させられて「私は一体どうなったの」「さっぱりわからない」意識でさ迷う事を書きましたが・・・

それ以前には「至福の時」として
思わぬことで・・・私としては何でもないような行為に大変喜ばれた人の思いが、そのままにその思い喜び感動が私の心に伝わり、そのお蔭でその日はルンルン気分とワクワク充実感に包まれたことを書きましたが・・・

すなわち・・・肉体が朽ち果てあの世の魂の世界で意識が「さ迷う」ことになるのか、「至福の時」のまま永遠に地球の命・意識体として生き長らえるのか・・・暗い世界に居ることになるのか、光の世界で過ごすことになるのか・・・白い玉を選ぶのか、黒い玉を選ぶのか、その選択がいま既に自らの意識の中で行われていることを全く「知らない人」が大勢いることを・・・書き足しておきます。

生き様、死に様、あの世も、意識次第で変わる

2008年10月26日 | Weblog
完全真理を知ったことで、何が必要(完全)で何が不必要(不完全)なのかを知る事が出来たおかげで余計な無駄な努力が減りました。

結論から言えば、人間として生きる為に必要な衣食住や財よりも(不完全よりも)、完全な「命」を知って「愛」を知る必要があって人間に生まれてきたことを理解できたことです。
もっと先の結論から言えば、あの世と言われる魂の世界・命だけの世界に行くことになるのであれば尚のこと、衣食住や財や名誉名声の肩書きや権力や趣味嗜好娯楽はあの世には持っていけないし、あの世では通用しないのだから、それらを必要として求め続けた生き方は無駄で間違いだと理解出来たことです。

この世の人間で生きている時間よりも、(あの世の宇宙に時間はないが)人間時間でいう百年も千年も万年も無限に形の無い命だけが続くのなら、その命が持つ意識(想念・精神力・自力)が大切になると理解できたことです。
すなわち、人間だった頃の未練執着や不平不満や怒りや嫉妬・復讐心を持ったままあの世へ行くことになったら、愛とも光りでもない中途半端で不完全な4次元~5・6次元(霊界)で止まり、完全な神・愛・光と言われる8次元以上のところえは成仏できないので、何度も地球の人間に生まれてやり直していましたが(転生)、しかしもう既に現在の地球は8次元の光エネルギーが降り注いでいますから(だから個人意識の闇の世界に多くの混乱が起きているのです)、やがて4次元~5・6次元の意識・命では8次元の良い悪いの無い地球の人間に生まれ変わることは二度と出来ません。 すなわち霊界が無くなれば、今の個人意識・闇意識にお似合いの「闇の世界」地の果てに辿り着くことになります。

・・・私の(疑似)体験ですが・・・確かに意識はあるのだが何も見えていない暗い状態、そして何も考えられないし何も感じることができない変な世界にさ迷い込んだ格好になって、「私は一体どうなっているの」「いつ、どうして、何で、こうなったの」その問題原因からその後の行動さえも無記憶・無感無味の状態になって・・・何が何だか「サッパリわからない」状態が昼間の半日間続いたことがあります。
・・・それがどうやら・・・死にきれないで死んだ人や、生きることを自己放棄した自殺などが原因で成仏できないままに霊魂がさ迷う状態の疑似体験を必然でさせられたと・・・当時の私の先生役である霊魂・想念の世界に通じるご婦人から言われました・・・ 

意識・命は・・・人間に生まれる以前からも、いま人間で生きているときも、人間が終わって屍から離れても・・・人間で居た時の状態の意識・命が永遠に続くのです。
ゆえにあの世では存在しない見栄や世間体の衣食住・財・名・権や趣味嗜好娯楽・刺激で生きることではなくて、あの世に実在する完全な神・愛・命を知り、雨やんで傘を忘れないありがたい感謝を学び知るために生きることが大切になるのです。

世間的に言えば・・・病気や薬漬けや寝たきりや死に損なってから健康のアリガタサを知るのではなく、満ち足りた豊かな生活を求め続けている時の有事でどん底に落ちて後悔するのではなく、世間体や見栄で生きて自己満足や自己主張や自己顕示欲で生きている過ちに気付いても「あとの祭り」になるのか、激しくも醜くも苦悩混乱続きの波乱万丈のままに終わってしまうのか、過ぎた執着心から死にきれずに暗やみの世界でさ迷うことになるのか、自己破壊・自己放棄の自殺で終わるのか、怒り・見せしめ・腹いせ・仕返し・復讐心から大勢を巻き込んだ死を選ぶのか・・・と言う事です。

あの世が実在することを知らないままに俺が我がの自我でやりたい放題やったあとの屍となってからやっと気付いたのでは・・・賑やかで華やかな祭りがいつまでも続くと思っていたのに・・・その三次元界・非実在・想像の世界・白昼夢の夢から目覚めた時(本来の命だけに戻った時)は、その祭りの終わったあとに独り取り残された格好になっているのを知って・・・あの世でしきりに後悔反省することになるのか・・・と言う事のようです。

生活の安定も生きる為に必要ですが、その生活の安定よりも先に「心」の安心安定が無ければ生活の安定が夢幻・非実在だったことに気付くと言う事です。



警告を発するメッセンジャーが増えている訳

2008年10月25日 | Weblog
全ての人が個人意識を持っており、その個人意識を持っている限り比較・競争・略奪・裏切・束縛・支配したがります。
そして比較・競争・略奪・裏切・束縛支配などと言葉が違っても、原因は個人意識から出た結果ですから、どれもつながっていて離れていません。
その個人意識から形作られた人間社会も当然ながら比較・競争・略奪・裏切・束縛支配したがる形・構造組織になっています。 全てと言うことは全てですから、ありとあらゆる形が合致します。

公正中立と言われる新聞社やテレビ放送会社の各社社内でも比較競争略奪裏切束縛支配関係があり、また国民向けの購読者アップ視聴率アップのためにありとあらゆることをやっているから、それらの人が作り出す活字や映像からも私たちの生活や意識に影響を及ぼしています。 また経済界の企業各社も同じような事をしているし、市場のシェアーアップや人気アップに生き残りをかけています。 だから、あらゆる組織や企業が私たちの意識を略奪し裏切り束縛支配・マインドコントロールしていることになります。

同じく神仏の愛を説く聖職者・救世主意識の人などの組織団体関係者のなかにも比較競争略奪裏切束縛支配関係があり、私たち一般向けの活動にしてもそれらしく洗脳的に見せている宗教的絵画装飾や偶像があるし、立派な神社仏閣教会・拝殿・御殿を作ってそれとなく客寄せをして人集め金集めで勢力拡大を目論んでいるし、その組織力で直接・間接的に政治経済界に強い影響力を持つ事を目論んでいますが、それらが完全な愛とは違う・・・比較・競争・略奪・裏切・束縛支配の偽善になることに・・・気付いていません。 たぶん言い訳正当化してうまくごまかしています。

皆さんが首謀者であり被害者にもなっていますから、己の首を自分が絞めているということになるのだが、殆んどの人にその自覚がありません。 
自覚がないというより無知なのです。 無知だから無関心でおれるのです。

だから家庭から出る生ゴミや粗大ゴミにしても・・・自分さえ良かったらの結果から・・・世界中から略奪している結果だと理解できても、自分の今の豊かな生活が大事だから真剣に取り組んでいません。 また、主婦の役割である家事や子育ての時間を少なくしてまでパートで働くのも(自分さえ良かったらの意識ですから)、仕事に恵まれないで生活に困っている人たちの仕事を奪っていることになります。
そして我が子を比較競争束縛支配していることは子供の自由意識を奪っていることであり裏切っていることになります。

このように何を例にとっても全てがあてはまります。
すなわち「原因」がひとつで同じだからです。
その原因が「良い悪い」で分離判断する個人意識にあります。
良い悪いで比較するから競争が起きます。 競争すれば勝ち負けに執着します。
その競争し合うこと自体が互いの平等自由の略奪や裏切りにもなり束縛支配し合う結果にもなっているのです。
大元の原因がわかっているのに、その原因を無くしていく努力が成されていません。
そして自他共に言い訳正当化して、人を騙し自分を偽っています。
その偽善者が形成する社会国家世界も偽善の集まりです。
その偽善の集まりから自由平等平和・安心安全が構築されるはずは絶対にありません。
だから何十年・何百年たっても・・・「どうしょうもない」ことに・・・高い山をのし上がってきた各界のトップほど気付いていますから・・・その苛立ち・腹いせ仕返し・やけくそ意識から破壊が起こり、世界中に大きな混乱が次々と(人災・天災共に)発生して、結果的に「己の首を自分で絞める」人類の末期危機と同時に人類が生き残れなくなる自然環境の末期危機が同時に目前まで迫っています。
だから「警告を発する」者達、メッセンジャーが急に増えているのです。


人の為に尽くすと言う偽善者

2008年10月23日 | Weblog
個人意識の人が「人の為に尽くす」と言うのは嘘偽りで、本心・奥底の思惑には必ず私があり、その私の為にやっていることになります。
・・・だから・・・
世界の為に尽くすと言っている人は世界を牛耳るためです。
国の為に尽くすと言っている人は国を牛耳るために言っていることです。
会社の為に尽くすと言っている人は会社を牛耳るために言っていることです。
家族の為に尽くしていると言っている人は家族を牛耳るために言っていることです。
好きな人に尽くすのは好きな人を束縛支配しておきたいからです。
神仏に尽くすのは自分だけの神仏にしておきたい欲があるからです。

自分の思い通りに事を運びたい思惑から人を騙し偽り、自分を騙し偽り、その言い訳や正当化をしているうちに、やがて嘘が嘘でなくなり本物に思えるようになって、そして私は正しいとなり、私は正しいことをしていると思う自惚れや自己満足から自ずと自己主張や自己顕示をすることになり、それが大なり小なりに名誉名声の肩書きや権力財力を手にする自己拡大を続けることになり、それがやがて相手を自分の思い通りに牛耳る支配力を握り持つことになります。

しかし嘘偽りから始まった儀善だから必ず裏切り関係が成立します。
だから世界・国家・会社・家庭・恋人・宗教の中で必ず裏切りがあります。
それがマスコミ報道に現れている形であり、夫婦親子家族関係の崩壊に見られます。
だから束縛支配欲や不信感が強まっても心が休まる暇もありません。

誰かの為に尽くしていると思う意識には必ず「私」を中心にした思いが込められていますから嘘偽りの偽善者になるのです。
その偽善者が過ぎると今度は特別意識・救世主意識になり、私は正しいから「私は特別」「私は偉い」と思う自己拡大になります。

個人意識は他力になります。
あたり前の普通意識は自力であり、自力は愛になります。
その愛があれば困ったことにはなりません。
困ったことになるのは他力の個人意識を持っているからです。
だから困ったことが多い人ほど個人意識が強い人になります。

普通意識に愛が無ければ・・・雨やんで傘を忘れる・・・感謝の心を忘れた人になります。
特別に感謝できても普通に感謝できないのは特別が大好きな救世主・偽善者になります。

物事をあきらめた末での普通は劣等感になります。
劣等感にはプライド自尊心があるから人の目を気にします。
優越感は人を下に見て哀れ気の毒に思います。
劣等感は思い考え想像するだけで行動・実践はしません。
その実践とは自己縮小のことであり、自己縮小は「良い悪い」で判断しない実践です。


「ひとつ」が解決できれば「すべて」が解決できる

2008年10月17日 | Weblog
健康を害するのは99㌫ストレスが原因です。

しかし肉体を酷使することで起こる肉体のストレスは休息すれば解消できますからストレスが残り持続することはありませんから安心できます。

ただ肉体を酷使したことを「不平不満」に思えば肉体と精神の心身ストレスになるから、体の休息と共に心の休息が必要になります。

そしてなかなか難しいのが心の休息ですが、その心を休めるには「心」しかありません。

しかし心以外の形・・・例えばお酒やタバコなどの嗜好品や娯楽趣味で一時の解消(逃避)になっても、精神ストレスは奥に潜んでなかなか消えません。 

記憶から消えて思い出せないようなことでも、なんとなく心に残留して蓄積されやすいのが不平不満なのです。 
だから大した原因とも思えないのに、何故か急に怒りだしたり殺傷行為に至ったり自殺行為に及ぶ破壊行為となっている事例が多いでしょう。

しかも心が休まるはずの嗜好品が依存症になったりしているし、また趣味娯楽が他と比較競争することになったりして、それらから更に不平不満を持っことになったり、また自己主張や自己顕示することで更に精神ストレスが累積蓄積され続けることになります。

お金に意識が行けばそれがストレスになります。

欲しがるものを意識すればそれがストレスになります。

目的・理想を意識すればそれがストレスになります。

人のことを気にすればそれがストレスになります。

マスコミ報道もストレスの原因になります。

この世の何を持ってこようともそれがストレスになります。

すなわち、良い悪いで判断されている分離意識の不完全な裏表のある人間界は全てストレスの原因になります。 

だから怒り嫉妬・仕返し復讐心や不信感が充満しているでしょう。 

それらの破壊意識から来る破壊行為がどんどん増えているでしょう。 

それらの集合意識が自然界にまで多大な影響を及ぼし、そのひどくなる一方の影響をまともに受けているの
も私たち人類です…自分の首を自分で絞めているのが現状です。

だから「心を休める」には自己縮小しかありません。
すなわち不平不満の元である「良い悪い」で判断することを止めて「人を責め自分を責める」ことが無くなれば、全ての原因が消えて無くなるのです。

全てとは…この世の問題のすべてです。

すなわち「ひとつ」から始まったことだから、原因の「ひとつ」でも解決できればすべてが解決出来るのです。

しかし此れまで世直し人救いとなる幾多の人が現れても矛盾と偽善から始まっただけに根本的には何一つ解決できなかった事実が現在に引き継ぎ残されているのです。 

しかも人類滅亡寸前に直面しているでしょう。 

いい加減にして目を覚ます時が来ているということになりますが…

(2008・10・17投稿)リメイク版

「自分さえ良かったら」「私は正しい」の破壊意識

2008年10月16日 | Weblog
始まりの原因が「自分さえ良かったら」の個人意識で生きている限り、結果的に偽善の裏切り、略奪、搾取詐欺で生きていることになっているのに、それでも言い訳正当化して「私は正しい」と主張・顕示する自己欺まん(人も自分も偽る)で人間は生きています。

例えば南海の孤島やジャングルで平穏に暮らしている人たちの生活を破壊し脅かしてまで(裏切・略奪・搾取してまで)自分たちの豊かな生活を作り守っています。
そのことを知っているのに見て見ぬ振りをしている人達が多いのも、自分さえ良かったの個人意識が原因です。
またそれら先住民のことを思って何らかの活動をしている人たちでも、それが先住民のためだけではありません。
表れ出た結果を見て判断して、それを問題化にして対処行動展開することで、「私は正しい」ことをしていると自己満足・自己主張・自己顕示する自己拡大が目的になっていますから、自己拡大するために世間の騒ぎに便乗しているのです。
哀れ気の毒に思ったり何かと心配しているのも、(全てが)自己を中心にした自分の為にしていることになるのが個人意識です。
経済主義の破壊意識が原因で起きていることを棚に上げておいて、更にその経済界の生き残りをかけて(裏切・略奪・搾取して)取り組んでいる企業が、無知な一般世間向けに緑化植林活動や環境問題・エコに取り組んでいるCMを見せて、「私は正しい」ことをしていると世間にアピールして注目されたいと思うのと同じようなものです。
破壊意識の原因を無くすることよりも現れ出た結果で騒ぐ方が世間が大いに注目してくれる効果があるからです。
だから目立ちたがり屋、ヒーロー・主人公やリーダーになりたがる自己拡大が好きな人や、他の人とは違うところを見せたがる特別意識の人間が集まるのです。

しかし完全真理を知って大元の原因である個人意識を自己縮小する実践を心掛けているものなら、現れ出た結果を判断して要らぬ口出し手出しをすることはありません。
そして世間に現れ出る結果を自分の力だけではどうすることも出来ないけれど、その結果の原因である個人意識の自己縮小の実践なら自分に出来ることを知っています。

自己欺まんの世間で起きているどうしょうもないことやどうでもいいことで目立った動きをしている人や、出来そうもない理想や目的を言うだけの人や、頭で思い考えるだけの無駄な浪費の時間を過ごしている人よりかは、目立つことなく一人静かに真理の実践を心掛けている人の方が実なる行動をしていることになるのです。
そして先々で頻繁に起こるようになる人災・天災の有事によって「何で私が・・・」の決まり文句を言い続けて、その意識・命が深い闇にさ迷い続けることになるのか? それとも次元上昇した意識・命で至福の時を生きるのか! その二つ(闇と光り)の何れかの道を歩くことになる結果が出るのも、あと僅かな年数の残り時間しかありません。
それを示し教えてくれているのが・・・この世で初の最後となる「良い悪い」で判断しない完全真理なのです。


万物すべてが完全な神であることを知る

2008年10月11日 | Weblog
人間は思い考える事が出来ますが、知らないことを思い考えることは絶対に出来ません。
だから先ずは知る事が重要です。 でも知った知識だけでは不十分・不完全です。 そこで知ったことを行為行動実践する必要があります。 そして実践から納得確信・悟りになっていきますが、良い悪い(善悪・優劣・損得)で分離判断する裏表の矛盾があったり、中途半端な妥協であったり、自己満足や自己主張するために言い訳正当化されたものであれば、全て不完全になり本物・実在ではありません。
その本物・実在・完全を知った人は極僅かしかいません。 しかも知っただけでは不完全だし、実践も中途半端でまだ本物にはなっていません。

宇宙のすべては・・・終わりなき始まりである・・・ひとつの完全から始まったことです。 だから完全なる全知全能によって新たな完全が生まれ続けています。 その完全から生まれた完全を神と言えば「すべてが神」となります。
すなわち動物・植物・生物・微生物、鉱物・液体・固体・気体などのすべてが神であること、神以外の不完全は存在実在していないことになります。 そして神だから与え続ける愛、失うことを恐れない愛があり、その愛は命ある意識から出ていますから、すべてが神・愛・命・意識となります。 だからその命・意識には神・愛のエネルギーがあります。 そして完全な仕組み全知全能・宇宙の法則・自然の法則ですべての命が永遠に生き長らえるように上手く調和して噛み合っています。 一神にして多神、多神にして一神の関係ですべてが実在しているのです。

完全な神である人間は他の神の命を頂いて食ったり飲んだり吸ったり使ったりして生きることができます。 だから生かされ生きていることにアリガタイ心が先に無ければなりません。
ところが生きていることの感謝、生かされていることの感謝、生きている命のありがたさが失われたことから、いつしか「我神なり」を忘れた個人意識の人間になったのです。

すなわち、すべてが神であることを忘れてしまって、そのアリガタイ心を無くしてからというもの自己中心に思い考え好き勝手し放題にして、自分の思い通りに生きることをしているのが・・・我神なりの神意識を忘れた今の個人意識の人間なのです。
だから自分に都合がいいように自分の尺度で「良い悪い」で分離判断差別する事があたり前の世の中になったのです。 すなわち”ひとつ”のものを分け隔て分離する不完全な意識の非実在で生きているのです。 先程の頭の中で思い考え想像することができる知識だけを詰め込んだ非実在の想像の世界で生きていたり、完全な神を知らない中途半端な不完全な意識のままで止まっているのです。
完全な神を知らないから「喜怒哀楽」「生老病死」「趣味嗜好娯楽」で生きることになり、その悩みや不安や恐れを試行錯誤・思考分析しても解決に至らないので、いつまでもその苦悩や混乱と葛藤で生きているのです。

そこで先程の「完全を知る」ことが重要になっているのです。
そして知ったことを「実践する」ことから「本物」を見抜く力・自力が付き、実在する神・本物の神を納得確信・悟ることになり、身に付いてしまった個人意識を捨てる「我神なり」の神意識に至る自己縮小の実践が始まるのです。

「完全を知って、完全になる」のが人間の生き方であり役割個性です。
それ以外の不完全をいくらやり続けても絶対に完全には至らないのです。
思考分析・試行錯誤・言い訳正当化された「私は正しい」の形(宗教思想哲学道徳風習)で自己満足・自己主張・自己顕示することで一時の満足があっても、その矛盾で悩み混乱葛藤するだけで完全には至りません。
そのことを「知る」のも、完全に至る終わりなき始まりの第一歩となります。



知って出来ない自己縮小の実践 真理は何のため、誰のため

2008年10月09日 | Weblog
山田耕栄さんの完全真理を実践している人の中にも・・・言われたことを鵜呑みしているだけで納得確信できていない人や中途半端なところで満足している人も多いと思っています。

完全に納得確信できているのなら・・・この世が矛盾や妥協の不完全な非実在の世界だと確信できているはずです・・・だったら「生きること」の実践以外はあまり必要ないことを知っているはずです。 ・・・だったら、趣味や嗜好や娯楽や刺激が無くても「真理」さえあれば喜び感謝が味わえるから十分なはずです・・・他に何が必要なのでしょう・・・完全を知って探し物が見つかったのに、それ以前から取り組んでいる形に今も思いを残している人もいるようですが、私が過去の産物・探し物を幾度と無く捨てて一本槍で進んできただけに違和感があります・・・しかし人それぞれですからあまり気にしないで下さい。 

そして、いまある衣食住・財で十分なはずです。
それでさえ真理に照らし合わせれば、自然と調和した「普通」の生活とは言えないのでは? もっと生活面でも自己縮小が必要ではないの?
そうでないと、誰かに奪われ失う恐れから今の「生活の安心」安全が先に出て、何かと不平不満も出るし不安心配や怒りやジェラシー・仕返し復讐心を持つことにもなります。
また特にこの先では自然界の有事や人災の有事が色々と待ち構えていますので、その真坂のまさかの有事が身近に起きて守っていた大事なものが失われたりして動揺でもすれば、今まで学んだ真理がうわの空になり宝の持ち腐れになりかねません。

確かに自己縮小の実践は難しいかもしれませんが、それでも実践する心がけを持ち続けているのであれば生活面での自己縮小は少なからず容易いはずです。
でも無理することでもありませんから・・・どうしても今のままを守り維持することになりがちになります。 でも守り維持することに意識が奪われてそれが原因で「心の安定」安心を失っていませんか? 「守り」に安心は無いと教えられていませんか? 守ることの意味を深く知っていますか? 言われたことを丸呑みしただけでいい加減なところで納得していませんか?

過ぎた守りで不信感が大きく芽生えます。 その自分の不信感に気付かずにいませんか?
真理は他の為にあるのではなく自分の為にあるものですから自己縮小の実践が求められているのです。 自己縮小なくして実践の真理は無いと言われていますでしょう? 本気を出しなさいと言われているでしょう・・・やる気になる、やり続ける意識を持つ、 完全な真理だからその真理を信じ自分を信じることで他を信じることも出来ます。 すなわち不信感も自らの意識改革の実践によって徐々に無くなっていきます。

何度も私のことを書いて恐縮ですが・・・私に残っているのは貧乏な生活と健康な身体と命しかありません。 だから世間体や見栄を気にしたくても、その身分を捨てているから生活全般を含めて全て気にしなくなりました。 用心警戒したり不信感を持つほどの騙され奪われ失い無くなる心配なものを持っていません。 伝統風習や道徳観念や常識に束縛されないで自由にしています。 死ぬ時が来たら死ぬだけと覚悟を決めているから将来の肉体的金銭的な不安心配がありません。 真理を知りたがることやその真理の実践やファバラの実践で喜び感謝になる事があるだけで納得満足しているから、暇で退屈でも趣味嗜好娯楽は必要ありません。 過去や未来を思い考えたり、有っても無くてもどうでもいいことには執着しません。 なったら成った時に対処しています。

すなわち、あらゆる出来事の原因が良い悪で判断することによる矛盾や妥協の不完全からはじまったことですから、その不完全な人間が不完全を解決できませんから、全てどうしょうもありません、だから何事にも執着することはありません。
また自分の頭の中で思い考え想像することは非実在だと知っているから、そのことにも執着しません。
また良い悪いで判断する以上「私は正しい」が必ず出ます。 それに執着すると言い訳や正当化してまで自己主張や顕示することになり、周りに問題混乱のタネをまくようなものですから・・・ それら「執着」を無くするのも自己縮小の実践です。

※この文書を初めて読む人のことも考えているので・・・何度も同じ言葉・説明が出来てきたり同じ事例が出てきたりして重複しているようですが、書く毎に説明の主旨や切り口が違っていますので、理解を深めるためにも素直に読んでくださるようにお願いします。