孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

あなた方の精神が荒廃しているか否かを知るには…このブログのタイトルが理解できるか否かにあります。

2016年07月31日 | Weblog
良い悪いで判断する不完全意識からして…何を成せども…同じ不完全な結果になる。

楽しく生きようとするから…頑張り欲張り見栄張り無理することになる。

喜怒哀楽の矛盾で生きている限り…中途半端で納得できない人生になる。

諸悪の根源は不平不満にあることが理解できなければ…自らの墓穴を掘ることになる。

物質金銭に溺れる者は…この先で…溺れる者はわらをも掴む…状況になる。

人間本来を見失っている者は…大切な自然界も見失っている。

生きている限り…誰も皆が…お陰様とお互い様の関係だから…特別な差はない。

食って寝て糞をしながら生きているだけでも…世のため人のために役立っている。

食って寝て糞をしながら生きている事の他は…特別であり…矛盾偽善がある。

人間として生きている価値を見失っているから…見栄・世間体・プライドの価値観で生きようとする。

嘘も方便からして都合よく偽ることができても…己の心を偽ることはできません…大元は神であり愛があるからです。

イエスがサタンを滅ぼしたことは…神ならぬ、愛ならぬ…破壊意識になる。

人を集め金を集めた…マザーテレサは…聖女ではなく…金の亡者になる。
然るにサイババも…古今東西の諸々諸氏も…同類となる。

善行奉仕・援助救済・寄付集めは…差のある特別意識であり…その矛盾偽善がある。

不確かな情報は…洗脳につながる…然るに事実以外の情報は…洗脳につながる。

見える結果の事実に…己の思いを込めて伝えれば…それは事実ではなくなる。

思い思惑期待願望を持つことは…想像の世界・仮想の世界・白昼夢が如くの生きざまになる。

まだまだ書き足りませんが・・・ブログの各タイトルを読むだけでも・・・概ね理解できるはずです。

それが無理な人ほど…己の精神が…荒廃していることになります。

またこれらの文言が…先々で…「先人の言葉」として…残っていくはずです。

見栄・世間体・プライドの価値観でもって性懲りもなく生き続けていくのですか?

2016年07月31日 | Weblog
私の性格個性からして、成ることは成るが、成らないことは成らないことからして言えば・・・
然るに遊ぶことが大好きな私がゆえに勉強が苦手です。
だから成績が悪かったのも当然ですが、遊ぶことにおいては創意工夫でもって天才かと思えるくらいでした。

そして自分にも出来そうなことからして先駆けて取り組むも無理があるとわかって早々と諦めたことにギターがあります。

それ以外に取り組んだことはすべて納得のいくところまでやってから次の新たな事柄を先駆けていました。

それも趣味娯楽ではなくして、
丁稚奉公が如くに就職した仕事・食品卸問屋の中でも時代の流れからして先駆けてきたことが数々あります。
然るに現在では当たり前になっていますが、アイスキャンデーからアイスクリームに変わった当時は、冬にアイスクリームを売るということは常識外れでしたが、時代の流れからしてホームコタツや石油ストーブが普及したことからして販売開拓が容易くなりました。

その他にもインスタントコーヒー・即席ラーメン・冷凍食品などの出始めも…その先行きが不確かな中で販売普及に励んでいました。
然るに今では当たり前になっています。

また家業の米屋を継いだことからして副業で牛乳販売をしていたら、当時は瓶入りが常識でしたが、そこへ紙パック牛乳が初登場してきたのですが、しかし紙の匂いがするなんて毛嫌いされていましたが、それも先駆け意識からして熱心に取り組みスーパーストアーと言われていた頃の食品売り場に並ぶようになり、それが一気に急成長してからは瓶入りのほうが古臭くなりました。

然るに何だか自慢そうに書いていると思われるでしょうが・・・そうではありません。
先ほどに書いたように成ることは成って当然なのです。
だから先駆け意識で私が頑張らなくても(ほかの大勢の人が頑張るから)成ることは成って、それがいつの間にやら常識になっていくのです。

然るに先駆けたことが過去の自慢話になっても、その分だけ余計な努力・無駄な頑張り・苦楽を味わった結果で終わったのです。
だから余計な努力をしなくても(性格個性・役割からして)(必然ご縁からして)成ることは成るようになるのです。

然るに皆さんは頑張り努力した結果の現在かもしれませんが、そうなるとそれを維持保守するためにずーっと同じように頑張り続けなければなりません。
然るにそれが当たり前に思えているからずーっとずーと先まで頑張り続けることでしょうが、しかしお疲れのご様子ではないでしょうか・・・

然るに皆さんと同じように頑張り続けてきた私が今では食って寝て糞をしながらにして生きているだけのような生活に慣れ親しんでいます。
何たって楽ちんでもって生きていけるからです。

しかしそれでも生きているからには世のため人のためにも何かと役立っているのは事実です。
だから特別に役立たなくても大丈夫なのです。

然るに生きていることの価値は(自己拡大で生きるも自己縮小で生きるも)同じでも、それが価値観となると特別な差が出て当たり前ですから、その価値観のために頑張り欲張り続けるという愚かな行為に変わるのです。

然るにそれが世間体・見栄・プライドなのです。

それでも性懲りなく続けていくのですか?と問いかけているブログなのです。

古今東西の有名人ほど中途半端な人生になりやすいが、私は楽ちんにして納得人生を歩んでいます。

2016年07月30日 | Weblog
人それぞれに性格個性役割が異なっていますから(自分に)成ることは成るが、成らないことは成らないのです。
だから成らないことをいくら頑張っても無理ですが、成ることなら何とかなっていくのがこの世です。

そして皆さんがどんなに頑張り努力して何かを成して自己満足できても、それらは既に過去のことになっていることを自覚できていますか?・・・

ちなみに険しい山に登山したり探検冒険をして成果を出して自己満足するも、しかし時がたつにつれ薄れてきて過去の出来事になりますから…然るに<納得>できなくなって…再びその喜び感激感動を味わいたくなれば…再度同じ挑戦・頑張り努力が必要になります。

ちなみに登山家・冒険家の植村直己さんのように一生冒険をし続けることになるのは、本物のようであっても精神的には未熟で本物には到達していなかったのです。
だから極めたのではなくして同じようなことを繰り返すしか能がなかったのです。

もしもそれが極めたことであれば(納得できますから)二度と同じ繰り返しはしません・・・ちなみに私は孤独の自由にして生きることに納得していますから過去の生き様に戻ることはありません。

然るに納得できていなければ…プロスキーヤー/登山家の三浦雄一郎氏が史上最高齢の80歳でエベレスト登頂に成功しました!…何てことをしたがるのです。

そして来世では地底探検・宇宙探検を目指すかもしれませんが、そこで見極めることができたなら、自然界を親しむ素朴謙虚な生き様になるかもしれません。

それと同じく巷の趣味嗜好娯楽で成果を出すことができても、その喜びは一時で終わりますから、また同じように頑張り続けなければなりません。
例えばそれが手芸であれば次から次と作り上げることにもなり、それが飽きると形の違ったことに挑戦して、それをまた繰り返します。
然るにそれしか能がなかったことにもなります。

だからオリンピックで金メダルを取ることができても、その成果は過去のことになり思い出が残るだけになります。
だから金メダルの喜び感動を味わうためには(植村直己さんや三浦雄一郎さんのように)前回と同じように頑張り努力する必要があります。

そこで能力的に限界になれば(過去が華やかだっただけに)何やら虚しさ出てきて生き甲斐を見失うかもしれません。

またそんな冒険探検やスポーツの感動を映像で見ていた人がその感動を再び味わいたければその録画映像を再生してみることはできますが、しかし過去のことでもあるから見るたびに色あせていることでしょう。

然るに飽きれば何度も同じ録画映像を見ることにはなりません。

また映画テレビで感動したり興奮したり励まされたとしても意図的に企画演出されたことであり、ドラマの中のことであって現実ではないから・自分のことではないから、すぐに記憶から消えていきます。
然るに暇つぶしをしただけで終わります。

ここで色々と書くのをやめにしますが・・・
とにかく結果が出てもそれと同じ状態がずーっと続くことなく過去のことになりますから、結果的にはその苦楽を味わう繰り返しにもなるのです。

そこで頑張り欲張り見栄張らずにして、必然ご縁で自分に出来ることをしながら生きているだけであれば、そのままにしていつまでも続けることができます。
然るにそれが「本物」なのです。

然るに苦楽・喜怒哀楽で生きていることは本物ではなくて仮初の偽物で生きていることになるのです。

また過去の思い出を繰り返し思い出したり、またその映像を再生してみるのも同じです。

また思い思惑期待願望でもって生きているのも同じです。

然るに事実ではなくして「想像の世界」「架空の世界」で生きていることになります。

だから喜怒哀楽や思い思惑期待願望の偽物で生きるのか、
それとも自力自信の精神力でもって気楽に生きていくのか、
その選択次第で中途半端な人生にも納得人生にもなるのです。

然るに私は楽ちんにして納得人生を歩んでいます。

情報は不確かなのが当たり前なのです。なのに自分に都合が良ければ情報を信じたがるのです。

2016年07月30日 | Weblog
この世は情報化時代ですが、その情報も自分に都合がいい事に注目するが、しかし都合が悪いことは蚊帳の外にしたがります。

然るにこのブログも自分に都合が悪ければ蚊帳の外にする人も多いことでしょう。

そんな集合意識からして、自然学者が先々の予測(情報)警笛を鳴らすも、自分に都合がいい結果が出る(情報)現代医科学を選んできました。
然るに取り返しがつかないほどに自然環境が悪化しています。

そして少数派の働いたら負けと言ったニートや先駆け意識の山奥ニート・Bライフ・サイレントテロなる形(情報)を否定反発する人も多いことでしょう。

ちなみに縄文時代の人は闘うことを知らずにして(弥生時代を築く人から侵略されて)北へ北へと逃げ延びていましたが、結果的には平和な縄文時代が終わり進化発展する弥生時代になりましたが、それ以降は勝ち進む(勝ったほうが正義)(勝てば官軍負ければ賊軍の)時代になりました。

だから徳川幕府を終わらせた明治維新も似た様なところがありますから、それが世界大戦にもつながりました。

ところで相当古い話ですが、特別出演していた堀江貴文さんに対して…戦争になったらどうしますか?…と問い掛けると「私は逃げます」と答えたことに批判的なコメントが多かったことが記憶にあります。

然るに多数派が正義であり少数派は負け組に思われるところがあるのですが、ところが少数派に真実が隠れていることも大いにあるのです。

しかし概ね多数派によって時代が流れますから、その少数派は多数派に巻き込まれている立場になるのです。

然るに自分に都合がいい情報に踊らされているところもあるのです。

だから集合意識に流されていて、己の確たる信念が失われているとも言えるのです。

だから己自身・自力自信の精神力でもって確立していなければ、巷の情報に流される被害者にもまたその加害者にもなるということです。

然るに明日の我が身の事ばかりで忙しくするも、また余暇を趣味嗜好娯楽で時間つぶしをするよりも、我が身の中の心精神に問いかける自問自答も必要なのです。

そして巷の精神世界は信じるか否かの矛盾や飴とムチの使い分けの偽善からして思い悩み試行錯誤し葛藤することにもなりますが、
しかしこのブログなら矛盾偽善がありませんから、後はその読解力・理解力・実践力になります。

付記:事実を伝えようとしている情報であっても(読み書きソロバン以外は)(医科学であっても)…情報を発信する人の思い思い込み・錯覚勘違い・予測や矛盾・偽善が紛れ込んでいますから…情報は不確かなのが当たり前なのです。
なのに自分に都合が良ければ情報を信じたがるのです。

人為人工的な事柄に心を奪われて我を見失っている人は自然界も見失っているようです。

2016年07月29日 | Weblog
前回に…自然を大切にするのなら贅沢をやめればいい…と書いて気付いたのですが、
自然を大切にすることは自然界の一部である私たち人間を大切にすることになることです。

然るに人に優しく親切にと言うならば、この世の大元となる自然界の万物に対しても同じ気持ちでなければ差別になるのです。
だから差別は人間だけに限ったことではなかったのです。

然るに生きていることを感謝するならば、人様に感謝するよりもまずは衣食住の元となる自然界に感謝することになります。
然るに宗教などで神に感謝していることは、それが神=自然界=に対する感謝を示していることになるのです。

とにかく精神世界を言うならば万物に対しても同じ思いでなければ、結局はその我がままぶりが己に降りかかってくると言うことです。
ちなみにそれがこの世に現れ出ています。
すなわち自分の首を自分で絞めているようなものです。

然るに自然界で人間が君臨するのではなくして、同じ命同士の自然界と共に生きて行くことが本来なのです。

だから狭い了見・狭い視野でみるのではなくして広い心で見る必要があったのです。

然るに「すべてはひとつ」が言われるわけです。

となるとやはり自己縮小の実践が不可欠になります。

ちなみに私は此れまで自然界の中で遊ぶことが多かっただけに諸々の生物・動植物にも何かと愛着がありますから、然るに理由も無く忌み嫌うことはありません。

だからご縁あって牛舎のパートに行くようになった時でも非衛生的なこともクモの巣だらけでハエが黒山如くにたかっていても気になりませんでした。
然るにそれだけの適応性が身に付いていたのです。

だから世間では嫌われ物の蛇やムカデや毛虫やクモやアブやハチなどに敵対心がありません。

そうなると背丈ほどの雑草・草木が生い茂る山林や荒れ野原に足を踏み入れる不安恐怖心もありません。

そして雑草を邪魔者扱いにして切り捨て御免に思って草刈りしていたのが、その雑草が食にも薬にも材料にも空気や気温調整にも、また目に優しく心を癒すことにもなっていることに気付いたのです。
だからむやみやたらと草刈しないでほっとくようにもなりました。

とにかく人間は自然界を無視しては生きられません。
然るに自然界を意識して生きることで自分の精神が育み育っているのは確かです。

だから桜や紅葉や花々の見物やキャンプや山野草の採取や野鳥見物や滝や清流探索などの良いとこ取りよりも、自然愛好家如くに気取らないで、意味も無くぶらぶらと自然体にして自然の中に入り込むことも人間には必要だと思います。

何はともあれ明日の我が身の事ばかり考えない広い心にして、
また人為人工的な事柄に心を奪われて我を見失っている人が多いだけに、身近な自然界を意識して親しむことが己の精神の為にもなるのです。

思いを伝える言葉にはエネルギーがあります。

2016年07月28日 | Weblog
思いを伝える言葉にはエネルギーがあります。
だから先人の言葉・諺コトワザ・論語・名言格言、エッセイー詩・歌詞などのお気に入り言葉がエネルギーとなって何かと生きる力になったり心を癒してくれることがあります。

ところがその言葉によって自己洗脳・自己陶酔することにもなります。

だから自分の発した言葉に自己満足し自惚れ慢心することもあります。

だから言うだけ聞くだけでも自己満足出来ます。

だから様々な言葉を様々な栄養源が如くにして生きているような人も多いようです。

何はともあれ己が見た事実を言葉にして(自分の思いを付け加えて伝えれば)それは事実ではなくなり変化し歪曲します。

また…犬がネ、子を産んだ…を聞き違うと…犬がネコを産んだ、ともなるのが言葉のあや・危険性です。

だから沈黙は金とも言われるわけです。

また事実では愛されていないのに、ただ言葉で愛しているよと言われれば、それだけで嬉しくて有頂天になるかもしれません。

と言うことは本物・本音ではない装飾美化された言葉に惑わされて・酔いしれて、それで自己陶酔することにもなるのです。

何はともあれ、言うだけ聞くだけの生き様になると、それは事実ではない思いの世界・想像の世界・架空の世界で生きていることにもなります。

その最たる形が情報化時代でありブログの世界でもあります。

ちなみに生きて行く為の働き仕事役割を果たしている事実と、食って寝て糞をしながらにして生きている様々な出来事の、その見える事実の他は・・・己の思いの世界・想像の世界・架空の世界・夢か幻の白昼夢が如くの不確かな虚しい生き方にもなっているのです。

だから事実と非事実とが入り混じって面白いようで面白くない中途半端な生き様になっているのです。

だからそこで確かな結果を味わえる趣味嗜好娯楽・変化刺激・快感快楽が必要になっているのですが、
そうなると当然ながらその苦楽・喜怒哀楽が伴いますから、
それが精神的ストレスにもなり、然るに心身が疲れます。

そこで巷の精神世界に関わることにもなっているのですが、しかし矛盾偽善があることからして中途半端な生き様になり、やはり納得確信することは出来ません。

だから精神世界さえも暇つぶしの趣味嗜好娯楽やオタクやマニアが同然になっている人も多いようです。

然るにどうしようもないままに人間を終えることになりますが・・・さて、どうしますか?となり、
そこで暇ついでに書いてはいるものの・・・矛盾偽善の無いこのブログがしっかりと役立ちますよ・・・となります。

皆さんが不確かなことを事実が如くに情報して洗脳に加担していることに気付いていますか。

2016年07月27日 | Weblog
寒い東北地方には姨捨山が如くがありましたし、NHKドラマの「おしん」が如くが当たり前だったと思います。

そして暖かい四国では遍路道がありますが、一昔に話にあるのが、仕事も耕す畑も無くて死ぬしかなくなった人が、野たれ死に覚悟の白装束(土葬できる姿)にして、道端の人から慈悲施しを受けながらにして、己が死ぬまで遍路道を行ったり来たりの繰り返しをしていたそうです。

然るに仕事もしないでぶらぶらしていると遍路になるよとばかりに卑下した言葉で言われていました。

ところが今の私はどうでしょうか、自らが選んで野たれ死に覚悟の、正に遍路と言われても当然のような生き方になっています。
なにの「此れしか無い」とばかりにブログに書いています。

そして「死ぬまで何とか生きていれば」それで善しと書いて、その生き様がお互い様とお陰様の関係ともなって、然るにそれが世の為人の為に役立っているとも書いています。

然るにそれらは私が実際に味わっているから根堀り葉堀り書けるのです。

となると一昔前の遍路とか宿無しとかルンペンとか言われていた形に至った人の中にも私と同じ思い感覚を味わっていた人もいると思います。
だから「一度ルンペンをやればやめられなくなる」と言う言葉があります。
それを私流に言えば「此れしか無い」となります。

だから現在の言葉で言うホームレスの人も「此れしか無い」とばかりに思っている人が大勢いるかもしれません。

然るにニートが「働いたら負け」と言ったように、またBライフ・サイレントテロなる形を実践している若者が増えているようにです。
そのことを私流に言えば先行きの前触れ前兆となるのです。

また先ほどのように遍路と蔑んだ形で子供に教えることは差別であり一種の洗脳になります。
然るに人様から伝わる情報は(読み書きソロバン以外は)事実とは異なる一種の洗脳にもなると書いています。

だから自らが実際に体験経験したことや明らかな事実を目撃したことが本物・自分の物となる、とも書いています。

また人様に偽ることが出来ても、己の内なる精神・真心を偽ることは出来ないとも書いています。

それを言い換えれば、人様を信用できなくても己を信じることは出来るのです。
然るにそれが<自信>なのです。

だから不信とつながる他力よりも、自らの自信自力の精神力で事を成す事を書いているのです。

とにかく人為人工的な情報は信用するか否かになります。
ところが自分に都合がいい事となるとすぐに飛びつくところがあります。

まして摩訶不思議な術・奇跡が如くを見せられたなら尚更です。
そして期待していただけに(結果的には)裏切られた形にもなるのです。

だから皆さんは巷の情報に踊らされていると思ったことはありませんか。
然るにテレビ・映画・ドラマや著書出版書籍やニュース・マスコミで洗脳されていると感じたことはありませんか。

ところがあなた方も不確かなことを事実が如くに言って洗脳に加わっていることにも気付いていますか。

また常識だったり伝統風習だったり道徳観念だったり価値観だったりするのを正しいとして情報したり参加するのも同じです。

だから食って寝て糞をしながらにして生きていること以外は洗脳が如くになっているのです。

そして他力依存的にもなっているのです。

だからそのリピートにもなるのです。

しかもより楽しく、より美しく、より美味しく、より便利な形へと進化発展しています。

然るに自然界を大切にとか、自然を守るとか言うよりも贅沢をやめればいいのですが、しかし国家社会や人間関係には無理がありますから、然るにこのままにして巨大化し続けて、過去の恐竜時代が終わったように、またあちこちの帝国時代が終わったように、その仕組み・シナリオ通りに突き進むことになります。

しかしそうなる前に己だけでも質素素朴謙虚にして生きる実践をして、それを事実にして味わうのは如何ですか?と問い掛けているのがこのブログでもあります。

此れまでの肉体関係や愛情関係の感情面から卒業して人間本来の愛・精神で生きていくことになる。

2016年07月26日 | Weblog
人それぞれに性格個性が異なっていますから、然るに情熱・熱意・意欲をもってして取り組むことも異なって当然です。

然るにこの世には様々な専門分野がありますが、例えば政治経済や文化芸術や研究開発や冒険探検に取り組むことにもなり、またそれらの職業に取り組むことにもなります。

しかしそれらをハッキリ言えば・・・情熱・熱意・意欲は<欲>なのです。

然るに欲から始まったことは欲張ったままに終わって当然です。

それがこの世人間関係に現実となってハッキリと現れています。

だから同じ欲を持つ人が同じ欲を持つ組織団体や企業や個人事業経営などに参加して集まっています。

またその中で勝ち続けることが出来た者だけが頂点を極めることにもなります。

ところが勝ち続けるためには負け組がいて当然です。

ところがしかし「働いたら負け」と言ったフリーターが登場したように、
また自らが負け組を選んだかのようなBライフ・サイレントテロなる形を実践している若者も現れました。

そして「生きてさえいればそれで善し」とブログに書いている私もいます。

と言うことは欲張って生きるのか、欲張ることをやめにして生きるのか、その選択が問われ始めた時代とも言えます。

然るに快適便利なけれども自由が無いコンクリート社会で生きるのか、それとも人為人工的な形から離れた自然界の中で貧乏ながらも自由に生きるのか、その選択でもあると思います。

そして多くの人が現代的な生活の中で豊かさを味わっているものの何だか心身が疲れていることを実感している人もいると思います。

しかし欲張らなければホームレスやニートやBライフ・サイレントテロなる形になる不安があることからして自分では納得できずにいるから、それを家族を守る責任があるとして言い訳正当化している人も多いことでしょう。

ところがしかしその家族から見放される時が来るやもしれません。

しかもこの先10年後には10人の内3人が認知症になると言う統計が出ていますから、尚更に困った状況になります。

とにかく戦後の物質経済優先からしてのしっぺ返しが始まっているのです。

然るに始まったことが終わる時代にもなっているのです。

だから現状を守ってにしがみついているのか、それとも自らが離れて行くのか(卒業するのか)の選択の時だと私は感じています。

ちなみに生涯独身を選んでいる人や離婚別居で単身生活になっている人が多いのも何やら意味がありそうです。

とにかく此れまで欲張ってきたのは事実ですから、此れからは欲張らない生き方に方向転換することは表と裏を味わうことにもなります。

そして過去の見せ掛けの生き方と本来の生き方の両方を味わえることからして精神的成長になると思います。

然るに此れまで肉体と感情体で生きていたのが精神体で生きることになるのです。

だから此れまでの肉体・愛情・感情から卒業して、人間本来の愛・精神で生きていくことになると思います。

皆さんの先行きを鏡が如くに映し出して暗示してくれているのが世間の人たちなのです。

2016年07月25日 | Weblog
自分の思うがままに生きて行くにも情熱が必要なときがありますが、それも長くは続きませんから、結果的には情熱を注いだことが過去になるだけです。

ちなみに私が天性が如くに思ってビデオ撮影制作に情熱を注いでいた20数年から全体的には約30年ほどあります。
だから収益性が少なくても出来る限り精一杯心を込めて取り組み先方に喜んでもらえる結果を出すために頑張っていました。

ちなみに収益性に関係なくビデオを必要としている人の中に大学の准教授との腐れ縁が如くにして数年間続いていましたが、そのビデオに対する情熱が冷めた頃に…娘が憧れていた田舎暮らしが縁からして…その大学准教授から紹介されたのが現在の過疎地の廃屋でしたが、それが娘ならぬ私にそのお鉢が回ってきたのです。
然るに縁というものは摩訶不思議な仕組みなのです。

そのビデオ以前にも先駆けたが如くに我が子が所属していた初期の小学児童スポーツ少年団の推進に一役買って出て情熱を注いでいましたし、中学の部活なのに情熱不足の担任を私の情熱でもって担ぎ上げて、その監督先生と部員とその親が一緒に協力し合うというチームワークを先駆けて形作り、
その野球に対する情熱からして対外試合に負けても、その先方の先生から…試合には勝ったが野球には負けましたと脱帽された…そんなような形が後々もありましたが、
しかし子供らが中学を卒業すれば、それまでのことが過去のことになるのです。

ところが女性関係となると、私の性格個性からして(性欲旺盛でありながらも)(むっつりスケベーなのに)我が妻を含めた女性に情熱を注いだことは未だにありませんから、然るに妻以外に女性関係はありません。

その妻との相性が合わなくなった熟年期に精神世界の事の始まりとなった宇宙エネルギーから霊魂想念の世界から完全真理やブログが縁からしてその都度ごとに女性に気に入られ(思い上がりかもしれませんが)その情熱熱意のそぶりを感じていたのですが、しかし私自身の事を飾り立てることも無く馬鹿正直に何でも話すから、それが相手の期待外れにもなるようですが、
ちなみにその期待外れを補いそれ以上に魅了させることが出来るのが摩訶不思議の超能力・魔術ですが、しかし私にはそれらしきものはありません。

だから相手に好まれるように手立て情熱熱意を込めることもなく、殆どが成り行きに任せていましたから、そのままにして終わりました。

だから女性関係だけは宇宙船から全裸の美女が降り立ち微笑んでくれるしかないと書いているのです。

然るに皆さんも何かと情熱を注いだ経験が多くあると思いますが、その情熱を注いでうまい具合になったとしても一時的で絶対的に長くは続きません。
然るにそれが本物ではないから様々に変化して過去のことになるのです。

だから現在この世の春を大いに味わっていてもやがて過去の出来事になって終わるのです。

そしてその先行きを鏡が如くに映し出して暗示してくれているのが身近な世間の人たちなのです。
そして最終的にはご近所のご老人と同じような形・結果になり、世間で噂されているような死に様にもなるのです。

然るにそれで満足に思えるなら先行きに何の問題も無く時が経過していきます。

しかし情熱を注いだ過去がいくら良くても現在が不満であれば、それが本物になって、その良かった過去が偽物だったことに様変わりするのです。
そして寂しい孤独感や虚しい思い感情が出てくるのです。

ちなみに私は今の状況に十分満足していますから、それがずーっと続いても問題ありませんから、その先行きとなれば介護を受ける身の上になることやそして死に至ることですが、それは先の事ですから現在とはあまり関係がありません。
だから宇宙船の美女なることが起きなければ今のままがずーっと続くのです。

ちなみに死に至ることになっても、その死後の世界・霊魂の世界がどんなのか興味津々ですから、然るに死に対する不安や恐れはありません。
だから出来れば楽に死ねることだけを思い願っています。

付記:情熱・熱意は特別意識ですから、異性関係あるいは同姓関係で情熱を注ぐことは欲目の色目使いにあたります。
また相手から情熱・熱意を感じ取ることで、だったらあれもこれもしてくれるだろうと、同じ欲目・色目使いにもなるようです。

題目(1) 「仮想の世界」なのに<精神世界>だと胸を張って鼻高々と自慢して世間に目立つ輩が多い。

2016年07月24日 | Weblog
題目(2) 事実で生きている「価値」ではなく、喜怒哀楽の変化刺激が生きている「価値観」に変わる。

良い悪いで判断して、それが自己満足になったり不平不満になるのは当たり前ですが、その当たり前なら何も問題が無いわけではありません。

然るにこのブログをしっかり読んでいる人ならば既に理解できているとは思いますが、良い悪で判断することの矛盾からして「苦楽」を味わうことに精神的な問題があるのです。

ところが生きていれば苦楽があるのも当然だから何にも問題が無いとなれば、
然るにこの世人間関係に精神世界を説く形も無用の長物となりますが、
しかし精神世界・神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなる形が賑わっているのです。

然るに良い悪いで判断している当たり前の常識に問題が無いわけではなくして大いに問題ありとなります。

然るに一般的に言われている当たり前や常識に精神的な問題があるのです。

然るに巷の精神世界・宗教・スピ系も良い悪いで判断して事を成していますから問題原因が大いにあるのです。

となると苦楽の問題解消に訪れている諸々の所にも、その苦楽の問題原因があるのですから、
然るに苦楽の者同士が寄り集まって授受し合うことで果たしてその苦楽を無くすることが出来るのでしょうか?となり、然るに無駄なだけでしょう!となるのです。

だから過去の釈迦やイエスやサイババの類は摩訶不思議を成せども、また知ったかぶりで精神的な説教するも、その張本人の内面的・精神的には大したことではないから、然るに余計なことをして無駄になるだけで終わって当然なのです。

すなわち摩訶不思議を成す魔術が如くを見て「これは凄い」と洗脳されたが如くに魅せられ自己陶酔していただけなのです。

とにかく巷の精神的な拠り所としている形の中にも良い悪いで判断している矛盾偽善がありますから、その同じ矛盾偽善・苦楽を持った者同士が寄り集まり授受し合っても、その同じ矛盾偽善・苦楽を繰り返すだけで絶対に卒業できません。

ちなみにこのブログでは…精神世界とはあまり関係の無いところの…食って寝て糞をしながらにして「生きている事実」だけで善しとしていますし、それ以上のことは特別で差がありその矛盾と偽善の苦楽があるとしています。

しかしそんな事実を知らずにして…良い悪いで判断するのは当たり前の常識であり、その苦楽の繰り返しも人間なら当たり前の常識として、その矛盾偽善・苦楽の繰り返し上塗りをしながら生きている人が多いのです。

然るにどうしようもない者同士が同じ穴の狢や井の中の蛙が如くに寄り集まりドングリの背比べが如くで満足したり不満になったりしながら、その苦楽を味わっているのです。

それを知らないから食って寝て糞をしながらにして「生きて」いるだけではつまらなく思え、然るに矛盾偽善苦楽に満ちた「楽しさ」を探し求めているのです。

然るに「生きている価値」ではなくして、矛盾偽善苦楽の喜怒哀楽の変化刺激が「生きている価値観」になっているのです。

然るに事実で生きているのではなくして思い想像&仮想の世界の中で人間として生きている「つもり」になっているだけです。

だから「仮想の世界」で生きているのに、そうとは知らずに、それが精神世界だと胸を張って鼻高々と自慢して世間に目立ちたがっている輩が多いということです。