良い悪いで判断する事を無くしていくのが完全真理の実践ですが、しかし人間として持って生まれたその良い悪いで判断することをやめることは絶対にできません。
然るに良い悪いで判断して、その良いとこ取りをしていることや都合の悪いことを排除したがる、その欲に問題原因があるのです。
だからその欲な思い(欲心)が出ても、それに執着して欲張らなければ(手を出さずにほっとけば)やがてその欲心は無かったことに変わるのです。
然るに良い悪いで判断しないために、その欲張ることを無くしていくのが自己縮小なのです。
だから自己縮小の実践は田舎暮らしをすることではありません。
しかしその自己縮小の過程の必然ご縁からして田舎暮らしが始まることがあるかもしれません。
然るに私は人間関係の柵シガラミから離れるために過疎地で暮らすことになったわけではありません。
また神仏霊魂の世界を学び知りたいがために霊能者と関わったわけではありません。
然るに山田耕栄さんの完全真理を学び知りたいがために関わったわけではありません。
(何度も書いているように)私の計画性の無い「成り行き任せ」の性格からして「来るものは拒まず、去るものは追わず」にしてその必然ご縁の仕組みの成り行きからして成る様になった結果が現在です。
然るに専門的勉学の学識知識からではなくして、自分の生き様・経験体験や普段の見聞からして自ずと気付き、それが確かな自分のもの&本物となった事柄事実を主に書いています。
然るに結果が出る前の予見「先付け」ではなくして、成り行き&必然ご縁の仕組みから結果が出た後に気付く「後付け」が私の特徴です。
然るに欲張らなければ良い悪いで判断する必要性が無くなっていくことも、欲張らなければ気楽楽チンであり安心安全につながることも、
だから己を守り戦うことにもならずに、また相手を不信に思うその必要性がなくなることも、
然るに不安心配&恐れが出てこなくなり、病気や死さえも成り行きに任せて(必然ご縁で仕組まれたとして)それに素直に従う自信さえも持てます。
また不完全意識の人間関係の柵シガラミから離れることで(その結果)その孤独がありがたいことであり、なに気兼ねする事無く気軽に思うがままに生きていけるその自由があることも、
然るに束縛制限されることも無く、また己が自由だけに相手の自由も尊重できるし束縛制限したり否定反発排除することにもならないこと。
ところが己の自力と自信で支障なく生きていても、しかし世間や身近な人たちの波風や山あり谷ありの苦楽やまた我侭な我欲の生き方の人に私が巻き込まれることになるのは避けられません。
然るに私はそれら多くを既に経験済みです。
だから必然ご縁の成り行きからして孤独と自由に成ったことをありがたいことだと思えているのです。
しかも自力と自信のある孤独とその自由を十分に味わえているからこそ欲張ることが必要無くなっているのは確かなことなのです。
然るに欲張るから(無理な苦労をして)自由が無くなり、また欲張るからには自力を超えますから、然るに他力依存になりその人間関係でも苦労苦悩することになり、またその人間関係で束縛制限されたり否定反発もされますから、然るに思うがまに生きられなくなり(納得できないままになり)やがて生きていることに疲れストレスとなり、それが原因からして虚しさや孤独感を味わうことになったり、またそれらが原因からして心身の病気にでもなれば、その医術や医薬や介護に頼る心細い不安心配の生き方になったり、その苦痛や苦悩からして生きていることが辛くも苦にもなるのです。
然るに皆さんも自分の胸に手をあてれば(自問自答すれば)何がしに気付くはずです。
そして気付いたなら、そこでどうするか、その意識次第で行き先&生き方が決まり、その次の結果が現れてくるのです。
然るに現れ出た結果とその気付きの繰り返しからして己の生き方人生が徐々に(良くも悪くも)変わっていくのです。
だから思い思惑期待願望の「先付け」ではなくして、己が意識が原因からして成るようになった結果の「後付け」からして気付き、その気付いた意識が原因の必然ご縁からしてまた次の結果が出てくる、その繰り返しが続くわけです。
然るにそれを人間修行とも言えるのですが、しかし自らが選んで艱難辛苦の荒行や修行をするのは欲絡みの先付けになります。
また先付けであれ後付けであれ、その過程の中に「完全真理」の深い理解とその「自己縮小」の実践&意識があれば、自ずと先行きが明るく見えてくるはずです。
然るに良い悪いで判断して、その良いとこ取りをしていることや都合の悪いことを排除したがる、その欲に問題原因があるのです。
だからその欲な思い(欲心)が出ても、それに執着して欲張らなければ(手を出さずにほっとけば)やがてその欲心は無かったことに変わるのです。
然るに良い悪いで判断しないために、その欲張ることを無くしていくのが自己縮小なのです。
だから自己縮小の実践は田舎暮らしをすることではありません。
しかしその自己縮小の過程の必然ご縁からして田舎暮らしが始まることがあるかもしれません。
然るに私は人間関係の柵シガラミから離れるために過疎地で暮らすことになったわけではありません。
また神仏霊魂の世界を学び知りたいがために霊能者と関わったわけではありません。
然るに山田耕栄さんの完全真理を学び知りたいがために関わったわけではありません。
(何度も書いているように)私の計画性の無い「成り行き任せ」の性格からして「来るものは拒まず、去るものは追わず」にしてその必然ご縁の仕組みの成り行きからして成る様になった結果が現在です。
然るに専門的勉学の学識知識からではなくして、自分の生き様・経験体験や普段の見聞からして自ずと気付き、それが確かな自分のもの&本物となった事柄事実を主に書いています。
然るに結果が出る前の予見「先付け」ではなくして、成り行き&必然ご縁の仕組みから結果が出た後に気付く「後付け」が私の特徴です。
然るに欲張らなければ良い悪いで判断する必要性が無くなっていくことも、欲張らなければ気楽楽チンであり安心安全につながることも、
だから己を守り戦うことにもならずに、また相手を不信に思うその必要性がなくなることも、
然るに不安心配&恐れが出てこなくなり、病気や死さえも成り行きに任せて(必然ご縁で仕組まれたとして)それに素直に従う自信さえも持てます。
また不完全意識の人間関係の柵シガラミから離れることで(その結果)その孤独がありがたいことであり、なに気兼ねする事無く気軽に思うがままに生きていけるその自由があることも、
然るに束縛制限されることも無く、また己が自由だけに相手の自由も尊重できるし束縛制限したり否定反発排除することにもならないこと。
ところが己の自力と自信で支障なく生きていても、しかし世間や身近な人たちの波風や山あり谷ありの苦楽やまた我侭な我欲の生き方の人に私が巻き込まれることになるのは避けられません。
然るに私はそれら多くを既に経験済みです。
だから必然ご縁の成り行きからして孤独と自由に成ったことをありがたいことだと思えているのです。
しかも自力と自信のある孤独とその自由を十分に味わえているからこそ欲張ることが必要無くなっているのは確かなことなのです。
然るに欲張るから(無理な苦労をして)自由が無くなり、また欲張るからには自力を超えますから、然るに他力依存になりその人間関係でも苦労苦悩することになり、またその人間関係で束縛制限されたり否定反発もされますから、然るに思うがまに生きられなくなり(納得できないままになり)やがて生きていることに疲れストレスとなり、それが原因からして虚しさや孤独感を味わうことになったり、またそれらが原因からして心身の病気にでもなれば、その医術や医薬や介護に頼る心細い不安心配の生き方になったり、その苦痛や苦悩からして生きていることが辛くも苦にもなるのです。
然るに皆さんも自分の胸に手をあてれば(自問自答すれば)何がしに気付くはずです。
そして気付いたなら、そこでどうするか、その意識次第で行き先&生き方が決まり、その次の結果が現れてくるのです。
然るに現れ出た結果とその気付きの繰り返しからして己の生き方人生が徐々に(良くも悪くも)変わっていくのです。
だから思い思惑期待願望の「先付け」ではなくして、己が意識が原因からして成るようになった結果の「後付け」からして気付き、その気付いた意識が原因の必然ご縁からしてまた次の結果が出てくる、その繰り返しが続くわけです。
然るにそれを人間修行とも言えるのですが、しかし自らが選んで艱難辛苦の荒行や修行をするのは欲絡みの先付けになります。
また先付けであれ後付けであれ、その過程の中に「完全真理」の深い理解とその「自己縮小」の実践&意識があれば、自ずと先行きが明るく見えてくるはずです。