孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

思い思惑期待願望の「先付け」ではなく、己の意識が原因で成るようになった結果の「後付け」から気付くこと

2014年11月29日 | Weblog
良い悪いで判断する事を無くしていくのが完全真理の実践ですが、しかし人間として持って生まれたその良い悪いで判断することをやめることは絶対にできません。

然るに良い悪いで判断して、その良いとこ取りをしていることや都合の悪いことを排除したがる、その欲に問題原因があるのです。

だからその欲な思い(欲心)が出ても、それに執着して欲張らなければ(手を出さずにほっとけば)やがてその欲心は無かったことに変わるのです。

然るに良い悪いで判断しないために、その欲張ることを無くしていくのが自己縮小なのです。
だから自己縮小の実践は田舎暮らしをすることではありません。
しかしその自己縮小の過程の必然ご縁からして田舎暮らしが始まることがあるかもしれません。

然るに私は人間関係の柵シガラミから離れるために過疎地で暮らすことになったわけではありません。
また神仏霊魂の世界を学び知りたいがために霊能者と関わったわけではありません。
然るに山田耕栄さんの完全真理を学び知りたいがために関わったわけではありません。

(何度も書いているように)私の計画性の無い「成り行き任せ」の性格からして「来るものは拒まず、去るものは追わず」にしてその必然ご縁の仕組みの成り行きからして成る様になった結果が現在です。

然るに専門的勉学の学識知識からではなくして、自分の生き様・経験体験や普段の見聞からして自ずと気付き、それが確かな自分のもの&本物となった事柄事実を主に書いています。

然るに結果が出る前の予見「先付け」ではなくして、成り行き&必然ご縁の仕組みから結果が出た後に気付く「後付け」が私の特徴です。

然るに欲張らなければ良い悪いで判断する必要性が無くなっていくことも、欲張らなければ気楽楽チンであり安心安全につながることも、
だから己を守り戦うことにもならずに、また相手を不信に思うその必要性がなくなることも、
然るに不安心配&恐れが出てこなくなり、病気や死さえも成り行きに任せて(必然ご縁で仕組まれたとして)それに素直に従う自信さえも持てます。
また不完全意識の人間関係の柵シガラミから離れることで(その結果)その孤独がありがたいことであり、なに気兼ねする事無く気軽に思うがままに生きていけるその自由があることも、
然るに束縛制限されることも無く、また己が自由だけに相手の自由も尊重できるし束縛制限したり否定反発排除することにもならないこと。

ところが己の自力と自信で支障なく生きていても、しかし世間や身近な人たちの波風や山あり谷ありの苦楽やまた我侭な我欲の生き方の人に私が巻き込まれることになるのは避けられません。
然るに私はそれら多くを既に経験済みです。

だから必然ご縁の成り行きからして孤独と自由に成ったことをありがたいことだと思えているのです。
しかも自力と自信のある孤独とその自由を十分に味わえているからこそ欲張ることが必要無くなっているのは確かなことなのです。

然るに欲張るから(無理な苦労をして)自由が無くなり、また欲張るからには自力を超えますから、然るに他力依存になりその人間関係でも苦労苦悩することになり、またその人間関係で束縛制限されたり否定反発もされますから、然るに思うがまに生きられなくなり(納得できないままになり)やがて生きていることに疲れストレスとなり、それが原因からして虚しさや孤独感を味わうことになったり、またそれらが原因からして心身の病気にでもなれば、その医術や医薬や介護に頼る心細い不安心配の生き方になったり、その苦痛や苦悩からして生きていることが辛くも苦にもなるのです。

然るに皆さんも自分の胸に手をあてれば(自問自答すれば)何がしに気付くはずです。
そして気付いたなら、そこでどうするか、その意識次第で行き先&生き方が決まり、その次の結果が現れてくるのです。

然るに現れ出た結果とその気付きの繰り返しからして己の生き方人生が徐々に(良くも悪くも)変わっていくのです。
だから思い思惑期待願望の「先付け」ではなくして、己が意識が原因からして成るようになった結果の「後付け」からして気付き、その気付いた意識が原因の必然ご縁からしてまた次の結果が出てくる、その繰り返しが続くわけです。
然るにそれを人間修行とも言えるのですが、しかし自らが選んで艱難辛苦の荒行や修行をするのは欲絡みの先付けになります。

また先付けであれ後付けであれ、その過程の中に「完全真理」の深い理解とその「自己縮小」の実践&意識があれば、自ずと先行きが明るく見えてくるはずです。

此れまで欲張ってきただけに、その欲張らない実践が無ければ、此れまで生きてきたことが無駄になります。

2014年11月26日 | Weblog
人間は生まれながらにして欲を持っています。

そしてその欲が叶わなければ、幼子であれば駄々をこねます。
そして駄々をこねても望みが叶わなければ手に持っていたものを辺りかまわずに投げつけたりそこら辺りを引っ掻き回したりして暴力的になります。
然るにそれが欲が原因の「破壊意識」(自己破壊&他者破壊)です。

また欲が原因からして幼子同士がおもちゃなどを奪い合うことがありますが、それが暴力的&喧嘩沙汰&破壊行為になれば、それが「破壊意識」に至ったことになります。

ちなみに自分のことが気に入らなくなると、その自分をいじめる行為&過食絶食や引きこもりや家庭内暴力や自傷行為&リストカットや自殺願望になったりするのは自己破壊意識です。

また何か気に入らないことで感情的になると衝動的にテーブルや壁を激しく叩いたり周りにある物を無茶苦茶にしたがるのも破壊意識です。

然るにやけくそになったり衝動的になって物をぶっ壊したくなるその破壊意識になって自殺&他殺行為をしたり無差別殺傷事件やまたテロ行為&自爆テロや爆弾を投げつけたり核兵器を投下するのも破壊意識に至ったのが原因です。

その破壊意識の原因が良い悪いで判断してその良いとこ取りをしたがるその欲や自分に都合が悪いことを排除したがるその欲にあります。

然るに良い悪いで判断したがるのは己に欲があるからです。

然るに欲が無ければ駄々をこね合うことも奪い合うことも比較競争することもプライドを持つことも、然るに私が正しいと主張堅持することも守り戦うことも束縛制限支配したり否定反発排除したがることにはなりません。

然るに完全真理が説くところの善悪優劣損得で判断することも必要なくなります。

しかしながら人様の心意識だけは(神様と言えども)どうすることもできません。
然るにほっとくしかありません。

それなのに何とかしたがるのは無理で余計なことで結果的には無駄になるだけです。
然るにそれでも神仏霊魂や超能力や霊力を信じて祈願したり期待したりして「何とかしたがる」&「少しでも良くなりたいと思う」のも欲です。

然るに欲があるかぎり自由平等平和&調和の世界にはなりません。

しかし己の欲を無くすることで己の中に安らかな心意識&自由平等調和が訪れます。

ところが生まれながらにして持つ欲だけは(神様と言えどう)どうしようもありません。

然るに欲が出てもそこで執着して欲張らなければその欲も消えていきます。
然るにその欲張らない自己縮小をすることしか他に人間として「生きていく道」はありません。

そして実際に自己縮小が進んでいけば過去の欲張っていた自己拡大が色あせてどうでもいいことになり、然るに二度と自己拡大の道に戻ることはならないでしょう。

然るに(この世は表裏一体だけに)此れまで欲張ってきたからには、その反対に欲張らない生き方実践が無ければ片手落ち&一方通行で終わり(無駄に終わり)、この世人間関係の矛盾&不完全さに心から納得できずに終わります。

然るにその納得できなかった中途半端な(未練・後悔&拘り・執着を持った)ままの意識で人間の命を終えますから、その意識命&霊魂は再び人間に生まれ変わる(精神修行のやり直し)その繰り返しが(過去性・前世を引き継ぐことが)これまで何度も続いてきたようです。

誰もが真摯に書けなかった「欲張らない」実践真理を真面目・素直・本気でその事実を書いています。

2014年11月24日 | Weblog
私たちが良い悪いで判断するその矛盾意識&不完全意識からして、その良いと悪いの矛盾、然るにその自己満足と不平不満の苦楽&喜怒哀楽&裏表でもって生きていますから、その山あり谷ありの矛盾のあるその(波風に揺れ動く)生き方からして、誰も本心から完全に納得できないままにこの世&人間を終えています。

然るにその良い悪いで判断しない自己縮小の実践のためにも、然るに自分に都合が良い、その「良いとこ取り」をしたがる欲が出ても、(それに執着しないで)そこで頑張らない、見栄を張らない、然るに欲張らないことの(誰もが書こうとしなかった)(未熟で書けなかった)欲尽くしを、自らの心意識に問いかけながら(自問自答)真面目・素直・本気・実感でもって、その事実&裏表を根堀り葉堀り書いています。

ちなみに自分さえ良ければの欲を持っているからには(原因と結果は同じですから)然るに何を成してもその欲がらみの矛盾する結果しか出てきません。

然るに偽善&矛盾の生き方になっているのです。

ちなみに「信じる」裏には不信感が隠れています。
だから思い通りにならなくなると、信じていたのに裏切られたと悔しがったり歎くことにもなります。

ちなみに「信じたがる」のも、信じて何か得をしたい、信じたことで自分の立場が良くなりたい、そんな思惑期待の欲が絡んでのことなのです。
然るに信じて頼る信頼は欲がらみの他力依存&期待願望になります。
然るにその結果次第で飴と鞭&ご褒美と罰&天子とサタンの使い分けのその矛盾&偽善を行使することにもなっています。

ところでその不信感が無ければ(裏の無い完全ですから)当然ながらその信じる必要性が皆無になります。
然るに裏の無い完全真理を実践する中に信じる&信頼する言葉が出てくるはずもありませんが、それを口に出せばそれは嘘偽りの偽善者同然になります。

また義理人情&恩儀やまた優しさ思いやりの愛情にも不完全意識の矛盾する裏心が隠れていますから、その裏がいつしか出ればその人間関係の裏切りが表面化してその相手をののしったり悔しがったりもします。
またその義理人情や恩義や人間関係の絆や愛情によって自縛&束縛制限されている事実もあります。

ちなみに優しさ思いやりを出しながらもその見返りを欲しがる裏心もあります。
然るにその親切を施すときもあれば我先に欲張って競争&奪い合ったりもします。
また善行&善なる心を見せながらも、そんな善なる自分を見せたがる欲&世間に目立ちたがる欲も隠れています。
また人の愛情が欲しくて(理想目的・見返り期待願望の欲得からして)その愛情を出している場合もあります。
また自分を守りたいその欲からして敵対するものと戦うことになる、その守り戦うと言う矛盾意識を持っています。


なにはともあれ、欲張るところに自由はありません。
然るに自由が無ければ平等もありません。

と言うように完全真理をマスターすると自他共に「どうしようもない」その人間関係やこの世の矛盾&偽善、天使とサタン&善と悪の裏表の心意識を持っていることに(真面目・素直・真剣・本気であれば)気付きます。
そして我ながらも(恥ずかしくて)(そんな己の心を隠したくて)穴があったらそこに隠れていたいような心持にもなります。

然るに私が過疎地で独り暮らしをしているのも、そんな(偽善の)自分を出したくなくて、また私と同じそんな(偽善の)人たちの表現や行動を見たくなくて、然るに人里離れた山の中でひっそりと隠れていたいのかもしれません。

とにかく矛盾意識が原因からして誰もが苦と楽の差の中で生きていますから、そこで少しでも楽しく過ごしたいがために何かと頑張り見栄張り欲張り無理もするし余計なこともしますが、結局はその苦楽を味わうだけで無駄に終わります。

ところで欲張ることをやめたらどうでしょう
然るに私は欲張る自己拡大を卒業して現在は欲張らない自己縮小の生き方になっています。
然るにこのブログに根堀り葉堀り書いているその欲尽くしの文書は私自身の生き方でもあります。

然るに食って寝て糞をするだけのような単純な生活の中にも此れまで味わったことが無いような新たな感覚感触&実感を十分に味わうことができています。

ただ此れまで事あるごとに私の道先案内人が仕組まれて何人かが居てくれたものの、そこで私と共に行動すること(同行人)になっていたのに(言うはやすし行いがたしからして)途中で立ち止まったり挫折していることが残念なのです。

然るに皆さんは此れからどうなることでしょうか・・・





矛盾する不完全意識を自覚し、己の心意識に素直に問いかけ、正直に向かい合い見つめ直しています。

2014年11月22日 | Weblog
この世に人間として生まれたからには、誰しも(釈迦やイエスの類でも)良い悪いで判断して、その良いとこ取りをしたがり、また悪いところを否定反発したり排除したがるところがあります。

然るにその良いとこ取りの意識からして不平不満になり、またその執着心からして苛立ち怒りになったり、また不安心配にもなったりして、そこで守り戦うことにもなるし、然るにそれらが思うようにならなければ更にその仕返し報復あだ討ち意識になったり、また衝動的にぶっ壊したくなる破壊意識にも至ります。

そしてその不平不満の苦悩と、また自分の思いが叶って自己満足する、その苦楽&喜怒哀楽で生きているのも、その良い悪いで判断する矛盾意識からしてそれが当たり前に思われています。

また良いとこ取りをしたがる欲からして人が集まっていますから、然るにこの世人間界に自由平等平和の調和がありません。

また見栄や世間体のプライドを守りたがることからして、そこで私は正しいとばかりに自己主張したり堅持することにもなって、然るにそれが身近な人や世間やまた国家国際間を騒がせることにもなっています。

そこでそれら諸々の原因となる良い悪いで判断することをやめればこの世に何の問題もなくなるのですが、そう簡単に問屋が卸してくれません。

然るに神仏霊魂の宗教や超能力や霊力などの他力依存&思惑期待や祈願願望から脱却し、また此れまでの自己拡大をやめて欲張らない自己縮小の実践となるのですが、それも己一人の孤独と自由からして独自独歩で自己縮小に進んでいくしか他に道はありません。

然るにこのブログを深く理解した人たちなら、それら事実(原因と結果)を自覚認識できていることと思われます。

しかしそれでも不平不満と自己満足も出てくることからして諸々の苦楽を味わっていることでしょう。

然るに飴と鞭の使い分けからして夫や妻や我が子や人様を思うようにしたがることもあるでしょう、
また見栄や世間体やプライドからして私が正しいとばかりに主張堅持することもあるでしょう、

然るに自然体で接することも、そのまま・このまま・あるがままにしておくことも無理なことでしょう、
然るに宇宙&神&愛の仕組みに委ねることも、その必然ご縁の仕組みに任すことも、然るに成り行き任せにほっとくことも出来ないでしょう、

然るにそれが人間関係&しがらみであり、それを義理人情や絆とも言われたり、また優しさ思いやりの愛情とも言われます。
しかしその裏に自分さえ良ければの欲が絡んでいる事実に気付いているでしょうか、

然るに人の為世の為と言いながらも(釈迦やイエスと言えども)先ずは自分さえ良ければの偽善で動いている事実に気付いているでしょうか、

だから誰もがこの世人間関係に不信感を持っているし、自分に都合が悪くなればその関係を断ち切る裏切り関係があるのです。

然るにそれらの事実を自他共に百も承知している私ですから、然るに不完全意識のこの世人間関係のしがらみや皆して赤信号を渡る意識集団&他力依存から離れた、自力と自信からしての独自独歩の生き方に十分納得しているのです。

然るにその生き様からして欲張ることも減り続け、然るに良い悪いで判断する必要性もないほどに自己縮小した、その楽チン省エネの生き様に慣れ親しんでいるのです。

(何度も書いていることですが、長く続いた不具合なPCを買い換えたので試しに書き込んでみました)