孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「気楽に生きる」その実践が無理になる原因は常識離れ&世間離れしていることにあります。

2013年05月03日 | Weblog
皆さんにお尋ねしますが精神世界を学び知りそれを実践すれば「気楽」に生きていけますとなれば、何やら品位に欠ける精神世界に思いませんか、また何やらありがたさが無い様だし、また人様に勧めるにも格落ちしているようだし、だから自慢出来そうもないし、

それが世のため人のため&世直し人救いとなればカッコ付くし、
家族の幸せのためにとかその幸せ探しの精神世界ならやる気にもなれるし、
また布教活動とか寄付集めや奉仕活動なら自分のためではなくして人様のためになることを自らが率先しているのだからカッコいいし、
また皆して神仏に祈りを奉げたり賛美歌を歌ったりお経を唱えたりしていれば仲間と一緒だけに何やら楽しく一生懸命やれそうだし、
また偉大なる神様教祖様やお偉い先生方と一緒にいれば尚更にカッコいいし、

なのに何で安っぽい言葉の気楽を持ち出すのでしょうか、ちなみに自然体で生きるとか、あるがままに生きるとか、自己縮小とかの言葉のほうが聞こえがよくて何やらオーラを感じるのに、なのに成り行き任せだの食って寝て糞をするとか呑気気楽に生きるとなれば、その真理事実を知らなければオーラどころか闇夜のカラスにも思われます。

しかも同じ仲間がいなくても(独自独歩で)実践できるなんて何か安っぽくありませんか、
せめて何人かが集って結果報告し合ったり互いが励ましあったりする形でもあればやり甲斐も有るしそのやる気にもなれるが、
何やら当たり前すぎてカッコが付きません、また言葉からして何やら後ろめたさも感じそうだし、そんなことで本当に大丈夫なのでしょうか、そう思いません。

それも無理ありません、
何たって楽に生きたい本心があっても(世間の人格形成の評価からして)人前では頑張り努力している形・カッコ良くして居たがるそのプライドが邪魔をしているから(楽チンな生き方を長く味わっていないから)無理もありません。

ところが更に困った問題が必ず出てきます。
何たって楽チンに生きる実践を身近な人に言えば「何て馬鹿な事を言うのよ」と必ず否定反発されます。
そして働ける内に精出し貯蓄準備していなければ先々の有事や老後で困る事になるからと真剣になって諭されます。

ちなみに仏門に下ることや信仰宗教に入信することに反対されるのとはまた筋道が違いますから、同じ精神世界の実践であっても、そんな馬鹿をいうのも程々にしてと(見下されて)相手にもしてくれないでしょう。

その楽に生きることを否定反発する人のその精神世界は何のため誰のために説かれていると思っているのでしょうか(少し気になりますね)
ちなみに精神世界を説く人の飯の種や勢力拡大のためにとは思っていないはずです。

しかしながら大切な人を守るためでもありません。

やはり己が如何にして生きるかを精神世界で学び知りその実践でもって実際に味わい知ることにあります。
だったら言葉ではなくして中味にあります。
ゆえに楽に生きる言葉の中味に私は自信ありです。

だから不完全な矛盾する意識を持った人間同士の中でその苦楽&喜怒哀楽&自己満足と不平不満の繰り返しを味わうことをいい加減にやめにして、
せめても(不完全意識ながらも)気楽に生き長らえながら真実の精神世界の学びを自分のものにする、その実践生活&生き方&生き様をここに書いています。

また気楽に生きると言う単純なことだけに精神世界&真理を深く理解していなくても「やれば」出来ます。
ところが実践を躊躇することからしてその精神世界&真理を深く知るその必要性が出てくるだけのことです。

ちなみに私は精神世界&真理を知る以前からして気楽に生きる道筋が仕組まれたことからして(暇で退屈なほどの余裕からして)思えば、こうしてブログを書くことが時間つぶしになって都合がいいし、また文書つくりが似合っていることからしても私の役割に思えているのです。

だから此れよりもお上品でカッコよくて人間関係も良好で誰にでも自慢できるような私の知らない精神世界の教えが有るならば、それを教えてくださいとも書いています。