矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

今に止まることなく更に多くのことを学び知るためにも「完全真理」が必ず役に立ちます。

2009年11月30日 | Weblog
このブログに来られた方は「必然」のお仕組みご縁で来られたわけですから・・・
何編かを読まれて否定反発がなければ・・・必然・きっかけ・チャンスになって・・・今より先に進むことが出来かもしれません。

と言うのも・・・薬効成分も無いのに治癒効果が出る機能性健康食品をやっていた頃の私が・・・この道(真理)に入ったきっかけが・・・3行ほどの摩訶不思議な宇宙エネルギーの情報掲示に関心を持ったことから始まったからです。

すなわち・・・健康・環境・医療関係→機能性健康食品→宇宙エネルギー→摩訶不思議な「水の世界」→想念・霊魂の世界→ そして今の過疎地・年金暮らしと、有史以来最初で最後となる「完全真理」に巡り合えたのです。
その間にも・・・西洋東洋の宗教関係者、占い・四柱推命・風水・気孔・念力・手かざしの方、その分野・研究に長けた人などが自分を売り込む目的意識で来訪してきたり、ご縁が続いているうちは長距離・長電話も先方から頂だい致しました。

そこで・・・「はっきり」言えることは・・・今までの歩みのなかで(新たなことに乗り換える毎に)・・・その方向性を間違えることやその内のどこかで立ち止まることも無く、きわめて順調に、定められたような一本道を歩んで来た事実・結果から言うと・・・あまり「欲」を出さなかったことが幸いしたと言えます。

つまり・・・田舎暮らし&完全真理の前までは・・・ビデオ制作の片手間にそれら製品販売を在宅副業・ビジネス絡みで取り組んでいたことから・・・もし世間体や見栄を選んだり生活性や収益性の方を重視して選んでいれば・・・田舎暮らしも完全真理にも巡りあっていなかったのは明らかです。

「欲」は人間の意識ですから・・・意識して欲を出せば・・・その欲の意識のほうに引っ張られるのは当然なのです。
だから・・・意識している方向に・・・成るようになって行くのですが・・・運命とはまた違ってきます。

今の田舎暮らしを始める前・・・ヒットを確信して先取り意識で始めたビデオ制作の場合も・・・ただ好きでやっているだけで営業活動さえしていなかったのに、大口の顧客が事ある毎に先方から訪ねて来られたり、それに対応すべき必要な人材が好きで集まってきたことから、いつの間にやら事業として成り立ち、そして無理なく成長してきたお陰があったことから・・・ それで十分納得・堪能・満足していましたから・・・ビデオの最盛期が到来していたのにそれ以上は深追いすることをやめて・・・あとは流れに任せていましたから・・・
・・・副業から始まった必然・お仕組み・ご縁の流れに乗って・・・いつの間にやら今の田舎暮らしが始まり、そして年金で暮らす覚悟があったことから・・・本業・副業共に未練も執着もないままに惜しげもなく撤退できたのです。

しかしここで「欲」を完全否定しているのではありません、人間として生きるための欲は必要なのです。
ただ欲に執着するとその欲に走った自分が困ったことになるだけです。
だから・・・程よい欲、自分に似合った無理の無い欲であれば混乱・問題は起きません。

その・・・自分に必然・必要な欲なのか過ぎた欲なのかを見極めるには・・・必然・お仕組み・ご縁に恵まれ「与え」られたものか、それとも強い意志で捜し求めたり願いを託していたものかの度合いと・・・そして得たものが必要なくなれば惜しみなく「捨て」られるか否かにあると思います・・・すなわち執着するか否かにあります。

だから・・・(都合が良くても悪くても)・・・来るものは拒まず、去るものは追わずの自然体が丁度いいのです。
そして・・・自分に都合が良い「良いとこ取り」ばかりしていると、その反対の悪いことが溜まったそのツケ(負)が必ず出てきます。
それが「有事」に(本人や家族らに)巻き込まれることになるのですが・・・それが事故・怪我・万病・自殺・事件・災害被害・損害・リストラ・倒産・破産・・・そしてその「老後の生き様」や「死に様」が<己の意識>で自ずと決ってきます。
・・・神仏が決めたことでも運命でもありません、己の意識が原因で起きた結果が出るだけです。

だから・・・己の意識が原因・きっかけで起こる何らかの有事は・・・イエローカード・注意信号と気付き・・・取り返しの付かないレッドカードにならないように・・・あまり欲張らずに生き長らえて、波風の立たない穏やかな老後と肉体の死が来れば・・・「終わり良ければすべて良し」で成仏できて、その安らかな意識のままに命の元の出所である意識次元・あの世に帰る事になります。

「付記」 過去の歩み・・・健康・医療・環境の改善製品、多機能性健康食品、宇宙エネルギー&水、想念・霊魂の世界、そして完全真理と歩んできましたが・・・その全ての道のり・学びにまったく無駄が無くて・・・今の完全真理にすべてがつながっているのが驚きです。

例えば・・・何の薬効成分も無いのに副作用も無く治癒する事例が「ファバラ」と同じですし、宇宙エネルギーの「水」による実際に起きた薬効効果やエコ・省エネ・環境改善になるのも「ファバラ」と同じというように・・・「ファバラ」が以前の多機能性健康食品や宇宙エネルギーとつながり、そして想念・霊魂の修正となる学びが完全真理の意識・命となりその意識改革につながり、すべてに感謝するが完全な愛のお互い様やお陰様につながり、そして地球の夜明け(維新)に向けて宇宙の光が増していることや・・・またその他の学問的学びや摩訶不思議な体験経験も含めて・・・すべてがひとつの完全真理につながっているのです。

そして完全真理で新たに学び知ったのが・・・(旧)「正しい」を守るために闘うことになる正義感を持たないが→(新)「良い悪い」を持たない「完全真理」になり、そして(旧)地球維新(夜明け)が→(新)<終>と新たな<始>の「宇宙維新」に変わったことです。

そして「その時」「即身成仏」「除夜の鐘が鳴る」に至るのが(新旧共に)2012年でしたが・・・私達の意識改革が想像以上に遅れているために20~30年延長されたようですが・・・もう既に進行拡大している「(新)あらゆる真坂の有事(身近な有事から最終の核爆発)」「(旧)水による洗礼(干ばつ洪水そして水没)」・・・を回避することはできませんから、この世での即身成仏・意識改革はどうやら無理なようですから・・・有事によって人間の肉体(3次元)を終えることに動揺混乱も無く(終わり良ければすべて善しの)ありがたい感謝の心になっていれば8次元意識・命として新たに始まるようです。

だから・・・それら多くのことを学び知るためにも・・・「ひとつ」につながっている「完全真理」が必ず役に立つのです。
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実質的な被害損害が起きないはずの<不信感>から、己を守ろうとする矛盾を持っています。

2009年11月24日 | Weblog
人間である以上は「不信感」は誰もが皆持っています。
そしてその不信感が強く出たときは「不信」になります。
その不信の中には神も愛もありませんから、生きている格好をしただけの人間になります。

まだ結果が出る段階でもないのに、自分を守るために前もって心配・用心することから不信感は出てきます。
その不信感を判りやすくする為に・・・仮に「損得」で説明すると・・・
不信感だけでは・・・頭の中の思いですから・・・実質的な損も得もありません。

だから・・・実質の被害損害が起きた事と不信感とは別物になります。
すなわち・・・実質の被害損害が起きた原因にあるのは(不信感に関係ないところの)何らかの思惑(目的・理想)や欲得・誘惑が絡んでいたからです。
例えば・・・騙されるかもしれないと不信に思っていたのなら騙されることは回避できたはずですが、それが回避できなかったことは欲得・欲望・誘惑に惑わされたからです。

その不信感を持つことは・・・実質的な損得は無いのに・・・どうでいいことなのに・・・それでも不信感を表し示すのは、自分を守りたがる守り意識にあり、それが病気や死の不安心配をする思いであったり、自分の誇り・プライドを守るためにしていることであって、自分では判断できない偽もの偽造を心配したり、嘘の話を信じて騙される心配をしたり、自分が知らなかったことを信じてたりして、それで実質的な被害にあったりしないか、または惨めな思いや恥をかく(損をする)ことにならないかと、前もって心配しているのです。

その自分を守る意識が原因となって不信と闘うようにもなり、それが強いほど否定反発してまで自己主張をします。
すなわち・・・守るために闘うという「裏表」を同時に持つ矛盾があります。

しかも現実には欲から出た損得勘定がありますから・・・その得をしたつもりだったのが後で損な事(損害)になったり、その逆も起こったりしていることから、いつも損得・矛盾が入り混じって安定していませんから・・・とうぜん自分の自信を示すことで相反する逆の結果が出ることもあることから、その心配もしているのです。
すなわち(根本的に)自分に自信が無くて、その自信が無いことからどうしても自他共に疑うことにもなるのです。

その自分を守る用心深さが不信感になり、その判断に迷い混乱したりして、事を成すことを躊躇することにもなり、自らが窮屈な思いで生きることになり・・・私には自由が無いと思うことにもなっています。
・・・すなわち自分を守る意識が自らの自由を束縛制限しているのです・・・

それでは・・・物品の実質的な「損得」になると・・・ 欲が絡むと必ず損得勘定が出てきます。
それが・・・自分が得をしたいと思ったことが原因となってその損得の結果が出てくることから言えば・・・神仏や誰か他の責任結果というよりも、良かれ悪しかれ自らの欲から出た自己結果にしか過ぎません。

すなわち・・・欲が原因となっていますから、その欲さえ無ければ損得の結果は出てきません。

そして・・・確かに信じていても「損得」は起こり得ます。
その場合は・・・思惑・期待の欲から信じていたからです。
だから・・・信じて「得」をした、信じて「損」をしたと言います。
それが欲も無いのに(望み求めていなかったのに)・・・利を得る結果が出れば・・・ありがたいやお陰様でと言います。
すなわち・・・ありがたいやお陰様が出ていない昨今の事情は・・・見返り期待の思惑・私欲を持って事を運んでいるからです。

だから・・・信じていることに欲が無ければ「損得」はありません、だから結果を気にしません。
それが結果が気になるのであれば・・・はじめから欲得で信じていた事になります。

ところで・・・信じるか否かの時に(損得の有無に関係なく)・・・
(私の場合ですが)自分の思いで否定してそれを決め込んだり、自分の知っている常識・知識で決め付けるのではなくて・・・肯定的に「そうかもしれない」と思うことからそれが意識に残り、それが大事に思えることであれば更にそれを確かめ知りたいという意識を持つ事になります・・・ そして否定反発していない限り・・・判断できる答えを無理に捜し求めなくても(向こうからやって来る)必然・お仕組み・ご縁によって「気付き」が起こります。

その「気付き」で判断することになれば大した間違いにはなりませんが・・・しかし捜し求めたりする「私欲」から必然・結果が起きれば、当然ながらその道に誘われ入り込み(欲があっただけに)執着するようになって・・・なかなか抜け出せなくなることもあります。
すなわち、欲が強ければ執着するようにもなり・・・その欲の方向にも気付きが起きて横道にどんどん入る事になるが、「そうかもしれない」と思っているのは欲が前面に出ていないことから、何か事ある毎に気付き・必然が起きて何とか道をはずさずに進むことができます。
それが結果的には(幾多の過去を振り返れば)・・・大した欲を持っていなかったことで何かと助かることがあったり、気付けばいつの間にやら必然・ご縁で授かり与えられていたことも数々ありました。

すなわち・・・(得をしたいと思ってやったことで逆に損をすることがあっても)・・・そんなに得をしたいとは思っていなかったのに、また自分に出来ることをやりたいようにやっていただけなのに・・・後を振り返れば結果的には・・・人間にもっとも「大切な」もの、すなわち完全真理やファバラを得ている立場になっていたのです。
・・・だから無理な欲を持たなくても・・・その人の役割個性を果たすのに必要な「必然」お仕組み・ご縁に恵まれ、そしてその人に見合っただけの必要なものが(金銭を含めて)・・・ (自然体で待ってさえいれば)その人にもっとも似合った形のものとなって与えられ続けることから・・・そんなに無理することもなく気楽に楽しく生きていけるようになるのです。

すなわち・・・意識していることに「必然」お仕組み・ご縁が起きて・・・(それを大切に意識していることで)更に成るようになって・・・いつの間にやら、自分で納得できる「お似合い」の形で生きることにもなるのです・・・
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完全真理は・・・信じるか否かの問題では無くて・・・完全な「答え」なのです。

2009年11月20日 | Weblog
完全真理は・・・信じるか否かの問題では無くて・・・完全な「答え」なのです。

例えば数字の「0」は「0」です。だから完全です。
ところがその「0」を評価判断して差を付け特別に思えば・・・「0」を「1」にすることも「-1」に思うことが出来ます。
すなわち「0」が事実・実在なのに・・・その「0」が優れているから「1」に思い、劣ると思えば「-1」にも思えることから、おなじ「0」であっても、その優れた「0」を取って「1」に見せ掛けたがる、その不完全な意識を持ったのが今の人間なのです。

「0」は「0」なのに(0の価値なのに)・・・その「0」を価値観(自分の思い)で「1」にしたり「-1」にしたりして「0」を特別に思いたがっているのです。
その価値観の良い悪い(善悪・優劣・損得)で比較評価判断して差を付けて・・・いかにも差があるように特別に「思う」ことなのです。
すなわち・・・価値観・差別意識・特別意識の「思い・想像」するその不完全意識の<非実在>で生きている人間になっているのです。

すなわち・・・調和の実在で生きていないことから・・・良い悪いで判断して様々な問題を引き起こし、その完全な答えが出ない難問を抱え込んで「さ迷って」いることから、その解決策として多数派と少数派の妥協で生きることになったり、否定反発する仲間を集めてはその力を示す主義主張・思想哲学・宗教を持つ事にもなっているのです。
そしてそれらを自己主張と自己満足することで生き甲斐を見出しているのです。

この完全真理は完全だから結果・答えが出ています。
だから信じるのか!信じないのか?の問い掛けにはなっていません。
ただ理解さえすれば答え結果が出ているのですから、決して迷い混乱することはありません。

そして、ここへ来られた方は関心があったからこその必然・お仕組み・ご縁ですが・・・それで理解したいのか?、それとも否定反発したいのか?、それとも理解できないのか?、に分かれます。

そして・・・完全なだけにそれを否定反発するには無理がありますから、その解釈をねじ曲げてゆがめ、しかもそれを言い訳正当化しなければなりませんが、そうすれば必ず矛盾や妥協が入っていますから・・・否定反発した内容が完全では無くなり、否定反発したことが不完全になります。

だから完全真理は既存の信仰宗教のように信じなさい、祈願しなさい、と言う言葉は出てきません。
ただ・・・理解しなさい、それを実践しなさい、そうすればもっと理解が進みますよ・・・とだけ言われています。

ただ・・・調和の「0」、良い悪いの無い「0」・・・すなわち地球人類が完全に成るべくすでに宇宙が動いているとか・・・ 完全な宇宙の完全な意識エネルギーから創造された「ファバラ」製品が完全意識に成るのに役立っていると言うことになると・・・ 完全真理の理解が不足している人には「信じる」か「否か」の選択になり、そこで一旦止まることにもなります。

その選択の中で今は「ファバラ」を否定していても、この先に完全真理の理解が進めば納得理解できて愛用する事にもなります。
また「信じ」ている人は・・・他力的にやや結果が出ることを思惑期待していますが・・・
完全真理を理解して確信している人は・・・ファバラ製品の効果・結果が出ることからファバラを「信じている」のではなくて・・・ その元となる宇宙に実在する全知全能の「意識エネルギー」の実在を既に理解・納得できているのです。

すなわち・・・宇宙万物すべてが「意識」であり、その意識によって宇宙万物が「ひとつ」につながって連動していること、その意識にこそ力・エネルギー(命の力・愛の力)があることを知っているのです。

とは言っても・・・見えない世界のことだけに完全に知ることは出来ませんから、自分の理解を超えたことは「信じる」しかありません。
そこで・・・確信をもって信じている人や、ただ丸呑み鵜呑みで信じている人も・・・信じていれば・・・完全に成るべく宇宙が動いているのだから・・・またこの世に「完全な真理とファバラ」が出ているのだから・・・その完全は「完全」に成るべきものですから・・・ 大船に乗ったつもりで安心していても大丈夫なのです。

その理解を超えたことを「信じる」ということになると・・・不信感の強い人は(話を聞いただけでも)カルトだの洗脳だインチキだのということにもなりますが・・・先ほどのように完全真理は完全な結果・答えが出ていますから・・・その真実・事実を知る限りにおいては・・・たとえ不完全な(生命力という言葉さえない)現代医科学からカルトや洗脳やインチキ呼ばわりされても、また薬事法に反したと騒がれたとしても、いっさい動じることにはなりません。
・・・それほどまでに完全真理は「完全」なのです・・・

だからこそ「完全真理」を知り学び理解する事が<先>になければ・・・(所々で)信じるか否かが立ちはだかってそこで止まったり、様々な雑音に惑わされたりして、自らが不信感を持ったことから離れていく事になり、すべてを知り理解することが難しくなります。

だから・・・完全真理が完全であることを先に理解できさえすれば・・・鬼に金棒の自信・自力になって不動のものとなるでしょう・・・
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守り闘わない「調和」があれば、被害が被害ではなく、病気が病気ではなく、死が死ではなくなります。

2009年11月17日 | Weblog
「調和」とは・・・良いも悪くも無い丁度いい加減の状態を言いますが・・・それが「愛」でもあります。
「妥協」は・・・良いと思う人と悪いと思う人が寄り集まって妥協策を講じている結果ですから必ずしも「安定」していません。
だから・・・今まで良かったことが悪いことになったり、その反対のことも起こっているわけですが・・・それが愛ではなかったからです。
そして「否定・反発」することは妥協も調和もありませんから・・・愛から離れていき孤立します。

「調和」の愛には<特別>がありませんが、妥協や否定反発には「守る」べき特別なことがあります。
それを「守る」ということは外部に敵がいなければ成立しません。
その敵に当たるのが・・・自分以外の他のものですから・・・絶対に「調和」することはありません。
・・・すなわち愛の無い状態で生きていることになります。

だから調和が無いから・・・良いことも悪いことも繰り返し続きます。
だから・・・喜怒哀楽・生老病死を気にして良かったり悪かったりしますから・・・その良いとこ取りするために常に闘っています。

だから・・・特別な人も否定反発する人も妥協する人も・・・心が安らぐ暇もありません。
せいぜい・・・良い思いをしたことを・・・満足したと思い込む自己満足やそれを自己主張するくらいで手一杯な人生になります。

調和のある人は・・・良い悪いの判断が無いから何事の結果にも動じません・・・「あるがまま」です。
雨が降ろうが矢が降ろうが、雨不足の干ばつや大雨の洪水が起きても動じません。
病気になろうが死に掛けていようが、いま生きていることにお陰様の感謝やお互い様の心・意識でもって、いま生きていることを活かしているからです。

そのお陰様とお互い様があるから人を責めたり、そして不平不満に成ることもありませんから、いつも平常心でいられます。
その平常心でいるから守り闘いません、守り闘わなければ敵は存在できなくなり、愛が出てきます。
すなわち・・・被害が被害ではなくなり(お互い様になり)。 病気が病気ではなくなり(薬剤に頼らないで自力・治癒力・生命力・意識エネルギーの愛のお陰様で回復することになり)。 とうぜん病気と闘わなければ死とも闘わないことから(死の不安や恐怖がなくなり)肉体の死が・・・すべての死・・・ではなくなるのです。

その死が死ではなくなれば・・・新たに生まれるしかありません。
だから「0」で終わるのではなくて「0」から新たに始まり10にも100にもなっていけるのです。

しかし「0」になることを恐れていると・・・せいぜい「9」まで止まりで10や100には成れません。
だから衣食住や財や名誉名声・権威権力を失い無くなることを恐れ、死や病気を恐れることにもなっています。
すなわち・・・失い無くなっていくことを不平不満・不安心配に思い、そうなる事に「恐れ」を持って生きていることになるのです。

しかし・・・「恐れ」を持っていれば「生きた」心地がしません。
そこで好きな嗜好趣味娯楽に興じることや夢や希望を持っていなければ生きてはいけません。
ところが・・・それら手にすることに意識がいけば今の不安・恐れから逃避は出来ますが・・・(良い悪いで判断している限り)以前に増してそれ以上の不平不満や不安心配や苛立ち恐れを抱え持つようになります。
だからまたそれ以上のこと(強い刺激)を捜し求めて生きることを繰り返すことにもなっています。

・・・すなわち・・・生きてはいるが・・・生きた心地がしていないので・・・死んだも同然の状態になるのです。
その内に・・・それら困難なことに取り組んでいることが生き甲斐になって(生きていると思える証になって)(我が身を苦しめることで生きていることを確認したがることになって)・・・理想や夢に向かって鍛錬試練に耐えることや波乱万丈の人生を歩むことを選んで、その成功を自慢したがるか、失敗を卑下したがるかの・・・その両極端な(良かったことや悪かったことの)生き様を人に見せつけようと自己主張することにもなっています。

しかし・・・それらの原因を見ずにして結果だけを見て・・・そんな人を憧れ羨ましがったり、真似したがったり、反対に妬み逆恨みすることになったり・・・
また・・・蔑んだり、気の毒に思ったり・・・また救い助けてあげたくなったりしていますが・・・そう思う自らが「良い悪い」で判断していることに気付かないかぎり(調和にならずに)・・・あらゆる努力が自分の為でも人の為でもなくなり・・・ただ浪費と混乱が続くだけになります。

それを例えれば・・・ニュース報道で熱心に救済援助奉仕貢献・金集め人集めに関わっている人や、娯楽番組で波乱万丈の人生を紹介したり、学校を建てたりする取り組みを見ていると・・・それらの人の真剣な努力や生き生きとした表情を見たりしていると・・・そんな真似は到底ながら私には出来ないことだけに、頭が下がる思いもするし心打たれて涙も出てきますが・・・★じゃそれで此れから先はどうなっていくの?・・・となると・・・形は変わっても(一時しのぎの)矛盾や妥協のある此れまでと同じ繰り返しが見えてくることから・・・無駄に思えるのです。

すなわち・・・善意と言われる形で何千・何万・全ての人が救われ助かっても・・・ また全ての人の教育が同等になっても・・・ 良い悪いを持たない調和の意識になっていない限りにおいては・・・逆境から助かったことや知恵が付いたことがアダとなって・・・経済発展で更に自然破壊が進んだり、また増え続ける問題・不平不満を解消すべき反体制派になって世情を混乱させることになったり、以前に増して比較競争が激しくなりその勝者を目指すことで起こる貧困格差や、無いものを欲しがり奪う侵略・戦争にもなり、その被害者が仕返し制裁・報復テロをするような・・・これまでの繰り返しが形を変えて増え続けるだけです。

だから・・・やっぱり根本的な個々の意識改革が先になければとなり・・・今の私に出来ることとして・・・「完全真理」のことをブログに書き込んでいるのです。
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大昔の「ノアの箱舟」は事実なの、またマヤの2012年は「新たな始まり」なの

2009年11月15日 | Weblog
大昔の「ノアの箱舟」は事実なの・・・マヤの2012年は「新たな始まり」なの

元からある自然界は調和によって成り立っていますが、しかしそこに住む人間の人力で作られたものは自然界の調和を乱す道具になっていますから、人間界は自然界の調和を乱すために存在しているような格好になっています。

大昔ほど自然と調和していましたから・・・ありがたい自然とは・・・無理してまで闘いませんでした。
だからその自然界と仲良く暮らすことで人間が生き延びることを選んでいました。

★その代表的なものが「水」でした。
だから「水を制するものは天下を制する」と・・・言われているのです。
すなわち・・・人民や物質エネルギーを制しても・・・天下を制することは出来ないのです・・・
そして「水を制する」(調和する)ことが出来なかった人類文明文化はその「水」によって滅びるのです。

その「調和」を選ばずして・・・いつの間にやら・・・人間の知恵によって自然界と闘うことを選び続け、自然界の調和を乱しながら豊かになってきました。
またその知恵の進化で時代も同時進化してきたのです。

その知恵の元になったのが、自分に都合が悪いことを排除して、自分たちに都合が良い「良いとこ取り」することでした。
ところが良いとこ取りしても必ず悪いことも同じだけ出て来ますから、その悪いところを避ける技術も磨かなければ、その悪い事に飲み込まれてしまって人間が生きていけなくなります。
そうして延々と自然界と闘ってきたのが現在です。
だから時代が進化拡大した良いところと、その反対の悪いところも同時に進化拡大してきました。

その事に気付いていても・・・もう後戻りできない世情・民意・集合意識になっていますから、このままに進んでいくしかありません。
だから今もなお必死で守り、闘い、進化を続けようとしています。
しかし・・・良いとこ取りを続けている限り悪いことも起こり続けていますから・・・(もう限界を過ぎて終盤に近づいていますから)人力では太刀打ちできない出来事になります。

そして・・・宇宙・・・を見れば分かるように・・・「終わる」ことは新たに「始まる」ことにつながっていますから・・・そうやって宇宙も進化拡大している事実があるように・・・
また・・・別な例で言えば・・・数字の「0」が終わりではなくて始まりであるように・・・「0」が付くことで10や100と進化拡大します。

そうなんです・・・今の人間と言う「意識体」が人間の衣を脱いで・・・新たな宇宙の時を迎える「維新」の時が来ているのです。

そして・・・二度と同じことが繰り返されないためにも・・・良い悪いで判断する意識・衣を脱ぎ捨てた人(命・意識)を大勢集める仕分け作業が宇宙と一体になって成されているのも・・・いま現在なのです。

だから有史以来の「完全真理」が説かれているのです。
そして・・・それに気付き知ったものが寄せ集められ・・・その実践によって更に気付き知り納得理解・悟りとなることを・・・大元の宇宙・神・愛は・・・最後の最後まで「待って」いてくれているのです。
・・・大昔に言われているような「ノアの箱舟」と似たようなことが進行しているのです・・・
それが2012年でしたが・・・あまりにも意識が未熟すぎて・・・予定が延長されたようですが・・・その時が来てからでは祭りは終わっています。
これらのことが興味本位の嘘か、それが確かな事実なのかは・・・自分・自力で確かめるしか他に方法はありません。
また・・・信じている・・・だけでは・・・裏切られる可能性があります。
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完全な宇宙・神・愛・意識・命のことを知るチャンスは皆にある。

2009年11月13日 | Weblog
このブログで「完全真理」「神や愛」「意識」のことを様々に書いていますが・・・ 言葉のイメージとは違い、そんなに「肩苦しい」ものではありません・・・普通のことを書いているのです・・・すなわち・・・

この世に「特別」が無いこと・・・すなわち・・・この世に神がいるのなら・・・皆も「神」ですよ・・・と書いているだけです。
もしそれが・・・何かを神に思って何かを神では無いと思えば、それは個々の「思い」の中で分離判断・差別して、その差を特別に思っているだけになります。
だから・・・すべての中に「特別」は無く・・・有ると思う人の頭の中にだけあるものですよ・・・と書いているのです。

その「特別」にする<原因>にあるのが・・・良い悪い(善悪・優劣・損得)で分離判断・差別していることにあります。

じゃ・・・何で「良い悪い」で分離判断しているのでしょう・・・それは「自分だけが」良いとこ取りして悪いことを取らないために、自分が得をすることを取っても、損することは取りたくない、そして優劣で競い合って差を付けたがっているから、そのプライドと劣等感が交互に繰り返し出たりして・・・その結果が良かったり悪かったりすることから・・・「喜怒哀楽」や「生老病死」を気にする事になったり、結果を良く見せようとして見栄や世間体を気にしたりして・・・ 感情の浮き沈みや、自らが作った山や谷を良くも悪くも味わったりして、その坂や壁を乗り越えるために気苦労・修行することになるのです。

すなわち・・・良いところを取っても同時に悪いことも取っていることにまったく「気付」いていないのです。

その説明をするために・・・宇宙万物・すべては同じ「ひとつ」・・・だから宇宙・神に永遠の命・意識があるのなら、すべての万物にも同じものが無ければ「完全」とはいえなくなり、完全で無ければ当然不完全になることを説明して・・・ 
元々から完全にして実在する宇宙万物を不完全にしているのは個々の「個人の思い」・・・すなわち「個人意識」・・・すなわち良い悪いで「差」を付けて、自分がその「良いとこ取り」したがる・・・自分さえ良ければの個人意識・不完全意識が出ていること・・・その事実を書いているのです。

だから・・・此れまで特別に思っていた「神や愛」は特別ではないことも・・・書いているのです。
・・・それも神や愛を定義付けして肩苦しく書いているものではありません・・・
しかも此れまでのような思想哲学・宗教とは違いますから、当然神や愛もそれらの言う形とは違ってきます。

それだから(新たに出てきたことから)・・・此れまでの常識(神や愛を含めて)や伝統風習・道徳から教育・医科学や政治経済などの諸々の考えを(不完全を完全が)覆すことになり・・・不完全を完全にする「意識改革」の真理となるのです。
だからと言って無理に専門的に学問的に完全真理を知りたがらなくても、先ほど書いたように特別は無いと素直に受け止めれば自然に解決し理解できていくのです。

ただ・・・その完全真理に不信感や違和感を持った人や理解しづらい人に・・・それを解決することが出来る大量の文書説明が必要なだけです。

だから・・・「良い悪い」を持たなければ比較競争・差別・戦争が無くなることが理解できればそれで十分なのです。
そして・・・神仏・主導者・リーダー・学者先生・他力にそれを求めることではなくて(他力の真理ではなくて)・・・自らが実践していく真理であることを知ればそれでOKなのです。
 ・・・世の中の意識改革が先ではなくて、自らの意識改革のための真理なのです・・・

余計なことかもしれませんが・・・神だの愛だの真理だと言って取り組んでいるように見せ掛けている人は(私を含めて)・・・
知らず知らずのうちに「目的・理想」意識・・・すなわち「特別意識」になっていて・・・ 素直な実践意識のままに大元の原因を知り理解し続けることよりも「先に」 ・・・その「知った結果」を求め期待する思い思惑の不完全意識が強くなっていたり・・・ また真理を知っていることが(先読みできているから)特別な選民的意識に変わっているような人が多いような気がしています。

だから此れまでの・・・その道のベテラン「玄人」さんよりかは・・・はじめて知った素直な「素人」さんのほうが・・・自然体の必然によって上手く行くような気がしています。
すなわち学問的・宗教的な難しい「特別」なことではなくて・・・誰もが素直に理解できる<当たり前>のことだったのです。

その「当たり前」のことを難しくしているのが・・・此れまでの神仏崇拝観念・喜怒哀楽・生老病死や伝統風習・道徳などが常識的教育的に洗脳されて身に付いたことに(常識化・洗脳化されたことに)原因があるようです。

ちなみに・・・子供の頃から遊ぶことばかり熱心だった無学歴・無教養な私だけに・・・宗教的に学問的にも常識でさえも言われる神仏のことから愛の意味さえも気にしない無頓着・無関心だったのですが・・・それがいつの間にやら完全だ宇宙だ神だ愛だ意識だと言い出したぐらいですから・・・皆さんにも同じチャンスがあるということを付け加えておきます・・・

更に付け加えれば・・・神や愛は宇宙万物の持っている「力」すなわち「エネルギー」であり、「全知全能」と言われる「命」または「意識」と言われるものが持つエネルギー・・・すなわち山田耕栄さん著書{神は常温核融合}と言われるように・・・
すべての誰もが持つ<宇宙万物が持つ力>=<常温核融合が生み出すエネルギー>=<意識エネルギー>が入り混じりながら、その調和と破壊(光と闇)が繰り返されてきたのが・・・今の「この世」と解釈したほうが理解が進みやすいようです。

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神や愛は「特別」ではありません。

2009年11月09日 | Weblog
神や愛は特別ではありません。
宇宙・自然界・人間界を見渡しても・・・何処にも「特別」は見当たりません。
動物は動物であり、ライオンはライオンですから、ライオンは特別ではありません。
植物は植物であり、花は花でしかありません、特別な花は何処にも見当たりません。
だから神は神であり、愛は愛であり、何処にも特別はありません。

じゃ特別は何処にあるのでしょう・・・
それは・・・人の頭の中の「思い」の中にだけ実在できるのが特別なのです。
しかし・・・人の頭の中に実在するものを・・・他の人が実際に見ることは出来ません。
見えなければ・・・想像するしかありません。
すなわち・・・特別は・・・想像することでしか実在できないのです・・・
例えば、ライオンは百獣の王で強いから・・・そのライオンを「神に思う」ことは出来るのです。
そしてライオンを特別な神の象徴として奉ることが出来るのです。

そして特別な神や愛を欲しがる人が・・・特別な神であるライオンを奉っている所に引き寄せられるのです。
そんな特別が欲しい人達が同じ所に集まると集団化され組織となりますが・・・それが信仰宗教なのです。
そして特別な神や愛を奉った象徴・形・偶像に自分の「特別な思い」を叶えてもらうために祈願するのです。
すなわち・・・自分・自力では成し得ないことを他力・特別にお願いする事になるのですが・・・実在しない神や愛にお願いしても、その願いが届くはずは絶対にありません・・・しかし自力で成しえたことを・・・神が願いを叶えてくれたと「思う」ことは誰にでも出来ます。

そして特別な人を探して(神や愛とは違う)物事をお願いすることは誰にでも出来ます。
その特別な人とは・・・名誉名声・肩書き・権威権力を持った人であったり、人並み以上の優れた霊力・霊感・神がかりなどの特別な能力や人並み以上の特別な技・技術を持った人にお願いすることは出来ます。

ところが問題なのは・・・自分が「特別」に思う立場の人から・・・特別な見えない神や愛を教えてもらったり、特別な事柄を学び知ったりして、自分が優位な得する立場や損をしない立場になろうとする・・・その特別な思いを持った人達が大勢いることです。
そのきっかけ・必然が講演会であったり書籍であったりネットであったりします・・・欲が欲を引き寄せ似た者が集まるのです。

中には宗教信仰とは言わずに霊感霊力の特別を売り物にしている場合もあります。
もっとひどいのになると、姓名判断なんかで神仏・霊魂を持ち出してから不安がらせて金儲けをしている場合もあります。

それらに惑わされ被害に遭うのも(信仰宗教を含めて)・・・特別な人に特別な思いを成し遂げてもらいたい欲があったからです。
しかも未だにそれに気付かずに洗脳されたかのように金を出し続けている人も多いかもしれません。

また(信仰宗教を含めて)それらの広告宣伝・勧誘などの人集め金集め組織のために利用されているのに、それを知らずに人に役立つ犠牲・奉仕だと思っている人もいるかもしれません。
・・・だから被害者が加わって更にまた同じ被害者を増産させるわけですが・・・すべて特別を望んだ「特別意識」にあります。

そこで話を元に戻せば・・・神や愛は特別ではなかったことが理解できたでしょうか・・・
そしてそれらの特別な神や愛は人と金を巻き込んで展開されていたり、その神や愛に束縛されていることに気付いたでしょうか・・・

だから(紹介している)完全真理が如何に完全であっても・・・学ぶものが個人意識を持った不完全な人間だけに・・・特別を求める「欲」特別意識で(講演会や書籍やネットなどで)知る事になれば、とうぜん完全真理がゆがめられて完全ではない不完全を身につける事にもなります。
しかし(特別な欲を持たずに)「完全真理」を先に学び知れば・・・完全を自らがゆがめて不完全にすることは避けられます。

すなわち特別な欲を持たずに学び知れば(元々人間は完全だったから)今の不完全意識が完全意識に戻る道筋を歩む事になるから、決して困ったこと(混乱・苦悩)にはならないが・・・特別な欲を持っていれば完全が不完全にゆがめてしまい、その自らがゆがめた不完全で自分の首を絞めて自分が困った事にもなるのです。
そして・・・自分が困った事になったことを自分の不完全さの性にしないで、学んでいた真理(または主催者)の方に責任転換して言い逃れ・言い訳・正当化することにもなるのです。

だから完全な神や愛や真理を・・・己の欲・自我で学び知ることには無理があります。
だから自分という個人意識を学び知り気付くことができる完全真理を先に学び知ることから始まり、それを自分のものにすることが出来る「自己縮小」の実践を続けることが大切に言われているのです。
・・・自己縮小の実践意識が無ければ完全真理の真実に新たな「気付き」も起きません・・・そして知ったつもりで言うだけ聞くだけ参加するだけで自己満足し自己主張する事にもなり・・・(私は正しいの思い込みから)それ以上の真実を見極め深めることが困難になっていきます。

そう言う私も個人意識丸出しの欲のある人間ですから・・・自己縮小は今後とも続けることは何とかできるが・・・自らが完全・意識になることは無理だと思っていますから、決して急ぎ慌てず欲しがらずに必然・成り行き任せにしています。
・・・そして持ち前の「知りたがる」追求・探究心から・・・必然で知った完全真理の真実とファバラの真実を・・・今も尚知りたがっているのです・・・ そうして知った事実をブログで紹介しているだけですから、あとは・・・人それぞれの判断に任せるしかありません・・・
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人様からの「有り難い」ことを、相手に「ありがたい」と思われることで返す信頼関係

2009年11月04日 | Weblog
人様からの「有り難い」ことを、相手に「ありがたい」と思われることで返すキャッチボールが信頼関係になる。

過疎地で田舎暮らしをするようになってからは、人様から物を頂くときに「素直」に頂けるようになりました。
以前の街中に住んで豊かに暮らしていたときは・・・義理で返して、またその義理が返ってくるような義理返しで頂くものが多いかっただけに、思いがけない名品・珍品・希少価値品や有れば役立つものや欲しかったもの以外は余程のことでなければ義理の感謝を言うだけで本当の喜び感謝にはなりませんでした。

ところが・・・見栄や世間体を捨てて暮らすようになってからは・・・たとえ村八分にされようが平気でしたので・・・最初に移転してきたときの儀礼「挨拶回り」もしていないし、部落に葬式が出てもお悔やみの一つも出さずじまいで平然としています。

そんな私なのに・・・わざわざ先方から出向いてくれた人がいれば、それが必然・ご縁ですから・・・その必然・ご縁から物を頂くことになったときは・・・それが余り物であれ、たらい回しの品であれ、よほど無駄にならない限りにおいては、頂けるものは有り難く喜んでいただくことが出来るようになりました。

すなわち・・・私からお上手した訳でも売り込んだわけでもない上に・・・義理人情のない不義理・世間常識はお構いなしの変人と思われても当然な・・・そんな気まぐれで自分勝手な私に先方から出向いてきてくれたことは必然・ご縁だけに・・・私のことを気にして「気遣って」くれているのが分かったり、ご足労をかけてまで届けてくれていることに「ありがたい」気持ちになれるからです。
偉そうに言えば・・・物ではなく心を頂けるようになったのです。

そして頂いた「ありがたい」ことはアリガタイで返すことを意識していますから、先方に「私が必要」になって頼まれることでもあれば、それで私が役立つ事になるわけですから、気安く喜んでお手伝いが出来るし、相手側も助かっているわけだから笑顔で応対してくれるから、そのお手伝いが楽しいことにもなり、炎天下であれ疲れることも不平不満になることもないのです。
すなわち・・・義理で返礼したり、必要とされていないのに出向いてお手伝いをするのではなくて・・・暇で退屈している「私が必要なとき」が来たら遠慮気兼ねなく呼んで下さるような信頼関係になることを意識して実践しているのです。

だから此れまでに(ご近所では)・・・上のおばさんと下のおばさんには信頼関係が進んでいます。
そして最近になって(9年目にして)・・・上のおばさんが山田耕栄さんの講演会テープを聞きたいと言うことになり、そのMDプレイヤー」と50本を超えるデスクをお貸ししていますが、どうやら真剣に集中して毎日聞いているようです。
それに関しても・・・私が時たま話す真理の話に興味を持っていたの知っていても、押しかけ・押し売りは一切していなくて、縁あってお会いした時に話しかける程度でした。
・・・上のおばさんの次に下のおばさんにMDセットが行く予定になっています・・・

それでも(真理の仲間と接することやブログの書き込みを含めても)暇で退屈していますから・・・余ほどのときは何度かシルバー人材センターに(売り込み)登録したくなるのですが・・・そんな時になれば・・・必然で仕組まれて別な部落の人から草刈や畑仕事や炭焼きのお手伝いを頼まれたりしてきましたし、退屈しのぎに始めて犬の散歩に出かけたときに出会った人の仕事にご縁が出来たり、その仕事(土木の請負)のご縁が切れたときは・・・その仕事に出かけた所の主人が私を気にしていたのか・・・(その元雇い主から先方の話が回ってきて)ピンチヒッターで手伝って欲しいということになり・・・現在は産業家畜の牛の餌やりにその主人と二日交代で一日に二回の割合で牛の世話をしています。

(そのお仕組みご縁の必然によって)暇で退屈していたのがその分だけ減った上に、先方からは毎日の苦労が無くなったと喜ばれ、短時間だからとバイト代も弾んでくれるし、気遣ってお米や肉を頂いたりしていますから・・・ このような必然・ご縁に恵まれることは「ありがたい」ことになっています。

私は年金の5万円の生活で満足していますから・・・ただ暇をもてあましているだけですから・・・また自らが働き口を捜し求めたわけでもないから・・・ 以前の土木関係のご縁のときは半年間の間に必然性と信頼関係が消えたことから、そこで私が無理に無理を重ねることも無いことから(仮病の腰痛で)一旦休止する事にしたが、それがきっかけでその仕事のご縁が途絶えることにはなったのですが、今でも日常の関係は平常に続いています。

だから・・・世間的な雇用関係ではなくて・・・必要とされ信頼されている限りは少々無理でもその必然・ご縁の関係を続けることが出来るのですが、雇用主に一方的な過ぎた欲が出たりすれば(信頼関係が感じられなくなり)次第に寄り添って付いていけなくなり、その必要性・必然・ご縁が遠のく結果になります。

この世の中は意識が絡み合っていますから・・・「欲」が絡めば当然その欲の絡み合う者同士の中での必然ご縁が起きますから、その結果は当然ながら「欲」が渦巻く渦中に入り込むことになります。
だからその欲の渦中の人間関係(恋人・夫婦・家族を含めた人間関係)や社会組織(会社・経済・政治などの組織)からなかなか抜け出せないで困ったことにもなっているのです・・・それがこの世です。

すなわち・・・この世は(すべて意識でつながっていますから)単純明快でして・・・意識していることに必然・お仕組み・ご縁が起きて・・・当然その仕組み・ご縁のレールに自らの意識が乗っかって歩んでいくだけです。
だから・・・今の現状状況は・・・自らの意識が原因で起きている自己結果なのです。
・・・だから普通なら「未練」も「後悔」も無いはずです。
しかしそれでも満足していないのであれば・・・それは思惑・期待・理想・叶わぬ夢・・・すなわち「欲」を持っているからです。

そして・・・この世の有様は・・・皆の欲の集合意識が表れている結果なのです。
・・・だからそれを諭す宗教・思想哲学・真理などがこの世に必然で存在しているのです・・・
しかしそれらが不完全であれば不完全しか生まれ育ちません・・・それが歴史に現れています。

・・・だから有史以来の新たな「完全」なる完全真理を意識実践しているのです・・・
そして私の意識の中には・・・矛盾に満ち溢れた不完全な世間のことは「どうでもいい」ことになっていますから、見栄や世間体や過去のしがらみから喜怒哀楽や生老病死などの未練も執着も殆ど無くなり、趣味嗜好娯楽も無くなりましたから、その分だけ暇で退屈している時間を有効に使い、一人でも多くの人と世間の常識・伝統・風習・道徳の垣根を越えた信頼関係に進んでいけるように意識していますから・・・来るものは拒まず、去るものは追わず、急ぎ焦らず騒がずの自然体で実践できるようにも意識しています。

その結果・・・不完全なこの世に「完全」が出た限りにおいて、必ずこの世は「完全に成る」と言うことに気付き知ることが出来たのです。
だから・・・私が此れまでのご縁お仕組み・必然のレールに乗っかってきたことが間違いではなかったことになり・・・その必然のお陰様に恵まれてきたことに有難い感謝があるのです。
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欲に絡んで「似たもの同志」が集まり、自己主張し合い、そして寝返り裏切り、騙されることにもなるのです

2009年11月01日 | Weblog
宇宙万物すべての意識は「ひとつ」につながっていますから・・・人間の場合は・・・昔から言うように「似たもの同士」が集まります。
しかも「あの世」でも、それぞれに「似たもの同志」があちこちで寄り集まる意識次元があるようです。

それが「意識」に関係していることから「必然」で起こることですが、それがどうやら人が「かもし出す」周波数・波長・波動・・・昔で言えば「赤い糸」のようなものがあるようですから・・・昔から「波長が合う」「気が合う」と言われているように、互いの意識が引き合ったりまた反発したりしているようです。
とは言っても・・・いつも必ず同じ波長を出しているわけではありませんから、時として表が出たり裏が出たりもします。
だから・・・昔から「寝返った」「裏切った」という言葉が使われています。

また人を見たときに先入観で見る癖を持っていますから、人の容姿・身なり格好でまず先入観を持ち、そして気が合いそうだ、気が合いそうにも無いと判断したり、その判断に加えて、自分と比較して優劣・損得計算で判断して対応することにもなりますから、どうしても「似たもの同士」が集まることにもなるのです。

それらを代表するのが「組織」の集まりの中にあります。
そして必ず多数派と少数派に分かれていて、そこには必ず競争があります。
そして多数派が正統派になり、少数派が否定派・抵抗組織に見られがちです。
・・・そんな世の中・人間が自由平等平和になることは絶対にありません・・・

そして一般世間も同じですから・・・気が合うもの同士が引っ付き合い・くっ付き合ってはいますが、自分の都合で時として寝返り裏切りる関係になっています。
と言うことは・・・元々から「定まった意識」を持っていないもの同士が「寄り合い世帯」で集まり結び合いしているのだから・・・結果的には互いの思い・意識を束縛制限し合っている関係になっていなければ、その関係を維持安定拡大・守り闘うことが出来ないのです。
だからその関係を乱すものがいると困ることから常識・伝統風習・道徳で縛り付けているのです。
その事に気付かないでいて・・・私には自由が無いとぼやいたりしているのです・・・

しかしそれでも・・・誰しも自分が「損」(悪・劣・損)したくないと必ず思っていますから、その裏を返せば、いつも自分が「得」(善・優・得)する位置で居たがっているのですから、当然ながら自分が「得」をすることになるのならいつでも寝返り裏切ることも出来るのです。
それが善悪・優劣・損得計算の「欲」から出た結果なのです。

しかもそれを言い訳正当化しなければ安心していられないことから・・・「私は正しい」・・・ことをしたと主張して世間に認めてもらいたがるのです・・・それが自己主張であり自己顕示・誇示になっているのです。
すなわち・・・損得計算の判断が加わっていなければ「あるがまま」の事実だけですから・・・言い訳正当化する必要はまったくありません・・・ところが裏心があったから、それを隠すために言い訳正当化して主張しているのです。
純真無垢の裏心の無い人が自分を「正しい」と主張することは絶対にありませんから・・・邪心・欲を隠した裏心があるからこそ自己主張していることになるのです。

だから「欲」の多い人は欲の多い人の中に入って切磋琢磨して頑張ればその分だけ大きな欲が手に入ります。
だから欲の多い団体組織や欲の多い資産家や欲の多い家庭環境が出来上がるのです。
また、それなりの団体組織や金持ちやそれなりの家庭があるのも・・・その波長が合うもの同士が集まっているのです。
しかしそれに相応しい分だけの維持・安泰・擁護のためにそれ相応の努力や苦悩がつき物になって逃れられません。

そして欲の強い人が一般的な「欲」が少ない人の中に分け入っても大したことにはなりません。
そこで欲のある人が考えたのが・・・欲の少ない人に欲を出せるシステムや商法や欲で釣る詐欺的商法や詐欺商法などです。
その中には安心安全で大儲けが出来る話を持ちかけたりするシステムや詐欺的や詐欺商法があったり、人の不安心配をあおり金を出させる方法、親切ごまかしでお金を巻き上げる方法などがあります。

それを言い換えれば・・・欲が少ないと言いながらも出費できるお金を溜め込んでいることは・・・その分だけ欲を出していたのですから、(似たもの同士の間柄・関係から)それに相応しいだけの金額を騙し取られる結果になっても不思議ではありません。
・・・また生活にあまり必要ない余計な事(贅沢三昧)に出費することになるのも、それだけの金銭的余裕があるから(欲の産物のお金持ちとしての余裕から)出費することが出来るのです。

ところが・・・たとえ欲があっても・・・生活以外の余分に出せるお金がなければ無難に済みますが・・・ところがその欲のためにお金を出すことになれば必ず(借金をしてまでも)無理をします。
すなわち「無理」することは・・・すぎた「欲」を原因に持ったからです・・・
だから・・・無理するのは過ぎた欲の表れなのです。
ゆえに頑張っているや苦労・鍛錬・修行しているのは己の欲、己の為にしているのですから、(夫婦家族の為であっても)誰か人の為にしていると思ったりそれを言えば嘘の偽善になります。
そして・・・欲の絡んだ生活で無理をしているから・・・生活・人生が至福・楽しくならないのです。

そして見栄や世間体を守ることが欲につながっていますから・・・余計な事に労力経費を無駄に浪費しています。
・・・冠婚葬祭や吉事凶事の風習や伝統や常識道徳を守る事にもなっています。
また、欲がらみで止まることが出来ない経済成長と環境エコ・CO2削減を掲げているのにも矛盾がありますから、地球温暖化は進行し続けて今以上に困ったことに必ずなります。

それでも・・・自分さえ良ければで・・・この世のこともあの世のことも関係なく・・・人間欲がなければお仕舞いよ・・・とばかりに自分を正当化している人が多いことでしょう・・・

ところで世の中には・・・(極まれに)欲を出してもいないのに多くのお金が集まる人もいますが・・・それはその人の役割を果たすために相応しいだけの必要な金銭が必然・お仕組み・ご縁で集まっているだけです・・・だから騙し取られることもなければ、まして騙し取るような欲はありません。
それを言い換えれば・・・欲を出さなくても・・・お互い様・お陰様の必然・お仕組み・ご縁によって世の中も家庭も自分も(それなりに相応しいように)平たく丸く事が運ぶことにもなるのです。
また、欲で独り占めする人がいなくなれば皆に行き渡るようになり、生活格差も無くなるのです。
その事を昔の人は・・・欲を出さなければすべてが丸く収まる・・・という言葉で残しています。

原因と結果は同じで離れていませんから・・・たった一言の「欲」が・・・宇宙・万物すべてに関わっているのです。
だからその欲を無くしていくことが・・・真理で言う「自己縮小」につながるのです。
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