孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

神や仏でも人様でもなくして自分の意識次第で成るようになるのです。

2013年01月31日 | Weblog
「この世は金次第」と言う人もいますし、
中には「神次第」と思っている人もいますが、

もう皆さんは知っていますね。
この世は<意識次第>と言う事実・真実を。

だから差別を差別に思わなければその差別が無いことを。
だから貧困に思わなければ、それを惨めとか可哀そうに思わなければ。

また騙されて損をしても、それは欲を出した自分が原因だと言うことも。

また犯罪事件の被害者になっても同じく、それも己が意識が原因の結果であり、しかもこの世は「お互い様」「お陰様」の関係で成り立っていることからして「どっちもどっち」の加害者も被害者も無いことの事実を。

また今にも死にそうになっていても、生きてさえいれば十分なことを、

今を生きていることを思えばそれもありがたい心になれることを。

また死ぬ事になっても、人間として生まれたからには誰もが平等にして絶対に死ぬことであり、ただその死ぬ時(時間)が早いか遅いかの違いだと。

しかも人間一生の時間は宇宙時間のあっという間の出来事(時間)であることを。


だから神や仏やその神懸り超能力者がいなくても、自分の意識次第でどうにでもなる事実があるのに、
それなのに嘘偽りの実在しない神や仏を信じて、そして頼って、そして良くなることを望んでいたのに、ところがその結果効果はぬか喜び(いっときの喜び)で終わり、そのうちに真坂の有事にでも巻き込まれることにでもなれば、すぐさまに神や仏もあるものか!と隠していた裏が出て、そして騙された損した裏切られたと(自分が原因なのに)腹を立てるは嘆き悲しむやらで身近な者までも巻き込んで大ごとにもなります。

しかも執着からしてあの世まで引きずっていくことにもなります。

それも自分という個性を信じていなかった原因があります。

すなわち己の自力と自信で生きることをしないで、思い思惑・理想目的でもってそれを他力任せや他力願望にしていたことが原因なのです。

しかもその裏には不信感をしっかりと持っていたのに、それを隠しておいて、更に自力を多く使わないで良い結果を得たがる「良いとこ取りの」その我がまま・利己主義・得手勝手なその自らの意識が様々な有事を呼び込むことになるのです。

だからお金や神や仏でも超能力者でも人様でもなくして、すべてが自分の意識次第で成るようになったのです。

この基本からして精神世界に係わらなければ様々な欲に惑わされて道を誤り、しかもその道に人様まで巻き込む事になることをしっかり自覚しておきたいものです。

神仏霊魂の精神世界が摩訶不思議だけに「人生とは不思議なもの」になるのですね。

2013年01月30日 | Weblog
人間死すれば肉体を脱いだ命だけの意識体・魂となって衣食住やの姿形の無い「意識次元」のあの世と言われるところへ返ります。
そして人間の時に持った思い意識や執着していたその拘り未練・後悔反省ばかりが白昼夢が如くに蘇ることになります。
何故なら強い未練執着が原因からして仮初めのいっときの自己満足していたことは既に消えているからです。

そしてまた形の無い霊界では(人間の時のような)(生きていることの味わい)実感でもって新たに味わえる物・形がありませんから、過去の記憶が新たに塗り替えられることもありません。
すなわち過去に執着していたことばかりしか出てこないのです。

とにかく(絶対的に)何もすることが無くて、区切りとなる時間や気候季節感も無くて、食って寝て糞をすることも無くて、暇で退屈ですから、人間の時がしきりに蘇り後悔反省する事になります。

そして(確かな人名や顔姿がはっきりと浮かばなくても)(あの人に)騙されたや裏切られたや酷い仕打ちをされたとかで、悪い奴だ、憎い奴だ、仕返してやる、懲らしめてやるなどと執念怨念になったり、またはあの時は恥じるべきことをしたとか、たいへん申し訳ないことをしたとしきりに後悔反省する事になります。

それを簡単に書くと
この世で意識が原因のその結果を味わい、
その意識でもってあの世で後悔反省し、
学び足りなかったことを学んだり、やり直し修正するために、再び人間に生まれ変わっていると言うことです。

だから人間の次元の時に限り(前世の時の)やり直しや修正が出来るのです。

だからこの世で生きているときに、あるがままの自然体意識なること、即身成仏や生き仏と言われることなどを目指す人がいるのです。

だから現世で未練後悔・執着を断ち切らなければ来世まで持ち越し残ると言うことです。


ところで(何度も書きますので簡略しますが)
60歳まで神や仏にまったく無関心だった私が成り行きの必然ご縁の仕組みからして真坂の如くに(望みも期待も欲らしい欲も無いままに)神仏霊魂の精神世界の完全真理を知ることになり、それがいつの間にやら本物は此れしかないとまで言い切るまでになったのですが、

そこで手前味噌になりますが、
60歳にして予想だにしなかったことになり、そしていつの間にやら(自然発生的に)まったく別世界が如くの新たな人生を歩む事になり、またそれが矛盾も妥協も無い完全なる完全真理に付随した自己縮小の生き様に匹敵していたという、
これまた摩訶不思議なことになるなんて私自身が驚いているし、

尚且つこのようなブログを過去からして13年ほど書き続けることが出来ているのもおかしなことです。
何たって数十年のパチンコ愛好家が清廉潔白な精神世界を退屈しのぎに(他にすることが無くて)(趣味志向娯楽にして)書き続けるなんて矛盾していませんか。

だから過去のままに精神世界を知らずにおれば、自由勝手気ままの趣味嗜好娯楽のための人生が続いているわけですが、
ところが今のように精神世界を知っても同じく(今は独り身ですから誰に気兼ねなく)パチンコを趣味にして自由勝手気ままに生きることが出来ているのもおかしなことですよね。

ただ過去と今と違うのは生き様の形とそのゆとりとその原因となる意識(自力自信)が一歩前進したと自覚納得確信していることです。


だから精神世界は摩訶不思議なもの、
そして「人生とは不思議なもの」として、
ここに私の実感でもってして書き続けているのです。

来世のためにも本物か偽物かを見極められないままに死する時を迎えたくはありませんね。

2013年01月29日 | Weblog
欲張り無理をしないために食って寝て糞をするだけのような生活や世間や家族やのしがらみから離れて自由気ままに暮らすことよりも、

街中にいて伝統行事や清掃活動や寄付集めやの町内の世話役をしたり、また慈善奉仕活動や差別撤廃や貧困対策や子供の育成や老人問題に取り組んだりするのと、

あなたならどちらを選びますか。

すなわち自らの内なる(見えない)精神意識の育成のための(静かなる水面下の)実践をするのか、
それとも見える形の対外的な目立つ事柄で精神意識の育成を試み図るのか、
その何れを選ぶかの選択肢を書いたわけです。

また先祖を敬い供養し、また両親を敬い親孝行の恩返しをし、恩師に報いる活動をしたり、愛社精神で勤めるなどの体外的なことを意識するのか、
それとも必然ご縁の成り行き任せにして、自分の器に見合った無理の無い生き方を選ぶのか、

すなわち「見える形」を選ぶのか、「見えない内なるもの」を選ぶのか、

世間のヒーロー主人公になるのか、人知れずそのままを選ぶのか、

人に見せるための実践なのか、自分が気付く実践なのか、

その選択です。

信仰宗教の実践と完全真理の実践と、
どちらが実践実行しやすいでしょうか。

特別な神と皆が神の、
どちらがあなたに似合いますか。

自己拡大の人生のままに終わるのか、自己縮小も味わって終わるのか、
どちらがあなたに都合がいいのでしょうか。

その選択することは難しくないが、何れを選択しても、その実践が無ければ絵に描いた餅で終わります。
だから精神世界は自らが実践することでその矛盾や完全(本物)が見えてくるのです。

だから来世のためにも、その本物か偽物かを見極められないままに死する時を迎えたくはありませんね。

それならば先ず意識したその実践をするしかありません。

執着を断ち切って独自に自由平等調和意識になってそれを味わうしかありません。

2013年01月28日 | Weblog
不完全な人間意識の中には表心と裏心がありますから、どうしてもその裏表やその喜怒哀楽で生きていく事になります。

例えばマザーテレサが貧困の環境を十分に味わった経緯があります。
そのマザーテレサを敬い人が集まりだすとその力でもってして貧困救済のために金を集めだしたのです。
すなわち貧から脱するために富を集める矛盾になったのです。
そして善良なる無名人でしたがそのお陰で知名度を高めました。

そしてその知名度がその知名度欲しさの人物団体を呼び込む事になりましたから、結果的に世界的企業の社長が如き働きをしたことになります。

釈迦が領主の王子だっただけにその裏の庶民を味わいたかったのでしょう。

イエスが絶対善・絶対神を説いたのであれば、内なる精神に嘘偽り矛盾が隠れていたからでしょう。
また十字架に張り付けられて処刑されたのもその当時では大罪を犯したからでしょうが、それも己の意識が原因の結果であることは事実です。

サイババが御殿を持つことになったのは過去が貧しかったからでしょう。

耕栄さんが人集め金集めしたその真意は判りませんが、その人集め金集めした事実と脱税容疑は事実です。
ちなみに金銭に困った生活をしていたら、その金が無ければ何事も始まらないと思い違いして、何かとお金に頼るのがあるようです。

瀬戸内寂聴さんのように色恋色情を十分に味わった人が禁欲の仏門に下るのもそうですが、しかし表舞台に立ちたがる欲は消せなかったようです。

伊勢白山道なる者のように人集め金集めする必要が無ければ目立った場所に立つこともありませんが、それでも立役者・主人公として名を馳せたい欲があります。
だから表では目立ちたくないといいながらも裏では目立ちたい欲があるのです。
しかも不確かなことであることを隠してまで如何にも私は正しいと主張して、しかもそれに従う者が大勢いると言うその自己満足とその自信に溢れているようです。

また何かを極めて名を馳せた達人が人知れず世間から姿を消すのもその裏表を味わうためでしょう。

また何不自由なく暮らしていた人が質素倹約な暮らしを望むのも裏表を味わうためだと思います。


世間の表舞台に立ってしかもその権威権力でもって人心を操るそのリーダー支配者の奥底には、人心を自由にすることを拒む意識が隠れています。
なぜなら権威権力や大義名分でもって(半強制的に)人集め金集め出来なくなるし、また憧れ敬い慕う者や我欲からして足元にひざまずく者がいなくなるし、比較競争する者が減ると政治経済国家が弱体化して自分の責任を問われる事になって、いつまでも頂点に立っていられないからです。
またリーダーの頂点になって人心社会を操るその刺激的面白さ(勝敗ゲーム如き変化刺激や快感に)浸れるからなかなかやめられないわけです。


だからどんなに長けた超能力の者や偉業を成す人物が現れようとも絶対に自由平等平和にはなれないのです。

残る道は一つ、
欲張り無理するその裏表の喜怒哀楽を味わうことをやめて(執着を断ち切って)、自分が自分の中で(独自に)自由平等調和の意識になってそれを味わうことしかありません。

そうなれば不完全意識が渦巻く社会の中にいても、自分だけは否定反発することの無いお蔭様とお互い様の調和意識でもって自由に穏やかに生きることになります。

この世の人間関係が続く限り地上の天国にも楽園にも絶対になりません。

2013年01月27日 | Weblog
欲が無ければ不平不満にもなりません。
また守りたがるその欲も出てきません。
そうなると否定反発排除したがることにも不信感を持つことにもなりません。
また憎み恨み妬んだり羨んだり憧れも嫉妬もしません。
また賠償を求めたり、また仕返し制裁・復讐成敗をすることにもなりません。

ところでパチンコ台の「海物語」挿入歌に♪天国でも楽園でなくても、あなたが居ればいい♪の歌詞がありますが、それが「あなたに居て欲しい」となれば欲になります。

ところで恋愛関係や夫婦関係であれば「あなたが側に居るだけで」十分になりますが、ところがその裏の束縛制限・独占支配したがる欲が出ると不自由・不十分・不足になります。
だから欲張らなければ恋人や夫婦関係も良好ですからその関係が破綻することにはなりません。
また独りよがりの(自己満足の)天国にも楽園にも思えるようになります。

ところが恋愛は自由ですから、それが夫婦の間でも他の人と恋愛関係になるときもありますが、そうなれば「あなたが側に居るだけ」では不足になったその欲が原因になります。

だから欲からして人間関係に表が出たり裏が出たりして喜怒哀楽を味わう事になるのです。

またそこで少しでも多く満足したいがために良いとこ取りをしたがりますから、それが思うようにいかないとそれが不満になり、その不満を帳消しにしたがために別な満足変化刺激を追い求めるその繰り返しが続き、
いつまで経ってもその喜怒哀楽の生き方が続きますし、しかもその満足を求めるその形さえも更に進化発展しながらも現在に至っているのです。

だからこの世の人間関係が続く限り天国にも楽園にも絶対にならないのです。

そこで結論を早めれば
この世の人間関係の矛盾を味わうが為に生きているのです。
そして結果的に「どうにもならない」現実に気付き、その人間関係に執着することをやめて自由意識になれなければ、
いつまで経っても(時代が移り変わっても)束縛制限したがる独占支配欲やまた不信感からしての否定反発排除したがることやその守り意識からしての私は正しいの潔癖完璧正義感を断ち切ることにはならないのです。

だから自由を味わえなければ(絶対的に)人間本来の使命である自由平等調和の意識・神や愛の意識に到達できないのです。
すなわち自由なくして何で平等意識になれるでしょうか、
その自由平等意識なくして何で調和の意識になれるでしょうか、

自由だからこそ、その自由を十分に味わえているからこそ、自他共に不平不満が出てこなくなるのです。
その例えに広大な平原や山岳地帯やジャングルや遠く離れた孤島の中でその日暮がやっとの人たちが笑顔でして満足そうに暮らし、それで十分に思っている人たちが多いことを。

だから自由平等調和の人間界になれば、何が無くても、今が地上の天国や楽園に思えるその意識になるのです。

しかし往々にして欲張ることからしてそれが無理になりそして執着するほどに己を束縛して不自由になっているのです。
だから逆も真なりで、自らが自由になることから始めれば様々な事に気付き知りそれを味わうことになるのです。

ところが往々にして我がまま勝手な自由になるのも、
それは思い思惑理想目的やその期待感からしての欲絡みでなのにそれで無理に自由になろうとするからです。
しかも守り意識があれば絶対的に自由になれません。

だから結論から言えば<欲>を捨てられない限り何をやってもだめになりやすいのです。
だから(欲があっても)、何をしようとも、何がどうなろうとも、何がなくても、それをあまり気にしないで(執着しないで)、そのままにほっといて、必然のご縁のままの、その成り行き任せにするしかありません。

このことも逆も真なりで、
自己縮小の形から始めるのが手っ取り早いかもしれません。
しかもこの先で必ず自己縮小を余儀なくされるその有事が誰にもあるのですから、その有事に遭遇する前に先駆けて自らが自己縮小の形に進めて行くのも一案かもしれません。

しかしそれも欲や守り意識があれば絵に描いた餅同然になります。
だから「どうしようもない」と言われるのです。

しかし私が自由だからこそ多くを求め欲しがらないのは事実です。
それなのに、何でか(物質精神共に)恵まれ得えられているのが多いのです。
それは何でか、私が(物質精神共に)多くを持っていないからです。
それが道理であり真実であり真理だと思います。
それでも私が精神欠如の未熟な不完全意識の持ち主であることは何ら変わりはありません。

過去世・前世や現世での執着を断ち切らなければ来世でも繰り返します。

2013年01月26日 | Weblog
完全真理に係わることながらも信じるか否かの不確かな過去世・前世・霊魂やまた衣食住やの形の無いあの世のことを意識だけの世界と書いています。
そしてその因果は繰り返されるが如くに書いていますが、その原因は拘り未練執着にあります。
だからこの世で執着していたままに死するとあの世は意識だけの世界ですからその執着していたことばかりが思い巡ります。

だから色恋に執着していればその色恋ばかりをあれこれ思い考えることになりますし、それが恋人に裏切られたことであれば、その仕返し復讐を考えたり、または良い経験をしたとして反省する事になるかもしれません。

しかし仕返し復讐にしろ経験を活かすにしろ、既に心身ともに互いが離れ離れになっているし(次元も違うことから)、また人間の時のように感覚を研ぎ澄まして接し触れ合い互いが実感確認し合う形がないだけに、あの世では自分だけの思いを巡らす一方通行に終わります。

そこでもう一度人間に生まれ変わることを望み、そしてまだ成していない拘り未練執着していたことを成すことにもなります。

だから色恋でなくても学者先生や政治経済や芸術や音楽芸能などを極めようと何度も繰り返しているかもしれませんし、また別な道を究めるために生まれ変わっているかもしれません。


前置きが長くなりましたが、結論から言えば、
それらを繰り返さないように現世で執着を断ち切らなければ次の世でも同じ繰り返しが続くと言うことです。

それを現世に例えれば、
マザーテレサに救われた者がそのマザーテレサを目指すように、
医者に救われた者がその医者を目指すように、
恩師のお陰だとしてその恩師を目指すように、

また貧困を無くするためにそのリーダーが現れるように、
病気で死ぬ人が出ないように医学者が現れるように、
教育が一番だとして教育指導者が出てくるように、

しかしこれ等も前世からの引継ぎの繰り返しになります。


もうお判りですね、形の繰り返しをしている事に。
だから貧困の形が問題でも医科学の形でも教育の形でも無くして
その形の原因となるその<意識>が問題だと言う事に。

貧困差別に思えるその意識が問題であって、
病気の原因体を切除したり治癒を促すその形ではなくして、
問題発生や問題解決が教育の形ではなくして、
すべてが意識が原因のその結果の世界である事に。

だから形結果外見を見ることを早く終わらせて、内なる見えないところの意識心精神に気付き学び知ることに。

それも不完全意識の者たちが自分の都合の良いように祀り上げ敬う神仏霊魂の世界を説く信仰宗教ではなくして、その信じるか否かの無い矛盾の無い完全真理を学び知ることに。

そして不完全意識からはその不完全な結果形しか現れないことに。

そしてその不完全意識をこの世で断ち切ることがどうやら無理な事に。
しかも皆と一緒に集いその実践をするなんて土台無理なことに。

だから世間の形に囚われないで、人の事を気にしないで、先ずは自分ひとりから始める事に。

そして欲張らなければ何とかなっていくことに、
皆さんは気付いているはずです。

しかし先程に書いた色恋のように、
純愛ものやまた過激なセックスが描かれた創作ドラマや映画を見るが如くに、自らが直接係わることなく、絵に描かれた完全真理を眺めるが如くの、その傍観者やその自己満足で終わる人生でよろしいのでしょうか。

そしてまた来世でも同じことを繰り返し続けるのでしょうか。
そしてどんな形を成してもそれが無駄だとは思えないのでしょうか。
そんないい加減な人間界と離れて自分が一人でも神や愛の真理を実践していく心構えも無いのでしょうか。
そしてこの世に人間として生まれたその役割と使命を果たしていく気にもならないのでしょうか。
そのどうしようもないままに終わり続けるのでしょうか。

あなたは此れからどうしますか。

思惑・理想目的・期待感を持つことなく自分の器の中の自力と自信で生活する。

2013年01月25日 | Weblog
過疎地での単身生活が13年目にして水源が枯れてその水不足で難儀するかと思いきや、それ以前からパート先のオーナが全自動洗濯機を据え置いて頂いたお陰からして我家の2槽式洗濯機を使うより簡単便利になっていましたし、お風呂も手作業の多い(自力の多い)薪で沸かしていたのが何の手間要らずの温泉三昧に変わりました。その手間要らずだけ暇で退屈する時間が増えましたが。

そのパート帰りの道筋にある大型温泉施設で入浴するのですが、そこのジェット風呂の噴射口に背中ならぬお腹を向けてマッサージ代わりにしたことで(創意工夫?)筋肉引き締め効果も出ています。

また早仕舞いの小型スーパーで半額の弁当を買ってから温泉に行き、その入浴後の休憩室でその弁当を夕食として食べることがあります。
だから身奇麗でサッパリした格好のままに食事しますから、我家の寒々とした薄汚れた暗い所で食べるのとは同じ半額の弁当でも大違いですし、何たって冷暖房付きの座敷と備え付けのテーブルや無料の冷水給湯器まであります。
※温泉入浴や洗濯機や半額弁当や、また冷暖房やテーブルや冷水給湯器も既に用意されているのを利用するだけですから(成り行きの結果であって)私が前もって望み期待したわけではありません。


それも水源が枯れるという真坂の有事がお陰です。
ところが三日前から水源の水が来るようになったので食器などの洗い物を雨水に頼ることもまた水を持ち帰らなくていいことになりました。
だから結果的には年間5万円の半額負担で(牛舎のオーナーが半額負担してくれましたので)日々温泉三昧が味わえしかもついでに快適な座敷で食事が出来るという「おまけ」が付いたことになります。


ところで暇ついでに昼間から展望露天風呂でゆっくり入浴することもあるのですが、私のように昼間から温泉三昧する人と仕事に出ている人となら皆さんはどちらを選びますか、

私の場合は仕事よりも(金儲けよりも)(必然ご縁の成り行き任せにして)自由勝手気ままに生きる時間を多くしているのです。
その自由勝手気ままの中に金銭物欲があれば「わがまま」になります。


ところで収入といえば国民年金月5万円とパートの7万円ですが、
ところが貯蓄する気もないのにお金が余って残高が増えています。
何たって食って寝て糞をするのとパチンコ遊びする程度でして他にお金の使い道が無いからです。
だから余った時間と金を使って昼間から呑気そうに温泉に行けるのです。

だから成り行きながらも初期の頃より一段格上の生活になっています。
また過去の捜し求めた結果の贅沢とはまったく違った成り行きからしての無理無駄の無い、また時間やお金や物欲に縛られない心の余裕からしての(不満が出難い)何となく満たされているような感覚を味わっているのです。

そこで付け加えますが
皆さんの中には私のような呑気気ままな自由な暮らしに「あこがれて」いる人がいるかもしれませんが、
そのあこがれると言うことは自分に出来そうもないからです。

何たって自分に出来ることをあこがれたりする馬鹿げた話はありません。
やりたい事が自分に出来ることなら、あこがれる以前に既に実践実行しています。

だから皆さんの今の結果は憧れ目指したその結果ではなくして、
自分の意識が原因の(必然ご縁の成り行きから出た)その結果なのです。

と言うように、成らないことは成らないが、成ることは成るという原則原理からして、
前もって(特別な思いを馳せてまで)思い思惑・理想目的やその期待感を持つことなく、自然体の成り行き任せにしておいてあとは自分の器の中の自力と自信で生活していれば(自らの意識が原因からして)成るようになって行くのです。

なのに前もって思い考え悩んだり、またその思い思惑などを持つことでそれが不平不満・不足の原因にもなっているし、また自分の器を越えたことをするから苦労するのです。
※自然体とか、成り行き任せとか、食って寝て糞をするだけと言うのは、何もしないことではなくして自分の器を越えた欲張り無理をしていないと言うことです。

何をしようが、どうなろうが、執着のない、開放された意識の自由を贅沢に味わっています。

2013年01月24日 | Weblog
私たちは食って寝て糞をすることで生きています。

その食うためには仕事をするかまたは自給自足の生活になります。

だから仕事が無ければ食うために食糧を栽培飼育したりまた食糧となる自然界の恵みを得るために捜し歩き回ることにもなりますから、今の私でも暇で退屈する時間はありません。

しかし食うことに困る状況ではないだけにわざわざ自給自足をする必要性もありません。
その必要性も無いのに自給自足をするとなれば、それは趣味志向娯楽の類の贅沢をして自己満足していることになります。

ところで私は自由勝手気ままに生きていますから、食って寝て糞をする時間にも縛られないで、食いたいときに食い、寝たいときに寝て、糞をしたくなったときにしています。

また必然でなければやらないですむし、またやりたい時になってからやっていますし、また必然のご縁が無ければ人と接することもありません。

そんな自由勝手気ままに生きていることは(見方を変えれば)相当な贅沢をしている事になります。

しかも金銭物欲や思い思惑・理想目的やその期待感からして動いているわけでもありませんから、余計な無理も無駄も無い省エネ楽チンでもっての贅沢になります。

また空腹になっての食事ですから、既に手元に用意されている今あるものを食べる事になりますから、あれこれと迷うほどの贅沢・選り好みはありません。

しかも空腹になって食べますから何を食べても美味しく味わえます。
となると選り好みをしない食事で贅沢をしている事になります。

何はともあれパートに従事している以外は自由ですから暇なときにパチンコには行けるし温泉三昧の日々ですし、
また全く忙しい思いをしていませんから、嵐がこようが雨が降ろうが雪が積もろうが暑かろうが寒かろうがそれに見合った格好をしているだけですから(♪ぼろを着てても心は何とかやらで)それが不平不満になることもありません。

それら自然界の成すがままの有り様・変化刺激を素直に味わえば済むことですが、
此れも見方を変えれば、自然界をそのままに味わえる環境境遇に居るのも贅沢かもしれません。

また世間的には臭い汚い暗いところや不便で寂しいところや危険が多いところを守り意識からして(不安心配を)避けたがりますが、私には完璧潔癖・否定反発・不信感や守り意識すら消えかけていますから、
その不安心配恐れや怒りに無縁の生き方となればそれも相当な贅沢になります。

また人間関係や交流関係がなければ寂しがる人もいますが、
私の場合は必然ご縁に限っていますし、更に精神世界とかけ離れた世間的な交流を望んでいませんので、その人間関係で気苦労気疲れすることにもなりません。
だから見方を変えれば(価値観を変えれば)此れも相当な贅沢になります。

また宗教的にも精神的にも先祖代々や親孝行や家族の絆が言われていますが、それも不完全意識が原因の不完全な形ですから、それらの形を気にせずに、私なりの独自独歩の自由な(完全真理に沿った)思い意識からして対応しています。

そんな世間的なことではなくして自分が思うがままに行動実践できるのも相当な贅沢かもしれません。

しかも運を天に任したような成り行き任せに生きていてそれが安心安全の楽チン人生を味わえているなんてのも相当な贅沢かもしれません。

すなわち私は世間的ではない贅沢をしている事になります。
だからか不完全意識に変わりは無いものの、何故か生きていることの真価を味わっているような気がしています。

そして最高の贅沢に思えるのが
何をしようが、どうなろうが、
執着のない、開放された意識で、
今の自由を味わっていることです。

私が暇で退屈しているのは今を生きることからして苦労していないからです。

2013年01月23日 | Weblog
この世は意識が原因のその結果の世界です。
だから今の私があるのも、皆さんの今があるのも、
自らの意識が原因のその結果です。

だから親や学者先生や宗教家などから教えられ言われたことが原因ではなくして、
またその言い付けを素直に守ったのが原因であっても、
それも自らの意識からして成るようになったのです。

だから私の過去も今現在も私の意識が原因の結果です。
またこの先がどうなるのかも、私の意識が原因のその結果が出るだけです。

また妻や我が子の今があるのは私の意識が原因ではありません。
それぞれの意識が原因のその結果です。

だから親が子供をしつけるとかしっかり教育指導しなくても(成り行きに任せてほっといても)(放任された私の事例のように)子供は自らの意識でもって自分に適した道を歩むのです。

だから宗教家が語り説くその「宗教家のための精神世界」を詳しく知らなくても(私の事例のように)成るようになるのです。

すなわち持って生まれた(過去世を含めた)その性格個性・役割使命・適正能力からして自らが歩み、そして成るようになるのです。
すなわち意識が原因の自己結果であり自己責任でもあるのです。


ところで私が暇で退屈しているのは今を生きることからして苦労していないからです。
もし生きることに不足があればその不足を補うためにその働きをしますからその分だけ時間と労力を犠牲にします。

ところが私は暇で退屈しているのが原因からして牛舎のパートに従事しているのですからその犠牲には当たりません。
もし私が犠牲を払っているという意識なら牛舎に出向いていないでしょう。

ところが必然ご縁からして仕組まれただけに、その牛舎のオーナーの心尽くしのお陰様も色々と書いている通りです。

ところで皆さんは生きることに苦労していませんか、
だから様々な犠牲が必要になっていませんか、
それだけに(特に)自由が犠牲になっていますね。

ところが私は自由が犠牲になっていないから、
私の自力と自信からしての、その思うがままに生きていますから、
しかも必然ご縁の成り行きに任せていますから、

と言うことからしてそれを言い換えれば、
私は(世間から見劣りするのに)贅沢三昧に生きているともいえます。
またそれが物質金銭や時間やの形に限ったことではなくして、
欲張らないで済むというその意識面の満足度からして相当の贅沢さを味わっているとも言えます。

しかし一つ欠けているのは同じ仲間が身近にいないと言うことです。
しかしそれも欲張りませんから成り行き任せになります。

じゃ何で同じ仲間がいないのでしょう、
それは皆が欲張っているからです。
そして欲は必要だと必ず主張します。

そんなに欲張らなくても物質的にも精神的にも相当な贅沢な思いが出来るのに何ででしょうか、
それは確かな実践によって味わったことが無いからです。

ただ私の場合は実践意識というよりも成り行きから味わっているだけです。
だからこのブログが書けるのです。

何で不完全な精神世界の形が今も続いているのか、それは「欲」を隠しているからです。

2013年01月22日 | Weblog
私は宗教や神学を学んだことは有りませんので不適切かもしれませんが、
神が関与して
例えばモーゼの十戒が石版に刻まれたとか海割れ現象などは童話や絵本が如くの創作話だと思っています。
また処女の聖母マリアがイエスキリストを産んだと言われるのも、
またイエスがサタンを滅ぼしたと言われているのも、
また神が光となって現れるとか神の声が聞こえたとか、
これ等は幼子に聞かせる童話にしか思えません。

特にモーゼの海割れでもって追っ手の騎士を溺れさすことなどは神をも超えた話であって、何で神が人殺しを手伝うでしょうか。
またイエスがサタンを滅ぼしたというのも同等です。
また人殺しの戦をしている味方の兵士を神が守るなんて話も同等です。

何はともあれ、善は強い、悪は滅びるもの、正しいことは正しいが悪いことは悪いとして、矛盾の無い「完全」ではなくして、善なる完璧潔癖や神&善の絶対性を教えたことになります。

まして神が生け贄を望むはずも絶対にありません。
それも神に絶対逆らってはならないと神の絶対性を説くための方便だと思います。
または人心を惑わしている邪な霊魂(九尾狐・オロチ・天狗などの霊)に惑わされていた宗教家や魔術師が犯した過ちかもしれません。

また処女の聖母マリアも神の偉大さ教祖の偉大さを祀り上げるために創作されたと思います。

また釈迦がミイラに見えるほどの修行をしたのも、生まれながらにして持つ欲を消して無くすることだったのは間違いないようです。
然るにそれが無駄だったと釈迦自身が説いたのに、それが本当に無駄なのかを知るためにその弟子たちがあえて修行したとも言われています。

然るに「仙人」といわれる形が語られているのも、外部からの「欲」に惑わされないために、また自らの中にある欲が出てこないようにと、自らを閉じ込めた形の生き方だと思います。

また神が見えたといっているのも神ではなくして自分の中の強い思いが白昼夢が如くに見えたり聞こえたりしただけです。
また死の淵をさ迷ったとか病気で死に掛けたことや落雷を受けてから神懸りになったというのも、何がしのかっこつけ・理由付けで言っていることであって、本来は意識が原因の必然ご縁の仕組みからして成る様になっただけのことです。

と言うことからして
太古のアダムとイブからしてすべてが不完全なままに推移してきているのに、それらが真実事実のように語り説かれていることのその裏側の不完全さを指摘してこのブログに書いていることになります。

また何で不完全な精神世界を語り説く信仰宗教の形が続いているのか、
それは何らかの欲を持つもの同士が寄り集まっているからです。
しかもその形を正しいことにしてそれを守りたい、そしてその恩恵を受けたい思いなど、その欲を隠し通しているからです。

しかし私は「欲を隠す」のではなくして、
皆が持っているその欲の有り様、その欲の信実事実・裏表を明らかにして(隠しても出る欲を明らかにして)それを誰もが説き語りまたそれを学び知り、それらを自覚した上で(欲を認めたうえで)神や愛の精神世界を説き語り学ぶほうが偽らない正直であり謙虚素直でありそれが賢明だと思います。

そうなれば欲絡みの不完全意識からはその欲絡みの不完全な結果しか出てこないことを皆が知りますから、そうなれば欲があっても無駄な無理はしません、
そして自らの個性を活かすことのできるその必然とされたそのご縁のままに自力でもって動きますから、何の無理も無駄も無いその成り行き任せに生きることになります。

少なくとも人集めや金集めや物売りしたがる教祖や宗教家や信仰宗教組織のための不完全な精神世界から脱することになると思います。
また邪な霊能者に惑わされることも無く、また人寄せパンダがごとき神懸り超能力に憧れ敬い期待することにもなりません。
まして精神世界を食いものにする(生活の糧にする)やからが認められることにはなりません。

だから必然ご縁の成り行きからしての普段の生活の中で自らの意識に自らが気付くというその自力精神力でもって生きることになります。