孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全真理は実践真理、命の喜び感謝がある。

2008年09月28日 | Weblog
耕栄さんの完全真理を知る以前は・・・誰もが「私は正しい」と自己主張する正義感を持っており、その正義がぶつかり合って醜い争い戦争になっている事実(正義の矛盾)に気付いた程度でした。
その正義感の出所が「良い悪い・善悪優劣損得」で分離判断する個人意識にあることを知り、その矛盾も妥協も無い完全を知ったのが山田耕栄さんの講演会録音テープからでした。

良い悪いで分離判断しなければ「不平不満」が無くなります。
人を責めることも自分を責めることもありません。
家庭や職場・社会から不平不満が消えます。
不平不満が無ければ争いや戦争になりません。

あれこれと書かなくても・・・万事が解決できます。
思考分析、議論する必要もありません。
実践すれば確かに不平不満がなくなるのだから、誰にでもわかることです。
でも人様に求めることではありません、先ずは自分が実践する価値あるものです。
すなわち実践の真理なのです。
言うだけ、聞くだけ、奇蹟を見せる、神仏に祈願する、そんな教えではありません

私が持った不平不満は誰の性でもありません、不平不満に思った私の意識に原因があるのです・・・私の意識に元々の原因があって、その原因から不平不満という結果が出ているのです。 すべて私自身の意識が原因だったのです。

そして私が不平不満を持たなければ平然としておれたのに・・・その不平不満を持ったために私の心が乱れ、そのことに執着すると更に心の奥に抱え込みいつまでも長く引きずることにもなります(執念)。 (確かに相手が悪いはずなのに・・・何で)私を悩み苦しませる結果になるの、何か割に合わない話ですね ・・・その割に合わない損をしたから、その損を取り戻したいという思いが今度は仕返し復讐・報復・破壊となり、暴力虐待、争いや戦闘・テロや戦争へとエスカレートしていくことにもなります。 
そして・・・こうなったのもあいつが悪いからだ ・・・私は正しい、私は正しいことをしていると、正義の権利・行使をして相手を責め・攻めます。

例え小さな原因であっても、その原因があれば結果はいつまでも出続けます(原因を無くさない限り)。 そして先程のように執着するほどにどんどんエスカレートしていきます。
だから不平不満にならない「心の安定」があってこそ生活の安定安心になります。
貧乏であっても心穏やかで安心安定していれば、たとえ食って寝て糞をするだけのような生活でも安定した生活、生きる命の喜び感謝になるのです。

生活の安定安心がないから不平不満になるのではなくて・・・自分の「心」に安定安心が無いから不平不満になっているのです・・・誰もが勘違いしやすいところで重要です。
だから先に生活の安定を求め続けている限り心の安定は得られません・・・心が先か!形が先か?で大違いの結果が出てきます。

それを教えてくれているのが良い悪いを持たないという完全真理です。 
机上の理論・討論ではありません、平凡な日常の実践で自己縮小していくのです。
その完全を一度知ればもう後戻りはしません(出来ません)・・・(何故なら)その他のことは不完全で非実在だと知るからです・・・この世のあらゆる不完全・非実在はぜんぜん面白くも楽しくも無くなり、意気込み魅力に欠けている事を知るからです。
そして誰もが皆未熟だから(差は無いから)ただ実践を続けるしかありません。


知った完全と、今の不完全との狭間にある事実を見ると・・・

2008年09月26日 | Weblog
山田耕栄さんの「すべてはひとつ」良い悪いで比較判断しないと言う完全真理を深く知っていても、それを実践しなければ絵に描いた餅になります。
そして実践に欠かせないのが個人意識を捨てていく自己縮小です。
ところが個人意識の人間界で長く生きていて(転生を何度も繰り返してきているので)、自分が個人意識を生まれ持っているのだから、実践はそう簡単ではありません。
平然と正しい事として良い悪いで判断している人間界で、その良い悪いを持たなくするということは一見して矛盾にさえ思います・・・今まで持って有ったもの・・・それが有るのがあたり前の世界の中で、その有るものを完全に無くすることが本当に出来るのか?・・・という違和感を以前から持っています。

山田耕栄さんの講演会が始まった初期の頃は良い悪いの意識を完全に消さなければならないように言われていました。 そして仲間内から数人がその完全意識になる寸前だということを娘が自慢そうに言っていました・・・でも私が予測していたように・・・結果的には(未だに)失敗に終わっています。

そして最近では(完全意識到達は無理だから?)良い悪いで判断することがあっても仕方がないから、それに執着さえしないければ忘れて無かったことになるから、それなら(完全意識になれなくても)・・・何とかなる・・・ような意味で話すようになった・・・と私は思っています。 そして意識エネルギーを物質にしたファバラシールが初登場してきました。

しかし執着しないといっても、常日頃から執着ばかりしてきた私たちが執着を持たなくすることにも無理があります。 喜怒哀楽・生老病死などの大きな執着も、ほんの小さなこだわりも執着に変わりはありません。
日常生活や習慣や子育て家事にもこだわり執着を多く持っています。
例えば、美しく見せたい、美しくなりたいで化粧品や装飾着衣に執着がみられます。 また最近では食品の製造日や賞味期限や添加物や産地にこだわっています。 食品偽装問題に執着があります。 完璧を求めたり、潔癖症になるのも執着です。 依存症や拒絶反応や反発も執着になります。

そこで今度は・・・あまり執着し過ぎない・・・「過ぎた執着」を持たなければ忘れ去ることができるから・・・と言われています。 しかしそれでも無理に思えます。
人間と言う肉体・感情体・精神体を持ち、衣食住が必要で、その為に日々お金を稼ぐ苦労気疲れがあり、それを一時の自己満足で逃避できる趣味嗜好娯楽や刺激が氾濫し、世間体や名誉権力財力で比較判断し、政治経済から教育スポーツまでのあらゆる分野で比較競争しているような社会で暮らしているからには執着を持つようになりますので、それを執着し過ぎないようにするのも無理が有ると思っています。 
たとえ心の奥底に抑え隠し我慢することはできても、気になることはいつまでも気になります・・・忘れることは出来ません。 たとえそれを忘れていてもきっかけがあれば何度も繰り返し記憶が戻ります・・・少しずつ薄れてはいるが・・・ だから一度持った過去の執着はなかなか消えないのです・・・私だけかな?

どうしょうも無いのが人間ではなの? もうどうすることも出来ないのでは?・・・・ そこでファバラ商品が登場してきた・・・ことになるのかな?・・・ だとしたら、此れまでの流から見ても・・・やっぱり人間の自力だけでは無理だから・・・そこでファバラを飲み続けていれば何とかなる可能性が残されていることになります。
だから2012年の宇宙維新説が30年代に先延べされたのかもしれないし、目的意識を持たすための方便だったのかもしれません・・・と言うことは、この先もどう変化していくかわかりません・・・しかし自分が信じるままに・・・仕組まれた流のままに乗っている私ですが・・・その「私」が強いのも私です・・・なかなか無くすることは出来ません。

先にある完全意識を目指していては完全にはなれません。 完全になることに執着したり、急ぎ慌て焦ってはいけません。 あるがままの自然体で自己縮小の実践を続けているうちに成るようになるのだから・・・結果は後からついてくるものですから・・・結果を先に意識することは目指し求めていることになります。

人間は元々不完全なのだから完全になることをあまり意識せずに、完全なる完全真理を深く学び知り続ける自信や、常温核融合・ファバラの効果の如何に関わらずファバラを愛用し続ける自信があり、未熟ながらも自己縮小の実践をしているという自信みたいなもの・・・すなわち、迷いや混乱が無いまま素直(真っ直ぐに)にやってさえいれば・・・結果は後からついてくるものだから・・・「成るようになる」と思っています。
そして如何なる結果が出てこようともすべての原因は己の意識から出た結果であることを忘れなければ・・・何とか成りながらも宇宙の流れに乗れるような気がしています・・・ 

見えない真実、超越した真実、番外編かな?

2008年09月23日 | Weblog
電子レンジで「チン」するのは、時間で生きている人間が時間を早く使うことになりますから、電磁波の影響以外に見えないで感じない弊害副作用が起きています。
早い乗り物やジェット機を使用しても同じような影響を受けます。
高速の原子力発電の電気と鈍行の水力発電の電気とは本質が違います、だから弊害副作用の影響も違ってきますから、原子力は避けた方が賢明です。
同じように時計のモノクロとデジタルとは本質が違っています。 だから高速通信や地デジ放送の懸念が大いにあります。 また情報過多の影響が出ます。
また、これらが原因で「若年の老化」「依存症」「拒絶症」「拒否反応」や「不信感」「恐怖」を持つたり「洗脳」「常識化」されることが考えられます。

「UFO」「宇宙人」は高次元の意識体で実在しています。
その未知なる(高次元)意識体が形を成した時にUFOや宇宙人という形になって三次元の人間に見えるようになります。 また、見たいと思う形になって見えたり、見慣れた物体・形に似せて現れることもあります。

個人意識の「良い悪い」で判断されて作られた物には必ず良い悪いの裏表二面性がありますから、結果が良かったりも悪かったりもします。 
それを良いところ取りしたつもりでも必ず裏もついてきますから、例えば抽出した栄養剤や臓器や血液の摘出などを使えば弊害副作用の影響を受けます。

水には計り知れない未知のエネルギー・全知全能が満ち溢れています。
空気中や体の中にも水があり、すべての万物に欠かせないのが水です。 
ゆえに水無しでは地球で何も生まれません。 
水を征した者は天下を征するが、その水を己のままに征することはできません。
ゆえに水により繁栄もするが、その水により衰退していくことにもなる。

だから水の有る所に繁栄をもたらすが、一歩間違いバランスを失うとその水の洗礼(水害・洪水・高潮・津波)によって田畑や大地や家屋財産が洗い流されたり、地盤丸ごと水没したりします。 また欲張って水を使いすぎて乾燥地帯になったり、自分さえ良かったらと水を独占するものが出てきて、皆が水をまんべんなく使えなくなって荒廃していく地域もあります。 そしてそれらが砂漠になり、その砂漠に侵食されて砂漠化が拡大していきます。
・・・過去の歴史にもあり、現在でも世界中で現実に起きています。

地震のエネルギーは昔ほど地球生命力の自然発生で起きていたが、近代になるほど人間の個人意識が強くなり、その人口も増え続けているので・・・その個人意識が発する破壊エネルギーを調和させるために地球生命体が吸収して浄化・調和しているのですが・・・浄化しきれずに溜め過ぎると地球生命体そのものが破壊されるので、仕方なく吐き出しているところの破壊意識エネルギーが地震となっているのです。
すなわち人為に影響されているのです。 エイズや新しい疫病の発生もそうです。
自分さえ良かったらの意識や私は正しいの拒絶拒否排除したがる意識が破壊意識エネルギーとなっているのです。
・・・例えば車の排ガスと同じです・・・排ガスが溜まるとエンジンの調子が悪くなるから吐き出すように・・・人間も同じで、破壊エネルギーを体に溜めると生きていけなくなります。 だから怒りや憎しみ嫉妬・ジェラシーで発散させているのです・・・すなわち排ガス・毒ガスをまき散らしているのです。
ガソリンや燃料の排ガスも破壊エネルギーですが、自然界が浄化しきれずに溜まり続けているために、その蓄積された破壊エネルギーの影響によって自然界の破壊が進行して危機的状況になっています。
しかも未だに溜まり続けている破壊エネルギーが影響して自然界だけではなく、破壊エネルギーを吐き出している人間にも直接影響が及んでいます。
そしてその人の怒りや憎しみ嫉妬・ジェラシーが限度に達すると突発的・爆発的に破壊行動に及ぶのです。 夫婦喧嘩でお茶碗を投げつけるように・・・首相や大臣が職務権限を放り出しように・・・やけくそになって何をしでかすか予測は不可能です。
その予測の最大が、やけくそになって「核ボタン」を押す核戦争勃発です。 だから大きな水の洗礼や天変地異で人類が滅びるより以前に核爆弾で人類が消える可能性が大です。

しかし地球・自然界は何度でも蘇生回復再生されます。
そしてまた滅亡したはずの人類が地球の上で生きていく事にもなります。
・・・終わりなきはじまりの宇宙・神・愛・命は完全だからです・・・ 


終わりなきはじまり、やり続ける意識に到達はない。

2008年09月20日 | Weblog
私の個性に「新しいことに興味を示す」があります。
そして新しい事だけに、創意工夫、独自性を見出すことに熱心になります。
そして長所短所も見抜けるようになりますから命取りになることはありません。

此れまでに説明しているので簡略しますが・・・約50年前の高校生の時に大型の8mm録音テープデッキを購入して以来、初登場のグラスドット・オープンリールの投げ釣竿から「アクアラング」潜水になり、新登場の水中写真機や水中8mm映写機がキッカケでビデオカメラになり、その時代に初めての民間のビデオ撮影制作が仕事になりました。
そんな稼業・生活の中にも、今で言うネットワークビジネス・会員紹介ビジネスで日本初上陸の「スワイプ」商法を展開した経験から、色んなネットワークビジネスを展開してきましたが、それもすべて収益性追求ではなくて「目新しいもの」「はじめて知る効果効用の優れた物」を追いかけていました。 だから大儲けもしなかったが大損もしませんでした。

ネットビジネスの情報交換で探求追求するそのご縁が、今度は摩訶不思議な宇宙エネルギーの「水の世界」に巡り会い、やがて精神世界にも関わることになりました。 そして相変わらず探求追求し続けた結果、この世で初めての良い悪いを持たない「完全真理」に巡り会い今に至っています。 しかも宇宙エネルギーが常温核融合という名前で登場し、それらの製品が此れまで経験した以上の効果効用を示しているだけではなく、毎回の製造毎にパワーアップしているのが実感できるだけに、いままでの道のりがすべて完結したという感じですから、もうこれ以上のものは絶対に存在しないと言い切れるから、もう他のことに興味を示すことが無くなってしまっています・・・だから暇で退屈しているとも言えます。

初めて知る、新たな事を知る、そこで接し触れ合いながら更に知り続ける、そしてまた新たな事を知る、そして知り続けやり続ける・・・始まりがあって終わりがない・・・追求探求することが極めになるが、その極め続けることから更に奥や幅が広がり、それで極めているようだが極めに到達していない、だから尚も続き続け、やり続けることになる。
すなわち極める経過途中にそれ以上のものの実在を知れば、今までのものをあっさり見放して次のことに接し触れてみる、引きずらないで手放すことを惜しまないで執着しない、それが極めることに向かっていることになる。

一つの技能を磨くことで極めたとも言えるが、その極めたと思えばそれで終わるからそれ以上は本当の極めには至らない。 だから一つを極めるのではなくて、一つのことをあれこれと極めているうちの知らぬ間・自然体で多くを極めている、すなわち無限の全てを自然体(欲を出さない)で極めることになっていく仕組みが宇宙・真理にあるようです。
そして「極める」ことは大げさなことではないのです。
極めることを大げさにするのは特別意識・差別意識になります。
役割個性で天才といえるものを極め持っていても、その極めたものを特別にしないで、名・権・財で左右されたりしないで、持つものを勿体がらずに惜しげなく出せるのが本物になります。
その役割個性が天才秀才や技能者でなくても、日々の家庭生活の中の子育てや家事ごとの中にも自分なりに極めた自信があります、だからあれこれ思い考えないで即座にあたり前のように日常の行動表現ができるのです。
仕事でも同じです。 自分に自信があることなら即座に出して行動表現できます。 やっているから自信や極めにもつながっていくのです。 実際にやらないで思い考え想像することで極めることはできません。 やっている実践から結果が出るのです。 不安心配や恐れていると、やりたいことがやれないで焦り苛立つのです。 とにかく失敗を恐れずにやるしかないのです。 それも結果を良い悪いで判断するから失敗したと後悔執着することにもなるのです。

だから極めることを思い考え想像しないで(目的理想にしないで)、いまやっていることを真剣に続けていけばいいのです。 それがいい加減な意識で続けているのであればやっている意味がありません、勿体無いことになります。 何気ない日々の暮らしに意識を向けると、いままで感じていなかったことを新たに感じることが出来たりするので、その感じたことの結果原因やその意識・心を知りたがることの追求探求が、更に新たなことに気付いたりして接し触れ合うことにもなっていくのです。

人間は意識体であり、その意識で動いていますから ・・・人間は意識次第なのです・・・

「成るようになる」自然体と「まさか」の関係

2008年09月16日 | Weblog
私の今の精神世界・完全真理を探し求めて得たものではありません。
客観的で、神仏にも無関心で、霊魂の世界は否定的でした。
同じように過疎地で暮らすようになったのも自然体でした。
だから、まさか自分が真理を学び知り、しかも田舎で独り暮らしするようになるとは想像すらしていなかったのに、いつの間にやら成るようになって(必然・ご縁・仕組まれて)現在に至っています。

田舎暮らしにしても、それが仕事に失敗して経済的に行き詰まり夜逃げ当然で田舎暮らしになったのなら「まさか」の悲劇になります。 まったく同じ田舎暮らしでも「成るようになった」のと「まさか」の違いがあります・・・同じ結果なのに始まりの原因が違っているのです。
そして「まさか」の場合は「自分を責めたり人を責めたり」することになりますが、「成るようになった」場合は「そのまま、このまま、あるがまま」なります。

新たな人とご縁があったり、自らの意志で新たな事を知ったりするのは「必然」ですから偶然ではありません。 そして新たな事や人と接し触れることを否定反発したり不信感・違和感で退け避けたりすれば、必然が必然ではなくなり「無」になります。

本当のことを知りもしないのに、ちょっと上っ面で判断して知ったかぶりするのが多いし、食わず嫌いや先入観や不信感が邪魔をする場合が多いようです。
しかも現代は情報化が進みすぎた弊害があり、実際に接し触れていないのに自分に都合がいい片寄った答えだけを選択して得ることができるだけに、それだけで如何にも知ったかぶりをすることが出来るようになりました。
実際に野菜を栽培したことが無いのに野菜が栽培できると言っているようなものです。
自分に都合のいい鵜呑み盲信でメロンをスイカと言い張るような人も大勢います。
新たなことに否定反発、知ったかぶり、食わず嫌いや先入観で判断する人は・・・触れて感じることを忘れている人、新たな事を知る喜び感動を味わえない人、頭でっかちで素直に感じる心を見失っている人間失格になります。

情報で知るのも必要です。 
ただ知っただけでは記憶や知識だけで終わりますが、それらあらゆる(文字音楽映像や現実事実)形に、あらゆる方法(情報通信講演見聞実習)で探求し接し触れることから、はた目や見た目だけではなく、また結果がどうであれ、それらが実感として心で感じることが出来るようになります。

しかしながら問題があります。
良い悪いで判断しているかぎり裏表の矛盾が出てきて、それを選択する必要に迫られて迷い混乱・葛藤・試行錯誤を繰り返すことにもなります。
だからそんな時は良い悪いで判断せずに、あれこれ迷わずに、とりあえずでもいいから、とにかく無理をせずに、自分に出来る実践行動表現をやり続けるだけで、後は「成るようになる」結果・天命に任すことです。 そして現れ出た結果にも良い悪いで判断しなければいいのです。 やっている結果がその都度出ているだけだから、その後もやり続けて追及・探求するのも、または気付き反省して間違いだったと実感できれば納得して止めることもできます・・・突然の「まさか」とは違って「成るようになった」ことになるのです。
そして頭だけの知識ではなくて実感・納得・悟りとなりますから、その結果がどうであれ、意識して動き実践することが「生きている証し」であり、それが愛の表現になります。

しかし、やる前から結果を予測想像したり理想目標にすれば、それが努力目標になったりして無理しすぎたり欲張りすぎたりして心労苦労を重ねることになったり、しかもなかなか思った通りに事が進まないで焦り苛立ことになったり、それが思いもよらない「まさか」の結末結果・有事になることもあります。

そして「良い悪い」で判断している人ほど、人を責め自分を責めている人ほど、大したことでもないのに、まさかの「真坂」に思うことになるのです。 そして失意のどん底に陥ったり、やけくそや腹いせで暴れたり、手におえなくなって放り投げ出したり、自分を破壊・壊したくなるのです。
・・・それらが現在多く巷で起きているでしょう・・・そして多発することがあっても収まることはありません・・・良い悪いで判断する世界が続く限り・・・どうしょうもありません。
そして経済も政治も環境も暗い闇で行き場を見失い行き詰まっていますから、息詰まって窒息寸前でもがき苦しんでいるから、まさかの有事が突然起きても不思議はありません。 
だから何年も前から言われているように・・・今もまさかの有事が止まることなく出ています。 それも先に原因があるのだから、しぜんに「成るようになっている」結果です。
結果は後からついてくるものであり、原因と結果はつながっていて正直に出ます。

原因と結果は正直です、嘘や矛盾はありません。

2008年09月13日 | Weblog
愛は優しさ思いやる心です、そして感謝出来る心があります。
しかし優しくしたい・親切にしたい・心使いをしたいというような思いから出たのは本物ではありません、すなわち偽善になります。 こうありたい、こうなりたい、そうしてあげたい、そうすればいいだろうというような思いが先ではなく、(思い考える間を空けないで)間髪いれずにしぜんに出た表現行動が愛になります。 ・・・間が空く→空く間→あくま→悪魔・・・髪一本の隙間に悪魔・偽善が入る・・・

愛は完全です。 
しかし一般的に完全な愛の人・完全意識になるのもなかなか難しいと思います。
そこで良い悪いで判断しなければ愛の人になります。
でも常日頃から良い悪いで判断していますから、これもなかなか無理があります。
そこで今度は良い悪いに執着しなければ問題なく解決され、やがて愛の人になれるかもしれません。
しかし此れも日常的にこだわり執着して生活しています。
家族を守る衣食住・財の安全安心の追求が拘り執着にもなっています。
趣味嗜好娯楽・刺激の追及が執着になっています。
希少価値や美を追及するのも執着になります。
例えば、このままでは気に入らないから・・・美しくありたい、綺麗に見せたい、着飾りたいのも執着になります。 高額エステやブランド物に拘るのも過ぎた執着になります。
そこで今度は「過ぎた」執着をしないように心掛けることになります。

すなわち良い悪いもあり執着もある中で「普通」の生活を大切にすることになります。
その常日頃の「普通」の中に愛があります。 
しかし思い考え判断した特別・意識の中に愛はありません。
例えば、記念日を覚えていてプレゼントをしたり感謝の言葉や褒め言葉を言えば相手が喜んでくれるだろう・・・と前もって思い考え想像・予測目的意識から出る特別な表現行動は偽善になるのです。
困っている人を見かけて(困っているように思える人を見て)・・・そのままの気持ち・思い考えを巡らさないで、無心・自然体で歩み寄り・・・どうかしましたか?と一言声をかけることが愛になります。 その思いが強すぎたり、喜ばれたい・結果を残したい行為であれば執着したことになり偽善になります。

我が子・家族に心をこめて言葉をかけるのも愛です。
しかし儀礼的・恒例・習慣的な挨拶では愛とは言えません。 
心のこもった笑顔の挨拶は愛になります。
でも自分自身に悩みや不安心配や怒りがあれば心のこもった笑顔にはなりません。

では、その悩みや不安心配・怒りは何処から来るのかと言えば、先ほどの良い悪いで判断したことが原因になっています。
原因は自他共に良い悪いで人を責めたり自分を責めているからです。
だったら思い切って「自由」に自分の思い通りに生きて、持っている個性役割で楽しく生きてみれば如何でしょう・・・ 他から良い悪いで判断されていてもまったく気にしない、また自分自身も良い悪いで判断しないで自他共に許せる心(責めない心)を持てば・・・ 過ぎた執着がなくなって意識的には十分気楽になります。

自他共に良い悪いがあるのは仕方が無いのだから・・・あまり過ぎた思いにならないで・・・過ぎた執着さえしなければ自由に楽しく生きていけることが出来るのです。
良い悪いで判断しないで、それに執着しないで、仕事や家事などの常日頃からあたり前のようにやっている自然体の毎日であれば、特別に思い描く目的や理想が無い分それだけ不平不満・不安心配・怒りになることも無くなるから、自ずと笑顔が心から出てくるようになるのです。 その笑顔の輪が広がり増えていけば自ずと比較差別や競争意識も次第に無くなっていきます。 そして執着も消え、良い悪いの判断をしなくなり、完全意識となっていくことでしょう。

完全になりたくても完全にはなれません、愛の人になりたくても愛の人にはなれません、結果は後からついてくるものです。 焦らずにやってさえいればしぜんと結果が出ながら、それが気付き反省や悟りとなって導いてくれます。 
原因と結果は正直です、離れていません、嘘や矛盾もありません、今の現実状況は成るように成った結果が現れているだけです。
その今の現実状況を何とかして変えたいのであれば、原因となっている自分の意識を変えないかぎりどうしょうもありません。
その意識改革の為に登場してきたのが良い悪いを持たない「完全真理」なのです。


完全・実在、不完全・非実在

2008年09月11日 | Weblog
すべてが神であり愛ですから、その愛を感じられる人になると、すべてが喜び感謝になります。 至福の時を味わえます。
愛される人より、愛することが出来る人
・・・優しさ思いやりを感じられる人。
感謝される人より、感謝が出来る人
・・・ありがたいと感じることが出来る人。
そして、雨やんで「傘を忘れない」人
・・・いつまでも感謝を忘れない人。
その人には至福の時があります。

目的を持って成りたくて成ったものは本物にはなれません。
 ・・・成ったと思う、思い込み錯覚勘違いや自惚れ自己満足になります。
愛を出したくて愛を出したものは本物ではありません。
 ・・・あるがままの自然体でなければ愛にはなりません。
感じたくて感じたのは思い込み・幻覚・錯覚勘違いになります。
見えないものを見たいと思って見たものは夢幻・白昼夢になります。
何故ならこれらは完全ではないからです。

人間は息をする時に・・・自分で空気を吸って息をしたいとは思っていません・・・息を止めたくても止めることは出来ません・・・しぜんに息ができています。
同じく、息を吸う肺や心臓などの臓器も自然に動いています・・・命令しなくても、意識しなくても、思い願わなくても動き続けています。
人間はそれ以外にも知識や記憶を留めて置くここが出来ます。 五体を思うがまま・自由に動かし働かすことが出来ます。 
それは「完全」だからです。 
「命」は完全です。 その命には「愛」があります。 
その完全な命の愛があるから人間は生きて表現することが出来ます。

ところが人間は思い考え判断想像します。 しかし判断想像は頭の中だけに限られるから実在の世界に現して見せることは出来ません。 だから頭の中で実在していても非実在になります。 その非実在は実在できないから「不完全」となります。
ゆえに思い考え判断想像する不完全から「完全」は絶対に生まれません。

また「完全」になりたくても完全にはなれません。 「完全」は元々から持ってあるものだからです。 神が神になりたくて神を探すような矛盾があります。
元々の「原因」が完全だから、その「結果」として完全が生まれているのです。 
だから「完全」は実在することができます。 それが私たちでもあります。 
完全な命が実在しているのだから、不完全・非実在を無くすれば完全・意識に戻れるのです。

不完全な思い考え想像した中から生まれたものは形であれ物であれ、全てが不完全です。
不完全だから有って無いようなもので非実在になります。
ガラスは(物質・命がありますから)実在ですが、ガラスコップという形は非実在になります。 車や建物も同じです。 化学薬品や薬も同じです。 薬の中の物質成分が実在で命・愛がありますが、薬と言う形や物は非実在になります。

個人意識の人は「命・愛」を見ないで非実在の形・生老病死・喜怒哀楽で生きていますから、その非実在の不完全な意識・個人意識から出るエネルギーの通りに(自分の思い通りに)生きて、これまた同じように人間の肉体・精神体・感情体を使って生老病死・喜怒哀楽で生きる事になります。
元々の完全な意識・命・愛に戻らない限り同じ繰り返しが永遠に続きます。

完全なもの(命・意識)を消滅させることは出来ませんが、不完全なものは非実在で元々から無かっただけに、完全(命・意識)をもってすれば簡単に消すことが出来ます。
非実在の不完全な形は「意識次第」でどうにでもなるのです。・・・幸福と思えば幸福に思えるように・・・
例えば、癌と思って見れば癌の形がありますが、その癌細胞を命・愛と意識すれば体に及ぼす影響が減っていき、その意識次第では形が消えて見えなくなります。 
しかし癌細胞を悪い敵として摘出排除すれば体に及ぼす弊害副作用も大きくなります。
神の手を持つというような名医が行う臓器移植手術も同じです。

ちなみに死ぬ時が来たら死ぬのであって、それが病死や事故死や衰弱という形だったりするのです。 その形である病気も肉体の死も非実在になります。 
実在の「命」は完全だから消えて無くなりません、人間に形で見えなくなるだけで命は永遠に続きます。

伝統虚無僧流尺八の極意と完全真理

2008年09月09日 | Weblog
私がビデオ撮影制作していた頃のことですが・・・虚無僧流尺八の極意である「吹け、吹くな」「鳴らせ、鳴らすな」という一見矛盾しているようだが、極めれば自然体になると説く極意だったことを覚えています。

これを完全意識にあてはめると・・・完全意識になりたいと思わないで、完全意識になりなさい・・・となります。 だから宇宙意識・完全意識の山田耕栄さんが、自らが完全になりたいと思っていたのなら完全にはなれなかったでしょう・・・自然体でなければ本物・完全にはなりません・・・だから修行を積んだイエスや釈迦が修行は無駄だと悟って、そのことを弟子に伝えています。
だから有能な方であっても、修行したと自慢している人はすべて不完全な中途半端なところで止まっている未完成の未熟者になります。 
だからイエスが早死にしたのや釈迦が完全に至らなかったのも修行したからと言われています。 修行は己の欲から出た偽善なのです。 また選民意識も偽善になります。

今の私たちは不完全です。完全に1㌫足りなくても不完全です。
だから完全になろうとする目的意識を持たずに、ただ完全真理を素直真面目真剣にやっていれば成るように成って、自ずと結果が後からついてくるということになります。 その結果というのが「新たな地球」の人間とも言われていますが・・・

不完全な者が言われた通りの完全になろうとして頑張りすぎると、その過程途中になかなか思い通りにならないという焦りや悩みや迷い混乱が起きますが、・・・完全真理を知り納得している中での未熟さが出ていることを承知していれば、その未熟さを承知でやっているからには気付き反省する事があっても、焦り苛立ちや自分を責めることになったり、迷いや混乱が起こることにはなりません。 まして修行で極めようとはしません。
未熟さを知り尽くした上でのゆっくりとした歩ですから、その一つ一つの積み重ねが喜び感謝になりながら歩んでいるわけだから、その面白さも楽しさもゆっくり味わいながら進んでいけます。 飽きずにやれる、途中で放り出さないで、諦めずにやれるのです。

完全な人になろうとか、優しさ思いやりの愛の人になろうとか思いすぎると、その真理に拘束されて生きているようだからあまり感心できません。 また真理で言われているようにこの世は強い不信感や怒り、不安や恐れが渦巻いている闇の世界と思えば確かにその通りですが・・・その真理にある・・・己を信じ、人を信じていれば・・・日々安心して暮らしていけるのです。

この世は裏表のある世界ですから、真理も使い方次第で両刃になります。
真理で言われているからとすべてを鵜呑みにして盲信すると、その真理に自らが縛られる結果にもなりやすいから、真理とどう向き合っていくのかその姿勢にも注意が必要です。

また先々の予測や目的意識を持っていれば、その先々の結果が予測と違ったり、自分の思い通りでなければ不満や苛立ちになるかもしれないが、思い考えて期待していなければ成るように成っている事実だけを穏やかな心で静かに見ておれます。 
気にしなければ気にならないのが人間です。 思いもよらないまさかの有事を真坂にするのも、まさかを真坂にしないのも、己の気持ち意識次第です。 また・・・そのまさかの結果の元々の原因はすべて己にあることも忘れずに・・・ そして原因が先で、結果は後からついてくるものだと言うことも忘れずに・・・


オリンピックの感動で何か気付きませんでしたか?

2008年09月02日 | Weblog
目的意識を持たなければ喜び感動が大きくなる。
例えばオリンピックでメダルを取ることが有望視されている人と、メダルにも届かないような人が大活躍した場合とでは喜び感動の伝わり方が事実違っていましたね。
そして有望視されていた人が棄権したり敗退したりすれば落胆も大きくて批判の対象になったりして気の毒な立場になったりしていますね。

行楽のキャンプであれこれ予定を立てないで、思いついたバーベーキューで持ち合わせの材料やお隣のキャンパーから譲り受けたり差し入のお蔭で思わぬバーベーキューをすることができたり、予定していなかったけれど近くに落ちている流木や枯れ木を見て思いついたキャンプファイヤーであれば思わぬ新鮮な感動を味わえます。 しかしバーバーキューをする目的でいけばその準備だけで大忙しで大半の時間を費やしたことになります。 バーベーキューという結果は同じであっても、あらかじめ想像していた事の目的が達せられた喜びと、想像もしていなかった思わぬ喜びとは違いが大きいですね。

家族家庭内でも同じです。
誕生日のプレゼントと思わぬプレゼントとは喜び感謝が違いますね。
誕生日のプレゼントはあたり前の儀式・儀礼の感謝になっていませんか?
記念日を祝う習慣・風習・伝統がなければ、その記念日を忘れていても何ら問題にはなりません。 しかし思ってもいなかったプレゼントを記念日に頂ければ大喜びの感動になりますね。 同じ記念日のプレゼントなのに何でここまで違うの? おかしいと思いません?

好き同士なら、夫なら、妻なら、夫婦ならと、自分勝手な都合で相手に期待したり見返りを望んだりする目的意識があったり、此れくらいのことはお互い様であたり前と権利義務関係のような当然に思っていませんか? してもらってあたり前、やってあたり前・・・夫ならこうしてくれるだろう、妻なら此れくらいはあたり前にしてくれるであろう・・・そんな(思い想像・目的)意識で毎日過ごしていませんか?

喜び感謝を前もって思わなければ(過去未来・目的が無いから)すべて初めての新たな新鮮な喜び感謝になるのです・・・それを「今に生きる」と言います。 
オリンピックの喜び感動も、行楽や家庭の中の喜び感動も同じなのです。

私が過疎地で暮らすようになる以前から大した目的はありませんでした。
子供の頃に山遊びしたように山で松や竹を切ったり、道具機械を使うことが好きなから草刈機で雑草を刈ることやチェンソーで丸太を切ったりしたかったのです。 そして廃屋を整理して週末の別荘感覚で寝泊りすることを考えていたのです。
しかしそれ以上の物珍しさや自然現象もあり、そして遊び感覚で味わえる炊事洗濯やお風呂などの日常生活の楽しさ呑気さ、そして質素倹約の面白さが味わえたのです・・・だから山で年金暮らしを始められたのです。

だからお仕組みご縁のあった方が山へくる時に必ず言うことにあるのが・・・目的意識を持たずに、ぶらりと立ち寄る気分で来てください・・・おもてなしはいっさい無いので好き勝手にやってください・・・です。 
その言われた通りにして・・・自前で買ったローソンのおむすびを食べてからベランダで寝転び昼寝をしただけで満足して帰り、また突然やってくる人もいました。
あれも此れもと慌ただしく過ごしていれば自然の中での昼寝は味わえません。

そんな何でも無いことが喜び感動になるから人間は生きていけるのです。
自分の目的を達するためだけに生きているから一時の自己満足しか味わえず、その半面不平不満の苦労や悩みが付いて回るのです。 もういい加減に気付いたらどうですか?

結果は後からついてくるのもです。 やってさえいれば結果・喜び感動は自ずと出てくるのです。 まじめ真剣にやっていればその結果も出てくるのです。 愛は絶対に裏切りません。
思ってもいなかった成果成績結果が出れば喜び感謝の至福になりますが・・・先に結果を予測するから思いもよらない結果にもなるのです。 
それが例え自分の思い通りになっても至福の喜び感謝には至りません、一時の自己満足で終わり、あとは新鮮味の無い燃え尽き症候群のようにもなるのです。
・・・何でその事に気付かないの・・・言葉知識ではなくて実践で・・・

必然のお仕組みご縁を信じる勇気と決断が自分を変える

2008年09月02日 | Weblog
すべて偶然はありません、必然・お仕組み・ご縁です。
自らが探し出して精神世界・真理に通じるこの文書を読んでおられることは決して偶然ではありません。 あなたにとって必然であり、ご縁であり、見えない世界に仕組まれたことです。
その仕組まれたことに乗るか乗らないかの選択で人生・生き方・方向性が違っていきます。
・・・それを私に起きた数々のお仕組みご縁を紹介すると・・・

働き盛りの頃に日本初上陸のネットビジネス「スワイプ」商法にご縁があったことから無店舗販売&会員紹介のネットワークビジネスに関心がありました。 それもビジネスで収益をあげることよりも、誰よりも先んじて(初登場・初期の)選りすぐれた商品情報を提供できる面白さに取り組んでいました。 その中の一つに、始まったばかりの安全・安価なアメリカ健食の個人輸入にもご縁がありました・・・それが縁で国産健食の裏側を知ることになり、会員紹介料で儲けていた国産健食から手を引きました。 

特筆できるのが、今ではあたり前のように言われる抗酸化物質が含まれるバイオ・多機能性健康食品の信じられないような効果効用にもご縁がありました。 しかし1ヶ月分で1万円でしたから、もっと安価で確かなものはないのかと探している時に聞きなれない「波動」「宇宙エネルギー」の摩訶不思議な効果効用に驚きました。 
そして人生転機の第一歩となる宇宙エネルギー浄水器に取り組みました。・・・これら全部が顔の見えない情報交換であり、高額投資をして入会する必要があるから・・・信じられないような内容文書を信じる勇気と決断が必要でした。 また、たくさんある中の一つの情報ですから、気付かずに見落としていたかもしれません。

摩訶不思議な現象が起こる宇宙エネルギー浄水器の情報発信で一番目の会員が自称水博士という方にご縁があり、その方から即座にこれは本物だというお墨付きまで頂きました。
そこで自信を持って情報発信していると今度は<水>に深いご縁がある竜神さんご一行の宇宙的霊能者と仲間が<水>を知りたくて自宅まで訪ねてきました。 そして全員が浄水器の会員にもなりました。 私は摩訶不思議な超科学を信じても神仏・宗教や霊能者・霊界・オカルトは信じていなかったのに、その人の言葉を否定反発せずに何とか信じる方向性に意識していたら、何故か次から次と納得理解できる事柄が増えていき、とうとう想念の世界・霊魂の世界の文書が数多く書けて情報発信するまでになりました。

(表の世界)超科学の宇宙エネルギー&水の世界と、(裏の世界)霊魂の世界の摩訶不思議な二つの世界を詳しく知ることにご縁がつながったのです・・・もし霊能者・竜神さんご一行を気味悪がって否定反発して来訪を断っていたなら絶対に今の私はありません。

宇宙的霊能者と5年くらいご縁が続いていましたが、私との意識に少しずれが出てきたので交流を控えていたら、今度は嫁いだ娘から・・・暇で退屈しているのならと・・・山田耕栄さんの講演会テープを渡され、それを時々聞いていたのですが・・・説明の言葉が違うだけで内容的には大差ありませんでした。
だからそんなに熱心に聞いてはいませんでしたが・・・「良い悪いを持たない」この言葉の意味をうわべだけで理解していたのが、テープを何本か聞いているうちにハッと目が覚めるように、完全真理が完全である奥の深さに気付き、それまで尊敬していた霊能者が未完成の未熟だったことにも気付かされました。

完全だから完全といえる、本物だから本物といえる、それだけの自信を持ってこのように情報発信できる凄さというか・・・自分の喜びであり、面白さ楽しさがあります。

自らの直感・感性を信じ、自分から探り知った「新たな」ことに否定反発しないで、素直・真面目に取り組んでいれば先が見えてくる面白さやその感動を味わえることになるのです。
しかし自分の自尊心・意地や見栄、常識・知識、それらに執着、そして不信感とすぎた欲、すなわち自我が強ければレールがやがて二股になり、その選択を間違うことになります。

単なる情報発信ではありますが、此れまで約20年間たくさんのご縁・お仕組みがありました。 でも全員が何処彼処で折れ曲がり途中でご縁が切れています。
私の宇宙エネルギーの先生や尊敬していた宇宙的愛の持ち主・霊能者さえも間違った方向性に歩んで行ったり、耕栄さんを深く知っているのに途中で止まっていたり、有能な人が私利私欲の方向に行ったりするくらいだから無理もありませんが・・・

山田耕栄さんの人物像は遠くから3度しか見ていませんが・・・立ち振る舞う姿を見て判るような私でもないので(^_^;)・・・
理解度が増した完全真理と宇宙エネルギー・常温核融合が巻き起こしている現象から見れば、宇宙・的・ではありません、「宇宙」そのものといって過言ではありません。

今まで無かった新たなことを信じる勇気と決断と行動・ご縁で、自らの自信・自力向上とその喜び感謝を味わうことが出来ます。