孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

精神世界は己の思い思惑を叶えるためではなく、喜怒哀楽のない精神の安定が本来の精神世界です。

2016年08月31日 | Weblog
人間関係に中に恋愛関係や夫婦関係や友人知人や仲間とかメル友とか、また中には生涯の友と出会っていると思っている場合もありますが、
しかし人間関係は矛盾偽善に満ちていますから不変ではありません。

ちなみに私の甥が生涯の友に巡り合えたと大喜びしていましたが・・・
然るに親戚兄弟も友人知人もいらなくなったとばかりに生涯の友と一緒に過ごす時期がありましたが、その甥が病気になっても見舞いに来ていないし、回復することなく足早に死亡したのだが、その葬式にも来ませんでした。

然るに単なる一時の遊び友達の類と同じですから、どうやら甥の片思いの生涯の友だったようです。

とにかく生涯の夫や妻だとか、また生涯の友とか大そうに言うような人間関係でも、自分さえ良ければのご都合主義の個人意識からして矛盾偽善になるのです。

だから時が経つにつれ変化して、それがぬか喜びだったことにもなります。

またそれが裏切った裏切られたという裏切り関係にもなっているのです。

何はともあれ人間関係は良いことも悪いことも「お互い様&お陰様」であることを学び知り気付くためにある形なのです。

然るに人間関係でもって精神の学びになるのが本来なのです。

ところが好き嫌いの感情体・感情に支配されたような生き方からして、その変化刺激や喜怒哀楽の繰り返しや、また山あり谷ありの波乱万丈にして生きることになるのですが、
そこで頑張らない・欲張らない・見栄張らないで心穏やかな精神の安定でもって生きることからして、
その人間として生きていることの意味・正味・価値が見出され、それを味わえるのです。

然るに喜怒哀楽や変化刺激の矛盾からして中途半端になるから納得できずに繰り返すことにもなっているのですから、
この辺で好き嫌いやの矛盾・苦楽・変化刺激・快感快楽の肉体や感情体から卒業して、
その精神の安定・精神体でもって生きることになれば納得人生にもなるのです。

とにかく精神世界に係るからには己の思い思惑を叶えるためではなくして、喜怒哀楽のない精神の安定でもって生きていくことが本来の精神世界です。

貧困差別を大ごとのように言う輩のほうが危険意識・レッドカードになるのです。

2016年08月30日 | Weblog
縄文時代が太平にして長く続いたのは武器を持たずにして他国を攻めなかったからです。

ところが他国を攻めるために武器を持った弥生人・弥生時代に追いやられながらも少数民族となって北の未開の地でもって何とか生き延びていたようです。

また戦国時代が終わったのも徳川家康が全国統一を成したからですし、また他国と戦うことをしなかったから(身分制度や貧困差別があっても)天下泰平の世が長く続いたのです。

ところが強力な武器を持つ先進国とやらの脅威から日本を守るためにと何がしの名目をつけて、その天下泰平で退屈していた不満分子・下級武士が立ち上がり明治維新が起きたようなものです。

ところが明治維新となって文明開化の時代になるが、その文明開化の武器を使って他国を侵略し合う大戦が起きました。

そしてそれが昭和の大戦にもつながり敗れたことからして戦争は嫌だとなり他国とは戦わない平和が現在も続いています。

とにかくいつの時代にも貧困差別があるが、此れではダメだ何とかしなければの意識からして戦争となれば勝っても負けても大勢の死傷者が出て悲惨な結果になるのです。

しかも戦争によって文明開化が進展するという皮肉な結果があるから、いつの時代も戦争の脅威があるのです。

然るに此れではダメだの不満と、何とかしなければの欲からして立ち上がる者が現れると、それに洗脳されたが如くにして集団化・集合意識となれば、それが維新革命や動乱にもなるように、それが一歩間違えばヒトラーが如くの独裁者が現れることにもなるのです。

とにかく維新革命で時代が変わっても、しかし比較競争差別する個人意識があるからには貧困差別の思いは絶対的に消えないのです。

だから此れではダメだ何とかしなければの不満と欲が出てこない生き方・自己縮小の実践にならない限り貧困差別よりももっと困ったことになるのです。

とにかく貧困差別は比較競争差別したがる個人意識が原因ですから、
然るに各々個人の精神の中にある不満なのです。

然るに一人芝居をしているようなものですから、対外的・世間的には思うほど大そうなことではないのです。

それを大ごとのように名目をつけて(内なることを対外的にして)(私は正しいとして)(ヒトラーやオウムが如くにして)対決し闘おうとする輩の意識のほうが危険信号なのです。

だから自作自演一人芝居&一人相撲の貧困差別(不満)なんか気にしないでほっとけば維新革命や乱世や戦争になることは絶対にありません。

とにかく「此れではダメだ、何とかしなければ」の個人的な不満が集まることで大ごとになっている事実があるからには、それらを気にしないで「ほっとく」ほうが賢明なのです。

ちなみに個人の中にある諸々の不満を解決しないで放置していたことが原因からしてその生活状態がホームレスや徳川時代や縄文時代が如くになっても人間は何とか生きていけるのです。

しかし欲を持った者同士が集まるから(人が集まるから)ヘンテコなことにもなるのです。

私は正しいとして守り闘うよりも「逃げるが勝ち」となる事実がこの世人間関係にあります。

2016年08月29日 | Weblog
原因と結果が同じことからして、不完全意識の人間が何を成せども同じ不完全で矛盾偽善になるとして自覚納得確信に至っても、
そこで頑張らない・欲張らない・見栄張らないで、
ただ食って寝て糞をしながらにして生きているだけのような実践となると、
殆どの人には無理なことでしょう。

となると良い悪いで判断しない完全真理を学び知り納得確信に至っても、
また自己縮小の実践の必要性を理解納得確信しても、

然るにこのブログを理解し納得確信しても、
ただ学識知識を高めただけで終わり、

結局は此れまで通りの苦楽・喜怒哀楽の繰り返し人生の、大した欲もないが素朴に生きることにもならない、そんな不甲斐ない、中途半端な意識のままに終わることでしょう。

そしてまた人間には無くすることのできない生まれ持つ欲がある事からして言えば、
然るに「人が集まる」ところには欲が渦巻いているとして理解納得確信しても、

しかし己の見栄や欲からして不完全な人間関係から離れることには無理があり、
結局は此れまで通りの人間関係を続けていくことになるでしょう。

また人間は肉体と感情体と精神体でもって成り立っていることからして、
その肉体の諸々のことを気にすることなく生きて、

また好き嫌いの矛盾する感情でもって喜怒哀楽の繰り返し人生になることを卒業して、

そして精神体である己の中の嘘偽りのない精神世界でもって自問自答しながらにして独自独歩で生きていくとなれば、
これまた無理なことになるでしょう。

然るに「どうしようもない」ままに人間を終えることになるでしょう。

しかしそれだけならまだしも!!!

人それぞれの欲が渦巻くところにお金と時間を使ってまでわざわざ出向くことからして、その欲望の渦巻く被害者にも、また己がその加害者になることもあるでしょう。

ちなみに己一人で相手も一人の一対一なら大した問題にはならないが、
しかし欲張っている己が一人でも、同じような欲で集まっている人数が多ければ多いほど大ごとになります。

然るに世間で騒がれマスコミで騒がれ世界で騒がれる事態にもなり、その被害者とその加害者の立場になることもあるでしょう。

それがインチキ詐欺ならまだしもオーム真理教が如くや、またヒトラーや毛沢東やの独裁者集団の仲間だったリ、時代をひっくり返す維新革命戦争のメンバーだったリ、また過激な行動集団や暴力的なメンバーだったり、また裏社会の抵抗組織・テロ集団の仲間だったリすればいったいどうなる事やらわかりません。

ところが闘うことしないで逃げていた縄文時代のように、
また大政奉還で国内戦争から逃げた徳川幕府のようであれば、

大きな犠牲を伴わないで済みます。

然るに「逃げるが勝ち」になるのです。

ところが逃げることをしなければ明治政府のように世界大戦になりますし、昭和の世界大戦にもなりました。

然るに私は正しいとして守り闘うことになればその犠牲者が出るのが道理にあります。

しかし欲張らずに・見栄張らずに済ませれば事無く進み成るようになるだけです。

然るに自分のことだけで精一杯のはずなのに何で人様のことにまで係るのでしょうか、
それが「此れではダメだ、何とかしなければ」の欲であり見栄だからです。

そして結果的には自分の首を自分で絞めることにもなり、
またそれが人様に対してはた迷惑なこと・加害者にもなっているのです。

だから頑張ることも欲張ることも見栄張ることもなく、
また欲が渦巻いている人の集まるところへ出向くこともなく、
然るに感情が高ぶることもなく心静かにして、

そして安易に他力に頼ることもなく、
然るに独自独歩の自由を味わいながらにして、

また謙虚さと素朴さと自力自信の精神力にして、
人間本来の生きていることの価値を味わいながらにして納得人生を歩むことでしょう。

肉体や感情体を酷使しない穏やかな精神体で自問自答しながら生きていくのが人間本来の生き方です。

2016年08月28日 | Weblog
諸悪の根源が不平不満にあります。

また不平不満と自己満足の矛盾からして表裏一体ですから、その自己満足を求め欲しがることからしてそれが叶わなければ不平不満にもなっています。

だから巷の不完全で矛盾偽善がある神仏霊魂の世界・信仰宗教やスピ系などに係る事よりも、
とにかく己の中から不平不満が出てこないような生き方にするしかありません。

ちなみに恋愛関係にも、また夫婦関係にも、また家族子育て関係にも、また親戚兄弟やの関係からも、然るにご近所関係や職場仕事関係や国家社会関係からしても何かと不平不満が出てきます。

そこでもうお分かりになった人もいるでしょうが・・・若者が成しているBライフ・サイレントテロなる形がぴったしカンカンの先取りになります。
然るに就職しない、結婚しない、車にも乗らないような生活様式ならばこの世人間関係が原因の不平不満になることが少ないはずです。

ちなみにそのBライフ・サイレントテロなる形が始まることになった原因が世間や学校や家族関係に馴染めずに引きこもりや不登校となっていた若者を集めていた主催者が死亡したことからしての成り行きからです。

だから不平不満が出てこない目的のために始めたことではなくて、不平不満からして引きこもり不登校になっていた若者の集団が成り行きで仕組まれた結果からして始まったことです。

ちなみに私の現在があるのも仕組まれ続けた成り行きの結果です。
だから不平不満から離れたくて始めた事ではありません。

ところが過疎地でもって自由気ままに暮らしているうちにやがて不平不満が出てこなくなったのです。
だから苦楽・喜怒哀楽もなくなり穏やかな心持で暮らしています。

だから世間一般的な人たちが諸悪の根源である不平不満の出ないような生き方になるにはBライフ・サイレントテロまでいかなくても、
頑張らないで欲張らないで見栄張らないで「楽に」生きていく自己縮小から始めることができれば上出来です。

とにかく諸悪の根源である不平不満を無くするために独自独歩の自力自信の精神世界でもって自問自答しながら生きてために人間たる証の精神体を持っているようなものです。

そして思い悩み・思考錯誤・葛藤しないためにも良い悪いで判断しない完全真理が必要だったのです。

そしてまた人を選ばずにして誰もが公平にして実践できる自己縮小が言われているのです。

そして矛盾偽善のある他力的な神仏霊魂や精神世界に惑わされることなく、
己の肉体や感情体を酷使しない穏やかな精神体でもって自問自答しながら生きていくのが人間本来の生き様になるのです。

原因があるから結果があります。然るにこの世は結果で原因は意識にあります。

2016年08月27日 | Weblog
原因が無ければ結果が出ることは絶対にありません。
然るにこの世は「結果の世界」であって、原因は<意識の世界>にあります。

その意識の世界が、あの世と言われる次元の世界であり、また永遠の命・魂の世界です。

然るに人間は「結果じゃなくて心意識命にあり」と書いています。

だからこの世人間関係の中でもって学んだことが、その結果・現状となって現れてもいます。

またそれが生きていくための職業・仕事・役割を果たすことにもなっています。

ちなみに現在サラリーマンであれば、此れまで生きて学んだその結果が出ているのです。

ちなみに私は此れまで学んだ結果からして自己縮小した現在があります。

だから現在が学者先生や芸術家や発明家や冒険探検家やスポーツ関係であれば、それは此れまで学んだ結果が出ている事であり、またそれら学んだことを伝え教え指導する立場にもなっていることでしょう。

また摩訶不思議な能力からして神仏霊魂の世界や信仰宗教やスピ系でもってその能力を活用している人もいるはずです。

だから己の能力からして出来るその結果を見せたり、また此れまで学んできたことを伝え教え指導している立場になっていることでしょう。

ところが己の結果でもってあの世・意識の世界・精神世界を語っているから、それは原因の世界・意識命の世界ではなくて、あくまで己の結果の世界を伝え教え指導していることになります。

だから己個人の偽善矛盾のある精神世界を人様に語っていることになります。
ちなみに私のブログも同じですが、その内容は矛盾偽善のない事実を書いています。

とにかく不完全意識の者が何を成せども同じ不完全な結果になりますから・・・この世に見えている姿形・結果のすべてが不完全でその矛盾偽善があります。
だから私は矛盾偽善が出ないための自己縮小の実践をしているのです。

然るに先ほどの巷の(学者先生や芸術家や発明家や冒険探検家やスポーツ関係者を含め)神仏霊魂の世界・信仰宗教やスピ系は不完全で矛盾偽善があるからそれらに係って諸々を学んでも結果的には無駄で余計なことになります。

然るに前もって結果を求めるのではなくして、その結果の元となる原因・意識の世界・精神世界を学ぶことが大切なのです。

だからこのブログに書いているように・・・矛盾偽善のある他力的な形に頼ることなく・・・己の原因の心意識である精神体=すなわち偽ることのできない己の中の精神世界でもって自問自答しながら独自独歩で学んでいくのが真の精神世界となるのです。

そこでこの世人間関係や結果を気にしない自己縮小でもって心穏やかに生きながら精神力を磨き高めることになればいいのです。

巷の信じるか否かのある摩訶不思議の世界・異次元現象の多くを卒業しています。

2016年08月26日 | Weblog
ちなみに完全真理によって信じるか否かのある神仏霊魂・信仰宗教・スピ系が矛盾偽善で成り立っていることの事実が確信になっています。
然るに過去の釈迦やイエスの類や現在のスピ系を事実に基づきボロカスに書いています。

またそれらの他力的な矛盾偽善の精神世界ではなくして、人を選ばずにして誰もが実践できることとして自らの中にある精神体・精神世界でもって自問自答することが真の精神世界だと見極め見出しました。

また巷で言われている摩訶不思議なテレパシーも少年期に経験していますし、
宇宙エネルギー関係でもってテレパシーやオーラーなる現象も見聞して事実となっています。

然るに人間を含めた自然界の万物には目に見えないエネルギー・生命エネルギー・意識エネルギー・常温核融合なる形でもって現れ出ていることの事実を見聞し確信納得できています。

またその人間が持つ生命エネルギーや意識エネルギーからして集団催眠術なることができるように人の思いを洗脳することもできます。
だから人の思いを書いた文書や使われている活字自体にも思い込み自己洗脳になるエネルギーが入っています。

だから同じく人の思いが込められ作られた絵画や音楽や造形偶像や色とりどりの装飾や照明でもって洗脳されることもあります。
然るにポケモンが如くの映像と音楽と光りなどが混ざるほど引き込まれやすく、その製作者の意図・思いが洗脳が如くに入ってくることがあります。

だから同じく映画ドラマや観劇芝居や講演会や創作書物でもって洗脳されているところもあります。

また蛍光灯やテレビから出る電磁波で身体が影響するように、現在は電子レンジや地上デジタル放送やパソコンなどのデジタル化時代だけに人身細胞・脳細胞に相当なダメージを受けていると思われます。

然るに私は人為人工的な諸々の形に接し触れないでいられる過疎地でもって自然界と接し触れあっている時間が長いです。

それとテレパシーやオーラー以外の異次元現象としてはラグビーボール同型のUFO飛来をまじかにしてしばらく見ていますし、
また摩訶不思議となると一度か二度で終わるのが普通なのに、8月9月になると夜中に謎の光る物体が庭先に現れていますが、今年で連続8年になります。

しかも去年は手の届くところまで来てくれましたので正体が見えるかもと懐中電灯を照らすと瞬間移動したが如くに消えました。

また実験用のマウスが瞬間移動してきたのか一階の隙間も穴もない天井から落ちてくるということや温泉風呂で頭の上にのせていたタオルが消えるという珍現象もありましたが・・・その他は省略くします。

あれこれと書きましたが・・・諸々の信じるか否かを卒業できることは・事実でもって確信納得することは・・・自力自信の精神力にもつながっています。

それだけに人為人工的な事柄に係る事や他力的な依存がどんどん減っています。

ちなみにその原因は・・・若い時から「何でも知りたがるやりたがる」好奇心旺盛さと創意工夫が好きな個性・意識からして仕組まれたことと思われますし、
また中途半端が嫌で自分なりに納得するまで突き詰めるタイプが効を成したのでしょう。

この世人間関係は「どうしようもない」から、孤独の自由にして実践するしか他に道がないのです。

2016年08月25日 | Weblog
私の中にある精神世界を暇な時間つぶしに書いていることですが、しかし人を選ばずにして誰もが実践できる自己縮小と、また己の中の精神体・精神世界でもって自問自答するという、これまた人を選ばずにして誰でもが実践できることを書いています。

然るに宗教真理・思想哲学を超えた究極の精神世界&実践真理なのですが、
ところが内容的にはニートになりなさい・ホームレスになりなさい・Bライフ・サイレントになりなさいと書いているようなものですから、

また仏門に下り出家するくらいの心意気が必要だと書いているようなものだから、

然るに人を選ばずにして誰もが公平に実践できることであっても、しかし一般世間には向いていないところがあります。

また神仏霊魂の世界・スピ系に属する人たちには自分の都合からして・今の立場を守る意識からして、ここに書いている内容を深く理解しないままに遠ざかるところがあるようです。

然るに今を生きている事実ではなくして、
良い悪い・善悪損得優劣・好き嫌いで判断する矛盾意識にして、
またその思い思惑・理想目的・期待願望の仮想の世界・想像の世界でもって生きているところがあるからです。

そして何よりも・・・実際に実践してそれを味わっていないから・・・違和感や特別に思えるのです。

然るにニートやホームレスやBライフ・サイレントなる形を事実にして味わっている者だけに通用するような実践真理なのです。

ちなみにご縁があったご婦人さんの話ですが・・・近所の公園に来たホームレスのおじさんに食事の接待施しをしたところ、空になった食器に5円玉(ご縁)を入れて立ち去っていたのです。
そんな粋な計らい・感謝の表現ができるのも・・・ホームレスを親しみ楽しんでいる・・・心の余裕・自力自信の精神力の表れだと思います。

何はともあれ精神世界は人様のためではなくして己自身のためにあるのです。

だから信仰心・信者意識でもって他力を信じて頼ることでもなくて、穏やかな心意識でもって己の自力自信の精神力のために自らが出来ることを実践するしかないのです。

そんな事からしても(先ほど書いたように)人を選ばずにして誰もが実践できる自己縮小と己の中の精神体・精神世界でもって自問自答するという・・・何ら特別のない実践真理が万人向きなのです。

ただその万人向きが気に入らない人が多いようです。

然るに「差別・特別意識」を持っている人が多いということです。

だからこの世人間関係は「どうしようもない」となるのです。

だから心ある者が先駆け「孤独の自由」にして、己一人が実践していくしか他に道がないのです。

お金の有無に関係なく老後を悠々自適にして暮らすには・・・???

2016年08月24日 | Weblog
釈迦やイエスが貧困差別を見て「此れではダメだ、何とかしなければ」と思ったことは不満と欲があるからです。

その不満と欲から卒業できたのが俗にいう仙人なのです。
だから仙人は悟りを開くための修行僧ではないのです。

然るに釈迦やイエスが悟りを開いていたのではなくて道半ばの未熟な精神体だったのです。

ところで悠々自適のはずの老後が虚しいと感じている人も多いと思いますが、それも此れではダメだ何とかしなければが原因です。

またその中には老いた肉体的なことがあったり、また義理人情や愛情の人間関係の不満や欲が原因だったり、衣食住の不満や欲・好き嫌いが原因だったり、中には国家社会に対する不満や欲だったりしている人もいることでしょう。

しかしそれらすべては「己の中に」あることです。
そして此れではダメだ何とかしなければとなっているのです。

そして中には釈迦やイエスが如くに人様を道ずれにして巻き込んでいる人もいることでしょう。

然るに自らのことさえもままならないのに人様を何とかしようと自惚れ慢心しているのです。

とにかく老後は孤独になりやすいが、人様のことを気にしている人ほど自由な孤独が虚しい孤独感になりやすいようです。

すなわち孤独の自由を味わずにして、余計な人間関係で苦楽・喜怒哀楽を味わっているから、その中途半端が原因で納得できずにいるからでしょう。

ちなみに私は食って寝て糞をしながらにして生きているだけのような暮らしぶりですから、一般世間から見ればサイテーなのですが、私自身は此れしか無いとばかりに十分納得しています。

ちなみにビンボー丸出しを楽しむこともできるのです。

然るに見かけで判断することではないのです。

すなわち人それぞれの「己の中の」精神の有り様で決まる事なのです。

だから人様のことを判断しないで・気にしなくていいのです。

だからこの世人間関係のしがらみから離れた過疎地で暮らしていることでその分だけ人様のことが気にならないから私には都合がいいのです。

しかし同じ集落で暮らしている人たちの場合は己の見栄・世間体・プライドからしてご近所が気になっているのは間違いありません。

だからお金があろうが無かろうが老後を悠々自適にして暮らすには見栄・世間体・プライドを持たないことです。

そして此れではダメだ何とかしなければと余計なことを考えないで成り行きに任せていればいいのですが、
しかし自己縮小が進むほどに暇な時間が増えて、その時間つぶしのネタを探すことで一日が終わっているようなものですから、
然るに若者のBライフ・サイレントなる形の実態も気になるところです。

縄文時代も文明開化の現在でも人間の本質はまったく変わりません。

2016年08月23日 | Weblog
私たち人間は・・・争い戦うことをしなかった縄文時代も、集合化効率化が始まった弥生時代も、その後の平安時代や戦国時代や、太平の徳川時代や、その徳川幕府を倒した明治時代も文明開化の時代も・・・何とか生きてきましたし、現在も生きています。

然るに「生きている」ことは同じなの時代ごとに何が違っているのでしょうか、
その違いは生活様式が違っているだけであって、食って寝て糞をしながらにして生きていることの本質は縄文時代と同じです。

となると人間は何のために生きているのでしょうか、
時代ごとの生活様式を味わうために人間として生まれいるのでしょうか、

ところで太古の時代からして自然界に感謝をする習わしがあります。
また妖術・魔術と言われる摩訶不思議を成す者もあらわれていますし、また予言予知占いを成す者や、また先祖供養や神仏霊魂を説く形でもって明暗・矛盾・天国と地獄・ご褒美と罰があるとして語る者が現れています。

然るに昔から自然界・神様仏様に感謝する事とその神仏なる形を奉り信仰することが人間の精神世界のように言われてきました。

ところがその神仏霊魂の精神世界には矛盾偽善があります。

だからこのブログではそれらの矛盾偽善を根掘り葉掘り書いて、その他力的な精神世界ではなくして己の精神に自問自答することが真の精神世界だと書いています。

また不完全な矛盾偽善意識からして何を成せども同じ矛盾偽善の結果になることからして、
そこで頑張らない・欲張らない・見栄張らないで、無理無駄のない楽に生きながらにして、
その心静かな余裕でもって己の中の精神世界に生きることを書いています。

しかしこの世人間関係の矛盾偽善からして己の思うがままにはなりません。

そこで世間や家族のしがらみから離れた孤独の自由にして独自独歩に生きていくしか他に道はありません。

然るに肉体的なことを気にすることなく、また感情的にならずにして、その心穏やかな己の中の精神世界で生きていくことになればいいのです。

そしてその成り行きの結果からしてフリーターやニートやホームレスになったとしても、またBライフ・サイレントなる形になっても、また縄文時代が如くの生活様式になったとしても、
人間ならではの持ち前の自力自信の精神力でもってなんとか生きていけます。

とにかく縄文時代も文明開化の現在でも人間として食って寝て糞をしながらにして生きていることの本質は同じですから、
そこで生活様式にこだわることなく、己の中の精神世界で生きることからして、肉体を気にしたり好き嫌いの感情体からして味う喜怒哀楽の繰り返しで生きることも卒業できて、そこから納得人生になるのです。

そして人間として生きている価値を十分に味わえるのです。

自己縮小の形になれば、世間的に自慢できるような生き様でなくしても納得して生きていけます。

2016年08月22日 | Weblog
ネットカフェで寝泊まりしている若者やコンクリート社会の片隅で段ボールと新聞紙で寝ている若者や山奥ニート・Bライフ・サイレントなる若者やホームレスの老人を見て・・・国家社会に役に立たない人間のクズに思っている人も多いようですが・・・

逆も真なりで・・・国家社会に役立っていると自惚れ慢心している人がその国家社会を危うくしていることに気付いていません。

だから不完全意識・矛盾偽善の者が何を成せども同じ不完全で矛盾偽善の結果になるなんて思ってもいないことでしょう。

ちなみにこのブログを見て理解できたとしても・・・判っちゃいるけどやめられない・・・なんて人たちも多いことでしょう。

だから全知全能にして天地を創造したその宇宙・神・愛意識の宇宙意識・地球意識・自然界からしてみれば、その世間で表立って動いている人のほうが宇宙のゴミ・チリが如くの命意識体に見えているはずです。

然るに此れではダメだ、何とかしなければ、と不満と欲からして自己拡大を続けてきた人間にたいして此れまで幾度となくイエローカードを出して見せているのに、それでもやめられない人の命意識体は・・・世間の片隅ならぬ宇宙のチリとなって宇宙空間に漂うことになると言われています。

また不登校や引きこもりになっている児童や若者は世間に馴染めないでいる人たちですから、
然るに私から見れば・・・今は世間に出ないほうがあなたのためになる・・・として仕組まれ守られている人たちだと思っています。

ちなみに就職しない、結婚しない、車にも乗らない、そんな若者が増えているのも先行きを見越して仕組まれてのことです。

然るにフリーターやニートやホームレスになった人たちも仕組まれ選んだことですから、その自力自信の精神力からしてこの世人間関係の矛盾偽善に気付いている人も多いとみています。

然るに思い思惑の先付ではなくして、思いもよらない結果からして後で気付く、その後付けが精神世界の本物になるのです。

然るに先付の「此れではダメだ、何とかしなければ」ではなく・・・仕組まれ成るようになった結果からして「此れで良かったんだ」と気付き・確信納得になるのです。

ちなみに途中退職や定年退職した男性が生まれ育った過疎地・ご近所に移転してきた人が四人いますが、その中に車の免許を持っていな人が二人いますが、活動的に動き回ることが無ければ車に乗る必要もありません。

ちなみに町が用意した福祉バスを予約しておいて一週間に一度二度出かけるだけですから、車を所有している者よりも素朴で質素倹約になります。

そしていつしか過去の自己拡大で生きていたことの間違いに「後付け」で気付くことにもなるのです。

そして世間的に自慢できるような生き様でなくしても、己自身は十分納得して生きていけるのです。

然るに世間的な価値観の幸せではなくして・矛盾偽善のある幸せではなくして、今を生きている事実・価値ある生き様・己の精神世界の中で心穏やかな満ち足りた生き様になるのです。