UGUG・GGIのかしこばか日記 

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八月や六日九日十五日:エノラ・ゲイ号の搭乗員たち、あるいは米国の戦争責任について・・・

2020-08-05 00:47:43 | 日記
8月2日(日曜日)の朝日新聞、短歌の欄に次のような作品が紹介されていました

《「責任を痛感します」叱られて児はアベさんの物まねをする》

GGI、思わずよくできた川柳を目にしたときみたいに笑ってしまったのですが、短歌であります。作者は子供にまで見抜かれている近ごろの政治家の言葉の軽さを嘆いているのでせうか

八月に「責任」といえば、最近はそうではありませんが、ひと昔前は戦争責任のことでありました。つまり「責任」と言えば、先の大戦における日本の戦争責任が、すなわち天皇の戦争責任などが、メディアなどで云々されたものでありました。

しかしながら、先の大戦における戦争責任の問題は日本など敗戦国だけの問題ではあるとは限りません。かつての「鬼畜」と称してた敵国、戦後このかた現在にいたるまで日本の宗主国?である米国にも戦争責任の問題が存在しているというのがGGIの考えです、と書けばみなさんすぐにお分かりになるのではないかと思うのですが(思いたいのですが)、広島・長崎への原爆投下は戦争責任を問われるべき行為ではなか、というのが今日のテーマです。

1945年8月6日午前8時15分、米軍B-29爆撃機「エノラ・ゲイ]号が広島市中心部にウラン原爆「リトルボーイ」を投下、広島の市街地は一瞬にして火の海となり地獄と化しました。何万人もの人々が高熱と激しい火炎と衝撃波と強い放射線のために瞬時に命を奪われました。1945年末までに推定で14万人が、1950年までに20万人が死亡しています。

映画監督オリバー・ストーンと歴史家ピーター・カズニックによる全3巻の大作「オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史」(早川書房2013年:現題はTHE UNTOLD HISTORY OF THE UNITED STATES)には、爆撃機が原爆を投下した瞬間のことについて、エノラ・ゲイの搭乗員たちの言葉が紹介されています。本日もまた他人の書いた本からの引用ですけれども、ご一読ください。搭乗員たちの言葉は以下のようなものです。
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爆撃機の操縦士のポール・ティベッツは、爆撃機を自分の母親にちなんで名付けた人物であるが、このときのようすをこう語っている。

「巨大な紫色のキノコ雲がすでにわれわれの高度より約500メートル高い1万3500メートルまで立ち上がり、おどろおどろしい生き物のようにまだ湧き上っていた。しかし、さらに凄まじかったのは眼下の光景だった。いたるところから炎が上がり、熱いタールが泡立つように煙がもくもくと上った」、「ダンテがわれわれと一緒に機上にいたとしたら、彼は戦慄を覚えたことだろう。ほんの数分前に朝日を浴びてはっきりと見えた町、いまはぼんやりした醜い染みにしか見えないのだ。町はこの恐るべき煙と炎の下に消滅してしまっていた」

ロバート・キャロン尾射手はこれを「地獄の光景」と呼んだ。

副操縦士のロバート・ルイスは投下後初の記録欄にしるした
「ああ、俺たちはなにをやらかしたのか?」

爆発の被害調査のために観測機として同行した爆撃機《グレート・アーティスト》に乗っていた無電技師エイブ・スピッツアーは、自分は幻覚を見ているに違いないと思った。彼は目にした身の毛のよだつような情景を生々しく伝える文章を残している。

「眼下に見えるかぎり巨大な火災が広がっていたが、それは普通の火災とは違った。炎は見たこともないような10色以上の色彩を帯び、どの色も目を開けていられないほどまぶしかった。最もまぶしく光る中心には、太陽よりも大きそうな火の玉があった。それはまるで太陽が空から地面まで落ちてしまい、ふたたびこちらに向かってまっしぐらに-そしてすばやく-登ろうとしているかのようだった。・・・太陽が転げ落ちたような眼下の火の玉は立ち上がる煙を追いかけ、目にもとまらぬ速度でこちらに向かってくるように見えた。・・・ほんの一瞬、煙の勢いも止まったかと思われたが、そう考える間もないうちに、煙の柱の先端からキノコの傘のような雲が現れ、1万8000メートルから2万メートルとも言われる高さにまで昇っていった、煙の柱は全体がほとばしるように渦巻き、キノコの傘のような先端部分は大海の荒波のように四方に広がっていった。

スピッツアは誰かがこう言うのを耳にした。
「俺たちは神の領域に踏み込んだしまったのか」

「グレート・アーチスト」の尾射手アルバート・「パピー」・デハートは、いま目撃した情景を見たことを後悔した。
「孫たちに話せない、絶対に。子らに聞かせていい話ではないよ。俺たちが見たことは」
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以上が爆撃機の搭乗員たちの言葉ですが、この本によれば、太平洋戦線の連合軍最高司令官マッカーサーは、原爆の使用について以下のように考えていたとされています

『ダグラス・マッカーサー元帥は太平洋戦線で連合軍最高司令官を務め、アメリカ軍現役で第二の地位にあったが、その彼は原爆の使用を「軍事的にまったく不必要」と考えており、アメリカが間もなく使用する予定と知ると怒り失望した。8月6日のまだ原爆投下が発表される前、元帥は記者会見を開き、日本は「すでに敗北しており」、自分は「次の戦争が一万倍も恐怖を伴うだろう」と考えていると記者たちに漏らした。』

戦場から遠く離れた首都ワシントンで政治の場にいたのではなく、実際に戦場で指揮をとり戦局・戦況に通じていたマッカーサーは「日本はすで敗けている、だから原爆を使用する必要はまったくない」としていたのです。

つまり、米国は軍事的にまったく必要がなかったのに、軍事的理由が何ら存在していなかったにもかかわらず、原爆を使用したのです。軍事的な理由ではなく政治的な理由によって(ソ連への牽制・威嚇、原発開発のための「マンハッタン計画」に膨大な国費が秘密裡に投入されてきたという国内事情、実際に戦場で市街地に対して使用してみて原爆の威力を確認すべきとする軍幹部や科学者たちの主張)、広島に原爆を投下したのです。

軍事的に使用する必要性がない兵器を意図的に使用して、多数の市民を死に至らしめた、無差別に虐殺した・・・これが戦争犯罪でなくて何でありませうか?これが人道に対する罪でなくて何でありませうか?

これが米国の戦争責任です。j上記の原爆投下直後の様子についての爆撃機搭乗員たちの言葉はまさに米国の戦争責任を裏付ける証言です。しかしながら、戦後、国際社会において、この米国の戦争責任が公式に問われたことは一度たりともありません。広島・長崎に軍事的必要がなかったにもかかわらす原爆を投下し多数の市民を無差別に殺戮したことに関して米国の責任が問われたことは一度としてないのです。

いまさらGGIがこのようなことをブログに書いたところでどうにもなるものではないことは分っています。どうにもなりはしません。おそらく今後も米国が国際社会において責任を問われることはないでありませう。日本側が米国の戦争責任をとうことも、残念ながらないでありませう。しかし、せめて歴史の真実から決して目を背けないよう努めること、そこから歴史の教訓を読み取ること、その教訓を生かすべく志すことが市民としての務めではないでせうか・・・

今日の写真はエノラ・ゲイ号の搭乗員たちです、中央のパイプをくわえた人物が操縦士のポール・ニベッツ。(「もうひとつのアメリカ史」より借用しました)。クリックしてご覧になってください

(補足)8月5日付けの西日本新聞が戦争の証言などについての連載記事のひとつとして以下のようなエノラ・ゲイの副操縦士についての記事を掲載していました。

《この人鬼じゃない、人間だ》 (兵庫県三木市、近藤紘子さん)
生後8カ月の時、爆心地から約1キロの広島市内の教会で被爆。戦後、教会に通う年頃の女性は手がただれ、指がくっついていた。幼心に「いつか私が仇(かたき)を取ると思った」。牧師の父は終戦直後から米国を巡り、広島の惨状を伝える活動を行った。1955年に米国の番組に家族で出演し、原爆を投下したB29の副操縦士と対面。副操縦士は消えた広島を見て「何という事をしてしまったのか」と飛行日誌に書いたと語り、涙を流した。「鬼だと思っていた人の涙を見て、にらみつけていた自分が恥ずかしくなった」。2017年、73歳の時に取材に語った。
https://this.kiji.is/663491238374589537

「八月や六日九日十五日」 (詠み人複数)

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・グッドラック!
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