今日の日記は最近出版された「朝、目が覚めると、戦争が始まっていました」と題された本について書いた11月8日の日記の続きです。
この本はすでに一度書きましたが、太平洋戦争開戦の日、1941年12月8日に、開戦を知った作家や詩人を中心に、政治家や軍人、ジャーナリストなど当時の著名人55人が開戦をどうのように感じ受け止めていたかが記されている日記や回顧録を集めて編集したものです。
11月8日の日記に、開戦を知って「大半の作家や詩人たち、程度の差はあれ、また表現に違いはあるものの、みなさん一様に舞い上がっており、自らの決意めいたことを記しています」と書きました。その舞い上がり振りは一様でありませんが、その美辞麗句と大言壮語にあふれる表現はいささか情緒的であり自らの言葉に酔っているようにさえ感じられます。
しかし、GGIが見るところ、勇ましい決意の言葉にはあふれているものの、勝利を確信していることを感じさせる言葉はまったくと言っていいほど見受けられません・・・勝利の確信もないままに開戦に舞いあがっていたのであれば、これはかなり異様でであると言わざるを得ません。
勝敗よりも、戦いに勝つことよりも、戦うことに意義あり、鬼畜英米を相手に戦うことにこそ意義があるというのでは、舞い上がってしまった人物たちによる、いささか感情的ともいうべき、まったく冷静さを失った記述、これは完全に「狂っている」としか言いようがないというのがGGIの感想です。集団的発狂・・・とでも言うのでせうか・・・
GGIは著名な作家や詩人たちは常識的には文化人や知識人の部類に属する人たちであるはずだと思うのですが、このように開戦の知らせに冷静さを失って突然舞い上がってしまった多くの作家や詩人による文章表現には残念ながら知性のかけらも感じられません。理性も冷静な判断力もまったく失った人物たちの精神の有り様は一望の荒野であり、無残のひとことに尽きるとしか言いようがありません。
また、これらの舞い上がってしまった人物たちは、周囲の圧力に敗けて、時代の「空気」に負けて、当世の流行語で申しますと「同調圧力」に屈して、このような舞い上がった日記を書いたものであるとは思われません。その文面からすると、言葉の調子からすると、何らかの圧力に屈しての表現ではなく、舞いあがった文章を自発的に勇んで記したのであろうとGGIは考えます。
しかし、ごく少数に過ぎないのですが、戦争の行く末に不吉な予感を抱いたり、戦争の行方を的確に言い当てていた人物もいます。
たとえば異色の作家であった深沢七郎の文学上の師であった某作家(当時62歳)は次のように記しています。
《昭和十六年十二月八日は、私の頭脳に深刻な感銘を留めている。明治三十七年二月六日の、ロシアに対する宣戦布告は、号外の音を聞いて知ったのであったのだが、あの時は(ある送別会の席上で)余興の清元なんか聞いて、開戦の知らせもロマンチックな気がしたものだ。しかし、今度はそうではなかった。陰惨な感じに襲われた。》
また当時陸軍の幹部であった某軍人はその日記に以下のように記しています。
《・・・予ハ予テ申シ居ル通リ最初ハ勿論勝利ヲ得レドモ終局ノ見エザルコトガ最大ノ癌ナリ》
そして、「舞い上がった」作家や詩人たちなどが多かったものの、一方において、開戦の知らせに身の危険を感じた人物も少数ながらいました。
或る思想家(当時31歳)は以下のようにその著作で記しています
《・・・戦争が始まった。そして、その翌朝、僕は逮捕された。そのときの直感は、いよいよ殺されるなということですね・・・しかし、開戦当時、政府はいい気になっていたのですね。ぼくも留置場のなかで看守から大戦果があがったというような勇ましい話を聞かされて、やっとほっとしましたね。僕はまったく新聞報道も知らずに捕まったのですが、これでようやく助かったという気分でした。》
また、ある作家(当時39歳)は次のように記していました。
《福井県の郷里で、父の葬式の後始末をしていた。支払いに町に出ていて、電柱に貼ってあるビラを見て開戦を知った。別に感慨もなかったが、瞬間、家に帰れば、特高が来ているだろうな、と思った。》
このような人物がいた一方で、戦争をさせないための自分の努力が足りなかったと悔悟の念にかられていた人物もわずかながらいました。
「暗黒日記」の著作で後に知られることになる、朝日新聞を退社してフリーのジャーナリストに転じていたある人物(当時51歳)は以下のよう述べていたとされています
《(彼は)「けさ開戦の知らせを聞いたと時に、僕は自分たちの責任を感じた。こういう事にならぬように、僕達が努力しなかったのが悪かった」と感慨をもらした。》(文壇五十年、正宗白鳥)
また、ある社会運動家(当時36歳)は以下のように記しています。
《・・・もっと強くこの戦争に反対できていたならと、胸は痛んだ。明日の運命も知らずに宮城に向かう大群衆の足音、天地を揺さぶるような万歳の声、人々の心をかりたてるような軍歌と軍楽隊のとどろきが地下の留置場までひびいてくるのを、なすすべもなくじっと聞いているくやしさ。にじみ出る涙もおさえきれなかった》
以上はこの本を読んでのGGIのまことに勝手な感想です。立ち読みができるぐらいの長さの本ですから、店頭で手に取っ手ご覧になるのも無駄ではないでありませう。ぜひ、一度ご覧になってください。
この本を出版された方丈社さんには若干の営業妨害のようなことになったかもしれませんが、どうか寛大なお気持ちでお許しください。
今日の写真はかつての日本軍のシンボルであり、今でも自衛隊のシンボルである「旭日旗」をネットさんから借用したものです。よろしければクリックしてご覧になってください
なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・
この日記、つづくかもしれません
グッドナイト・グッドラック!
この本はすでに一度書きましたが、太平洋戦争開戦の日、1941年12月8日に、開戦を知った作家や詩人を中心に、政治家や軍人、ジャーナリストなど当時の著名人55人が開戦をどうのように感じ受け止めていたかが記されている日記や回顧録を集めて編集したものです。
11月8日の日記に、開戦を知って「大半の作家や詩人たち、程度の差はあれ、また表現に違いはあるものの、みなさん一様に舞い上がっており、自らの決意めいたことを記しています」と書きました。その舞い上がり振りは一様でありませんが、その美辞麗句と大言壮語にあふれる表現はいささか情緒的であり自らの言葉に酔っているようにさえ感じられます。
しかし、GGIが見るところ、勇ましい決意の言葉にはあふれているものの、勝利を確信していることを感じさせる言葉はまったくと言っていいほど見受けられません・・・勝利の確信もないままに開戦に舞いあがっていたのであれば、これはかなり異様でであると言わざるを得ません。
勝敗よりも、戦いに勝つことよりも、戦うことに意義あり、鬼畜英米を相手に戦うことにこそ意義があるというのでは、舞い上がってしまった人物たちによる、いささか感情的ともいうべき、まったく冷静さを失った記述、これは完全に「狂っている」としか言いようがないというのがGGIの感想です。集団的発狂・・・とでも言うのでせうか・・・
GGIは著名な作家や詩人たちは常識的には文化人や知識人の部類に属する人たちであるはずだと思うのですが、このように開戦の知らせに冷静さを失って突然舞い上がってしまった多くの作家や詩人による文章表現には残念ながら知性のかけらも感じられません。理性も冷静な判断力もまったく失った人物たちの精神の有り様は一望の荒野であり、無残のひとことに尽きるとしか言いようがありません。
また、これらの舞い上がってしまった人物たちは、周囲の圧力に敗けて、時代の「空気」に負けて、当世の流行語で申しますと「同調圧力」に屈して、このような舞い上がった日記を書いたものであるとは思われません。その文面からすると、言葉の調子からすると、何らかの圧力に屈しての表現ではなく、舞いあがった文章を自発的に勇んで記したのであろうとGGIは考えます。
しかし、ごく少数に過ぎないのですが、戦争の行く末に不吉な予感を抱いたり、戦争の行方を的確に言い当てていた人物もいます。
たとえば異色の作家であった深沢七郎の文学上の師であった某作家(当時62歳)は次のように記しています。
《昭和十六年十二月八日は、私の頭脳に深刻な感銘を留めている。明治三十七年二月六日の、ロシアに対する宣戦布告は、号外の音を聞いて知ったのであったのだが、あの時は(ある送別会の席上で)余興の清元なんか聞いて、開戦の知らせもロマンチックな気がしたものだ。しかし、今度はそうではなかった。陰惨な感じに襲われた。》
また当時陸軍の幹部であった某軍人はその日記に以下のように記しています。
《・・・予ハ予テ申シ居ル通リ最初ハ勿論勝利ヲ得レドモ終局ノ見エザルコトガ最大ノ癌ナリ》
そして、「舞い上がった」作家や詩人たちなどが多かったものの、一方において、開戦の知らせに身の危険を感じた人物も少数ながらいました。
或る思想家(当時31歳)は以下のようにその著作で記しています
《・・・戦争が始まった。そして、その翌朝、僕は逮捕された。そのときの直感は、いよいよ殺されるなということですね・・・しかし、開戦当時、政府はいい気になっていたのですね。ぼくも留置場のなかで看守から大戦果があがったというような勇ましい話を聞かされて、やっとほっとしましたね。僕はまったく新聞報道も知らずに捕まったのですが、これでようやく助かったという気分でした。》
また、ある作家(当時39歳)は次のように記していました。
《福井県の郷里で、父の葬式の後始末をしていた。支払いに町に出ていて、電柱に貼ってあるビラを見て開戦を知った。別に感慨もなかったが、瞬間、家に帰れば、特高が来ているだろうな、と思った。》
このような人物がいた一方で、戦争をさせないための自分の努力が足りなかったと悔悟の念にかられていた人物もわずかながらいました。
「暗黒日記」の著作で後に知られることになる、朝日新聞を退社してフリーのジャーナリストに転じていたある人物(当時51歳)は以下のよう述べていたとされています
《(彼は)「けさ開戦の知らせを聞いたと時に、僕は自分たちの責任を感じた。こういう事にならぬように、僕達が努力しなかったのが悪かった」と感慨をもらした。》(文壇五十年、正宗白鳥)
また、ある社会運動家(当時36歳)は以下のように記しています。
《・・・もっと強くこの戦争に反対できていたならと、胸は痛んだ。明日の運命も知らずに宮城に向かう大群衆の足音、天地を揺さぶるような万歳の声、人々の心をかりたてるような軍歌と軍楽隊のとどろきが地下の留置場までひびいてくるのを、なすすべもなくじっと聞いているくやしさ。にじみ出る涙もおさえきれなかった》
以上はこの本を読んでのGGIのまことに勝手な感想です。立ち読みができるぐらいの長さの本ですから、店頭で手に取っ手ご覧になるのも無駄ではないでありませう。ぜひ、一度ご覧になってください。
この本を出版された方丈社さんには若干の営業妨害のようなことになったかもしれませんが、どうか寛大なお気持ちでお許しください。
今日の写真はかつての日本軍のシンボルであり、今でも自衛隊のシンボルである「旭日旗」をネットさんから借用したものです。よろしければクリックしてご覧になってください
なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・
この日記、つづくかもしれません
グッドナイト・グッドラック!