UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

死刑執行後に無実であったことが明らかになったら:あるいは「飯塚事件」について・・・

2017-05-26 01:59:16 | 日記

5月18日の毎日新聞に「飯塚事件再審抗告審:実質的な審理終える。福岡高裁」という見出しの15行足らずの簡単な記事が掲載されていました。

(この記事は以下のサイトに掲載されています)

https://mainichi.jp/articles/20170519/k00/00m/040/139000c

「飯塚事件」というのは1992年に福岡県飯塚市で女児二人が殺害された事件です。犯人とされた久間三千年という人物は逮捕後一貫して否認していましたが、2006年9月に死刑が確定、再審請求を準備していた2008年10月、死刑確定からわずか二年後に、突然死刑を執行されてしまいました。

彼の遺族(妻)と弁護人は、同じころに起きた「足利事件」の犯人とされた菅谷さんという人物が再審でDNA鑑定に間違いがあったとして無罪とされたため、足利事件のDNA鑑定と同じ手法で同じ時期に行われた飯塚事件のDNA鑑定には疑義があり、久間死刑囚のDNAは検出されていないとして再審請求していました。

しかし福岡地裁に対する再審請求は棄却され、このため弁護側が福岡高裁に対して再審抗告を行っていたのですが、このほど抗告審の実質的な審理が終わったというのが毎日新聞のニュースの内容です。

GGIは、東本願寺で行われた再審請求の弁護人である徳田靖之弁護士の講演を聞いたことがあります。その内容はすでに以下のサイトに掲載していますので、飯塚事件に関心のある方はご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/ugugggi/d/20151008

徳田弁護士は抗告審の審理終了にあたり、「それなりの手応えを感じた。高裁は再審に向けて良い決定をくれるのではないかと思う」と述べています。

この再審抗告審が注目されているのは、もし再審が認められ、その結果久間死刑囚は無罪ということになれば、処刑された後に冤罪であることが裁判において認められる初めての例となるからです。そのようなことになれば、罪のない人間を国家の名において殺してしまったということになれば、日本の死刑制度の根幹が揺るぎかねないからです

死刑における冤罪の危険性は死刑制度における避けることができない重要な問題ですが、この問題点に関して、《「死刑執行始末書」と言う名の公文書》というタイトルの4月29日に日記で引用しました死刑存置派で刑事学を専門とする永田憲史氏(関西大学法学部教授)が5月20日の朝日新聞に掲載された「死刑と向き合う」と題された特集記事で以下のように述べています。

「世界の潮流が死刑廃止に向かう中、日本で死刑廃止の機運が盛り上がらなかった理由の一つには、国民の間に《人を殺した人間は死刑になっても仕方がない》という素朴な感覚が根強かったことがあるでしょう。これまで死刑冤罪事件で4件の再審無罪判決があったのに対して、死刑執行後にその人の冤罪が裁判所で認められた事件がこれまでなかったことも大きいのです。無実の人を処刑したことになれば、死刑の正当性に大きな疑問符がつくことになるからです」

これまでにも実際には、裁判の場では認められなかなかったものの、明治以来の日本の司法の体質を考えるならば、無実でありながら処刑されてしまった人たちが少なからず存在しているものとGGIは考えています。

いったん、処刑後に、無実であったことを法的に認めてしまえば、死刑制度の根幹が揺らぎかねません。ですから、司法は、法務省は、死後の再審請求に対して再審開始を認める決定が下されることを何が何でも阻止しようとするでありませう。

日本における司法の壁は厚すぎるぐらいに厚いのですが、徳田靖之弁護士の懸命の努力が実るよう、GGIは切に願ってやみません。

上記の4月29日の日記は以下のサイトに掲載しています。
http://blog.goo.ne.jp/ugugggi/d/20170429

今日の写真はわがガーデンのクローバーさんたちを撮ったものです。よろしけばクリックしてご覧くださいませ。

グッドナイト・グッドラック!

コメント
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