表題の件、母親は黙って火鉢の灰をかき混ぜて解を示したとされています。
ただし、当時の江戸時代は、土葬しかしない時代のはず。
追記:飛鳥時代に天皇は火葬することになって古墳を作らなくなったのだという
田中英道氏の記事を見つけました。火葬が一般化したような記事でした。
当時の火葬には木材を使ったはずです。かなり昔の映像ニュースで、
山で遭難した人の火葬場面がありました。畳ほどの面積でほぼ目の高さに
まで積み上げた木材の上に載せて燃やしているものでした。
~父親から火葬の話を聞いたことがあります。木材が少ないと燃やしきれず、
マサカリで切り刻んでから焼き直したこともあったそうです。
~食肉が食えなくなったのは、この話のせいと思います。
~映画火垂るの墓で妹をドラムカンで火葬にするシーンが出てきますが、
実際には燃やしきれないと思いました。
木材は日々の家事や寒季の暖房に必須です。農具、武器用の製鉄のためにも
必須です。森林資源の多い土地としてわざわざ飛鳥を攻め取ったのです。
平民にまで火葬を許すなんて絶対にあり得ないでしょう。
~石炭の日本での発見は1469年。17世紀末でも一部地域で自家消費のレベル
でしかなかったようです。
追記2:人が焼けるときに発する臭気は、不快の一言です。
秋田県のある中学校の校舎が焼き場より高い土地に作られてしまっていて
南向きの風の日に焼き場が使われていると、すさまじい臭気と色付きの空気
(色については記憶から飛んでいます)が学校全体を覆ってしまうのでした。
あの臭いを考えれば山の上に火葬場を作るの一択です。現在の火葬場も
これより上には誰も住んでいないという山の中腹に作られているのが多いです。
現在の火葬場の煙突から出るものは、ほぼ無臭化・無色化されています。
山から遠い土地での火葬場は徒歩か牛車しかない時代では無理があります。
~たとえ木材が豊富でもです。
灰になるまでという成句が成立していたはずがないのです。
当時の成句ならば、「骨になるまで」が正しいはずです。
火葬が当たり前になる昭和も後期か、平成になってからの
成立でもおかしくないでしょう。
平成でも、死ぬまでと言う意味で、「骨になるまで」と言うのが
当たり前だったはずです。
おまけ:
ヨーロッパなどの棺桶で保存し、完全に骨になってから
棺桶から取り出し砕いてばら撒き、棺桶を空けて次に備える風習の
地域なら、「灰になるまで」の成句が成立しても良さそうですが、
灰になる前に骨になるまでの時期が永いですから、これも無理そうです。
~昔一時を賑わした「キリストの棺」がそれに該当します。
棺は見つかったけど、骨の痕跡しか残っていなかったようで、
使い回しされないままに埋もれていたようです。
おまけのおまけ
~天皇と皇后は、縄文時代から続く陵を作って土葬する習わしでした。
平成天皇と皇后は火葬を求めたと漏れ聞きますが、陵を作ることは
決定事項でしょう。
ともかく、天皇に関しましては、「灰になるまで」の言い方は
存在したことはなかったのです。
さらに
我が家の風習では、神道であり、全員は、「お墓の土に着いていくよ」
というのがあります。
で、土佐から樺太出立でも、我が家一族および婿入りした曾祖父一族の
お墓の土を壺に入れて向かったのです。
~曾祖父一族は婿入り前に婿殿を残して絶えたようです。
樺太引き上げでさらに墓の土を加え、北海道のどこかで末姉の墓土を加え
たはずです。
引き上げ船に乗る前での死亡で、死亡を隠したまま北海道に渡り、
その後どこかに埋葬したはずですが、聞けば母は泣くし、父の話は長すぎて
まともには聞けないまま終わりました。
樺太で死んだ長姉次兄2人と引上げ中に死んだ次姉の死亡証明として、
夕張市で火葬証明を作ったようです。
火葬許可証ですからお墓の場所は書かれていませんし、保存年限を過ぎたので
原本は存在しません。
~これ、本籍は作れないからと、代わりに作った物のようです。
~戸籍を作った場合、その時の生存者しか書かれないのです。
つまり、どれだけ戸籍謄本を収集しても、私の、長姉、次兄、次姉が書かれた
書類は、出てこないのです。これが私が相続を全て終えて死なないと、相続が
面倒になる理由でもあります。これ、ソ連が日本が役場に残した書類を全て焼き
捨てたからでもあります。というか、日本の残した全てを消し去ったというのが
正しいのでしょう。樺太では、丘も山も何もかも均しまくった結果、肥料に
乏しい下層の土を表土にしてしまった結果、残念な土地にしてしまったのです。
~樺太時代の話を聞いていた限り、豊かな時代だったようです。一家全員が農業
だけで生計できたのです。しかも誰がいつどれだけ来ようが食事させられる
環境を維持できたようです。これ、現在地でも、母が健在な間は維持できたよう
です。これって、いつでも、ご飯は数人分はあるよってことで、おかずはすぐ
作れる状況にあり、漬物などは常備ということです。
~私は、この状況は放棄です。
これ、別の目線では、冷や飯ならいつでもあるよというか、常に冷や飯を
片付けることから始めなければいけないってことで、暖かいご飯はまず
食べられないということなのです。
秋田県八幡平で祖父の墓土を加え秋田県矢島町で祖母の墓土を加えて、
今の墓の中に壺ごと収まっています。今後誰かが墓を移す場合、その壺に今の墓土を
加えて移動することになります。
~壺に骨は入れません。
分骨には、役所の許可を貰う必要もあります。
兄の娘が、他界した夫の墓を作り、兄(娘からは父)の骨を分骨しました。
今の墓には土を納めた壺の他に、父、長兄、母、弟(四男)の骨壺が収っています。
ただし、当時の江戸時代は、土葬しかしない時代のはず。
追記:飛鳥時代に天皇は火葬することになって古墳を作らなくなったのだという
田中英道氏の記事を見つけました。火葬が一般化したような記事でした。
当時の火葬には木材を使ったはずです。かなり昔の映像ニュースで、
山で遭難した人の火葬場面がありました。畳ほどの面積でほぼ目の高さに
まで積み上げた木材の上に載せて燃やしているものでした。
~父親から火葬の話を聞いたことがあります。木材が少ないと燃やしきれず、
マサカリで切り刻んでから焼き直したこともあったそうです。
~食肉が食えなくなったのは、この話のせいと思います。
~映画火垂るの墓で妹をドラムカンで火葬にするシーンが出てきますが、
実際には燃やしきれないと思いました。
木材は日々の家事や寒季の暖房に必須です。農具、武器用の製鉄のためにも
必須です。森林資源の多い土地としてわざわざ飛鳥を攻め取ったのです。
平民にまで火葬を許すなんて絶対にあり得ないでしょう。
~石炭の日本での発見は1469年。17世紀末でも一部地域で自家消費のレベル
でしかなかったようです。
追記2:人が焼けるときに発する臭気は、不快の一言です。
秋田県のある中学校の校舎が焼き場より高い土地に作られてしまっていて
南向きの風の日に焼き場が使われていると、すさまじい臭気と色付きの空気
(色については記憶から飛んでいます)が学校全体を覆ってしまうのでした。
あの臭いを考えれば山の上に火葬場を作るの一択です。現在の火葬場も
これより上には誰も住んでいないという山の中腹に作られているのが多いです。
現在の火葬場の煙突から出るものは、ほぼ無臭化・無色化されています。
山から遠い土地での火葬場は徒歩か牛車しかない時代では無理があります。
~たとえ木材が豊富でもです。
灰になるまでという成句が成立していたはずがないのです。
当時の成句ならば、「骨になるまで」が正しいはずです。
火葬が当たり前になる昭和も後期か、平成になってからの
成立でもおかしくないでしょう。
平成でも、死ぬまでと言う意味で、「骨になるまで」と言うのが
当たり前だったはずです。
おまけ:
ヨーロッパなどの棺桶で保存し、完全に骨になってから
棺桶から取り出し砕いてばら撒き、棺桶を空けて次に備える風習の
地域なら、「灰になるまで」の成句が成立しても良さそうですが、
灰になる前に骨になるまでの時期が永いですから、これも無理そうです。
~昔一時を賑わした「キリストの棺」がそれに該当します。
棺は見つかったけど、骨の痕跡しか残っていなかったようで、
使い回しされないままに埋もれていたようです。
おまけのおまけ
~天皇と皇后は、縄文時代から続く陵を作って土葬する習わしでした。
平成天皇と皇后は火葬を求めたと漏れ聞きますが、陵を作ることは
決定事項でしょう。
ともかく、天皇に関しましては、「灰になるまで」の言い方は
存在したことはなかったのです。
さらに
我が家の風習では、神道であり、全員は、「お墓の土に着いていくよ」
というのがあります。
で、土佐から樺太出立でも、我が家一族および婿入りした曾祖父一族の
お墓の土を壺に入れて向かったのです。
~曾祖父一族は婿入り前に婿殿を残して絶えたようです。
樺太引き上げでさらに墓の土を加え、北海道のどこかで末姉の墓土を加え
たはずです。
引き上げ船に乗る前での死亡で、死亡を隠したまま北海道に渡り、
その後どこかに埋葬したはずですが、聞けば母は泣くし、父の話は長すぎて
まともには聞けないまま終わりました。
樺太で死んだ長姉次兄2人と引上げ中に死んだ次姉の死亡証明として、
夕張市で火葬証明を作ったようです。
火葬許可証ですからお墓の場所は書かれていませんし、保存年限を過ぎたので
原本は存在しません。
~これ、本籍は作れないからと、代わりに作った物のようです。
~戸籍を作った場合、その時の生存者しか書かれないのです。
つまり、どれだけ戸籍謄本を収集しても、私の、長姉、次兄、次姉が書かれた
書類は、出てこないのです。これが私が相続を全て終えて死なないと、相続が
面倒になる理由でもあります。これ、ソ連が日本が役場に残した書類を全て焼き
捨てたからでもあります。というか、日本の残した全てを消し去ったというのが
正しいのでしょう。樺太では、丘も山も何もかも均しまくった結果、肥料に
乏しい下層の土を表土にしてしまった結果、残念な土地にしてしまったのです。
~樺太時代の話を聞いていた限り、豊かな時代だったようです。一家全員が農業
だけで生計できたのです。しかも誰がいつどれだけ来ようが食事させられる
環境を維持できたようです。これ、現在地でも、母が健在な間は維持できたよう
です。これって、いつでも、ご飯は数人分はあるよってことで、おかずはすぐ
作れる状況にあり、漬物などは常備ということです。
~私は、この状況は放棄です。
これ、別の目線では、冷や飯ならいつでもあるよというか、常に冷や飯を
片付けることから始めなければいけないってことで、暖かいご飯はまず
食べられないということなのです。
秋田県八幡平で祖父の墓土を加え秋田県矢島町で祖母の墓土を加えて、
今の墓の中に壺ごと収まっています。今後誰かが墓を移す場合、その壺に今の墓土を
加えて移動することになります。
~壺に骨は入れません。
分骨には、役所の許可を貰う必要もあります。
兄の娘が、他界した夫の墓を作り、兄(娘からは父)の骨を分骨しました。
今の墓には土を納めた壺の他に、父、長兄、母、弟(四男)の骨壺が収っています。
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