ファンタジーなど

基本的に、いろいろなことの変なとこに突っ込みます。

「お尻の常識・・・実は非常識!?」について

2024-06-19 06:02:07 | 日記・エッセイ・コラム
ダイレクト出版の Renaissance Vol.17 で、気になる記事がありました。

排便後に洗浄するタイプのトイレを使っている?と、肛門にトラブルを
起こしますよという記事です。

で、何が気になるかと、
1:排便は、1日1回が普通です。シャワートイレ使うのは1日1回が普通です。
  (2回以上は下痢状態で1日1回に満たないのは、食事不節制による便の不足かと。)
2:毎日、風呂に入るか、シャワーを浴びるのが習慣の人が居ます。
   日に2回は肛門を洗う人が居るのです。
  私も34才あたりから20年以上は、毎朝シャワーを浴びていました。
  ~高卒までは、マンガ雑誌や教科書・ノートなどの紙で用を足していました。
    ~流石に答案用紙・画用紙などは、焚き付けだけに使ってくれました。
   拭き方が上手くなるのは必定です!
   学校のトイレは専用の紙で上等でしたが、学校で用を足すのは流石に・・・
  ~途中44才あたりでトイレをシャワートイレに代えましたから肛門洗いは1日2回。
  早期退職で田舎に戻り父の存命中は父に付き合い毎晩の風呂となりました。
   この時、私の趣味でトイレはシャワー式に代えました。父母がシャワーを使ったか
   どうかは不明。母が洗い落とすまでが長いと苦情を言ったのは確か。
  父の死からは母に合せて週2回の風呂と毎朝のシャワーに変り、母の死後は
  週2回の風呂ないしシャワーだけとなりました。

3:温泉地に勤めている方々。毎日温泉に入っていると思われます。
  シャワートイレにした方もいるでしょうから、私より頻度は多く長期でしょう。

風呂や温泉に入る前の習慣:全身を洗う中には、お尻:肛門洗いも含まれています。
記事ではシャワートイレだけを犯人にしています。
温泉地域だと、日に何回でも入れますから、肛門の洗いすぎが問題なら
患者数や率には地域性が出るはずです。
 ~記事を書いた先生には、そのデータは無いようです。

肛門の後始末に起因する問題かと。
 私は、肛門は拭きません。紙を当てて水気を吸わせるだけです。
 紙が汚れたら、踏ん張りを加えて出ないのを確認してから水洗いを加え、
 紙が汚れていないのを確認できるまで繰り返すだけです。

おまけ:
 シャワートイレの使用期間は
 父:平成15年7月~平成20年5月
 母:平成15年7月~令和元年9月
ですが、二人とも肛門に問題は起こしていませんでした。
  二人とも晩年の数年は紙オムツで世話して、自宅で大往生です。
  食後数時間内の誰も気付かないままの旅立ちも共通です。
  父の辞世の言は昼食後の返事で「うむ、旨かった」
  母は朝食後の片付けへの「ありがとう」
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縄文人遺跡から

2024-05-21 00:21:12 | 日記・エッセイ・コラム
縄文人遺跡は、北は北海道、南は沖縄までの日本全土、
さらに、韓国の南部に残っています。

寒冷期に入り、北海道では農業に無理が生じたか、北方からの狩猟民族である
アイヌの獲物を追いかけての南下を受け、軋轢で南方本州に避難・撤退したか、
絶滅したかが想像されます。

アイヌは隣村であっても会話が通じないという事態でした。
日本は?
北は青森から沖縄まで方言はあっても話は通じるのでした。
例外は北海道でした。江戸時代から拠点の城が置かれていました。
 アイヌコミックの宣伝効果がありましたが、アイヌ間の共通語は日本語しか
 無かったのです。コロボックル伝説にしても、どこまでの部族に共通して
 いたのかの調査はありません。
 村毎に言葉が違うので、通訳がいないと会話・理解は無理でした。複数の
 通訳を通さないといけなかった場合もあったようです。

そして明治維新、廃藩置県で大名一族が北海道に渡り開拓に当たったのでありました。
結果、そこの近辺にいたアイヌも日本人にされました。
~弱者商売?を謳う変なヤカラが出てきて、現在は先住民を前面に出す商売を生み出しました。

アイヌも江戸時代から日本人に組み込まれ続けて今に至るわけで、今や日本語しか話せない
のです。
アイヌがアイヌ語と言うのは、たくさんの部族の片言言葉を集めたものなのです。
~北海道で、アイヌは隣村とは会話できなかったのですから、アイヌに共通言語は
 存在しなかったのです。
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輸送・保管用お茶箱~ファラデーケージにピッタリ

2024-05-18 17:01:32 | 日記・エッセイ・コラム
お袋が使っていた、衣装保存用のお茶箱が2つありました。
内寸は350x450x高さ450です。
4隅内側には三角の当て木で補強されています。
内側は蓋も含めてトタン板で隙間無くカバーされています。
 1つは24年と書いてありますから私の生まれる前年です。
 もう1つは私が高校生になってから、お茶の仕入れに通わされた旧今市市の
 お茶屋さんの名前が書かれています。母が惚けるまでは取引がありました。

お茶箱はファラデーケージの要求を満たしているようです
 ただし、ファラデーケージを意識した物では無いので、共通の弱点があります。
 蓋は箱の外上側に被せる仕様です。箱も蓋も内側にトタン板を張ってあるのですが、
 どちらの箱も内側のトタン板を天井に届く位置まで張っていません。
 このために、電磁波に対しては板の厚み分の隙間ができているのです。
箱の内側に天井まで届くようにアルミホイルを張ればカバー出来そうです。
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天照大神と卑弥呼は別人

2024-02-21 11:22:25 | 日記・エッセイ・コラム
DIRECT出版は、田中英道氏を講師に迎えている手前か、邪馬台国の扱いがおかしくなっています。

長浜浩明氏の「日本の誕生 皇室と日本人のルーツ」で明らかになっているのは、
初代天皇の即位はBC70年です。

天照大神は、蝦夷の国:高天原に存在していたと、記紀は語ります。
その高天原から神が代わりに息子を派遣したのです。
 ~残った親が新たに男の子を作ると、こちらが正当な後継者です
船で九州高千穂に至り、そこに永く住み着いた後の子孫が、
日向の地より東征に旅立ち、遂に奈良盆地にいたって大王を名乗ったのでした。
 (これを天皇、名を神武としたのは後世の人々で、初代天皇ともしたのです)
 ~日向から出立する際に男の子を残しましたが、奈良で男の子を作ったので奈良の方が
  正統な後継者になります。

さて、邪馬台国の存在は、魏志倭人伝のみに記述されていますが、所在は、北九州。
卑弥呼の帯方郡への使いは西暦247年と解明されています。

大和朝廷が北九州を支配下に置いたのは290~320の頃とされ、卑弥呼の没年もこの辺です。
ただし、記紀の記事を信用するなら、当時、邪馬台国を認識していなかったようです。
後年、魏志倭人伝を入手して、そんな国があったんだという程度の認識だったようです。

天照大神と卑弥呼では時代が違いすぎます。
後世の天皇家が、宇佐八幡宮を重視する理由は別に探すべきです。

 卑弥呼の墓は旧地番:福岡県山門郡瀬高町、現:みやま市瀬高町女山(ゾヤマ:旧名女王山)に
 卑弥呼の宮があったと推定されています。
 そして墓は、高さ5m周囲役140mの円墳の権現塚とされています。塚は未調査のようです。

ついで:神功皇后の没年は389あたりとなっています。この後を息子の応神天皇が継ぎ410年没となります。
 宇佐神宮の建立は、この後のことになるはずです。
 主神の「主売大神」が誰なのか、そして、
 神功皇后と応神天皇を、それぞれの墓=塚とは離れた土地に別に祭った理由が解き明かすべき謎です。
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地震に思うこと

2024-01-19 20:44:01 | 日記・エッセイ・コラム
大きな最初の地震は、秋田県に住んでいた時の1965年に遭遇した地震でした。
釣り師三平のマンガで有名になった地震でしたが、被害は比較的に少なく、
大地震の範疇からは、はずれ、地震記録からも消えました。
最初の揺れの後、グラウンドに逃れたのですが、グラウンドが波打って見えました。
国保で完成した4階建て中学校校舎も、本体の外に飛び出す形のトイレの3本全部が
校舎から分離し、上から地面が丸見え、そして水を流すだけでトイレ掃除完了という
手抜きも終わったのでありました。
 ~鳥海山2合目だっけ?籠立て場の数十メートル以上の粘土だけに見える直立壁が
  崩壊しないのが不思議でした。

2回目の大きい?のは新宿野村ビルでの50階+で経験しました。
目の前でセンタービルの揺れが見えていて、相互の揺れ幅がすごい。
自分が立っていられるのも凄いんですけど、どっちもブロック作りなのに、どこも壊れないのに
ビックリでした。

3回目は、同じ新宿の古いビル。震度4そこそこで、30Fそこそこなのに、
立っていられないのでありました。
技術の進歩に感心したのでありました。

4回目は、日光市に里帰り=移住してからでした。
東日本大震災です。日本では3.11で表わすことも多いですが、これも世界の大震災の記録には
入らなかったようです。
この時期、FF-XIのオンラインゲームにはまったままでして、グループリーダーは、
話の節々で、宮城県に縁のある人とは判明していました。
震災後数ヶ月、一向に入ってこないのでありました。
メンバーの誰も言いませんでしたが、これ巻き込まれたかもの感想でした。
スクエニも当時はグループ維持の課金を休止してくれていましたが、メンバーの誰もリーダーの
参入を感知できず、これは最早と、別グループを立ち上げたのでありました・・・

今回のは、少し感知した程度です。
思えば、大卒で就職した先が、石川県の今の「かほく市宇ノ気町」です。
会社は、PFUの前身で最初の名前は、「宇野気電子工業株式会社」でありました。
入って直ぐにUSAC(ユーザックと発音。宇野気スタンダード・オートメーション・カンパニだっけ?)
の名前に変わりました。
パチンコ店舗のパチンコ管理マシーンも製造していて、それが面白いと入社したのが理由でした。
~入社後、ソフトウェアに興味が移り、パチンコは、リアルの暇つぶしになったのでした。
横道が激しくぶれました。USACの同期入社には石川県から広く入社していました。
新入社員教育後の選択でソフトウェアを選び、ハードウェアは昔ながら=秋田県中学生時代からの趣味に
収めることに決定したのでした。オーディオも、機器を作ることに趣味が有ったので当然かも?

で、ソフトウェアを選んだら、東京銀座が勤務先でした。
東京には石川県出身女性は居ませんでした。
東京勤務で、石川県出身女性と付き合う道もほぼ消えたのです。
今思えばラッキーだったんでしょうね。夫婦一緒の里帰りイベントが成立できなかったのですから。

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