ファンタジーなど

基本的に、いろいろなことの変なとこに突っ込みます。

言葉と文字のこと

2023-11-12 08:53:51 | 学問
遙か昔、人が言葉で会話を初めて長い間。

その言葉を表記する文字は無かったし、喋った内容を残す必要性は無かっただろう。

生活を共にする集団が大きくなると、伝言だけでは済まなくなったはず。
冬越しの食物管理だけでも何かの記録が必要となります。
春までの期間、保存食料で食いつながなければいけないのだから。
 ~最初に必要なのは物を表わす絵と数の記録方法と、今いつかの認知方法の確立だろう。
  数の表記は指を使って数えることが最初の方法だろうから、絵や紐で実現できただろう。
  今いつかの認知方法は、木や石を立てて置いて太陽の位置=日の出・日没位置、
  日陰最長位置、日陰最短位置を観測することで得られます。後は、その観測日からの日数を数える。
最初の絵文字は物を示す絵と数だろう。

最初に考案されたのが、絵で、それを簡略化した絵文字だっただろう。
絵では、人を含めた動植物と行動を表わすのがせいぜいだっただろう。
そこから5W1H(から5W3H)まで表わそうとするには、
会話の進歩は、もちろん文字の進歩も必要だったはず。

さて、日本人は、中国が漢字を使っていることを古くから認識していただろう。
でもその漢字の発音は、日本語の表記には全く向いていなかった。
万葉がなの考案と一文字一音の適用は一大発明にも相当するだろう。
その一文字一音から、ひらがな、カタカナまで考案されたのだから。
 日本語は、一文字一音に固定されたことによって、地方のナマリや方言は
 あるものの、全国一律1000年を超えても会話できる言葉として残ったのです。
  ~文字の一部は、渡来人の残した文書に従えば、発音が変わっているようではあります。
   明治生まれだった農村育ちの祖母でもひらがなは全部読み書きできました。

さて、ヨローッパを見てみよう。
エジプトは絵文字で始まっていますが、表音文字とされる文字に変わっていきました。
どこの文字も表音文字と言いながら、一音を複数の文字で表記する方法のようです。

さて、各国の有名な方々が、当時の時代の発音に合わせて辞書を作りました。
 ~どうかすれば2000年以上昔です。
書き方なんかを習えるのは、後の王族、貴族様達の、それもごく一部の方々です。
喋る言葉は、時代や土地で、どんどん変化していきます。
でも一端書かれた辞書は変わらないというか変えられない。
その結果、現在の発音とは、ほぼ違うシロモノになっているというのが本当の所なのです。
 ~現在のヨーロッパのどこの国でも文盲率は未だに高いのです。
  ~発音に合せて書くと意味不明の単語になるのが最大の原因です。

要は、ヨーロッパの書き言葉は、会話とは、ほとんど別の言語であるという
認識に立たなければいけないのです。
 ~アメリカの家庭でのお悩みは、子供達が fish を phish と書くように発音通りに
  書いちゃうことでした。
  日本人の問題は書き言葉から習うので、water をウォーターとしか発音できないなど
  書いてある通りにしか発音できない=聞いたことから単語が思いつかないから会話がダメダメです。

  辞書を書いた時点ではタの発音が有ったんでしょうが、今はタは発音しないということです。
  喋りが短縮する方向に進んできたと言うことです。
  ~現在の短縮形の言葉の氾濫は、すごくやっかいです・・・
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さきもり(防人)の歴史のこと

2023-11-05 08:20:24 | 学問
万葉集には、防人の詠んだ歌が数多く収録されています。
 ~いくつかを中学・高校で聞いたようなのですが流石に記憶に残っていません。

防人の起こりは、大和朝廷の支配が北九州に及んだ頃=邪馬台国が滅んだ後、
垂仁天皇・景行天皇の西暦290~349の北九州平定以後と推定されます。

九州には常に海賊が襲来するととが知られ、太宰府を中心とした防人体制が敷かれ、
防人になることが男の責務の一つとされたようです。

武士階級が発生・発達してから、防人体制に綻びが生じ、海賊被害が大きくなったようです。
9世紀から11世紀は被害収奪を数十回受けた記録があるそうです。
菅原道真公が太宰府に流された頃には(西暦901~903)、太宰府は形骸化
していたと思われます。

事件の結構な記録が残っているものは、次の3つです。
後の2つは元寇と言う呼び名で纏められています。

刀伊の入寇(西暦1019年):地元の武士集団が対応
文永の役(西暦1274年):日本兵5000、モンゴル軍3万。
        死者:日本200人、モンゴル1万3000。
弘安の役(西暦1281年):日本兵7万、モンゴル軍14万。
        死者:日本資料不足で不明、モンゴル10万。

元寇に先立ち、元(モンゴル)は、2回の使節を派遣したようです。
1回目(1266年):朝鮮半島南岸の巨済島までは行ったものの日本海の荒波を見て諦めたようです。
2回目(1268年):太宰府に文書を渡したようです。
    時の権力者、北条時宗は降伏勧告を蹴って使節を殺害し、元を迎え撃つ準備を進めたようです。
    元寇襲来時には、準備済みだったので、壱岐・対馬の被害は大きかったものの九州の被害は
    小さかったと理解できます。
   ~三橋貴明氏の講座では西暦年に異同があるようですが、とりあえず無視しておきます・・・
    こちらの記事もネットで集めた年号なので不確かです。

モンゴル軍(モンゴル+高麗軍)は、神風で壊滅したという話が出てきたのは大学時代以後でした。
最近の検証では
 気象学や歴史から神風は無かった。
  日本とモンゴルの戦後文書には、台風の記事は全く出てこないようです。
  モンゴル船が沈んだのは、老朽化と荷物の載せすぎだったとあります。
   未だに海底に沈んだ船が見つかるのは驚きです。
   軍を維持するための食糧と水を積んできたのですから、さもありなん。
 鎌倉時代には、集団戦法があった。
  我こそは・・・なぞの名乗りは、話しを面白くするための後世の講談者の脚色でしょう。
  実際、マイク無しで、がなってみても、どこまで届くんだいってこと。
   応援団長がマイク無しでがなっても、最後尾までは届かないっぽい・・・
 有名な絵図:3対1で馬が出血している絵ですが、範囲広げると9対1で、内3人は逃げている図です。
  日本武者の鎧は、すごく有効だったようです。
  武器のメインは弓矢だったことが示されています。モンゴル兵の強さは馬によるものでした。
  立場が逆の乗馬日本兵に蹴散らされるのは当然だったのです。
   日本刀は、護身用です。打ち合ったり骨に当たったら欠ける・曲がる・折れるのです。
   一人切れるかどうかという半端な武器です。神器とするのが妥当かも。
    日本刀の集団戦法は、全員が振り下ろすか突くだけですから、竹槍戦法の距離に一方的に負けます。
    過去の侍番組は飾りすぎました。

過去の日本は弱かったとする集団が広めた話のようです。
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皇紀2600年・・・もう直そうよ 追記

2023-04-20 01:22:28 | 学問
田中英道氏のこれまでの功績はわかります

でも氏はなぜ、日本古代には春秋にそれぞれ1年、つまり毎年2歳増えることを
知りながら皇紀を訂正しようとしないのでしょうか。

記紀に記された古代天皇は春秋に1歳増えるために1年ごとに2歳年を取る
ことになっていたのです。
これ、中国の本に記述されているのでした。
つまり記紀で110歳で死亡したとしても実際には半分だから54歳か55歳だったのです。
 生まれてすぐ1歳いうのもありますし、季節を過ぎると+1というのもありました。
 12月31日生まれは翌日には2歳という無茶苦茶がありました。
 だから満年齢がすんなり定着したのでしょう。

結果として天皇の年齢を足して皇紀にするのは無茶です。古代の天皇は1年に2歳
の年を経たからです。

長浜浩明氏が「日本誕生」で神武天皇の即位年代を考証してくれました。
紀元前70年です。

これ大阪湾の時代考証と日本書紀の記述から確度高いです。
即位年はプラスマイナス数年は動かせても10年以上は多分動かせません。

ということで、妥当な現在の皇紀は、2093年です。

追記:
ダイレクト出版が田中氏の日本国史を未だに推奨しています。
というか、上巻を100円で売ろうとし続けていますから、逆に言えば全く売れていないのだと
思われます。

田中英道氏の本で、大きくまずい点は次の物です。

1:皇紀は未だに2600年強です。
  ~神武天皇は3世紀初め頃と言いながら、これです。
  ~日本の誕生・長浜浩明著を参照ください。

2:イザナギ、イザナミの子供のヒルコの理由を姉弟婚にしたママ。
  土偶を近親相姦の結果と断定している。
  ~日本の誕生・長浜浩明著を参照ください。
  ~土偶を読む・竹倉史人著を読んでみて欲しい。批評も結構あるけど私は納得できる。

3:仁徳天皇は、天皇の死後、西暦873年頃に付けられた諡です。
   (ついで:天皇という呼び名も後世の物です。)
  諱(いみな・本名)は大雀・大鷦鷯(おおさざき)です。
  従って、陵には、当初は別の名前があったわけです。それは、地名の大仙かもしれませんが
  絶対に仁徳天皇陵ではありません。

4:魏志倭人伝を疑う必要は無い。
  ~日本の誕生・長浜浩明著を参照ください。

5:三角縁神獣鏡の三角は山を現す。神道の基本とも断定しちゃってますが、
  神社に三角縁神獣鏡が祭ってあると?
  あるいは八咫鏡は三角縁神獣鏡であると?

6:漢字そして、仏教をもたらした、朝鮮半島への出兵
  文化はすべて朝鮮経由でという影響下にあります。
  日本は中国への使いを出していますが中国からの遣日使がより多く居たことも
  分かってきています。どちらも中国経由で先に入ってきているのです。
  漢字の音読みに地域で複数あるのがその証拠です。
  ~仏教は、記紀の成立以前に入ってきていた可能性もあります。時期が古くて
   不明だったけど朝鮮経由だけはハッキリしていたから書けたというものです。

7:関東の古墳で出土したとされるユダヤ人埴輪に騙されていること
  失われた十士族のどれかと噂される弓月氏が日本に渡ってくるのは応神天皇の頃で
  長浜氏の考察では西暦390~410のどこかに当たります。
  ~おっと田中氏の神武天皇の時代考察だともっと後になるはずなのです。
  この時代はすでに朝廷は奈良にあり、弓月氏は秦氏になったとあり、関東に住む理由は
  ありません。近年のユダヤ同祖論の方々が捏造した物でしょう。神社に捏造した物は
  全部がバレています。奈良の古墳は調査が進みすぎていて今更捏造できず、関東の
  調査が進んでいない古墳に仕込んだのが成功したというところでしょう。
  そもそも十士族が拉致されたのが紀元前772年、当時のユダヤ教は統一された宗教では
  無く多神教も含まれていたとあります。南がバビロン捕囚になったのが紀元前586年で、
  ユダヤ教が現在の形になっていくのが、この捕囚の間とされます。
  それと別離していた民族が西暦400年あたりだと別離後、既に1000年を超えています。
  彼らが造った土偶が、別離後2700年を超えるユダヤ教本体の民族の未来の習俗と同じなんて
  あり得ないことです。
  ~捕囚すなわち奴隷の間、ユダヤ12士族すべてが習俗を代えずにいられたというのもマユツバです。
   そもそも失われていない2族の習俗が全く違っていた様なのですから。
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天気予報が当たらないことについて

2022-03-04 16:16:45 | 学問
正論四月号、折節の記で、天気予報が当たらないことを取り上げていました。

スパコンを以てしても、何かの抜けがあったら当たらないのは当り前。
ノーベル賞を以てしても当たらない物なのだから。
 ~絶対当たるものは作れないだろうから、この辺りで出しておこうか?
要は、人間が、数値やパラメータを、いくら弄繰り回しても、当りを引け
ないでしょう。
昔のカンピュータの時代の方が当りが多かったりして・・・

完全にAIに任せるべきものでしょう。
もっとも、AIが正解を引き当てるようになっても、多分、AIから正解の
理論や数値、パラメータは引き出せないだろうと思われます。
つまり、絶対に当たるAIを作れても、理論などを引き出せないだろうから
論文はもちろん、賞も無理かと。

おっと、ちゃんと作りこんでおかないと、コピーもバックアップも作れないし、
その後継機のバージョンアップ版も作れない可能性もありそうです。
 最悪、停電で消えましたとか?
 ~昔の走りの自作のAIって、バックアップは無理だったのよ。
  毎回ゼロからのスタートで・・・
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古代の天皇の諡号にこだわって論を展開する愚

2021-09-23 08:19:51 | 学問
日本書紀が720年完成(続日本紀による)とされています。

古代の天皇方に諡号を送ったのは、淡海三船という元皇族で
762~764年の期間に考案(選進)したとあります(続日本紀)。
~続日本紀の成立は8世紀末でもちろん諡号を付け終わった後。

日本書紀完成から42年以上経過していますから、編集に関わった人は、
誰も生き残っていないはずです。
日本書紀を読んで決めただけだと思われます。
~30巻+系図1巻。30代の若造達を集めて10年でできあがった
 としても52年経過で82才。無理っぽい。
 ~日本書紀を完成報告した舎人親王は676~735、既に他界。
  44才で完成させた計算です。
~次世代以降の口伝役は、いたかもだけど、記述されている話の内の
 少数バージョンしか聞けなかったと思われる。
 ~こういう話もあるよというのは、他の口伝役にも当たらないと
  聴けないだろうから。

かなり後年に後付けされた諡号に、何か特別な意味があるとしての論を
張るのは無理があると思います。
諡号の意味と根拠を本人が解説しているのであれば、少しは意味ある
カモですけど。

戒名に意味を求めているようなものですから。
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