コロナ直撃以前に、納期を遅れまくったことが、
問題でしょう。
戦闘用ジェット機の一部国産でノウハウを得た
と思って作り始めてしまったのが敗因でしょう。
あわてて?
令和元年6月に、ボンバルディアの小形旅客機
事業の買収を完了したようですが、その後
2週間も経ずに事業縮小・責任者交代って、
要は、買収も実質失敗したってことでしょう。
米国の会社の買収は、難易度高いですから。
カナダの会社も同じかもです。
もう20年以上前です。
リレーを使用したワイヤリング(配線)チェッカー
では、独占状態のアメリカDIT-MCO社が、
半導体を使用したワイヤリングチェッカーでは
ほぼ完敗したアメリカESP社のノウハウが
欲しくて買収しました。
相手は若者の集団でした。工場や設計書などや、
特許も手に入りました。でも、一人も残って
もらえなかったのです。全員が大金を持って
隠居できてしまったというアメリカンドリーム
の実現でした。
結局、ノウハウは手に入らなかったのです。
~さらに、メインフレームの汎用コンピュータ
の日本製は、その性能からスパコン認定
されてしまい、アメリカへの輸出は不可能
となり、開発は中止になりました。
その前後、IBM-PC互換機の浸透・発展
に伴い、プリント基板および、部品搭載済み
ボードの値段が急激に下がっていきました。
結果、ベアボードテスターの市場も消滅した
のでした。
(当時、RS232Cの通信ボードは、
NECのPC9801用が¥28000
なのに、IBM-PC互換機用のは
¥1500って、何それの世界です。)
DIT-MCO社は、今も健在です。
社名は、ドライブ・イン・シアターの頭文字
です。現場の配線が間違いなくできるように
と発明したのがワイヤリングチェッカーです。
(昔は、線材もカラフルではなく、1本100
メートルにもなるような配線を車1台に
スピーカーを最低2つ配置するとして3本か
4本を引っ張るわけです。で、車を何台と
数えると・・・
配線のチェッカーを作ろうというのは、
切実な希望だったんでしょう。当時、特許
保持者が、社長以外に6名ほどいて、
家で暇つぶしているより会話できる場所が
いいと会社に集まっていました。
~カンザスシティは、夏45℃以上、
冬零下25℃以下。夏の野は枯れ葉
だけ。夏は、酪農以外は多分無理。
暇つぶしの農業はありえません。
~コンピュータ部を真空管で動かして
いた製品は、日本で確認しました。
高さ1m程度の一般のラックに全部
収まっています。真空管も見た感じ
50本も使っていないよねと。
20年前の最新製品でも、ROMに
プログラムは書き込んであるものの
CPUは普通のICで、少規模な
回路で構成されていました。
IBM360上位・下位両コピーの
CPUボード群を見ていた私としては、
これでもCPUなんだという驚きでした。
まあ、NOVAやDECやIBMの
ミニコンも一杯見たのでありますが。
ミニコンはIC多過ぎ・故に故障し
すぎ、年数経てばICの足も錆びて
ボロボロになるし、いい加減に買い
換えるか、そもそもの製品を替えて
よと密かに客先で叫んだことも。
~現在、ミニコンが生き残っていた
ら、それは不思議の世界かも。)
これと同じ事が起きたんでしょうね。
さらに、優秀な技術者は、本社に移す
というのが絶対にありますから。
さて、ノウハウでは、正のノウハウは
伝わりやすいのです。
つまり、成功伝です。
伝わらないのが負・失敗のノウハウです。
あのピンセットのメーカーですら、失敗の
ノウハウは教えず、本人のトライに任せて
いるようです。
昔、成功・失敗の事例を工場にデータ
ベース化しろよと指示したことがあります。
(装置の故障対策のパーツが、以前に
ダメだったものと同じ品物が納入
されてくるからだったのです。
こちらで、こう作って欲しいと希望
しているにも関わらずです。
~結局、相手を無視して指示せざるを
得ませんでした。これを作れ!です)
責任者に拒否されました。
現担当者が失敗を経験しない限りいくら
言おうがダメなんだと。
要は、先輩が失敗した設計部品も、後輩が
同じ失敗を経験しない限り先に進まない。
誰もが、自分で経験しない限り成功も
失敗も認めないというアホすぎる世界が
ありました。
(これ、山梨県民だけのものかも
しれないと言っておきましょう)
で、プログラムの云々は、とりあえず作って
いたデータベースは後輩に押しつけました
が、どうなったやら。
退職で接点が切れて、そのまま。
さて、DIT-MCO社、この会社は永遠です。
軍用を中心に絶対の品質保証をカバーしています。
民政でも、航空・鉄道は必須でしょう。
(もっとも、配線ミスのまま数年なんとか運用
できていたという韓国鉄道がありますけど)
問題でしょう。
戦闘用ジェット機の一部国産でノウハウを得た
と思って作り始めてしまったのが敗因でしょう。
あわてて?
令和元年6月に、ボンバルディアの小形旅客機
事業の買収を完了したようですが、その後
2週間も経ずに事業縮小・責任者交代って、
要は、買収も実質失敗したってことでしょう。
米国の会社の買収は、難易度高いですから。
カナダの会社も同じかもです。
もう20年以上前です。
リレーを使用したワイヤリング(配線)チェッカー
では、独占状態のアメリカDIT-MCO社が、
半導体を使用したワイヤリングチェッカーでは
ほぼ完敗したアメリカESP社のノウハウが
欲しくて買収しました。
相手は若者の集団でした。工場や設計書などや、
特許も手に入りました。でも、一人も残って
もらえなかったのです。全員が大金を持って
隠居できてしまったというアメリカンドリーム
の実現でした。
結局、ノウハウは手に入らなかったのです。
~さらに、メインフレームの汎用コンピュータ
の日本製は、その性能からスパコン認定
されてしまい、アメリカへの輸出は不可能
となり、開発は中止になりました。
その前後、IBM-PC互換機の浸透・発展
に伴い、プリント基板および、部品搭載済み
ボードの値段が急激に下がっていきました。
結果、ベアボードテスターの市場も消滅した
のでした。
(当時、RS232Cの通信ボードは、
NECのPC9801用が¥28000
なのに、IBM-PC互換機用のは
¥1500って、何それの世界です。)
DIT-MCO社は、今も健在です。
社名は、ドライブ・イン・シアターの頭文字
です。現場の配線が間違いなくできるように
と発明したのがワイヤリングチェッカーです。
(昔は、線材もカラフルではなく、1本100
メートルにもなるような配線を車1台に
スピーカーを最低2つ配置するとして3本か
4本を引っ張るわけです。で、車を何台と
数えると・・・
配線のチェッカーを作ろうというのは、
切実な希望だったんでしょう。当時、特許
保持者が、社長以外に6名ほどいて、
家で暇つぶしているより会話できる場所が
いいと会社に集まっていました。
~カンザスシティは、夏45℃以上、
冬零下25℃以下。夏の野は枯れ葉
だけ。夏は、酪農以外は多分無理。
暇つぶしの農業はありえません。
~コンピュータ部を真空管で動かして
いた製品は、日本で確認しました。
高さ1m程度の一般のラックに全部
収まっています。真空管も見た感じ
50本も使っていないよねと。
20年前の最新製品でも、ROMに
プログラムは書き込んであるものの
CPUは普通のICで、少規模な
回路で構成されていました。
IBM360上位・下位両コピーの
CPUボード群を見ていた私としては、
これでもCPUなんだという驚きでした。
まあ、NOVAやDECやIBMの
ミニコンも一杯見たのでありますが。
ミニコンはIC多過ぎ・故に故障し
すぎ、年数経てばICの足も錆びて
ボロボロになるし、いい加減に買い
換えるか、そもそもの製品を替えて
よと密かに客先で叫んだことも。
~現在、ミニコンが生き残っていた
ら、それは不思議の世界かも。)
これと同じ事が起きたんでしょうね。
さらに、優秀な技術者は、本社に移す
というのが絶対にありますから。
さて、ノウハウでは、正のノウハウは
伝わりやすいのです。
つまり、成功伝です。
伝わらないのが負・失敗のノウハウです。
あのピンセットのメーカーですら、失敗の
ノウハウは教えず、本人のトライに任せて
いるようです。
昔、成功・失敗の事例を工場にデータ
ベース化しろよと指示したことがあります。
(装置の故障対策のパーツが、以前に
ダメだったものと同じ品物が納入
されてくるからだったのです。
こちらで、こう作って欲しいと希望
しているにも関わらずです。
~結局、相手を無視して指示せざるを
得ませんでした。これを作れ!です)
責任者に拒否されました。
現担当者が失敗を経験しない限りいくら
言おうがダメなんだと。
要は、先輩が失敗した設計部品も、後輩が
同じ失敗を経験しない限り先に進まない。
誰もが、自分で経験しない限り成功も
失敗も認めないというアホすぎる世界が
ありました。
(これ、山梨県民だけのものかも
しれないと言っておきましょう)
で、プログラムの云々は、とりあえず作って
いたデータベースは後輩に押しつけました
が、どうなったやら。
退職で接点が切れて、そのまま。
さて、DIT-MCO社、この会社は永遠です。
軍用を中心に絶対の品質保証をカバーしています。
民政でも、航空・鉄道は必須でしょう。
(もっとも、配線ミスのまま数年なんとか運用
できていたという韓国鉄道がありますけど)