ファンタジーなど

基本的に、いろいろなことの変なとこに突っ込みます。

お墓のこと

2024-03-09 09:02:37 | 日記
我が家の地域の全家と、隣接地域のほぼ半分は、樺太からの引き揚げ者です。

樺太の地域も豊原のコノトロ村に住んでいた者たちです。

樺太で死んだ身内は、曾祖父・曾祖母・夭折した子供達、そして私の姉と兄です。
墓も作った訳なのですが、後年、隣家に住んでいた従兄弟含めたここの近所の一団が
墓参訪問した際、誰も、墓どころか、自分の家の立っていたはずの場所はもちろん、
昔の道路や小川すら確認できなかったのでありました。
ただただ、平地にされた土地が広がっているのでありました。
 写真だと、雑草すら育たない土地に見えました。
誰も墓参が叶わず、一度の試みで終わったのでした。

私の下の姉が引き揚げ船中で死亡し、北海道に渡ってから、どこかの墓に納めたはず
なのですが、確認し忘れたままでした。母を連れて北海道旅行した際にも、引き揚げ後に
住んでいた紅葉山に行きたいというので連れて行きましたが、お墓の話は出なかった。
土は、しっかり収納したとは思います。

ここの住民の半数程は、一時、今の秋田県鹿角市八幡平国立公園内の土地に住んでいました。
農業は不向きな傾斜地で300平米あったかどうかの土地でしたから、
林業か硫黄鉱山の仕事が頼りでした。(3m以上の高さの切り株が林立する景色は異様です)
硫黄鉱山は、その後数年の命でしたから、林業従事者以外は離散しました。
 当家の墓には祖父が眠っています。50年前までなら、お墓まで行けましたが
 20年前には原野の大木だらけで誰も間伐するはずもないので諦めました。

我が家の家訓でしょうか、高知県を離れる前に決められた言葉があります。
引っ越す際には、墓の土を取って行きなさい。その土に着いて行くよ、と。

ということで、我が家には、土壺が、お墓に収納されているのであります。
最初の土は、高知県の各先祖の墓から集めた土だったはずです。

次の土地にも墓があります。祖母が眠っているのでしたが、
町が、植林を許可したのか杉林となり、樹木葬にされてしまいました。
 50年前はお墓がわかりましたが、間伐もせずに放置されていることもあって、
 20年前では、近所の分も含めて4つの墓のどれも見つけられませんでした。

今の土地の集団墓地に、父がお墓を作ったのでありました。
我が家の直系は、栃木県の小山市に家を建てて住んでいるので、どうなるやらです。
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実兄の名前の漢字違いのこと 改

2023-08-31 05:41:51 | 日記
父が亡くなり、兄が亡くなり、そして母が亡くなり、家に残っていた兄の遺品というか
中学時代の賞状、卒業証書、通信簿が見つかったので整理しなきゃと少し見直してみました。

そしたら名前の「隆」の中の生の上に横棒が一本が全部に入っているのでした。
「隆」が正しい名前だったのです。
そう言えば、生前一度、「昔生の上に横棒があったのにいつの間にか無くなってしまった」と
ボヤいていたことがありました。

弟が亡くなった時に銀行口座の整理のためにこれまでの全部の戸籍謄本+除籍謄本を取り寄せました。
自治体3カ所で都合5本の謄本と除籍謄本がありました。
兄の名前は、この内の4本に記載がありました。
古い3本は手描きで4本目は活字+手書き文字です。
 (父の名前は活字にもコンピュータ文字にも無い文字ですから手書き)
4本目も元は手書きだったはずですが、「改正原戸籍」の名前で活字+手書き+印鑑押しに
更新されている除籍謄本です。

 5本目は完全なコンピュータ処理の戸籍です。父の名前も手作りしたようですが、一度、別の人に
 同じコードで充ててしまったらしく、住民票や戸籍が文字違いになってしまい、てんやわんやになったことも。

最初の戸籍は樺太から引き上げて作り直した戸籍ですが手書きではっきり隆の字になっています。
次の戸籍は別の自治体の除籍謄本で、完全に「隆」の字になっています。
当時の戸籍謄本はすべて手書きのものでしたので戸籍を移す際に謄本を書いた人か、転籍で新しく
書いた人のどちらかが間違ったものと思います。
 この自治体の2本の謄本が生きていた9年間、戸籍謄本を利用する機会はあったかどうか不明です。
 ~9年目に転居し翌年高校進学後に抄本を取り寄せて提出しています。
  その翌月あたりに転籍したため戸籍抄本を高校に出し直しています。
  抄本では兄の記載はありません。
 転籍処理で父は謄本を見たはずですが、文字違いに気が付かなかったんでしょう。
 父のポカです。

なお、2つ目のところには謄本もありそちらも手書きですが、隆の字は生の字が少し変な字に書かれています。
3つ目は活字文字なのですが字がつぶれて生の部分は判別不能ですが隆のはずはありません。
 (結婚して離籍したので×が入っています。)

とりあえず証拠はあるので文字の訂正は可能でしょうが、本人が死んでるし変更が必要な人数多いから放置決定でしょう。
~墓石も横棒加える余地がなさそうです。
~私も母の生年月日の月が12月から2月になったのを高知県の古い方の除籍謄本で確認したけど
 当時すでに母は90才後半だったし、各地のトータル6本の戸籍謄本・除籍謄本どうするんだよで
 放置決定・・・
 生年月日を修正していたら100才のお祝いももらえなかったはずだった・・・
  ~ま、市長にはお祝いに訪問してくれた際に実際を話して謝っておきました。
 墓石にも周知の方で彫り込みました。

追記:
 兄嫁、娘に我が家に保管されていた兄の通信簿・賞状・卒業証書をすべて渡しました。
隆を隆に戻すのは可能だけどどうすると聞いたら、もういい。と放置のようです。
まあ、墓石も隆で掘っちゃいましたし・・・ これ隆に直すための横棒を彫り込む余地が無いのですw

別記事に追記すべきなんだけど:
 父の名前「原ソツ」のソツはノ木偏に卒です。本人は略してノギ編に卆と書くことも多かったです。
  日光市の住所登録+戸籍謄本では、ノギ偏に卒の文字で現状では正しく作成されています。
 従来、父親は、原卒(ゲンソツ)ないし原粹・原粋(ゲンスイ)で呼ばれ、書かれていました。
 暇つぶしで「樺太 小能登呂村の沿革史」(平成4年出版)に目を通したら、父の名前と曾祖父の名前が
 出てきました。父は結婚して農事実行組合長になったため実権を持つ曾祖父の名前とは別に掲示されたようですが、
 名前は残念なことに、「厚粋」でした・・・当時は若造過ぎて印象薄く、文字の印象しか無かったのね・・・
 で、どっちの文字も近い文字に間違えられた・・・
  :曾祖父:林治、祖父:補守(補の偏は実は衣偏でヨシモリと読む外字)
      :祖父の甥の一人は保丸=ホマルと名付けられた。
    ヨシモリは日本に戻ったけど新しい日本戸籍を作る前に死亡した。

 おまけ:近所の既に他界した方々の名前、および秋田の他界した伯父さんの名前など散見しました。
     意外だったのは、角田力氏の同級生が隣家の他界した堀川のおっチャンだったという記事です。
     まあ、樺太以後の子供世代は、樺太時代の話はほとんどされなかったから知らなくて当然かも?
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分校新築お祝い文発表のこと

2023-08-11 03:39:10 | 日記
昭和41年、小6の時です。

東北の小学校で分校が増築されました。
この分校、町からの車道で10kmの距離です。
(人道=獣道に近い はもっと短くなりますが誰も測ったことがありません。
 傾斜がキツいから、まさに滑り落ちる=駈け降りるしかないのでした。
 ~最低斜度30度はあるような斜面の連続でした。今もあるはずです。
 よって小1であっても朝6時起床で朝8時の本校の朝礼に間に合うのでありました。)
  帰りは完全な登り坂ばかりですから、走るなど無理で、体力次第の1時間4kmの
  移動距離になるのでありました。
分校は、江戸時代から続く家でも1km近く、明治から昭和初期の開拓から
も中央近くに設けられていました。

我が家は2kmの距離にありました。
最も遠い乳牛飼育地域は3kmで、そこにも海外撤退農民が住み着きました。

さて、開拓農民が一気に2+5+4+α 増えたのです。
~αは3家ほどですが流石にとんでもない場所であることを認識して早々に撤退しました。

αを除く11軒分で小1が+3、小2が+3,小3が+2、小4が+3、小5が+1、
小6が+2みたいに増えたのです。
当時、小学1~4年は分校、5,6年は本校に通い冬季には小5~中3は冬季分校でした。
~4月は積雪の影響があるため小学校は冬季分校は5月に入って終わるかたちになっていました。
 中学は4月に入って直ぐに冬季分校が終わり本校通学でした。
 当時5月連休が終わるまでスキーでの本校通学が可能でした。

で、どこかで分校の増築計画があり、小学校生全部を分校に置く、中学は冬季のみ分校に置くという
方針で分校の増築が行われたのでありました。

で、5月に分校の増築部分が完成したのでありました。
当時の私は5年生。昔通りに本校通いになったのですが、おまえ、感謝文を書けという話がきました。
まあ、分校在学中は側でガンガン作成中の家というか学校のことですし、私成績優秀で通っていたようです。

ということで書きました。はっきり言って完全な合作です。原文は私、次が母、最後の修正が担任という
ものでした。文集には全文が載っています。
 ~母は尋常小学校が最後ですが、他同期症候群という認識が当時無く、評価は優秀だったようです。

発表会で、当時のサトウとシオの当時のシグサを真似て頭を傾げたまま全文を淡々と読み上げた記憶があります。
この読み上げで町からの表彰状も貰っています。

学校は現在の秋田県由利本荘市矢島町ですが分校(谷地沢やちさわ)は廃校のようです。
おまけ:当時の谷地沢西の名称は消されました。謄本でもこの修正は及んでいますが
桃野=モモノ:少なくとも50年昔そこに住んでいた人は別称も使いました。オタスケが地名だったのです。
オタスケは何かに襲われたときの決まり文句でもあり、近くにあるガンド盛りと谷地沢の熊谷家が討伐伝承を残しています。

谷地沢西は矢島町=由利本荘市矢島町が消したい歴史かもですが、「谷地沢西」は地図上からは消えましたが、
戸籍謄本には、消しきれずに残っています。
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秋田県由利本庄市矢島町谷地沢のこと

2022-12-14 07:49:55 | 日記
妹との昔話で、谷地沢の西側の川と道の側に、「がんどもり」という
記憶では高さ2m以上で地面の直径は数mほどの、まさに盛り土。
天辺には石の墓と1本の松の木(太さは直径20cmもなかったような記憶が)。

で、私の認識では「がん土盛り」だったのだが、妹は「がんど森」と認識
していた模様。「がん」の漢字は記憶からは消え去っています。
お話は:江戸時代、その場所に盗賊がいて谷地沢農民の熊谷氏が、退治し
矢島(やしまと発音、名字と違い濁りません)の殿様から褒美をもらったと
いうもので、その盗賊を埋葬したのが「がんどもり」だというお話でした。
 ~ただ、お墓にしては、盛りすぎて、もはや小山。
  その理由は誰も語らないのでありました。
 ~谷地沢の全家は江戸時代から続く家です。でも名乗っている名字の来歴を
  聞いた覚えが無いです。

さて「がんどもり」が地図に出てくるかなと参照してみましたけど出ません。
別に、昔、私らが住んでいた地域の地名に疑問が出ました。
江戸時代からの地名の谷地沢以外の土地が桃野に変わっているのです。

数年前に弟が病死した時に取り寄せた戸籍謄本の除籍版では、
 「矢島町城内字谷地沢西XX番地」の西以下を訂正して「百XX番地」とあります。
で、除籍版でないほうは、「矢島町城内字谷地沢西XX番地」と元のままです。
~書き換えた方が除籍版になっているわけです。
由利郡矢島町は平成の合併で由利本荘市となりましたが、反映されていませんでした。
古い戸籍はいじらずに放置するのが国の方針のようです。
古い戸籍までをいじり出すとキリがありませんから当然のことでしょう。
だからいじってしまった戸籍を除籍版にしたのでしょう。
手書きの時代ですからご苦労様です。
~旧い戸籍謄本を遺産請求のためと1通を請求したらもう1通あるよとハガキを
 出して来て、余計な問題を起こしたことは、ここのブログのどれかに書きました。

さて
現在の「ゼンリン」や「グーグル」のマップでは、「桃野」の表示になっています。
~城内谷地沢も城内と谷地沢が分離していたりします。詳細はサッパリです。
私が住んでいた時期には、「桃野」は、ごく一部の地域の名称で、「おたすけ」が
通称として使われていました。これは、「お助け~」で、昔野盗が住み着きそこを
通る人を襲っていたため、「お助け~」の叫び声が地名になったというもので、
私らが転出する昭和40年代に入っても、住んでいる地元民はその名を使っていました。
 ~これが「がんどもり」のヌシのようです。我々が住んでいた当時、「がんどもり」は
  桃野の認識はありませんでしたが、桃野と同時期の開拓者がなにか頑張ったらしい
  土地の片隅にありましたから、桃野の地域名になっていた可能性はあります。
  ~野生化したイチゴやキクイモが残って育っていましたが、小石だらけの河原で
   あったため田畑にするのは諦めたというのが実際のようです。
  桃野は、我々より古い時代の開拓地で、お話では米軍の都市爆撃の話が良く出て
  きましたから戦後すぐの開拓と思います。
  ~我が家含めた谷地沢西の全家は、2回目の開拓です。我が家含めた5家の初回は
   秋田県は八幡平の今や国立公園内で、当時の、硫黄鉱山が頼りの開拓でしたが
   鉱山閉山で生活不能となったのです。この時の転出者の数家は私が今住む土地に
   転出できたのです。この土地は、水田に使える水が無く、西側の大谷川上流域は
   二宮金次郎先生が水引工事を指導して水田ができるようになったのです。
   「水無」という地名が今も残っています。
   ~二宮金次郎が作った水流も我が家の近くでは、水面の高さが地面から5m以上の
    深さとなっています。さらに後世の水流でも3mになっています。
   
   大谷川の伏流水は、我が家から1.5km以上東側の下流になってやっと地上に出て
   きます。我が家の地域は「茅野」とか「茅場」とか「萱場」と呼ばれるほどに、
   ススキしか生えない放置されていた土地だったのです。飲み水も5m以上掘り下げないと
   いけない井戸でしたが結構水枯れしました。個別には対応が困難で今も共同井戸で
   運用しています。今はなんと48mの深さです。
   開拓者は、牛飼いでなんとかなったのです。が、牛飼いには休みはありません。
   会社が近くに出来たことで、ほとんどが廃業したのです。

谷地沢西に入植した家々は、1月程度と数年で転居した2軒、結構長くいた
我が家含めた10軒も9年で諦めて全家、離農することとなったのでした。
誰も農業では生計を維持できないから、当たり前の結論でした。

矢島町はなんか堪忍袋の緒が切れたみたいで、墓地を含めた一体を誰かに売りつけ
植林地にしてしまい、これは成功しています。墓石を1つも見つけられません。
言わば勝手に樹木葬された感じです。

他に、11軒が鉄筋入りブロックで家を建てていたのですが、これら全部を破壊抹消されました。
地面下にも基礎が打ってあったのですが、完全に消去したようです。
ついでに?建物が建っていた土地も小高い丘も畑も全部均しまくったせいで、表土が栄養分が
何も無い赤土となり、放置しても雑草も覆えないほどの痩せた土地になったのでした。
 ~8年後に訪問してみたら、痩せて売り物にはならない大根が赤土畑に植えられていました。
  さらに30年近く後に訪問してみたら、背丈の低い雑草がまばらに生えた赤土の土地が広がって
  いるだけでした。雑木の1本も生えていないのでした。
  秋田県八幡平の出生地の方は、転出後50年で、大木の森となり入れませんから大違いです。

ブロック作りの神社の本体と鳥居もどこかに始末したようです。こちらも、雑草パラパラの
土地が残っているだけとなりました。神社に残していた松の木も無くなっています。
そこまで我々が憎かったのかというのが感想でした。

地名の桃野も、谷地沢西抹消の一環でしょうか。

~私の死後に財産相続するためには、私に妻子がいませんから、戸籍から消えた3兄姉の
 問い合わせが必須です。兄姉の名前を証明する法的文書は存在しないのです。

 樺太の戸籍のほとんどは消失していますから、結構めんどうな処理があるのです。
 ~父母のそれぞれの戸籍はもちろん結婚して作ったはずの戸籍すら消滅したのです。
  父が北海道に渡ってすぐに3兄姉の火葬許可証を作ったようですが、保存期間が短いので
  原本は存在しません。もっとも法律的には特別な効力は無いようです。

出稼ぎが必須で、出稼ぎで生活を支えることができるということがわかり、
今家族が住んでいる場所を変えようということになったのでした。
町から10km近く離れた場所にあり、行くにはハイヤーなどを雇えるが、戻るには
自分の足しか無いことにありました。冬場は陸の孤島みたいな場所でした。
 問題は、
 1:春に戻って農作する手間暇がもったいない。出稼ぎでもっと稼げる。
 2:自分の移動コストを下げたい。
 3:東京近辺の家土地代は高い。適当に安いところが良い。
 4:子供達の通学問題と、母親の朝食・昼弁当用意のための早起き負担を減らす。
   小学生の通学距離が歩きで我が家で片道2km。遠い家庭で3km。最短の家は1km。
   学級は複式学級(2学年をまとめて教育する)であること。
   中学生は、歩行通学しかなく、我が家で9km。遠い家庭で10km。最短の家で8km。
   ~この距離は自動車道で測った距離なので歩ける道では1kmは短縮可能かも。
   ~冬季は冬季分校が用意されるが3学年まとめて1クラスになること。
   ~我が家は鳥海山2合目が距離的には中間にありました。
    自転車など使える道ではありません。
 5:病気で病院に連れて行く手段にはオンブして行くしか無い土地では困るのです。
   これをサボった?男2人は、連れ合い2人を病死させてしまったのでした。
   1名は冬季に虫垂炎を放置して悪化させた結果でした。

で、政府の離農政策に乗っかって全家が離農したのでした。結構町とはもめたようです。
当時の新聞とTVのニュースで賑わしたようです。

父は、実姉の配偶者の提案で、私が現在住んでいる家土地の購入を勧められて断れずに移り住んだ
のでした。その売主は、樺太の同郷者で、長男夫妻の家に隠居するために家が不要になったからと
いうものでした。
~父親は、実は、宇都宮市の当時は宅地販売を開始していた地域の家を購入するつもりだったようで
 ボヤキまくっていました。母も含めた全員もです。そっちは駅も近かったよと。
 ここ、小中学校まで歩きで2km(小学校は自転車通学禁止)。どこのバス停も1km。
 矢島から比べたら便利だけど、離農したら住む土地ではありません。
 買い物、通院には自家用車かタクシーが必須です。
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親戚とされる関係についての反省

2022-09-28 04:03:41 | 日記
法律によれば、3親等以上は婚姻を認めているので、3親等以上を
超えれば、親族と見なさなくても良いのかも。

ただし、世間?は、3親等の家族の連れ合いが従兄弟であっても親戚
扱いするほどの冗長性は、あるらしい。従兄弟の嫁さんの従姉妹は
従兄弟には親戚でも我が家には、ほぼ無縁です・・・その息子は?
さらに無縁でしょう・・・

さて、地元に、従兄弟(父の姉を通して)の家族がある。
こちらも、あちらも、樺太引上げ者です。
あちらは、樺太→北海道→秋田県八幡平→栃木県日光市のルート。
こちたは、樺太→北海道→秋田県八幡平→秋田県矢島町→栃木県日光市
のルートです。

 矢島町の開拓は、秋田県矢島町の町から10km以上ある山中~鳥海山の
 何合目かを超えた数キロメ-トル先にあります。
 このブログ内にもありますが、交通は徒歩しか無く冬は雪で閉ざされて動け
 なくなる地域を開拓にした理由もわかりません。
 ここに2家+1家+5家+3家+1家が開拓したのは今では残念と言うしか
 ないです。
 1家は数ヶ月で逃げ出しました。次の1家は1年ほどで逃げ出せました。
 残りの10家は9年弱は、頑張ったのです。

 小学校通学(1年から4年生)には、近い家でも1km、次が2km、遠いのが
 3kmの分校通学です。本校へは歩きでは山道が可能なので分校からの距離は多分
 一番遠くても2km弱です。冬季は小中ともに分校通学になりました。5、6年は
 従来の1~4年に併合、中学1~3年はまとめて1学級です。

で、遂に全家が我慢の域を超えました。
全家、離農を決定したのです。
 山中というか高山地帯であったため、野菜生産には無理がありました。
 そもそも、搾乳できるまでの放牧場の目的がすでに成立していました。

よって開拓に求められる意味はすでに存在していなかったのです。

各家庭は、それぞれ親戚あるいは樺太時代のつながりで住む地域への勧誘がありました。
秋田県矢島町は将来性ゼロとされ、全家が離農の道を選択しました。

~このしかえしが、墓場を植林可能地にされ実際植林されてしまったことだと思います。

さて、主題から離れました。
で、父は、義理の兄から旧今市市への転入を勧められました。
 ~父は、宇都宮市の新興住宅の購入は可能なだけの資産を持っていたのですが押し
  切られたようです。で、その後、地域の墓場をもらえないことで、このやろうと
  はなったようです。墓場の隣の地を購入したので墓場に変えてやるとまで計画
  したようですが、隣の地域の墓に空きがあり、そこを貰ってなんとか収まった
  ようです。
  父の義理の兄は墓場の地域の権利を保有していました。5人ほどいた娘たちの
  誰かが墓を欲しがった時のためなようです。誰もここには墓を作りませんでしたけど。
  ~おまけ:家を継がない息子・娘で墓を当地に作ったのは娘の1家だけでした。

さて、親戚の伯父・伯母がなくなった後、こちらには、相手にとっての叔父・叔母が
生存していたわけなんだけど、相手からのあいさつは一切なかった。
こちらから家の篝をお参りする方式しかなかったのです。

婿殿の義父・義母(こちらには従弟とその妻)の法事にも全く声がかからなかった。
同じ地域の数人は呼ばれているので、なぜ俺がいないんだと不思議に思われたようです。

そもそも。相手が、こちらを親戚扱いしなかった時をもって親戚扱いをやめるべきだったようです。
親戚扱いを全くされていなかったのに、金を貸してしまったのが問題です。

隣の奥さんに一括されました。
話すと、相談されたら即刻金貸すなと言うよと断言されました。
あんたあいつと仲良くしているから同類だと思ってたと言われました。

うむむ、従弟の娘までは理解できても婿養子は無理です。
しかも彼が満州起源となると理解が及びません。

彼の実兄が栃木北部で危ない経営状態にあるようです。
 新聞記事でも、息子を飛ばして孫に経営権を渡すということも
 新聞記事になる程のようです。
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