Ommo's

古い曲が気になる

“戸張さんブルー”

2009-12-14 | 日記・エッセイ・コラム

帯広在住の写真家、戸張良彦さんが撮影する十勝の雪原の写真に感動している。じつに美しい。わたしは、この十勝の青色を、勝手に、『戸張さんブルー』と名付けてる。

朝、戸張さんのHPをひらいて、『きょうの“戸張さんブルー”も、すごいな』と感心する。

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十勝の雪原と日高山脈だ。(写真は、戸張良彦さんの許可をいただいて掲載している)。

    戸張良彦さんのサイト http://www.y-tobari.jp/

太陽をパクパク食べる鳩山政府は、環境税とやらをつくろうと画策している。灯油をガッポリ使う北国・十勝の家庭、A重油をガッポリ使う十勝の農民、漁民。みんな大増税になるだろう。この十勝の人たちが、中川昭一さんを落選させて、民主党を選んだ。一票は重い。電気代も上がるだろう。ほくでん(北海道電力)は、62.5%が火力発電だ。重油を燃やして発電している。

環境税の建前は(本音は、「増税したい、なんかないか、言い訳がたつやつが?」)、化石燃料、石油の消費が、地球環境を破壊している。その破壊の原因をつくっているものが、地球環境を回復するための費用(税)を負担するのが当然だ。またこうして税をかけることで、石油の消費が減り、CO2の排出量も減る。という、鳩山由紀夫のような、太陽パクパクのお坊ちゃま社会主義者のイデオロギーだ。

母親から毎月1500万円が振込まれて、政治遊びをやっている鳩山由紀夫には、北国の庶民の灯油に過税する意味も、重大さも、わかりゃしない。

(母親からの毎月1500万円の子供手当てのほかに、自身で中学生のときに父親から相続した、当時の時価で40憶円を超える株を持っている。その配当もあって、なお、母さんからの毎月1500万円の子供手当てだ。こんなやつを持ち上げるマスコミのれんちゅう……。政治評論家がテレビでいっていた。鳩山由紀夫のことを著書でふれると、鳩山事務所が大量の本を買ってくれる。「すぐに代金が振り込まれるんです。支払いがキレイなんです。鳩山さんはしっかりした人ですよ」)

鳩山由紀夫は、こうして、評論家、マスコミ、子分の政治家に金をばらまいてきたのだろうな。そうして、総理大臣になった。無能の、バカが、金があっただけで、一国のトップになった。いい国だ。

わたしの老いた両親は、十勝・帯広にいて、真夏の数日以外、毎日石油ストーブをたいている。老人だ。食は細い。食費より毎月の灯油代が高いだろう。こういう人たちから、鳩山は、さらに税を取ろうというのか? ぼっちゃまの、ユートピア願望のために……。


1973年

2009-12-13 | 日記・エッセイ・コラム

クリス・ブラックウエルがプロデュースしたボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのアルバム「Burnin'」が、アイランド・レコードから発売されたのは、1973年のことだ。このアルバムに、「アイ・ショット・ザ・シェリフ I Shot the Sheriff 」が入ってる。

Burnin' [12 inch Analog]

翌1974年、エリック・クラプトンのアルバム「461オーシャン・ブルーヴァード」が発売になった。このアルバムから、カバー・ヴァージョンの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」がシングルカットされた。これが、アメリカ・ビルボード誌のNo.1になった。1974年9月のことだ。

たくさんヒット曲があるように思われるクラプトンでも、ビルボード・ナンバー・ワンは、このボブ・マーリーをカバーした「アイ・ショット・ザ・シェリフ」だけなのだ。アルバム「461オーシャン・ブルーヴァード」も、全米No.1になった。日本でも大ヒットした。帯広のわたしの店でもよく売れた。

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エリック・クラプトンは、ボブ・マーリーの曲でナンバー・ワンになり、ボブ・マーリーは、ビッグ・スター、エリック・クラプトンがカバーしてくれて、一気に世界で名が知られた。ドラッグ中毒で、いっとき低迷していたクラプトンは、このアルバムの世界ヒットで完全に復活した。

   エリック・クラプトン I Shot the Sheriff   http://www.youtube.com/watch?v=10qLYy6hiFQ

ボブ・マーリー&ウェイラーズのアルバム「Burnin' 」が発売になった1973年(昭和48年)とは、日本では、第一次オイルショックがあった年だ。店頭のトイレットペーパーが売り切れ、街の灯が消えて、深夜と昼のテレビ放送が無くなった。ガソリンスタンドは、5時に閉まり、日曜日は閉店になった。日本に原油が思うように入って来なくなったのだ。日本じゅうが大騒ぎだった。

この年、邦楽のヒット曲は……井上陽水「夢の中へ」「心もよう」、南こうせつとかぐや姫「神田川」、チューリップ「心の旅」、チェリッシュ「てんとう虫のサンバ」「白いギター」、小坂明子「あなた」、海援隊「母に捧げるバラード」……

……ペドロ&カプリシャス「ジョニイへの伝言」「五番街のマリーへ」、フィンガー5「個人教授」「恋のダイヤル6700」、南沙織「色づく街」、桜田淳子「わたしの青い鳥」、天地真理「恋する夏の日」、浅田美代子「赤い風船」、麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」、山口百恵「としごろ」「青い果実」、渡哲也「くちなしの花」、山本リンダ「狙いうち」、殿さまキングス「なみだの操」

洋楽では……ドーン「幸せの黄色いハンカチ」、ロバータ・フラック「やさしく歌って」、ポール・マッカートニー「マイ・ラブ」、カーペンターズ「トップ・オブ・ザ・ワールド」「イエスタデイ・ワンス・モア」、カーリー・サイモン「うつろな愛 You're So Vain 」、スティーヴィー・ワンダー「迷信」、マービン・ゲイ「レッツ・ゲット・イット・オン」……など。

    ペドロ&カプリシャス 「五番街のマリーへ」 http://www.youtube.com/watch?v=6a-WzDFhOIY&feature=related

    高橋真梨子 「五番街のマリーへ」(1993年、ニューヨーク・カーネギーホール) http://www.youtube.com/watch?v=mECyMGIIiyI&feature=related 


アイランド・レコード、50周年

2009-12-13 | 日記・エッセイ・コラム

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これは個人の住宅。年末になると、イルミネーションの家が、そこらにじゅうに出現する。

ジミー・クリフが主演した映画「ハーダー・ゼイ・カム」は、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアで大ヒットした(日本では一般封切りにならなかった。いくつかの都市で自主上映されただけだった)。きっと、この映画が、ジャマイカの状況と音楽を映像でみせたはじめてのメジャー映画だった。スカ、そしてレゲエは、まだ一般的ではなかった。

映画「ハーダー・ゼイ・カム」のエグゼクティブ・プロデューサーが、クリス・ブラックウエルなのだ。アイランド・レコードの創設者だ。ボブ・マーリーを世界に売り出し、レゲエという音楽を世界に知らしめた大プロデューサーだ。それだけじゃない。

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70年代にレゲエを紹介する、その前、60年代には、ブリティッシュ・ロックを世界に売り出した。アイランド・レコードからデビューして、ヒットしたバンドは、スペンサー・デイビス・グループ、トラフィック、フリー、ジェスロ・タル、キング・クリムゾン、ロバート・パーマー、キャット・スティーヴンス、エマーソン・レイク&パーマーなどがある。

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クリス・ブラックウエルは、1937年、ロンドンで生まれた。父はアイルランド人、母親はコスタリカ生まれのユダヤ人。子供時代はジャマイカで育ち、イギリスの名門ハロウ校を卒業して、またジャマイカにもどった。1959年にジャマイカで、アイランド・レコードを設立した。

ジャマイカで、2枚のLP、26枚のシングル盤を制作したあと、クリス・ブラックウエルは、ロンドンに移って、アイランド・レコードを法人化した。イギリスでは、独創的なグループがゾクゾクと登場して、ロック・シーンがおもしろくなっていたのだ。

Traffic

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In the Court of the Crimson King
Mona Bone Jakon
タルカス(K2HD/紙ジャケット仕様)

1971年10月30日、ジャマイカのボブ・マーリーが、アイランド・レコード・ロンドン本社のクリス・ブラックウエルのオフィスを訪ねた。レゲエという音楽が、世界デビューするきっかけになった歴史的な日だ。

ボブ・マーリーがメンバーのザ・ウェイラーズは、10年まえからジャマイカでレコードを発売して、何枚もヒットを出していた。だが、ジャマイカだけのローカル・スターだった。クリス・ブラックウエルの力で、アイランド・レコードから世界デビューをしたいと、訪ねたのだ。クリス・ブラックウエルは、すでにジャマイカ出身のジミー・クリフを主演にして、映画「ハーダー・ゼイ・カム」を制作していた。

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こうしてアイランド・レコードでボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのアルバムが制作される。しかし、すぐに売れたわけじゃない。1974年、エリック・クラプトンが、ボブ・マーリーの曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をカバーして、No.1ヒットにした。このビッグヒットで、ボブ・マーリーの名前が世界で知られることになる。

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U2のライブに出かけたときのクリス・ブラックウエル。アイルランドのローカル・バンドだったU2を世界デビューさせたのも、クリス・ブラックウエルなのだ。

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アイランド・レコード50周年、なかなかハンサムだったクリス・ブラックウエルも、72歳。それなり老人だ。ひとのことは言えない。わたしの頭に、もう髪の毛は、無い。

           アイランド・レコード50周年 オフィシャルサイト http://www.island50.com/

    ボブ・マーリー I Shot The  Sheriff http://www.youtube.com/watch?v=nrnZSLwfzVs


冷たい雨のふる日、なぜか、Many Rivers To Cross  

2009-12-12 | 日記・エッセイ・コラム

                          

ドナ・サマーは、18才のとき、アメリカからヨーロッパに渡り、ドイツ・ミュンヘンでデビューして、世界じゅうのディスコを席巻した。

ディスコとは、いまでいうクラブのこと。レコード(ディスク)をかけて踊る店だ。それ以前の踊り場は、生のバンドが演奏するナイトクラブだった。ビートルズに代表される1960年代のバンドは、はじめはみんな、こういうナイトクラブのバンドだった。生バンドのナイトクラブと区別して、バンドのない、レコードだけの踊り場を、ディスコテック(ディスコ)といった。最初は、ナイトクラブよりチープ、安っぽい店というイメージだったのだ。

1970年代になって、フランス、ドイツ、オランダなどヨーロッパで、この生バンドがいない、レコード(ディスク)の音楽で踊る大箱のディスコが大流行りした。バンド不足と、バンドのギャラや機材など経費の高騰が原因だが、皮肉なことに、逆にバンドのないのがうけた。切れ目なく音楽を流すことができる。ただ踊るのが目的なら、なまじ下手なバンドに合わせるより、断然レコードのほうが都合がいい、と、お客も経営者も気づいたわけだ。お客を煽るように選曲してレコードをかける、DJという仕事もうまれた。

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ドイツ・ミュンヘンで制作して、世界じゅうでヒットしたドナ・サマーに続いて、ドイツからデビューしたのが、ボニーMだ。ドナ・サマーのヒットが、イタリア人のジュルジオ・モロダーというプロデューサーの仕掛けだったように、ドイツ人のプロデューサーがつくったブームだった。最初から、ディスコで踊ることを目的にして制作されたレコードだった。

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ボニーMの仕掛け人、ドイツ人プロデューサー、フランク・ファリアン。70年代の若いときと最近の写真。ボニーMのヒット曲、「ダディー・クール Daddy Cool」の作者だ。ボニーMのレコードの男性ヴォーカルは、かれの声だ。メンバーの黒人男性は、ダンサーなのだ。レコーディングでは歌わない。

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ドイツ人のソングライターでマネージャーのフランク・ファリアンが、ドイツで仕事をしていたモデルとシンガーの黒人女性3人を集めて、まず自分の曲でレコード・デビューさせた。3人の国籍は、イギリス、ジャマイカ、インドとさまざまだが、アメリカ人はいない。男性パートは、フランク・ファリアン自身が歌ってレコーディングした。この女性たちに、ライブのビジュアルのために黒人男性ダンサーを加えて、4人のグループにした。1975年(昭和50年)、ボニーMのスタートだ。

ドナ・サマーにつづいてボニーMも、ヨーロッパと日本で大ヒットした。ディスコでうけた。50才前後の人は、このグループやドナ・サマーの曲で踊ったことがあるだろう。

ボニーMのプロデューサー、フランク・ファリアンは、いまもドイツで活躍している。

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ボニーMがカバーしてヒットした曲に、「バビロン河のほとりで Rivers of Babylon」がある。これは、ジャマイカのグループ、ザ・メロディアンズがオリジナルだ。わたしは、ジミー・クリフ主演のジャマイカを舞台にした映画、「ハーダー・ゼイ・カム」のサントラで、はじめてこの曲を聴いた。これもジャマイカ発の名曲だ。

ザ・メロディアンズの「バビロン河のほとりで Rivers of Babylon」、オリジナルは、1970年。ボニーMのカバーが、1978年の発売だった。オリジナルより、カバーのディスコ版のほうが、圧倒的に売れた。ドイツ人とか、イタリア人が、売れる音楽をつくろうとすると、さすがにうまい。商売上手だ。数百年のクラシックの長い歴史があるところだ。洗練されている。ダンス・ミュージックの売れるツボを心得ている。さすがウインナーワルツの人たちだ。

ジャマイカの潮の香りがする素朴でローカルなサウンドを、世界じゅうのディスコで踊れる普遍的なエレクトリック・ダンス・ミュージックに仕上げている。じつにみごとなコマーシャル・センスだ。商売がうまい。

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    ザ・メロディアンズ The Melodians  "Rivers of Babylon" http://www.youtube.com/watch?v=o-5E6_qtXAw

      ボニーM Rivers of Babylon http://www.youtube.com/watch?v=Nm1g8FFRArc&feature=related

   リッチー・ルーツ Rivers of Babylon http://www.youtube.com/watch?v=rdhbqVslM0Q

                      

ザ・ハーダー・ゼイ・カム

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わたしのレコード屋では、このジミー・クリフのライブ盤がよく売れた。1976年(昭和51年)の発売だ。きっと、帯広グランドシネマを借りて、映画「ハーダー・ゼイ・カム」を自主上映した影響だろう。わたしの店では、ボブ・マーリーとおなじくらいジミー・クリフが売れた。

映画「ハーダー・ゼイ・カム」のサントラでは、なんといっても「メニー・リバース・トゥ・クロス Many Rivers To Cross 」が、すばらしく美しい曲だ。

   ジミー・クリフ Many Rivers To Cross  http://www.youtube.com/watch?v=kGeCeK85sUg&feature=related

        ジョー・コッカー Many Rivers To Cross http://www.youtube.com/watch?v=-NK93kcCS9Q&feature=related

        アニー・レノックス Many Rivers To Cross http://www.youtube.com/watch?v=nN-jNmzSTok&feature=related

        レニー・クラヴィッツ Many Rivers To Cross http://www.youtube.com/watch?v=Tr1S8HWSWf4&feature=related

         エルビス・コステロ Many Rivers To Cross http://www.youtube.com/watch?v=S0IAkrAmrpU&feature=related

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   ジミー・クリフ The Harder They Come http://www.youtube.com/watch?v=xGE4dnrPPZQ&feature=related

   ジミー・クリフ オフィシャルサイト http://www.jimmycliff.com/v-css/home/

              

一日じゅう、冷たい雨がふっている。部屋にいて、ひたすら、Many Rivers To Cross の映像を繰り返しみていた。じつにいい曲だ。

 


「トップガン」とドナ・サマーの関係

2009-12-11 | 日記・エッセイ・コラム

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お客さんの到着を待つ屋形船。旧江戸川を下って東京湾にでる。遠くにみえる灯りが東京デイズニーランド。

The Journey: The Very Best of Donna Summer

The Journey: The Very Best of Donna Summer

「ディスコ・クィーン」といわれ、1970年代後半にバカ売れしたドナ・サマーは、最初はドイツ、フランスなどヨーロッパだけで売れていた。だから、フランスか、ドイツの人だと思っていた。おなじ時代に流行ったディスコのコーラス・グループ、ボニーMは、ドイツのグループだった。黒人ミュージシャンだからといって、アメリカ人ばかりではない。

しかし、ドナ・サマーは、アメリカ出身だ。アメリカ人だが、ヨーロッパでデビューしてドイツ、フランス、ヨーロッパ全域で大ヒットして、アメリカのマーケットに凱旋したのだ。

1948年にボストンで生まれたドナ・サマーは、小さいときから教会でゴスペルを歌った。ハイスクールのときは、サイケデリック・ロック・バンドで歌った。そのバンドでは、ただひとりの黒人メンバーだった。18才のとき、ブロードウェイ・ミュージカル「ヘアー」のオーディションに落ちる。

その傷心の旅なのか、新天地をヨーロッパに求めたのか、ヨーロッパに旅にでる。そのドイツ・ミュンヘンで、ミュージカルの役を得る。そのままドイツにとどまり、結婚して、舞台でキャリアをつんでいく。

(日本の劇団四季がやってるように、アメリカやイギリスのヒット・ミュージカルを、ドイツ語で上演する。世界じゅうにこういう劇団がある。ロシア語やポーランド語版の「キャッツ」や「オペラ座の怪人」があるのだ)

こうしてドナ・サマーは、ドイツで、スタジオやクラブやステージで、さまざまな歌手の仕事をしていた。

1974年、ドナ・サマーは、スリー・ドッグ・ナイトのヨーロッパ・ツアーでバンクコーラスをやっているときに、ジュルジオ・モロダーと出会う。ジュルジオ・モロダーは、モーグ・シンセサイザー・プレーヤーで、作曲家、プロデューサーだ。イタリア人だが、イタリア北部の出身でドイツ語を母国語にする。ドイツ・ミュンヘンをベースにして仕事をしていた。

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ジョルジオ・モロダー

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1974年(昭和49年)、ドナ・サマーは、オランダのGROOVY・レコードからファースト・シングル「The Hostage」を発売する。これが、いきなりオランダとドイツのヒットチャートの2位まであがる。作詞は、ピート・ベロッテ、作曲が、ジョルジオ・モロダー。プロデュースも、ピート・ペロッテ。ピート・ペロッテは、イギリス人だが、やはりドイツ・ミュンヘンを中心に仕事をしていた。

   ドナ・サマー The Hostage http://www.youtube.com/watch?v=aPCnwuoyJMs

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アメリカ人の黒人シンガー、イタリア人のドイツ系作曲家・シンセサイザープレイヤー、イギリス人の作詞家、無名の三人が、ドイツ・ミュンヘンで出会い、オランダのインディーズ・レーベルからシングル盤を発売する。この若いミュンヘン・チームが、世界じゅうのディスコを席巻することになる。

ファースト・アルバムも、そのあとのシングルも、ヨーロッパでヒットする。翌1975年に発売した「Love to Love You Baby  愛の誘惑(邦題)」は、アメリカのダンス・ミュージック・チャートの1位になる。ヨーロッパ、イギリス、オーストラリアでは、レコードは大ヒット、コンサートも満員。ドナ・サマーは、ヨーロッパのビッグスターになった。

日本でも、売れに売れた。ディスコではみんな、ドナ・サマーで踊った。ミュンヘン・チームのコマーシャル・センスは、じつにすごい。ジョルジオ・モロダーのモーグ・シンセサイザーで作るダンス・ミュージックは、「ミュンヘン・サウンド」といわれた。

そして1979年、「Hot Stuff」が発売された。ギターにジェフ・バクスターをフィーチャーしている。ロックっぽい曲だ。これがまたまた売れた。ドナ・サマーは、「ディスコ・クイーン」だけじゃなく、アメリカの偉大なソウル・シンガーのひとりになった。作詞・作曲・プロデュースは、これもドイツ・ミュンヘン・チームだ。

   ドナ・サマー Hot Stuff  http://www.youtube.com/watch?v=wPlV2dzXWCw&feature=related

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Bad Girls Bad Girls

Hot Stuffでギターを弾いてるジェフ・バクスターは、ドゥービー・ブラザーズ、スティー・ダンのギタリストだ。

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ジェフ・バクスター

ドイツで、ドナ・サマーをみいだしてデビューさせ、世界じゅうのディスコを征服した作曲家、プロデューサー、モーグのプレーヤー、ジョルジオ・モロダーは、ドナ・サマーの成功のあと、ハリウッド映画のサントラで活躍する。

「ミッドナイト・エキスプレス」(1978年)、「アメリカン・ジゴロ」(1980年)、「スカーフェイス」「フラシュ・ダンス」(1983年)、「トップガン」(1986年)。ジョルジオ・モロダーの映画音楽だ。ほかにもある。「フラシュ・ダンス」と「トップガン」の音楽でアカデミー賞をとっている。

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ジョルジオ・モロダー

1970年代には、ドナ・サマーといっしょうにディスコ・ミュージックで世界を席巻し、80年代には、映画音楽でヒットをとばし、シンセサイザー音楽の巨匠といわれ、1984年のロサンゼルス・オリンピック、1988年ソウル・オリンピック、1990年のサッカー・ワールド・カップのテーマを作曲した。ドナ・サマーのディスコ・ミュージックからはじまって、巨匠になり、大富豪になった。

フラッシュ・ダンス フラッシュ・ダンス

Top Gun Soundtrack Top Gun Soundtrack

映画「トップガン」のヒット曲、ベルリンが歌った「Take My Breath Away」は、もちろん、ジョルジオ・モロダーの作曲なのだ。

   映画「トップガン」 ベルリン Take My Breath Away http://www.youtube.com/watch?v=gKyEo-P4zik&feature=related

   ジョルジオ・モロダー オフィシャルサイト http://www.giorgiomoroder.com/

   ドナ・サマー オフィシャルサイト http://www.donnasummer.com/?content=home

        ドナ・サマー 「マッカーサー・パーク」 オランダでのライブhttp://www.youtube.com/watch?v=QfL7Gk7Fpes&feature=related 


鳩山こども内閣は、いったい日本をどうしたのだ

2009-12-10 | 日記・エッセイ・コラム

日本テレビの朝のニュースでは、普天間基地移転問題で、アメリカ政府の不信がつのっている、と伝えた。そのあと、「鳩山首相は、国際会議出席のためインドネシア・バリ島に到着した」と、夫婦が手をつないで政府専用機をおりる映像を流していた。http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00168083.html

外交では、普天間基地移転問題の決断は、もう一刻の猶予もない。国内経済は、来年度予算編成が佳境だ。こんなときに、よくも必要もない外遊などできるものだ。テレビ・ニュースでは、「国際会議」というが、「バリ民主主義フォーラム」というインドネシア政府主催の“親睦会議”のようなものだ。日本の首相が出席するレベルのものじゃない。去年、麻生総理は、このフォーラムに、高村正彦・元外務大臣を派遣した。現職の外務大臣ではない。その程度の会議だ。この時期に国を空けて首相が出席する会議じゃないのだ。

テレビ・ニュースは隠しているようだが、鳩山に対するアメリカの不信、つまり日本に対する不信は、オバマ政府だけじゃなく、アメリカ議会からもでてきた。親日の民主党上院の長老・ダニエル・イノウエが、鳩山の優柔不断に苦言を呈している。警告のサインだ。ダニエル・イノウエ上院議員は、上院歳出委員会委員長だ。ここまで日米関係は緊張している。あいかわらずテレビは、鳩山同様、緊迫感のないのんきな報道をしているが。http://sankei.jp.msn.com/world/america/091209/amr0912092319013-n1.htm

鳩山は、バリ島観光。幹事長・小沢は、626人を引き連れて中国へ朝貢だ。143人の民主党国会議員を従えている。http://www.nikkei.co.jp/news/main/20091210AT3S1000B10122009.html


ロイ・オービソンのデビュー曲は、Ooby Dooby

2009-12-10 | 日記・エッセイ・コラム

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このにぎやかなイルミネーションは、近所の歯医者。

                                                                

ブラック・アンド・ホワイト・ナイト [DVD] ブラック・アンド・ホワイト・ナイト [DVD]

このロイ・オービソンのライブは、豪華なバックバンドだ。ジャクソン・ブラウン、エルビス・コステロ、ボニー・レイト、J.D.サウザー、ブルース・スプリングスティーン、トム・ウェイツなどだ。

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ロイ・オービソン&The Teen Kings

ロイ・オービソンが、サン・レコードから「Ooby Dooby」でデビューしたのは、1956年(昭和31年)のことだ。この曲を、CCRのジョン・フォガティーがライブでカバーでしている。60年代のバンドはみんな、少年のときに演奏した曲なのだろう。

    ジョン・フォガティー Oody Dooby http://www.youtube.com/watch?v=A87FY1I1TTU

    ロイ・オービソン Oody Dooby http://www.youtube.com/watch?v=u90vEhJveIs

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ビートルズとロイ・オービソン

トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.1 トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.1
 

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トラベリング・ウィルベリーズは、1988年にジョージ・ハリスンの呼びかけで結成されたバンド。写真の左から、ボブ・ディラン、ジェフ・リン(エレクトリック・ライト・オーケストラ)、トム・ペティ、ロイ・オービソン、ジョージ・ハリスン。悲しいことに、ロイ・オービソンは、アルバム一枚をレコーディングしただけで、心臓発作で急死してしまう。

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ギター・メーカー、グレッジ社がバンドのスポンサーだった。

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   The True History of The Travelling Wilburys http://www.youtube.com/watch?v=lycnAnzUfsI

        ロイ・オービソン Unchaind  Melody http://www.youtube.com/watch?v=OSIJUz11-FE&feature=related


映画「プリティー・ウーマン」のテーマ曲は、ロイ・オービソン

2009-12-09 | 日記・エッセイ・コラム
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テキサス出身のJ.D.サウザーは、テキサスの偉大なロックンローラー、ロイ・オービソンをアイドルにしていた。日本ではまったく評価されてないが、ロイ・オービソン(1936年~1988年)は、アメリカでもイギリスでも人気のあるロッカーだった。とくにイギリスで人気があった。だから、のちのイギリスのロック・スターは、ロイ・オービソンの影響が顕著だ。ビートルズのコンサート・ツアーは、ロイ・オービソンとのジョイントというのもあったほどだ。

ロイ・オービソンは、メンフィスのサン・レコードからデビューした。ジョニー・キャッシュやエルビス・プレスリーやジェリー・ルイスやカール・パーキンスの仲間だ。テキサスのカントリー・アンド・ウエスタンの伝統を大事にしながら、とても洗練されたロックンロールをつくった人だ。イギリスのロック少年たちや、60年代のアメリカの若いロックのれんちゅうがアイドルにしたのもよく分かる。ステージでサングラスをかける、というのもロイ・オービソンのスタイルだ。

1977年に、リンダ・ロンシュタットが歌ってヒットした「ブルー・バイユー Blue Bayou」は、ロイ・オービソンの1963年の曲だ。

きっと、ロイ・オービソンの名前は知らなくても、映画「プリティー・ウーマン」のテーマソングは聴いたことがあるだろう。あの曲が、ロイ・オービソンだ。映画は、1990年の制作だが、曲は、1964年の全米、全英ナンバーワンのビッグ・ヒットだ。日本ではヒットしなかった。それから26年、日本でこの曲が大ヒットしたのは、映画がヒットしたからだ。すでにロイ・オービソンは2年まえに亡くなっていた。52才だった。

  ロイ・オービソン Oh,Pretty Woman http://www.youtube.com/watch?v=mBrbpWwWafQ&feature=related

J.D.サウザーが、「ユア・オンリー・ロンリー」と歌うのは、ロイ・オービソンの名曲「Only The Lonely」に対するオマージュだろう。

  ロイ・オービソン Only The Lonely http://www.youtube.com/watch?v=4ssNkJrmZ6g

     ロイ・オービソン オフィシャルサイト http://www.orbison.com/

  リンダ・ロンシュタット Blue Bayou   http://www.youtube.com/watch?v=udS-54aFPHI

  ロイ・オービソン Blue Bayou http://www.youtube.com/watch?v=cj5PAY_3mSk&feature=related

  ロイ・オービソン Crying http://www.youtube.com/watch?v=sE9AwR0awVQ&feature=related


アメリカは、同盟協議「延期」を通告

2009-12-08 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカ政府は、同盟協議「延期」を鳩山政府に通告した。http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091208-OYT1T00777.htm

テレビのニュースでは緊張感をもって報じないから、たいがいの人は、知らない。わずかの間に日米関係は、ここまで悪化している。国際政治は、一刻も止まらない。「ちょっと待ってね、みんなで相談するから」、「ぼく、ママに聞いてくるから、待っててね」と、鳩山が言っているあいだに、世界はどんどん動いていく。アメリカ・オバマ政府も、じぶんたちの議会対策があるから、早急に沖縄基地問題に結論を出さなきゃならん。同盟国なんだ。相手の政権のことも考えてやらんといかんだろう。

なにやら、昭和初期の日米開戦前夜の雰囲気がしてきた。鳩山と民主党のれんちゅうは、ことの深刻さを認識できないのだろうね。首相・党首が、「太陽をパクパク食べてる」友愛のぼくちゃんだからな。

日本は、アメリカとの同盟関係なくして、世界の経済大国としてやっていけるのだろうかね?

普天間基地移転問題に関して、鳩山由紀夫の決断力の欠如が、オーストラリアとの関係にも影響がでている。http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20091207AT3S0600806122009.html

                   

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きょう12月8日は、日米開戦、真珠湾攻撃の日でもあるが、1980年、ジョン・レノンが射殺された日だ。

ダブル・ファンタジー(紙ジャケット仕様) ダブル・ファンタジー(紙ジャケット仕様)

「ダブル・ファンタジー」、ジャケット写真は、篠山紀信。

ジョン・レノンの最後のアルバム「ダブル・ファンタジー」は、ゲフィン・レコードから発売された。ゲフィン・レコードは、デビッド・ゲフィンが設立した会社だ。デビッド・ゲーフィンは、70年代にはアサイラム・レコードをつくった名プロデューサー、名マネージャーだ。いまは映画の製作者でもある。

Geffen

デビッド・ゲフィン

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クリントンとデビッド・ゲフィン

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スティーヴン・スピルバーグとデビッド・ゲフィン

1944年生まれのデビッド・ゲフィンは、ローラ・ニーロを発掘し、マネージャーになって、彼女をデビューさせる。これが、デビッド・ゲフィンのいわば音楽業界での初仕事だ。ローラ・ニーロ、19才。デビッド・ゲフィン、22才だ。

More Than a New Discovery More Than a New Discovery

1966年録音のローラ・ニーロのファースト・アルバム。このとき、ローラ・ニーロは、まだ19才。すごい才能だ。このローラ・ニーロを発見して、デビューさせたデビッド・ゲフィンもすごい。スリー・ドッグ・ナイトやフィフス・ディメンションズにローラ・ニーロの曲をカバーさせてヒットさせたのも、デビッド・ゲフィンの才覚だ。

ジョイ・トゥ・ザ・ワールド ~ベスト・オブ・スリー・ドッグ・ナイト ジョイ・トゥ・ザ・ワールド ~ベスト・オブ・スリー・ドッグ・ナイト

The Age of Aquarius The Age of Aquarius

1971年、デビッド・ゲフィンはアサイラム・レコードを設立した。ここからは、リンダ・ロンシュタット、イーグルス、ジャクソン・ブラウン、J.D.サウザーを売り出した。

Hasten Down the Wind Hasten Down the Wind

Desperado Desperado
ジャクソン・ブラウン・ファースト ジャクソン・ブラウン・ファースト
ボーダー・タウン~ヴェリー・ベスト・オブ J. D. サウザー ボーダー・タウン~ヴェリー・ベスト・オブ J. D. サウザー

J.D.サウザーの2枚のアルバムが、アサイラムではなく、エレクトラ・レコードから発売になっているのは、1973年にアサイラムとエレクトラが合併して、デビッド・ゲフィンが社長になったからだ。

テキサス出身のJ.D.サウザーとデトロイト出身のグレン・フライは、ロサンゼルスのアパートで同居してデュオのグループ Longbranch Pennywhistle を組んでいた。アパートの隣に住んでいたのが、ジャクソン・ブラウンだった。

J.D.サウザーとグレン・フライのデュオは、一枚のアルバムを録音して解消する。グレン・フライは、イーグルスを結成して、リンダ・ロンシュタットのバック・バンドになる。J.D.サウザーは、デビッド・ゲフィンの勧めでソロデビューをする。

1972年発売の、イーグルス・ファースト・アルバムのA面1曲目で、最初のビッグ・ヒット「テイク・イット・イージー」は、グレン・フライとジャクソン・ブラウンの共作だ。

   イーグルス、ジャクソン・ブラウン、リンダ・ロンシュタット Take It Easy http://www.youtube.com/watch?v=9kTAT4vj_hI&feature=related

J.D.サウザーは、シンガー・ソングライターとしての高い評価のわりに、エレクトラ/アサイラムではそれほど売れなかった。だが、コロンビア(CBS)に移籍して発売したアルバム「ユア・オンリー・ロンリー You're Only Lonely」が大ヒットする。1979年のことだ。

Blu-spec CD ユア・オンリー・ロンリー Blu-spec CD ユア・オンリー・ロンリー


石附喜三男先生の本がきた

2009-12-07 | 日記・エッセイ・コラム

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帯広三条高校3年A組の同級生で、札幌大学考古学研究会の仲間、考古学者の羽賀憲二くんから貴重な本を送っていただいた。「時の絆 石附喜三男先生を偲ぶ (『道を辿る』『人を紡ぐ』二分冊)」(1998年 石附喜三男先生を偲ぶ本刊行委員会)。

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この本は、石附喜三男先生に考古学を学んだ人たちが、先生を偲んで資金を集めて出版した本だ。三回忌に出版しようと思ったけど、お金が足りなかった、と羽賀くんはいう。十年かかった、と。それをやったのは、羽賀くんだ。すごい。


すでに鳩山は、オバマの信頼を失っている

2009-12-06 | 日記・エッセイ・コラム

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    車に乗り込む岡田外相  http://www.afpbb.com/article/politics/2671808/5004821

岡田外務大臣は、鳩山首相と沖縄とアメリカ政府との、板ばさみ状態どころか、いまや八方ふさがりで、疲れはてているようだ。「もう限界だ」と岡田外相は、沖縄タイムスの社長に言った、と新聞は伝えてる。「限界」とは、アメリカ政府をこれ以上じらすことができないという意味だろう。アメリカ政府は、議会での予算審議日程がある。そのタイムリミットが迫ってる。だから、いら立っている。

議会の議決がなければ、普天間基地の海兵隊8000人は、グアムへ移転できない。普天間基地は現状維持。沖縄にとって、最悪の結末だ。その決断の時間的な限界が年内だ、と、岡田外相は、沖縄で告白した。その厳しい現実を、鳩山の頭脳では、理解できないのか、この日本国総理大臣に、まったく緊迫感がない。来年の参議院選後まで先送りできるとでも気楽に思っているのだろう。

    対米交渉「もう限界」 http://www.okinawatimes.co.jp/news/2009-12-06-M_1-001-1_005.html

普天間基地移転計画は、1995年9月に起きた痛ましい事件が発端だ。沖縄のキャンプ・ハンセンに駐留するアメリカ海兵隊員3人が、商店街で買い物をしていた小学生の少女を拉致し、強姦して負傷させる事件が起きた。米軍は、地位協定をたてに容疑者の引渡しをこばんだ。これで、沖縄県民の反基地感情、反米感情が一気に爆発した。米軍基地縮小・撤廃要求運動が激しくなった。

それはただ沖縄地元だけでなく、日本じゅうで共有する国民感情になっていった。これにアメリカ政府も自民党政府も危機感をもった。そうして、日米両政府で沖縄の米軍基地縮小を模索しはじめた。世論を沈静化するポーズとして縮小・移転を協議することが必要だったが、現実に、普天間基地はもっとも危険で、騒音などで住民の負担はあまりに大きかった。

基地移転日米協議の発端になった悲惨な事件から14年。紆余曲折があって、日米両政府が合意した案に、沖縄県知事と地元・名護市長の同意を得て、いくつもある漁協とも話し合いがついた。

普天間基地の海兵隊8000人をグアムに移す。ヘリコプター基地は、名護市辺野古・キャンプ・シュワブ沖に滑走路を新設して移転する。これが、日本とアメリカの国家間の合意事項として確定した。

しかし、十数年かかって、やっと、ひとつの米軍基地が移転する画期的なことが現実になる直前になって、愚かにも民主党は、「県外あるいは国外移転」と非現実的なエサで有権者をつった。ただ政権をとりたいがために、実現不可能な甘い話をでっち上げた。それをメディア、とくにテレビが無責任に煽った。いま鳩山や岡田たちは、じぶんたちがマニフェストにした根拠のないカラ約束に追いつめられている。

岡田は、年内に現行どおり決断しなければ、アメリカの信頼を失うと恐れ、鳩山は、合意にこだわらず県外の移転先をさがせ、と北澤防衛大臣に指示する。毎日メチャクチャだ。

アメリカは、政府間で合意した海兵隊グアム移転計画を実施するため、予算を議会にはかろうしていた。だが、日本は裏切った。鳩山民主党は、「政権交代」を言い訳にするが、自民党から民主党に政権政党が代わったのは、日本の国内事情にすぎない。政府内閣を構成するのがどこの党になったかなど、外国の政府にとって、なんにも関係がない。日本の国内問題だ。政権が交代したから、前政権がかわした国家間の約束事を反古にしていい、なんてことは、鳩山民主党の常識にあっても、世界の常識にない。ましてや、同盟国との合意事項を反古にするとは……。

劇的な政権交代だった明治維新のときでさえ、明治新政府は、徳川幕府がフランスに負っていた債務を返済している。幕府が諸外国と締結した不平等条約でさえ履行している。鳩山たちが、どんな反米イデオロギーを持とうが勝手だが、日米安全保障条約という縛りがあるのだ。

日ソ不可侵条約を一方的に破って侵略してきたソ連のように、鳩山民主党政府は、日米安保条約を一方的に破棄するつもりなのかな。日米安全保障条約? 前政権の約束事でしょ……そんなこと、知らないな……政権交代したからね。

鳩山が、普天間基地移転問題を先送りしたことは、一方的に日米安保条約を破棄したに等しい裏切りだ、とアメリカ政府の人間は思っているだろうな。

いまさら日米関係の悪化が懸念される、と岡田は慌てているようだが、鳩山への不信から、もうすでにアメリカは日本を信頼していない。現に、オバマ大統領は、アフガニスタンへの3万人の米軍増派を、ウエストポイントの演説で発表するまえに、NATO諸国のほかに、インド、中国、韓国に知らせていた。だが、日本政府には何も知らせてこなかった。鳩山が、アフガン支援に5000憶円の大盤振る舞いを発表しているにもかかわらず、オバマに相手にされてない。

むかしから代々アメリカの民主党政府は、日本に対して冷淡だ。オバマの信頼を失ったいま、日米関係はより悪化していくだろう。この大不況のとき、日米同盟が冷えこむと日本の経済はどうなっていくのか。いま、アメリカと敵対して良いことはなにもないだろうに。

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ずぶ濡れで、図書館に駆けこんだ

2009-12-05 | 日記・エッセイ・コラム

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夕暮れ、散歩していると小雨。そして、どしゃ降りだ。ずぶ濡れになって浦安中央図書に駆けこんだ。

図書館で、『沖縄の基地移転と地域振興』 高橋明善著(2001年 日本経済評論社)を拾い読みした。普天間基地移転問題の推移は、確認できた。しかし、この東大教授(名誉教授)の調査報告書は、左にスタンスをおいていて、信頼できない部分が多い。だいたい、橋本内閣の沖縄問題担当補佐官の名前、岡本行夫氏を、岡本行雄と誤記している。こういう人の著書を読むときは、金額などの数字や年月日、人名などは、他の資料で裏をとらなくてはならない。

                       

In Concert Pata Pata Makeba In Concert Pata Pata Makeba

早朝、サッカー・ワールドカップの組み合わせ抽選イベントをNHKが中継していた。南アフリカからのライブ映像だ。抽選がはじまるまえのショーで、「パタ・パタ」が演奏された。「パタ・パタ Pata Pata」は、南アフリカの歌手ミリアム・マケバの大ヒット曲だ。全世界でヒットした。日本でもヒットした。発売は、1966年(昭和41年)。

「パタ・パタ」は、1958年ころから南アフリカで流行したダンス曲だ、と歌のなかでミリアム・マケバ自身がいっている。ワールド・ミュージックという言葉もない時代に、南アフリカの言語で歌って世界で大ヒットさせたのだから、すごいことだ。

(RCAビクターのプロモーションと、ハリー・ベラフォンテのプロデュースの力もすごいのだが。ずっとあとのこと、マイケル・ジャクソンやライオネル・リッチーやクインシー・ジョーンズたちの、1985年の「ウィ・アー・ザ・ワールドWe Are The World」の大セッションは、ハリー・ベラフォンテが呼びかけて実現した。だから、レコーディングが終わったとき、「バナナ・ボート」の合唱になるのだ。「バナナ・ボート」は、ハリー・ベラフォンテのヒット曲だ)。

きっと、ミリアム・マケバ(1932年~2008年)は、世界でもっとも売れた南アフリカ出身のミュージシャンだろう。

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日本で「パタ・パタ」がヒットしたのは1967年だが、南アフリカでプロのシンガーとして活躍していたミリアム・マケバが、アメリカでデビューしたのは、1960年のことだ。ハリー・ベラフォンテが、ロンドンで彼女のステージをみて感動し、RCAビクターでのファーストアルバムのレコーディングを手配したのだ。1965年に発売したハリー・ベラフォンテとミリアム・マケバのアルバムは、グラミー賞を受賞している。

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1960年、アメリカデビューのファースト・アルバム。

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1965年発売。ハリー・ベラフォンテとミリアム・マケバのグラミー賞受賞アルバム。

   ハリー・ベラフォンテ&ミリアム・マケバ Malaika(スワヒリ語) http://www.youtube.com/watch?v=khvj_woF64A&feature=related

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ミリアム・マケバは、「ママ・アフリカ Mama Africa」と呼ばれ、偉大な先駆者として尊敬されていた。反アパルトヘイト運動の闘士でもあった。ネルソン・マンデラとも親しかった。

1960年代、南アフリカは、少数の白人が支配していた。その厳しい人種差別のなかで生きる黒人女性が、アメリカのミュージック・マーケットで大成功したのだ。アフリカの星、アフリカの英雄、アフリカの伝説だった。そして、南アフリカの人種隔離政策に反対する世界じゅうの人々からも、ミリアム・マケバは支持された。

     ミリアム・マケバ Pata Pata http://www.youtube.com/watch?v=e-VrfadKbco&feature=related

     ミリアム・マケバ&ポール・サイモン http://www.youtube.com/watch?v=MB26L8nbRiw

          ミリアム・マケバの訃報を伝えるニュース http://www.youtube.com/watch?v=BHgKcPP6yK0&feature=fvst

     ミリアム・マケバのサイト http://www.miriammakeba.co.za/


ルース米大使が、日本側に激怒

2009-12-04 | 日記・エッセイ・コラム

故郷・北海道は雪だというに、ここは花が咲いてる。しかし、相対的なもので、やはり、冬は、冬。ひどく寒いのだ。ズボンの下にタイツをはいて、マフラーに手袋、ニットの帽子をかぶり、セーターのうえから、ぶ厚いコートを着て、散歩にでる。冬の格好は、北海道で暮らしているころと変わらない。むしろ帯広のほうが薄着だった。

(北海道にいたときは、百メートルと離れていないスーパーにいくにも車に乗った。そして、どこも室内はやたらと暖かい。だから、ここよりずっと薄着ですむ)

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普天間基地移転問題、鳩山こども総理は、まったく決断できない。つい三週間まえのオバマ大統領との会談は、いったい何だったか。毎日言うことが変わり、ずるずると先延ばしして、責任を回避している。アメリカもあきれ果てているだろう。http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00167798.html

ルース・アメリカ大使が、年内決着先送りを伝えた岡田外務大臣、北澤防衛大臣に激怒した、と産経新聞Web版にある。米大使の激怒は、当然の反応だ。http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091205/plc0912050139004-n1.htm


高速道路無料化は、北海道限定らしいが……

2009-12-03 | 日記・エッセイ・コラム

読売新聞は、「高速道路無料化は、北海道限定が有力」と、伝えている。http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091203-OYT1T00002.htm?from=nwlb

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すこし前に書いたが、ザンギは、北海道で鶏肉の唐揚げのことをいう。北海道だけのローカルな言葉だ。豚丼が、北海道・帯広だけのメニューだと知ったのは、18才のときだった。帯広三条高校を卒業して札幌で暮らすようになった。ところが札幌の食堂のメニューに、豚丼がない。豚丼は、ラーメン、カレーとならんで大衆食堂の定番メニューだ。なぜだ? なぜ、札幌の食堂に豚丼がないのだ!

「豚丼? なに、それ?」、全国から来ている大学の友人(ロシア語学科には、道外からも学生たちが集まっていた)は、だれも豚丼を知らない。札幌市内の学生も知らない。北海道じゅうの学生が知らない。『これは、ひょっとして、豚丼は、帯広だけの料理なのか? ローカル・メニューなのか……?』、気づいたときは愕然とした。『オレって、ひょっとして田舎者なのか?』、当たり前のことに気づいてショックをうけた。それまでは、帯広が世界の中心だと思っていたのだが……帯広の常識は、日本の常識ではないのか……。

しかし、いまでは、豚丼は東京の常識になった。やはり、帯広が世界の中心なのかな。

                           

今国会の最初のころの映像だ。テレビ・ニュースではやっていない。わたしは、ネットの国会中継で見ていた。こども総理・鳩山の、人をナメきった答弁を、下をクリックして見てほしい。これはNHKでは中継されなかった。NHKは、恣意的に国会中継を選別しているのだ。あそこも左翼労組の巣窟だからね。

        衆議院予算委員会 稲田朋美議員の質問 http://www.youtube.com/watch?v=37BTfQ111zw&feature=related

   衆議院法務委員会 稲田朋美議員の質問  http://www.youtube.com/watch?v=iKxb5v2q1QA

 

 

   


北海道11区選出の石川知裕議員に、秘書給与疑惑

2009-12-02 | 日記・エッセイ・コラム

朝日新聞と東京新聞の夕刊が、北海道11区選出の民主党衆議院議員、石川知裕の秘書給与に関して、政治資金規制法違反の疑いがある、と伝えている。北海道第11区は、わたしの故郷、帯広・十勝だ。http://www.asahi.com/national/update/1202/TKY200912020251.html

東京新聞と朝日新聞が、民主党議員の金銭疑惑を報道しだした。民主党の応援団だったメディアから、脱落者がでだしたのだ。沈みゆく泥船から早々と逃げ出すネズミたちというわけだ。政権交代わずか三ヶ月で、経済はボロボロ、何ら対策も打ち出せずに、国民に希望をもたせる成長戦略もなく、鳩山首相の浮き世ばなれした金額の金銭疑惑は、底なしの様相だ。

テレビ朝日は、あいかわらず「政権交代バンザイ!」をやっているが、いくら左翼新聞朝日でも、この悲観的国情と民主党の堕落を無視して、いつまでも鳩山バンザイをやっていると、やがて報道機関としてのモラルと見識を問われ、じぶんの商売が危うくなる、と気づいたのだろうかね。テレビと新聞のスポンサーのちがいかな。テレビは、パチンコ屋のCM収入が大きいから、民主党にはたてつけないのだろうね? なさけない話だ。

                         

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浦安市博物館にある焼玉エンジン。こういうのをみると、心がふるえる。すばらしい。わたしは、金属、とくに鉄が好きだ。そして、機械が好きだ。だから、こういうものこそ、美しいと思う。昭和初期か、もっと古いものだろうか? きちっと整備してピカピカにしてある。いまもしっかり動くという。船のエンジンにつかっていたようだ。横に古いスクリューがあった。

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ヤンマーの小さい焼玉エンジンもあった。

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今夜は、満月。美しい。

北海道の母が、自家製のイクラの醤油漬けや、奥尻島の塩辛やツブ貝や、帯広・柳月の菓子・三方六を送ってくれた。ここではまったく目にしない、めずらしいボタンエビも入っている。月を見ながら散歩して、北海道のエビを肴に酒を飲む。満月の夜だ。