夕暮れ、散歩していると小雨。そして、どしゃ降りだ。ずぶ濡れになって浦安中央図書に駆けこんだ。
図書館で、『沖縄の基地移転と地域振興』 高橋明善著(2001年 日本経済評論社)を拾い読みした。普天間基地移転問題の推移は、確認できた。しかし、この東大教授(名誉教授)の調査報告書は、左にスタンスをおいていて、信頼できない部分が多い。だいたい、橋本内閣の沖縄問題担当補佐官の名前、岡本行夫氏を、岡本行雄と誤記している。こういう人の著書を読むときは、金額などの数字や年月日、人名などは、他の資料で裏をとらなくてはならない。
In Concert Pata Pata Makeba |
早朝、サッカー・ワールドカップの組み合わせ抽選イベントをNHKが中継していた。南アフリカからのライブ映像だ。抽選がはじまるまえのショーで、「パタ・パタ」が演奏された。「パタ・パタ Pata Pata」は、南アフリカの歌手ミリアム・マケバの大ヒット曲だ。全世界でヒットした。日本でもヒットした。発売は、1966年(昭和41年)。
「パタ・パタ」は、1958年ころから南アフリカで流行したダンス曲だ、と歌のなかでミリアム・マケバ自身がいっている。ワールド・ミュージックという言葉もない時代に、南アフリカの言語で歌って世界で大ヒットさせたのだから、すごいことだ。
(RCAビクターのプロモーションと、ハリー・ベラフォンテのプロデュースの力もすごいのだが。ずっとあとのこと、マイケル・ジャクソンやライオネル・リッチーやクインシー・ジョーンズたちの、1985年の「ウィ・アー・ザ・ワールドWe Are The World」の大セッションは、ハリー・ベラフォンテが呼びかけて実現した。だから、レコーディングが終わったとき、「バナナ・ボート」の合唱になるのだ。「バナナ・ボート」は、ハリー・ベラフォンテのヒット曲だ)。
きっと、ミリアム・マケバ(1932年~2008年)は、世界でもっとも売れた南アフリカ出身のミュージシャンだろう。
日本で「パタ・パタ」がヒットしたのは1967年だが、南アフリカでプロのシンガーとして活躍していたミリアム・マケバが、アメリカでデビューしたのは、1960年のことだ。ハリー・ベラフォンテが、ロンドンで彼女のステージをみて感動し、RCAビクターでのファーストアルバムのレコーディングを手配したのだ。1965年に発売したハリー・ベラフォンテとミリアム・マケバのアルバムは、グラミー賞を受賞している。
1960年、アメリカデビューのファースト・アルバム。
1965年発売。ハリー・ベラフォンテとミリアム・マケバのグラミー賞受賞アルバム。
ハリー・ベラフォンテ&ミリアム・マケバ Malaika(スワヒリ語) http://www.youtube.com/watch?v=khvj_woF64A&feature=related
ミリアム・マケバは、「ママ・アフリカ Mama Africa」と呼ばれ、偉大な先駆者として尊敬されていた。反アパルトヘイト運動の闘士でもあった。ネルソン・マンデラとも親しかった。
1960年代、南アフリカは、少数の白人が支配していた。その厳しい人種差別のなかで生きる黒人女性が、アメリカのミュージック・マーケットで大成功したのだ。アフリカの星、アフリカの英雄、アフリカの伝説だった。そして、南アフリカの人種隔離政策に反対する世界じゅうの人々からも、ミリアム・マケバは支持された。
ミリアム・マケバ Pata Pata http://www.youtube.com/watch?v=e-VrfadKbco&feature=related
ミリアム・マケバ&ポール・サイモン http://www.youtube.com/watch?v=MB26L8nbRiw
ミリアム・マケバの訃報を伝えるニュース http://www.youtube.com/watch?v=BHgKcPP6yK0&feature=fvst
ミリアム・マケバのサイト http://www.miriammakeba.co.za/