tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

自助、共助、公助、の問題を考える(3)

2020年10月31日 23時14分27秒 | 文化社会
社会の不安定化の多くは格差問題から発生する
 この表題に反対する方はあまりおられないのではないかと思います。
 兄弟で小遣いの額が違いすぎれば、兄弟は不仲になるでしょう。国で貧富の格差が大きすぎれば昔なら革命、現在では政権交代が起きるでしょう。

 社会が安定する条件の大きな一つが、所得格差が「国民が納得する程度の範囲に収まっていること」という指摘には、かなりの納得性があると思います。

 この格差化という問題と「自助、共助、公助」の問題を重ねてみますと、自助の重視は格差拡大の傾向を持つと言えるでしょうし、共助は、その格差を身内の間で埋める格差縮小の性格を持ち、公助は、国民経済、国民全体を総合的、俯瞰的に見て、国民が納得できる格差の範囲の合意点を見出し、そのための「所得再配分(税金や補助金)」で格差是正を行う機能という事になるでしょう。
 
 人はそれぞれに異なる能力、才能を持ち、更に本人の能力や才能に関係ない「運」もあって、人生を大きく左右される可能性の中で生きています。
 これらはすべて経済的には本人の所得や人生そのものに大きな影響を与えます。

 所得格差が、そうした「能力と運」に従って決まることになれば、社会は必然的に「格差社会化」することになるでしょう。

 同じIT業界に入っても、世界企業の経営者になる人もいれば、競争に負けて倒産の憂き目を見る企業のオーナーもいるでしょう。
 文筆で身を立てようと志しても、ミリオンセラー作家になる人も、売れない作家で終わるひともいるでしょう。
 天災で大きな打撃を受ける人も、突然の難病で苛酷な人生を送ることになってしまう人もいるのです。

 放置すれば、格差社会化するところを、政府の「公助」で、納得できる格差に留めるべきというのは、程度の差こそあれ、今や世界の国々の共通な政策になっています。
 
 こうした思想、理念を政策にするために、国内情勢を「総合的、俯瞰的」に見て、より多くの人が納得する、適度な範囲の格差にとどまる社会経済政策を実行していくのが、「公助」の基本的な役割でしょう。

 日本のGDPは550兆円程度です。「総合的、俯瞰的」に見るのには、この1年間に日本が使えるトータルの付加価値を民間と政府がどの程度の割合で使うのが妥当かという視点から日本国運営のビジョンを示していかなければならないでしょう。

 前回書きましたように、これは国民負担率の問題です。アメリカの様に自助中心、公助は少なく、格差の大きい国を選ぶのか北欧のように、国民負担率を増やして公助を充実し、平等度の高い、格差の少ない国を目指すのか、それとも日本は日本らしい路線を選択するのかといったビジョンです。

 今政府のやっていることは、国民負担率を低く見せながら、実は国民から借金して(国債発行)それをあたかも自分のカネのように使って、政府が実力以上の仕事をして見せているという状況なのです。

 これからも、そんなビジョンで行くのなら、それもはっきり国民に説明するべきでしょう。

 「自助」が大事と、国民の心がけのような事を言うだけでは、全く政府の「総合的、俯瞰的」な視点など、国民には見えてこないのですが、それに気づいておられるのでしょうか。それとも、菅総理の常套語「総合的、俯瞰的」は、言葉の粉飾なのでしょうか。


自助、共助、公助、の問題を考える(2)

2020年10月30日 23時04分52秒 | 文化社会
「自助、共助、公助」と「自由⇔平等」
 前回は、「自助」というのは他人に強制するのではなくまず自分に言うべきものだろうとう趣旨の事を書きました。
 日本人は、もともと自助の精神に富んだ国民ではないかという点も指摘しました。

 菅政権が何を目指しているのか解りませんが、トランプさんなどを見て、余り変なこと、をやると国が乱れることが心配で、「自助、共助、公助」の問題をもう少し丁寧に見ておきたいと思います。

 産業革命がおこり、資本主義の概念が生まれました。
初期の資本主義の段階では、古典的自由主義が一般的だったのでしょう。
 レッセフェール(自由な経済活動)で経済は活性化し、豊かになるという図式です。しかし結果は資本を持ったもの(資本家)は強く、資本を持たないものは労働者となるという階層社会(格差社会)が現出することになったようです。

 当時はそうした不平等に制約を加えるのは「道徳」という個人単位のものだったのではないでしょうか。アダム・スミスが「道徳情操論」を書き、渋沢栄一が「論語と算盤」と言っています。

 しかし、現実の社会では、ブルジョワ、プロレタリアートといった人間の階層化、差別化、格差社会化が進行しました。

 自由が優先されすぎ、不平等社会、格差社会化が進む中で、それは良くない、行き過ぎた自由を規制してより平等な社会を実現すべきと考える社会主義思想、共産主義思想が生まれ、革命が起きたり(ロシア革命)、自由主義の社会主義化も始まることになりました。

 これは二元論的に言えば、「自由と平等」のせめぎあいで、その間のどのあたりが、「社会正義」なのかを人類は試行錯誤の中で探しつつ今に至っているという事でしょう。

 「自助、共助、公助」の議論に戻れば、自助を強調しすぎると、不平等な格差社会になり、公助を重視しすぎると、国家統制の全体主義、独裁制に近づくわけで、人類が希求する「社会正義」実現のためには、自助、共助、公助の如何なるバランスが良いかを探るのが政治の役割という事になるのではないでしょうか。

 余計なことを付け加えれば、共助は家族、親せきという範囲や地域社会(地方自治組織)という範囲を含むようで、自助と公助に分解できるのかもしれません。

 ところで、自助と公助のどの程度のバランスが良いかというのは、それぞれの国の社会文化的背景や、経済状態などによって変化します。

 アメリカを例にとれば、かつてのように発展期で余裕のあるアメリカでは、アメリカン・ドリームという言葉が示すように、誰でも頑張ればミリオネアと言った雰囲気で自助重視、公助は最小限といった雰囲気がありましたが、今は、アメリカン・ドリームは限られた人の話、公助の充実は必要という世論が大きくなりつつあります。

 実は公助と言っても、実は税金と社会保険料といった形で、国民が負担するのが基本です。これは統計的には、 国民負担率といった形で、世界各国それぞれに示されています。
 主要国ではアメリカが最も低く、北欧諸国が高く、ヨーロッパ主要国がそれに次ぎ、日本はアメリカとの中間です。

 菅総理の自助重視といった発言は、具体的に何を意図しているのかまだ解りませんが、いずれは具体的に国民負担率をめぐる議論になってくるのでしょう。
 どんな具体論になって出て来るのか、十分注意する必要がありそうな気もします。

自助、共助、公助、の問題を考える(1)

2020年10月29日 20時01分45秒 | 文化社会
自助努力は他人に強制するものでしょうか?
 今国会冒頭の様子を見ていますと、「自助、共助、公助」の問題が論争になりそうな気がします。

 菅総理は、最も大切なのは自助、それで出来ない所は、身内や親せき、あるいは地域の共助、そして最後のセーフティーネットが公助という言い方をし、立憲民主党の枝野代表は、政府自身が「まずは自助だ」というのはおかしいとの立場で、みんなが支え合う「共生社会」という考え方を示しています。

 物事は、同じことを言っても、誰が言うかで、受け取られ 方は全く違います。
 その意味でも、公助を担当する政府の代表が、自助を最初に持ってくるというのは、国民からは、「お前ら自分で頑張れ、どうしようもなかったら訪ねてこい」と言われていると受け取られる事は当然でしょう。

 菅さんは、裸一貫で頑張って来たというのがウリですから、恐らく「自分で頑張らなきゃ駄目だ」と頑張って来られたのでしょう。だから「自助」が最初で当然と言われるのは個人的には解ります。

 しかし、今の立場は総理大臣です。「みんな俺と同じように、自助努力中心で頑張れ」と言ったら、とんだ誤解を受けるという所まで、未だ気が回らにという、総理大臣初期段階なのかもしれません。

 マスコミでは、枝野さんも以前「自助」と言っているなどと冷やかす向きもありますが、個人の立場で、自助が大事だというのは、日本人の真面目さであり、美徳でもあるはずです。

 そう考えてみれば、与野党の間で、「自助」の問題を中心に、良いか悪いかといった二元論の論争はぜひやめていただきたいと思います。
 理想的なのは、国民は自助が大事といい、政府は公助の充実をいうという、お互いに協力してベストの「解」を探すことでしょう。

 もともと日本人は「自助」の気持ちが強い国民だと私は考えています。
 端的にいって、今の新型コロナの問題にしても、規模の大きな自由主義国で、日本が、ここまで感染者、死亡者の数を抑え込めているのはなぜでしょうか。

 検査体制にしても、医療体制にしても、関連研究開発にしても、政策的にはかなり遅れを取っているのが現実でしょう。政府は、経済重視で、GOTOキャンペーンのような、感染拡大効果を持つものの方に熱心です。

 にもかかわらず、ここまでの実績を示せているという事は、最も大事な国民一人一人が、基本的態度として「自助」(自ら律して、他人に迷惑をかけない)の精神を確りと持っていることの証左ではないでしょうか。

 菅さんの言う2500万人GOTOに参加して感染者が数十人(統計の出所の説明はない)というのは、政府の力ではなくて国民が確り衛生面の努力をしているからでしょう。

 日本人がそうした自助努力の精神を持っているからこそ、国も、経済社会も、コロナだけでなく、長期不況の中でも何とか持ち応えているといると考えています。

 アベノミクスは、日銀の円安への政策転換をもたらしたことは成功でしたが、その後は、明らかに誤りと言えることも含めて国民の不満は多かったはずです(支持率低下)。それでも、何とか確りした経済社会を維持出来ているのは、国民が自助努力で政策を補っているからでしょう。

 はっきり言えば、国民に自助をいう前に、「政府自体の自助」が大事のように思われます。 
 自助は自らに対して言うのが本当の自助でしょう。これは、精神、人間の心の問題です。
 次回はもう少し具体的なことを考えていきたいと思います。

菅総理の施政方針演説:新自由主義とは別物

2020年10月27日 20時55分59秒 | 政治
菅総理の施政方針演説:新自由主義とは別物
 大変力の入った菅新総理の施政方針演説が昨日ありました。

 演説の内容を拝見しますと、生真面目なもので、コロナ対策と経済の両立、デジタル化の促進、グリーン社会とエネルギー、安心の社会保障、拉致問題、北方領土問題、イージスアショアを含む外交安全保障など、今の日本が取り組まなければならない問題を、克明に1つ1つ取り上げ、「それをやってまいります」と述べておられます。

 限られた時間の中でこれだけ網羅的に並べるのは大変と思いますし、勿論出来ることもできないこともあるだろうとは思います。それでも使命感をもってこれだけやり遂げると言われたことには敬意を表します。

 しかし同時に気になることも、率直に言って、あります。
先ず、何となく気になるのは、並べて見れば、どれもこれも、大変困難な問題ばかりです。そして、個別項目は網羅されていても、それらを「総合的、俯瞰的」に統括するビジョンが語られていない点です。
 総理大臣は個別項目を並べるから、国民はそれを総合的、俯瞰的にみて判断せよというのでしょうか、それではことがあべこべのようです。

 総理大臣は一国を治めるリーダーですから、リーダーとして、日本は世界の中でどのような国であるベきと考えておられるのか、それを示していただかないと、国民は何処に連れて行かれるのか解らず、不安ですし、政権の基本的在り方についての判断もできません。

 もしかしたら、最初にコロナ問題に触れられたので、そのままコロナ対策に入ってしまわれ、話すのをお忘れになったのかな、などと考えてしまいます。

 実は、本質的な問題に関しても、大変気になる点があります。それは、すべての項目について「やります」「やってまいります」といった趣旨の言葉の締め括りになっていることです。

 並んでいる問題は、拉致問題、社会保障(年金には直接触れていない)、外交など一部を除いて、実際にやるのは政府ではなく国民、民間部門(コロナ対策、値下げ、デジタル化、グリーン化、地域活力、災害復興etc)のはずです。

 政府の役割は、国民がそれを実行する際により合理的にできるように、法律、制度、解りやすい言葉でいえば「行動のルール」を整備することです。

 良いルールが出来れば国民は守りますし、やる気が出ます。政府の役割は、国民がルールに従ってよい仕事ができるようにレフェリー役を務めることでしょう。

 菅内閣は、新自由主義を掲げる内閣と言われています。新自由主義は、民間の社会・経済活動を最大限に重視し、政府はルール作りとレフェリーに徹するというが基本的な考え方でしょう。総理が、まず{自助}、そして「共助」、最後に「公助」と言われるのはその意味と理解しております。

 社会主義のように、政府が手を突っ込んで何でもやることになると、いかに政府が善意でやっても、それは、 「政府」の「見えざる手」によって、社会も経済も上手く動かなくなる、というのが新自由主義の主張するところではなかったでしょうか。

 新自由主義の理論を借りれば、菅総理の御熱心、善意のこもった「これをやります」という言葉の通り、全てをおやりになると、総理の御意志に反して、世の中はますます上手くいかなくなるという事になるのではないかと、これは大変危惧するところです。

 「これも、歴史の実験だから、やってみるのも良いではないか」というご意見もあるかもしれません。しかし、それでは犠牲が大きすぎる(アメリカのコロナ死者数ではありませんが)のではないかと大変心配するところです。

 新自由主義に精通しておられる学者先生も日本学術会議にはおられるはずです。よりよりご相談してみられるのもよろしいかと存ずる所です。

自然の造形の妙、こんなキノコも!!

2020年10月25日 14時37分00秒 | 環境
 我が家では、台所のごみはすべて庭の隅に穴を掘って埋めることにしています。

 直径30㎝位の穴をなるべく深く掘って毎朝捨てに行くことになっていますが、シャベルでつついて土と混ぜておくと1か月以上OKです。一杯になったら隣に穴を掘ります.。それが一杯になる頃には初めの穴のごみは良い肥料になっています。

 昨日の朝、ごみを捨てに行ったとき、その穴の縁あたりに、何かカビのような小さな灰色の塊が群生しているのを見て、何だろうと思っていました。

 老眼鏡をかけてなかったのではっきり見えませんが、キノコなど菌類には興味を持っていますので、後から確り見に来ようと思っていました。

 午前中は忘れていて、午後、庭の雑草かじりでもしようかと庭へ出て思い出し、老眼鏡とスマホを用意してみてみました。

 よく見ると直径1㎝弱のカビの塊と思ったのはキノコなのです。掘った穴の左側の縁のあたりに何10本か生えてきています。



 なんで急に生えてきたのか解りませんが、捨てたごみに菌糸があったのでしょうか、それとも、よく来る雀やムクドリ、ひよどりなどのおみやげか、いずれにしても面白いので写真を撮った次第です。

 以前も皇帝ダリアの枯れた後に ムササビタケ というキノコが生えてきたことを書きました。これは昔から持っている『菌類』という図鑑で調べたら「むささび茸」というキノコだと解りました。食用と書いてるので、お付けの身にしようかといって、家内に一言で拒絶されたことはこのブログでも書きました。

 今回のキノコも、見たこともないものなので、早速上記の図鑑で調べてみましたが、残念ながら出ていませんでした。

 しかし、上の写真を見ていただくとお分かりのように、とても美しいキノコで、まさに自然の造形の妙というべきもののような気がしています。練達の職人が作った蛇の目傘にうっすらと雪、とでも言えばいいのでしょうか。

 狭い庭の台所のごみ捨ての穴の縁でも、自然は、こんな美しいものをそっと置いてくれるのです。お蔭様で昨日は1日いい気分でした。今朝行ってみましたら、もう新しいのがほんのまばらに開いているだけでした。

 


良い規制が自由度と納得性を促進する

2020年10月24日 23時06分12秒 | 文化社会
社会経済思想と政治形態(試論):新自由主義と政治(11):補遺〔続〕
 「新自由主義と政治」のシリーズは、前回で終わるはずでしたが、偶々「自由と規制」の関係を解り易く教えてくれる良い事例が発生したので補遺の続きとして蛇足を付け加えたいと思います。

 アメリカの2人の大統領候補の直接討論が、いろいろごたごたもありましたが何とか2回行われました。
 一回目は、史上最悪の討論会と酷評されました。トランプさんは相手を「お前は駄目だ」と決めつけるのがお好きで、しかも相手の発言中に勝手に割込むので、まともな討論にはなりません。バイデンさんもいわば売り言葉に買い言葉で、結局「泥仕合」などとも言われました。

 勿論これでは、視聴する有権者もどちらを支持すべき判断もままなりません。というわけで、2回目は主催者側が異例のルールの導入を決めました。

 それがご承知の、テーマごとに各候補の発言の最初の2分間は相手候補のマイクを切る、というものでした。 
 その結果、トランプさんも、バイデンさんの発言の時には、黙って聞かざるを得なくなり、司会者の采配もスムーズになって、討論は順調に進んだのです。

 ですから、二回目の討論会では、双方の主張がしっかり聞けて、これなら討論会として成功という評価になり、メディアも「引き分け」だとか、テーマごとにそれぞれの分析をして論評をしています。
 司会者の捌き方も二回目では大変良かったと評価されたようです。

 では、何が変わって二回目の討論会は成功だったのでしょうか。答えは、「発言の最初の2分間、相手のマイクを切る」というルールを導入したから、というのが一致した意見のようです。

 考えてみれば、このルールは「相手が話すときは、あなたが口をはさんでも、聴衆には聞こえませんよ」という状態を「マイクを切る」ことで作り出し、イレギュラー発言が出ないようにするという大変厳しい「規制」です。

 つまり、この規制が大変良い規制だったために、発言者の発言の自由度は大きく増し、言うべきことは落ち着いて言え、両候補の意見陳述を確り聞きたいという視聴者の希望もきちんと叶えられることになったのでしょう。
 勿論、討論を取り仕切る司会者も、面倒なトラブルに巻き込まれる心配もなく、スムーズに会を進行でき高い評価いなったのでしょう。

 2回の討論会を比べてみて明らかになることは、適切な規制によって、言い換えれば、良いルールを決めれば、関係する多くの方々の自由と納得性が大きく促進されることを極めて端的に証明しているように思われるところです。

 自由と規制を対立概念として考えるばかりではなく、相互に補完することが可能な概念として巧みに活用するというのが人間の知恵なのではないかとつくづく感じる所です。

レフェリーはプレーに参加しないのが原則

2020年10月23日 22時11分00秒 | 文化社会
社会経済思想と政治形態(試論):新自由主義と政治(10):補遺
 このテーマで9回にわたっていろいろ書いてきましたが、政治の世界で社会経済思想が利用されるのは、それなりの意味はあるのでしょうが、現実の政治はは、思想や理念などはそっちのけで、リーダーの意図する目標、政権の維持が第一義、そのために何をすれば一番効果的かが政治の動きを左右するという事が一般的と見えて来ました。

 一方、この所の世の中は、コツコツ頑張って成功を収めるよりも手っ取り早く成果を求める「短期的視点」が主流の世の中です。
 
 こうした状況の中で、政治は次第にポピュリズム化し、思想や理念よりも「当面の人気」を得るための政策を重視することになったようです。
 国政選挙は、言ってしまえば「人気投票」に堕してきているのです。選挙の際の人気で多数を取れば、後は思い通りのことが出来ると考えるのです。

 そして、政権を取れば、やるべきことは財政と人事を握って権力の維持の徹底を図ります。そして、行政はその権力を背景に、民間の活動分野に口も手も出し、民間の活動を政権の意向に合うように仕向けて行くのです(忖度の世界)。

 スポーツですと、審判、行司、レフェリーは、プレーヤーがルールに則ったプレーをしているかどうかの判定をするのが仕事です。審判、行司、レフェリーがプレーに参加することは、絶対に許されません。

 ところが、最近の政府は、国民がルールを守るためのレフェリーであるにかかわらず、往々にして、民間がやるべきプレーに手を突っ込んでいるのです。

 この動きは最近、日本の政府にも目立ちます。労使の仕事である春闘に口を出す「官製春闘」、カジノを日本に何か所作るかを政府が決める、労働者の働き方に政府が口を出す、民間会社の料金設定にも口を出すが、出す業界と出さない業界は恣意的に決める、果ては、学術の世界にまで人事介入するなどなど・・・・です。(そろそろ芸術の世界にも口を出すのではなどの声も聞かれます)

 民主主義社会では、政府の仕事は、国民によく相談したうえで、国民がみなそれなりに納得するような法律制度を作り、その成果を見守るというのが、基本でしょう。
 ケインズ政策やゼロ金利政策は、緊急時の例外であって、何でも政府がやればいいというのは、大きな間違いだというのが新自由主義の原点だったのではないでしょうか。

 政府が常時ケインズ政策をやるのは経済を歪める(経済が政権の手段になる)として反対したのが新自由主義で、そこにはM.フリードマン流の「 政府の見えざる手」といった考え方が生まれたのでしょう。

 最後に、自由主義圏の国々の中で、こうした独裁色を強める政府を生み出す原因として、何でも政府に頼んでやってもらおうという安易な考え方を多くの国民が持つようになったこと、国民自身の怠惰、政府依存指向があることも大きいのでしょう。
 本当はこれが一番恐ろしいのかもしれません。

政治は右も左も独裁制への可能性を持つ

2020年10月22日 23時30分55秒 | 文化社会
社会経済思想と政治形態(試論):新自由主義と政治(9)
 前回、自由の反対は規制と書きましたが、規制というと、いかにも不自由だ、という感じになります。
そこで、同じ意味で柔らかい言葉ですと「ルール」、規則、約束事という事になるのではないでしょうか。

 スポーツにはそれぞれルールがあります。野球で言えば 三振とフォアボールです。
これは規制です。3振でアウト、四球で進塁です。規制ですが、これを緩めようという人は多分いないでしょう。
三振を4振にし、四球を五球にしたら、野球というゲームは間延びしたものになり迫真力も面白さも半減するでしょう。

 サッカーでは手を使ってはいけません。手を使ってもいいラグビーでは前にパスしてはいけません。こうしたルールは、プレーヤーも観客も、「最も楽しめる」ように決められているのでしょう。規制緩和の対象にはなりえません。

 ルールがあるからプレーヤーはそれに則り「自由に」「楽しく」プレーができるのでしょう。観客もルールを守っての競い合うフェアプレーを楽しんでいるのです。

 日常生活で最も頻繁に出会うのは交通信号でしょう。これも規制ですが、信号を無くせという人はいないでしょう。誰しも、「なかったら大変だ」と思っています。

 ところで、スポーツでもルールを考える人、それを守らせるレフェリー、反則には罰則があります。これは政治では国会、行政、司法にあたります。
 そしてルールが適切に決まっていて、選手はそれを守り、みんなが最も楽しくなるようなプレーをすることこれがフェアプレーであり「スポーツマンシップ」でしょう。

 ならば、国会は国民が納得するような法律を作り、行政はそれを国民が守るようにレフェリーの役割を確り果たし、反則には適切な罰則を適用するというのが最も望ましい国家社会の姿でしょう。
最も大事なのはルールがよくできていることです。そのルールを守って政治をする事が「ステーツマンシップ」でしょう。

 新自由主義では、規制の打破を言いますが、それは不適切な規制に限ってほしいと思います。自由にしすぎるとどこかで不自由が増すことが多いのです。
 一党独裁の共産主義国ならいざ知らず、民主主義を掲げる自由主義国家では、国民の声をよく聞くことが一番大切です。より頻繁に、より多くの国民の声を聞いてそれを土台い国民が必要とするルールを組み立てることです。

 この所、いろいろな国で、反政府デモが起きていることはニュースが伝えるところです。これは必ずしも国民の多くが納得しないことが政治によって行われているからでしょう。

 日本では昔と違い、今は大規模デモはありませんが、安倍内閣の場合は、与党絶対多数という選挙結果を国民の全面的支持と勘違いし、多くの国民が疑問に思う事を強行採決で決めてきた結果、世論調査による支持率が70%から次第に30%台に落ちるといったことが起きました。強行採決はスポーツでは、とてもフェアプレーとは言えないでしょう。

 まさかこうしたごり押しが、新自由主義だとは思っていないでしょうが、現実の政治の世界は、自由主義、民主主義といった思想やその理念とは、あまり関係ないというのが現状でしょう。

 すでに菅内閣でも、日本学術会議問題のような、従来のルールに違反は承知で決定をし、然し、決定の理由や根拠の説明については問答無用といった現実があります。
 より多くの国民が納得し、そのルールの下で、楽しんで最大限の能力発揮をするといった状況とは、残念ながら程遠いようです。

 この試論の締めくくりは、現実の政治は思想や理念とは殆ど無関係で、目的は選挙に勝つこと、そして選挙に勝てば、国民の意見などはなるべく聞かずに、疑問にも答えずに、リーダーの望む方向へ国民を引率するといった事が往々にして起きるという結論になりそうです。
 
 歴史、そして最近の世界、さらに残念ながら日本の政治情勢を見れば、言葉ではどんな政治思想や理念を掲げていても、一旦選挙に勝てば、リーダーの心次第で、政権は独裁制につながる可能性を持つと認識した方いいように思われるところです。
 独裁制が、国民の最大に不幸につながることは歴史が証明していいます。

社会経済思想と政治形態(試論):新自由主義と政治(8)

2020年10月21日 17時11分18秒 | 文化社会

思想や理念と政治の現実は一致しない
 新自由主義をテーマに、経済、社会、金融などの側面から新自由主義と政治との関係を見て来ました。

 その中で何か気になるのは、考え方、思想、学究としての新自由主義は理念の在り方としては理解できるものですが、それを政治の場に持ち込んだ時、かなりの「うさん臭さ」があるという事です。

 これは、政治家が新自由主義の何たるかをきちんと理解していないという事もあるでしょうし、新自由主義を纏うころで、政策の正当性を補強しようとかいう理念とは違った邪念が入り込むからかと推量される所です。( 共産主義も同様
ですね)

 特に覇権国であるアメリカの場合は、これまでも、デファクト・スタンダード、とかアメリカン・スタンダードとか言われますように、覇権国の権威や力で作られるスタンダード化するのですが、往々にして自己都合的なものであったりしますし、現在の米中貿易戦争のように、新自由主義から駆け離れて進化(変化、退化)しているものもあるわけです。

 そんなわけで、今日の状況を前提にする限り、新自由主義などという言葉を使ったり、あてはめたりして、現実の政治との関係を論じるのは、多分あまり意味のないことではないかなどと思っていまします。

 とはいえ、自由というのは、人間社会における大変重要な概念で、今、世界でも日本でも、大変不自由なことが多いので、思想や主義主張とは関係なしに、人間社会の中で、自由という概念をいかに生かして使うかという問題を、市井に住む一般庶民の立場で考えてみたいと思います。

 思想的、哲学的には大変難しいことを、現実に社会生活をしている一般庶民は同考えればいいのでしょうか。

 これは、日常の生活の中で、日々自由と不自由とを感じてみれば、その中から自然にヒントがでてくるもののように考えられるところです。

「自由」の反対は「規制」でしょう。世の中では自由と規制のせめぎ合いがいろいろな場で起きているのでしょう。
 そして、自由でなければいけないとか、規制すべきだとかの議論が行われるのです。新自由主義の主張では「規制緩和」「規制撤廃」などといわれることが多いですね。

それでも規制を全部無くすことは、如何に新自由主義でも全く考えていないでしょう。多分規制はなるべく少ない方が良いということでしょうから、結局、議論になるのは「どの程度の規制が最適か」という妥協点を探す、つまり、立場のそれぞれに違う人が集まって、出来るだけ多くの人が納得できる妥協点を探すことが大事という事になります。

ここで、「出来るだけ多くの人が」という言葉が出て来るのですが、これが、政治のシステムとしての「民主主義」の原点でしょう。

 自由と規制の妥協点を探すのには「民主主義」という政治システムが必須なのでしょう。その意味では、「自由民主党」という政党の「党名」は素晴らしいですね。

 毎日のニュースを見て、その名にふさわしい政治をしてもらいたいと思いながら、庶民の考える現実的な自由と規制の考え方を、次回、取り上げてみたいと思います。

新自由主義と金融工学進化の関係は

2020年10月20日 16時57分54秒 | 文化社会
社会経済思想と政治形態(試論):新自由主義と政治(7)
 試論の暫定的まとめに入る前に、正面から扱ってこなかった金融問題が、新自由主義の中で、どんな位置にあるのかを見ておきたいと思います。

 今、新自由主義が言われる中で、一国経済が直面している問題は大きく2つあるように思います。それらが新自由主義の思想と整合するものかどうか、解りません。ただ、新自由主義がマーケット・メカニズムを尊重し、規制や、社会的制約を嫌うものとすれば、新自由主義の名のもとにそれらが正当化される可能性はあるかと思う所です。

 2つのうち、一つは変動相場制です。そしてもう一つはマネー資本主義です。ここでは特にこの2つの問題点を指摘しておきたいと思います。

 先ず変動相場制です1970年までは戦後の世界は固定相場制でした。世界銀行、IMF、GATT体制、所謂ブレトンウッズ体制です。これは戦後、アメリカが覇権国として、自国通貨$を基軸通貨として金兌換制を採り、世界経済を公正なルールによって健全に運営しようとして作り上げた体制です。 しかし、それを崩したのもアメリカです。

 崩した理由は皆様ご承知の通り、アメリカの経済力が衰え、基軸通貨$が金兌換制を保てなくなったからです。
 これはゴルフで言えば、プロ選手権のスクラッチ制を、アマチュアの遊びの ハンディキャップ制に変えたようなんものです。
 
 これで経済力の弱くなった国は、為替レートを切り下げれば、あるいは経済力の強い国を通過を切り上げさせれば国際競争力を調整する事ができます。(「為替レートとゴルフのハンディ」参照)  生産性向上やコストカットの努力は必要はありません


 そして、 為替レートはマーケットで決まります。マーケットが正しければ、為替レートは購買力平価相応のものになるでしょう。しかし現実には「プラザ合意」のようなことも起こりますし、中国のように、人民元切り上げ要請に常に「ノー」という事も可能です。
 現に為替レートは実体経済よりも金融政策で動くようです。

 もう1つのマネー資本主義の問題は「資本主義の変貌」という問題です。
 当初「資本移動の自由化」は、世界経済の均等な発展を目指して、GATT、IMF体制の下で進められました。しかし、資本主義は、資本を投下して財やサービスを生産し、そこで生まれる付加価値の増大によって、社会を豊かにするために資本が必要という資本主義でした。

 しかし金融技術の発達は、先物取引、ヘッジ機能、レバレッジ、そして多様なデリバティブと進化を遂げ、資金移動の多くの部分は実体経済活動を伴わない「マネーゲーム」となってきています。
 資本投下→生産活動→付加価値→人件費と資本費に分配(資本増大)
というプロセスから
 資本投下→マネーゲーム→キャピタルゲイン(資本増大)
という形で資本を増やすことが盛行することになったのです。これを 支えるのは金融工学で、金融工学への貢献で、ノーベル賞学者も出ています。

 この動きをリードしたのもアメリカで、経済力の衰えで赤字化した経常収支を資本収支で穴埋めする(世界のカネを呼び寄せる)のが常態化し、そこに開いた仇花が、サブプライム→リーマンショックという事ではなかったでしょうか。

 この金融工学も、マネー資本主義も、新自由主義に入るのでしょうか。
 戦後の経済史を見れば、これらはすべて、アメリカが経済力の低下を、生産性向上の努力を省いて、金融の自由化の中の資本移動で乗り切ろうとして考えた窮余の一策の結果として一般化したものではないでしょうか。
 そして、新自由主義もアメリカで生まれているのです。

社会経済思想と政治形態(試論):新自由主義と政治(6)新自由主義の理想と現実

2020年10月19日 14時36分05秒 | 文化社会
新自由主義の理想と現実
 新自由主義が日本の政治の場で言われ始めたのは小泉政権からでしょうか。小泉政権は2001年に発足2006年までの任期満了ですが、この時期は、日本経済がどん底から這い上がり始め好況感なき景気回復(いわゆるいざなぎ越え)の時期で、リーマンショックは2008年です。

 まだ日本経済に元気が残っていた時期でした。小泉さんは、時にファナティックな様相で「自民党をぶっ潰す」と言い、「聖域なき構造改革」を掲げました。それが新自由主義と言われる所以でしょう。

 国鉄、電電、専売の民営化のあと残った聖域「郵政」の民営化をやりましたが、この時も、保険の第三分野(がん保険など)をきっかけに、アメリカの希望と一致した方向というのが気になる(うまく利用されたのではないかと)ところです。

こう挙げてくると、新自由主義的な政策というのは、押しなべて、政府の力技でやることが中心のようになっています。

 新自由主義者の代表格でもあるミルトン・フリードマンによれば、 アダム・スミスが言ったように、たとえ悪徳業者がいたとしても、皆が自由に経済活動をすれば経済は反映し社会は豊かになる、これは、「神」の「見えざる手」の働きによるものという事になるのですがその反対が「政府」の「見えざる手」だというのです。

 「政府」の」「見えざる手」というのは、政府が一生懸命、経済の繁栄や社会のためになると考えていろいろな政策をやればやるほど、経済も社会もうまくいかなくなるという、政府と経済社会の関係についての矛盾する関係の率直な説明なのです。

 安倍政権のやって来たことを見ていますと、どうも新自由主義を履き違えて、何でも政権が決めて実行すれば、世の中良くなると思っているような節が見えます。
 そして結果は、日本経済正常化のベース(為替レートの正常化)が出来たのに、そのあとはどうにもならないようで、最近は二進も三進もいかなくなってきているように思われます。

 そこで取り敢えず、路線継承を頼める菅政権にバトンを渡したのですが、菅政権も、当然のことながら、新自由主義の本格的な理解はできていませんから、国民の喜びそうな、携帯電話の料金引き下げとか、不妊治療の保険負担とか言い出していますが、これこそ「政府」の「見えざる手」の働きを助長するもので、こんなことを今後も続けていたら、それこそ日本経済の活力も益々失われて行くのではないでしょうか。

 菅政権のブレーンとして登場した新自由主義者を自任するD.アトキンソン氏は日本の中小企業は非効率だといい、菅政権はそれに手を突っ込もうとしているのでしょうが、これは「政府」の「見えざる手」が日本の中小企業を混乱と非効率に陥れる結果になるでしょう。
 
 企業のバイタリティというのは、現場の企業労使が自分たちで考え、自分たちで方法論を構築し、協力して実行するところから生まれるのです。

 政府の良かれと思ってやることが、「見えざる手」によって、最悪の結果を生み出すというのが、新自由主義の根底にある考え方だとすれば、今の政権はとんでもない間違いを犯していることになります。

 このシリーズも、そろそろ締めなければならないと思っていますが、では、新自由主義における(というよりあらゆる社会経済思想共通の)政府の役割というのは何だろうかという事を考えていってみたいと思います。

国民の政権選択は常に正しいとは限らない?

2020年10月18日 15時07分52秒 | 文化社会
社会経済思想と政治形態(試論):新自由主義と政治(5)
 時に国民は容易に誤ります。こんなことをいうと、大変ななお叱りを受けそうですが、実は、私も国民学校の6年生の夏まで、「お国のために戦って死ぬことが素晴らしいことだ」と思っていました。

 正しい情報をきちんと与えられないと、結果は間違った判断に至るという例ですが、そのほかにも、あまりに不満足の時代が続くと、深く考えるのに疲れて、「何はともあれ」現状さ変えてくれれば、と思うようになったりします。

 サラリーマンの笑い話に、嫌な上司の下で、上司はそろそろ異動で変わるからと期待していたら、新任の上司はもっと嫌な上司だった、などというのがあります。

 現状を変えたいという気持ちが強まると、「なにしろ変えたい」と思い詰めるのは人間の弱さでしょうか。

 1970年代、欧米で社会的自由主義が行き過ぎ、深刻なスタグフレーションで国民の不満が鬱積した時、アメリカ、イギリスは革新政権で、選挙の結果保守系が勝ち、レーガン改革、サッチャリズムでスタグフレーションを克服したことは書きました。

 その時フランは保守政権でした、国民はインフレと失業(スタグフレーション)に悩み多分「何しろ政権交代を」だったのでしょう。保守のジスカールデスタンを見切り、社会党のミッテランが大統領になりました。これでは進むべき方向と反対です。

 その時ミッテランは選挙公約で最低賃金の大幅引き上げを言っていたのですが、それではスタグフレーションは一層深刻になります。結局は賃金凍結までやってスタグフレーション脱出を果たしています。(社会党でも賃金凍結までしたミッテランに敬意)
 
 日本では任期満了して2006年に退陣した小泉政権後の政権交代はめまぐるしいものでした。プラザ合意による異常な円高によるデフレ不況が本格的に日本経済を痛めつけた時期ですから、だれがやっても巧く行くはずはありません。この状況は民主党に政権交代しても変わりませんでした。平成長期不況の最悪期です。

 政治は混乱、財政再建も出来ず、経済は長期にわたってゼロかマイナス成長、企業も国民(消費者・家計)も先行き不安にさいなまれる超長期不況の中で、日本経済は潰れるなど言う経済学者も出、産業界は、労使ともコストカットばかりで疲労困憊、誰が出て来ても駄目、「誰でもいいから変わってくれ」だったようです。

折も折、「決める政治」を掲げて再出馬した安倍さんに期待したのも、「この混迷から脱するリーダーはいないか」という現状変更の希望の表れだったのでしょう。そしてその結果が、アベノミクスの第1の矢(日銀の異次元金融緩和で円高是正)の大成功だったということでした。(異次元緩和で円高是正を示唆した浜田宏一先生に感謝)

 当時のこのブログの論調も、これで日本経済も復活の可能性が出てきたというものだったと思います。企業もほっと一息だったでしょう。予期せぬ巨大な円安差益もありました。
 しかし、その後の展開は政府にも、国民にも、それぞれの思いとは違ったものでした。

 ルールを変えてまで3選を果たした安倍さんも、支持率低下と持病悪化(?)差し当たって退陣、菅さんが引き継ぐことになりました。
 安倍さんに飽きて変わってほしいと思っていた国民の意識は、菅政権の総支持率に反映されていました。しかし支持率低下はすでに始まっているようです。

 菅政権は「新自由主義」によってたつと言われていますが、出発時から安倍政権を継承という事です。そして新自由市議論議が盛んになったのが現状です。
 そこで「新自由主義とは何だ?」と、改めて問われることになったようです。

何事も政府がやる、政府にやらせる「新自由主義」?

2020年10月17日 16時23分26秒 | 文化社会
社会経済思想と政治形態(試論):新自由主義と政治(4)
 白川さんに代わって日銀総裁になった黒田さんは、日銀の価値観を180度変えたようです。日銀は円高容認から円安指向に変わりました。

 円安実現のそのために採った手段が異次元金融緩和です。これはもともとFRB議長のバーナンキさんが、リーマンショックを金融恐慌に繋げないために考えたウルトラC 的な政策ですが、遅まきながらこれをまねて2013年と14年の2回にわたり大幅な金融緩和を行いデフレウィ脱出し2%インフレを目指すという方針です。

 金利はゼロ金利、徹底した量的緩和も同時です。リーマンショックの時アメリカはこれをやり、円レートは120円から80円と円高になりました(ドルはドル安に)。
 その後6~7年で日本が同じ事をやり円レートを120円に戻したわけです。

 この辺りから金融緩和は金融パニックを救うのと同時に、自国通貨を安くする手段として定着してきたようです。

 ただ、アメリカは万年赤字国ですから、金融を多少正常な(引き締める)方向に移しても(テーパーリング)ドル高には限度がありますが、日本は万円黒字国ですから、異次元緩和を止めるとどこまで円高になるか解らないという危惧が付きまといます。
 結果的に日本は円高を避けるために異次元緩和をやめられなくなっています。

 この円安政策は、アベノミクスの第1の矢に当たるのですが、円安→インフレ・2%と行くはずが全く宛が外れ、全くインフレにはなりませんでした。

 これが、アベノミクスがその後どうにも進まなくなった根本原因でしょう。
円レートが正常化すれば、経済成長も戻り、インフレ基調の経済になって、財政再建も順調にいくと思ったのでしょうが、そうならなかったのです。

これには、矢張り理由があります。大きくは、①日本産業を担う労使の意識変化、②消費者の意識変化、③マネー資本主義の活発化などといった要因があるようです。

 こうした状況の中で、安倍政権は、何とか看板のアベノミクスを成功させようと焦り、次第に「政権の力で」という権力集中、異論を封じる独裁的な行動に出ことになったようです。

 もともと「決める政治」を標榜し、その第1弾の円高の是正に成功、次は積極財政、そして構造改革とつなげていくつもりが、日本経済はどうにも思うように動きません。

 原因や症状は全く違いますが、1970年代からの欧米のスタグフレーションに至る停滞と同じような成長しない経済が、円高が是正されても続くという予期しない結果は、かつての欧米のように、政府の力技で脱出するほかないと考えたのでしょう。

 大変好都合なことに、偶々与党が絶対多数を占めるという国会の構成の中で、すべて力技、具体的には強行採決といった手法で政治を運営することが可能だったのです。

 これは、欧米の経験に似た、政権独裁の強硬手段であり、それが、政府権力で、経済合理性を追求する、政府がマーケットメカニズムを働かせる、自由経済の原則を実現させるのは政府の役割といった形で、すべて政府主導で新自由主義を実現するといった基本的に矛盾を内包した今日の政策になっているのではないでしょうか。

 問題は、政府の権力と国民の自由の矛盾が何故可能になっているのか、それが本当の「新自由主義」なのか、という事になるわけですが、今、日本の国民はそれを認めている形になっています。
 何故そんなおかしな事になってしまっているのでしょうか。

社会経済思想と政治形態(試論):新自由主義と政治(3)

2020年10月16日 20時49分21秒 | 文化社会

長期不況、プラザ合意から黒田バズーカまで
 労使の賢明な協調で、スタグフレーションを避けて安定成長を続けていた日本経済が30年近くに及ぶ長期不況に陥った原因は1985年に発生しました。
この年のG5で日本は円高容認を迫られ、「OK」といったばかりに( プラザ合意)、という事で2年後には円レートが1ドル240円から120円になったのが始まりです。

「OK」と言った日本代表、当時の大蔵大臣と日銀総裁は、恐らく、アメリカが何を考えているのか理解していなかったのでしょう。当時、日本はアメリカに薦めれた金融緩和で土地バブルに酔い痴れていて、円高で日本経済がおかしいと気づいたのはバブルが崩壊してからでした。(参考:「 新前川レポート」など)

 それでも多くの人たちは、不況はバブル崩壊のせいで、円高のせいと気づいたのはもっと後かも知れません。
 日銀にしてからが、円高は日本経済の価値が高まった結果で、結構なことと考えていたようです。

 2年で為替レートが2倍になるという事は、国際的に見れば、日本が2年で賃金を2倍に引き上げ、賃金インフレで物価も2倍になったという事と同じです。
 良好な労使関係で、賃金と生産性のバランスを取り、賃金インフレ、ひいてはスタグフレーションを避けてきた日本の労使の努力はすべて「水泡に帰し」、日本は世界で一番賃金も物価も高い国になってしまったのです。

 次第に円高の問題点に気づいた日本は、一生懸命生産性を上げ、賃金を引き下げて、国際競争力を取り戻そうともがき苦しみました。
トンネルの向こうに微かに明かりが見えたのは21世紀に入ってからのことで、そこから、見えた明かりを大きくしようと頑張ったのが2002年から2008年までの「 いざなぎ越え」、好況感なき景気回復でした。

しかしそこでさらなる円高です。2008年のリーマンショックで円レートは1ドル75円~80円です。これではまた一層の生産性向上と賃金引下げをしなければなりません。

正常な経済であれば、生産性を上げれば賃金も上がるのが常識ですが、極端な円高を克服するためには、生産性を上げながら、賃金を下げなければなりません。
 こんなことを20年以上も続けたのが当時の日本経済で、日本産業を背負う労使は疲れ果て、 頑張る意欲も喪失してきたようです。
その後は、企業の 研究開発費も、従業員の 教育訓練費 もコスト削減で削られるだけになったことが統計資料から見て取れます。

この窮状を救ったのが、2013~4年の2発の「黒田バズーカ」、異次元金融緩和政策です。
これは新自由主義の一部とも言われる新時代の金融理論、為替レート変更の手段としての金融政策です。(以下次回)

雨のち晴れ、ススキは元気

2020年10月15日 11時26分19秒 | 環境
雨のち晴れ、ススキは元気 
 今年は、例年晴れの特異日だった10月10日の体育の日も、8月にとられてしまったせいか雨でした。なにか「秋の長雨」の気配の日々です。

 その中で一昨日の13日は朝から晴れでした。天気予報が「洗濯日和」といっていましたが、その通りでした。朝日を浴びて庭のススキが光っていました。



 もうだいぶ昔ですが、家内が「葉が矢絣だから」と言ってススキの株を分けてもらってきました。その後、ススキの株は毎年大きくなって、この数年は毎年真ん中だけ残して、周りは春から夏まで伸ばさないように刈り込んでいます。

 今年は思い切って刈り込んで、一握りぐらいだけ残したつもりでしたが、それでも、立派に伸びてくれて8月末には出穂、遅かった中秋の名月までもつかと思われましたが、ずっと元気で、台風崩れの雨た、その後の秋の長雨にも耐えて、未だすっきりと端正にしています。

 ススキが高く伸びていると、狭い庭も少しは広く見え、毎年これこそ秋の風物詩だと、何時もいい気分で見られるのは大変有難いことだと思っています。

 もう少しするとススキの穂もぼわっと膨らんで、縁起物のフクロウを作るのに最適のようになるのでしょうが、それまではもう少しの間、日々楽しめると思っています。