社会経済思想と政治形態(試論):新自由主義と政治(9)
前回、自由の反対は規制と書きましたが、規制というと、いかにも不自由だ、という感じになります。
そこで、同じ意味で柔らかい言葉ですと「ルール」、規則、約束事という事になるのではないでしょうか。
スポーツにはそれぞれルールがあります。野球で言えば 三振とフォアボールです。
これは規制です。3振でアウト、四球で進塁です。規制ですが、これを緩めようという人は多分いないでしょう。
三振を4振にし、四球を五球にしたら、野球というゲームは間延びしたものになり迫真力も面白さも半減するでしょう。
サッカーでは手を使ってはいけません。手を使ってもいいラグビーでは前にパスしてはいけません。こうしたルールは、プレーヤーも観客も、「最も楽しめる」ように決められているのでしょう。規制緩和の対象にはなりえません。
ルールがあるからプレーヤーはそれに則り「自由に」「楽しく」プレーができるのでしょう。観客もルールを守っての競い合うフェアプレーを楽しんでいるのです。
日常生活で最も頻繁に出会うのは交通信号でしょう。これも規制ですが、信号を無くせという人はいないでしょう。誰しも、「なかったら大変だ」と思っています。
ところで、スポーツでもルールを考える人、それを守らせるレフェリー、反則には罰則があります。これは政治では国会、行政、司法にあたります。
そしてルールが適切に決まっていて、選手はそれを守り、みんなが最も楽しくなるようなプレーをすることこれがフェアプレーであり「スポーツマンシップ」でしょう。
ならば、国会は国民が納得するような法律を作り、行政はそれを国民が守るようにレフェリーの役割を確り果たし、反則には適切な罰則を適用するというのが最も望ましい国家社会の姿でしょう。
最も大事なのはルールがよくできていることです。そのルールを守って政治をする事が「ステーツマンシップ」でしょう。
新自由主義では、規制の打破を言いますが、それは不適切な規制に限ってほしいと思います。自由にしすぎるとどこかで不自由が増すことが多いのです。
一党独裁の共産主義国ならいざ知らず、民主主義を掲げる自由主義国家では、国民の声をよく聞くことが一番大切です。より頻繁に、より多くの国民の声を聞いてそれを土台い国民が必要とするルールを組み立てることです。
この所、いろいろな国で、反政府デモが起きていることはニュースが伝えるところです。これは必ずしも国民の多くが納得しないことが政治によって行われているからでしょう。
日本では昔と違い、今は大規模デモはありませんが、安倍内閣の場合は、与党絶対多数という選挙結果を国民の全面的支持と勘違いし、多くの国民が疑問に思う事を強行採決で決めてきた結果、世論調査による支持率が70%から次第に30%台に落ちるといったことが起きました。強行採決はスポーツでは、とてもフェアプレーとは言えないでしょう。
まさかこうしたごり押しが、新自由主義だとは思っていないでしょうが、現実の政治の世界は、自由主義、民主主義といった思想やその理念とは、あまり関係ないというのが現状でしょう。
すでに菅内閣でも、日本学術会議問題のような、従来のルールに違反は承知で決定をし、然し、決定の理由や根拠の説明については問答無用といった現実があります。
より多くの国民が納得し、そのルールの下で、楽しんで最大限の能力発揮をするといった状況とは、残念ながら程遠いようです。
この試論の締めくくりは、現実の政治は思想や理念とは殆ど無関係で、目的は選挙に勝つこと、そして選挙に勝てば、国民の意見などはなるべく聞かずに、疑問にも答えずに、リーダーの望む方向へ国民を引率するといった事が往々にして起きるという結論になりそうです。
歴史、そして最近の世界、さらに残念ながら日本の政治情勢を見れば、言葉ではどんな政治思想や理念を掲げていても、一旦選挙に勝てば、リーダーの心次第で、政権は独裁制につながる可能性を持つと認識した方いいように思われるところです。
独裁制が、国民の最大に不幸につながることは歴史が証明していいます。
前回、自由の反対は規制と書きましたが、規制というと、いかにも不自由だ、という感じになります。
そこで、同じ意味で柔らかい言葉ですと「ルール」、規則、約束事という事になるのではないでしょうか。
スポーツにはそれぞれルールがあります。野球で言えば 三振とフォアボールです。
これは規制です。3振でアウト、四球で進塁です。規制ですが、これを緩めようという人は多分いないでしょう。
三振を4振にし、四球を五球にしたら、野球というゲームは間延びしたものになり迫真力も面白さも半減するでしょう。
サッカーでは手を使ってはいけません。手を使ってもいいラグビーでは前にパスしてはいけません。こうしたルールは、プレーヤーも観客も、「最も楽しめる」ように決められているのでしょう。規制緩和の対象にはなりえません。
ルールがあるからプレーヤーはそれに則り「自由に」「楽しく」プレーができるのでしょう。観客もルールを守っての競い合うフェアプレーを楽しんでいるのです。
日常生活で最も頻繁に出会うのは交通信号でしょう。これも規制ですが、信号を無くせという人はいないでしょう。誰しも、「なかったら大変だ」と思っています。
ところで、スポーツでもルールを考える人、それを守らせるレフェリー、反則には罰則があります。これは政治では国会、行政、司法にあたります。
そしてルールが適切に決まっていて、選手はそれを守り、みんなが最も楽しくなるようなプレーをすることこれがフェアプレーであり「スポーツマンシップ」でしょう。
ならば、国会は国民が納得するような法律を作り、行政はそれを国民が守るようにレフェリーの役割を確り果たし、反則には適切な罰則を適用するというのが最も望ましい国家社会の姿でしょう。
最も大事なのはルールがよくできていることです。そのルールを守って政治をする事が「ステーツマンシップ」でしょう。
新自由主義では、規制の打破を言いますが、それは不適切な規制に限ってほしいと思います。自由にしすぎるとどこかで不自由が増すことが多いのです。
一党独裁の共産主義国ならいざ知らず、民主主義を掲げる自由主義国家では、国民の声をよく聞くことが一番大切です。より頻繁に、より多くの国民の声を聞いてそれを土台い国民が必要とするルールを組み立てることです。
この所、いろいろな国で、反政府デモが起きていることはニュースが伝えるところです。これは必ずしも国民の多くが納得しないことが政治によって行われているからでしょう。
日本では昔と違い、今は大規模デモはありませんが、安倍内閣の場合は、与党絶対多数という選挙結果を国民の全面的支持と勘違いし、多くの国民が疑問に思う事を強行採決で決めてきた結果、世論調査による支持率が70%から次第に30%台に落ちるといったことが起きました。強行採決はスポーツでは、とてもフェアプレーとは言えないでしょう。
まさかこうしたごり押しが、新自由主義だとは思っていないでしょうが、現実の政治の世界は、自由主義、民主主義といった思想やその理念とは、あまり関係ないというのが現状でしょう。
すでに菅内閣でも、日本学術会議問題のような、従来のルールに違反は承知で決定をし、然し、決定の理由や根拠の説明については問答無用といった現実があります。
より多くの国民が納得し、そのルールの下で、楽しんで最大限の能力発揮をするといった状況とは、残念ながら程遠いようです。
この試論の締めくくりは、現実の政治は思想や理念とは殆ど無関係で、目的は選挙に勝つこと、そして選挙に勝てば、国民の意見などはなるべく聞かずに、疑問にも答えずに、リーダーの望む方向へ国民を引率するといった事が往々にして起きるという結論になりそうです。
歴史、そして最近の世界、さらに残念ながら日本の政治情勢を見れば、言葉ではどんな政治思想や理念を掲げていても、一旦選挙に勝てば、リーダーの心次第で、政権は独裁制につながる可能性を持つと認識した方いいように思われるところです。
独裁制が、国民の最大に不幸につながることは歴史が証明していいます。