tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

社会経済思想と政治形態(試論):新自由主義と政治(6)新自由主義の理想と現実

2020年10月19日 14時36分05秒 | 文化社会
新自由主義の理想と現実
 新自由主義が日本の政治の場で言われ始めたのは小泉政権からでしょうか。小泉政権は2001年に発足2006年までの任期満了ですが、この時期は、日本経済がどん底から這い上がり始め好況感なき景気回復(いわゆるいざなぎ越え)の時期で、リーマンショックは2008年です。

 まだ日本経済に元気が残っていた時期でした。小泉さんは、時にファナティックな様相で「自民党をぶっ潰す」と言い、「聖域なき構造改革」を掲げました。それが新自由主義と言われる所以でしょう。

 国鉄、電電、専売の民営化のあと残った聖域「郵政」の民営化をやりましたが、この時も、保険の第三分野(がん保険など)をきっかけに、アメリカの希望と一致した方向というのが気になる(うまく利用されたのではないかと)ところです。

こう挙げてくると、新自由主義的な政策というのは、押しなべて、政府の力技でやることが中心のようになっています。

 新自由主義者の代表格でもあるミルトン・フリードマンによれば、 アダム・スミスが言ったように、たとえ悪徳業者がいたとしても、皆が自由に経済活動をすれば経済は反映し社会は豊かになる、これは、「神」の「見えざる手」の働きによるものという事になるのですがその反対が「政府」の「見えざる手」だというのです。

 「政府」の」「見えざる手」というのは、政府が一生懸命、経済の繁栄や社会のためになると考えていろいろな政策をやればやるほど、経済も社会もうまくいかなくなるという、政府と経済社会の関係についての矛盾する関係の率直な説明なのです。

 安倍政権のやって来たことを見ていますと、どうも新自由主義を履き違えて、何でも政権が決めて実行すれば、世の中良くなると思っているような節が見えます。
 そして結果は、日本経済正常化のベース(為替レートの正常化)が出来たのに、そのあとはどうにもならないようで、最近は二進も三進もいかなくなってきているように思われます。

 そこで取り敢えず、路線継承を頼める菅政権にバトンを渡したのですが、菅政権も、当然のことながら、新自由主義の本格的な理解はできていませんから、国民の喜びそうな、携帯電話の料金引き下げとか、不妊治療の保険負担とか言い出していますが、これこそ「政府」の「見えざる手」の働きを助長するもので、こんなことを今後も続けていたら、それこそ日本経済の活力も益々失われて行くのではないでしょうか。

 菅政権のブレーンとして登場した新自由主義者を自任するD.アトキンソン氏は日本の中小企業は非効率だといい、菅政権はそれに手を突っ込もうとしているのでしょうが、これは「政府」の「見えざる手」が日本の中小企業を混乱と非効率に陥れる結果になるでしょう。
 
 企業のバイタリティというのは、現場の企業労使が自分たちで考え、自分たちで方法論を構築し、協力して実行するところから生まれるのです。

 政府の良かれと思ってやることが、「見えざる手」によって、最悪の結果を生み出すというのが、新自由主義の根底にある考え方だとすれば、今の政権はとんでもない間違いを犯していることになります。

 このシリーズも、そろそろ締めなければならないと思っていますが、では、新自由主義における(というよりあらゆる社会経済思想共通の)政府の役割というのは何だろうかという事を考えていってみたいと思います。