tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

コロナ後を見据えた経済政策 3

2021年06月30日 19時13分13秒 | 文化社会
消費税減税構想を考える
立憲民主党の枝野代表が、消費税を時限的に5%に引き下げるという構想を発表しました。
これまでの自民党政権は、財政再建という重い問題と、景気刺激という当面の必要のあいだで腰の定まらない状態を続けて来ました。
 
しかし、今回のコロナ禍は、それどころではない緊急事態ということで、財政再建は当面無視、赤字国債発行で、巨大補正予算を組んで、「景気の維持」と「国民の健康と生命を守る」ことの二兎を追いましたが、結果は財政再建の困難化だけで終わったようです。
 
これに対して、立憲民主党の枝野代表の構想は、コロナ後を目指して、まずは国民の税負担を少しでも軽くし、賃金が上がらない中でも庶民生活が少しでも楽になるようにという事でしょう、消費税率を当面半分にし、消費支出を刺激することで、それで消費も増え、景気の回復もを促進されれば・・・という狙いでしょう。
 
 今まで、消費税の増税をすれば、景気は停滞し、国民の支持を失うというジンクスがあったわけで、それなら、消費税を減税すれば国民の支持は増すという期待も当然あるでしょう。
 
では、国民にとって消費税の減税は、どのくらい望ましい物でしょうか。それによる低所得世帯の生活の改善、心理的な安堵感はどうなのでしょうかということになります。
 
増税の負担感と、減税の有難さは必ずしも同じ比重ではないでしょうが、5%の減税はそれなりの実感があるでしょう。低所得の方ほど実感するのではないでしょうか。
 
ところで問題は枝野さん自身「時限的に」と言われていうように、減税は国家財政を圧迫します。財政再建はより困難になりますから、他に何かが必要でしょう。
更に、時限が来て元に戻す時に、経済が好調で皆喜んで5%の増税(10%に戻す)に賛成するかどうかは解りません。
 
といったことで、この問題は、消費税だけで片付く問題ではありません。もちろん枝野さんもそんなことは承知のうえで今後の政策をお考えでしょう。当然、税制全体の改革が必要になります。
 
増減税を行う場合、最も納得的な方法はレベニュー・ニュートラルの原則です。片方に増税があれば、片方に減税がある。その逆も同じです。
そしてその原則は、合理的であり、国民の多くが納得するものでなければなりません。
 
そこで、登場すべきだと思われるのは、消費税の減税をするのであれば、その財源を、どこからか求めるべきではないかというとで、現状の税制から言えば、所得税の累進課税の強化でなければならないでしょう。
 
このシリーズの前に序論的なブログを2、3書きましたが、その時のテーマは、コロナ後の経済政策はSDGsに適うものでなければならず、格差社会化はサステイナブルでは在り得ないという事でした。
 
その視点から見れば、プラザ合意以降、バブル経済と30年の経済停滞の中で、日本社会の格差化はかなりの程度進み、アベノミクスの第1弾で、円レートが正常状態に戻っても、この格差化は止まってはいないと思われる現状の中で、格差社会化を、より格差の少ない社会に巻き戻すためにも、所得税の累進度は、高度成長期なみとは言わないまでも、大幅に見直さなければならないということになるはずです。
 
もともと日本の社会文化的伝統は、欧米流の社会主義思想などを必要としないぐらい、格差を嫌い「和」と「多様なバランス」を尊ぶもので、かつてはジニ係数の低さは北欧諸国と肩を並べるまでになっていました。
 
 コロナ後の日本経済を、安定した健全成長路線に戻すためには、まず、格差是正を目指して所得税制の見直しは必須でしょう。 

コロナ後を見据えた経済政策 2

2021年06月29日 23時04分19秒 | 経済
消費需要:当面する最大の問題点
このブログでは、総務省の「家計調査」の中の勤労者所帯の「平均消費性向」をずっと追いかけてきていますが、この所のコロナ禍の中で、平均消費性向は低迷を続けて来ました。

コロナの感染抑制のために、3密を防ごうというのですから、会食も旅行もイベント参加もままならないわけで、消費が落ち込むのは当然ですが、菅政権は、経済低迷を恐れて、GoToキャンペーンをやったりして、コロナの蔓延を助長する大失敗で、消費低迷を一層ひどく長いものにしてしまったりしました。

当時の菅総理が理解したのは、消費が活発にならなければ、経済は落ち込むという事だったのでしょう。しかし、GoToキャンペーンで消費を伸ばそうとすれば、コロナ感染者が増えるのですから、結局はGoToはやめて、早くコロナを制圧するべきとなっていますす。

コロナさえ片つけば、黙っていても消費は増えるというのがコンセンサスになり、それならワクチンだ、となり、菅総理もやっと気付いて、1日100万回接種といい始め、更に、「日本をワクチン開発のセンターにする」とまで言い出したのです。

この辺りに、経済政策の基本になることが何となく出て来るのです。
先ず、消費を増やすことが、直接経済成長、つまりGDPの増加につながる.。景気を良くしたければ、消費を増やす、家計が元気に金を使うような社会にしなければならないといことになります。

今はコロナのせいで消費不振です。コロナが制圧されれば、黙っていても消費は増えるでしょう。しかしその先どうかといいますと。コロナ以前の状態、国民が先行き(老後)不安で消費を削って貯蓄に走るという所に戻ってもどうにもなりません。
コロナ以前に戻ったのではダメで、その先の政策が必要なのです。

もう一つ、菅総理は日本を世界のワクチンの研究センターにと言いました。これは、ワクチンだけでなく役に立つ先端技術に共通で、日本がいろいろな分野で、先端技術のセンターになることに成功すれば、世界が必要とするものが日本の力で供給でき(今日のファイザー、モデルナのように)、世界をリードする先端技術を持つ日本経済は当然に発展となるわけです。

菅総理もコロナの中で、試行錯誤しつつ、結局、やるべきことはワクチンの早期接種と、将来のためのワクチン開発センター構想と結論を出したのでしょうし、、多くの人は以前からそう思っていたのでしょう。
今、殆どの日本人はワクチンの早期接種に努力に邁進しているのですが、問題はワクチンの確保という事でしょう。

こうして、最近のニュースの中からも、いくつかのヒントが出て来ました。
先ずワクチン接種、コロナ制圧の王道でしょう。制圧の目鼻がつけば、人は街に出、旅行の計画をたて、飲み会は盛況、エンタメは活況となるでしょう。消費は増加します。GDP増加(経済成長)に貢献します。

さて問題はその後です。日本経済は安倍政権の末期(コロナ禍の前)から低迷状態でした。主な原因は消費不振です。消費税増税が響いたとも言われますが、消費不振はその前からです。

折しも選挙に向けてでしょうか、立憲民主党枝野代表から「時限的に消費税を5%に引き下げる」という考えが打ち出されました。
これは、消費税の税率を現行の半分に戻すことによって、消費を喚起し、それをきっかけに日本経済の活性化を進めようという構想の多分第一歩でしょう。

ここで、消費税率と消費の関係という問題が出てきます。果たして消費税率を引き下げれば消費が活発化するでしょうか。
次回はこの問題を中心にコロナ後の日本経済を考えてみましょう。

コロナ後を見据えた経済政策 1

2021年06月28日 22時17分32秒 | 経済
コロナ後を見据えた経済政策 1
この問題を考える場合、参考として検討を要するのは、鳴り物入りで登場したアベノミクスが、第一弾の円安実現は大成功だったもの、その後の第二弾の積極的財政政策、第三弾の構造改革(規制撤廃)においては、どうにも思い通りにはいかなかったという経験でしょう。

当時考えていたことは、第一弾の日銀のゼロ金利政策で1$=80円状態から1$=120円が実現した時、これで日本経済の対外環境は正常化(円レートの正常化)が実現したのだから、後は、プラザ合意による円高以前の元気な日本経済に立ち帰ることが出来るはずだという展望でした。

プラザ合意前の日本経済は「ジャパンアズナンバーワン」などと言われ、欧米諸国がスタグフレーションの後遺症に悩まされる中で、労使の努力でインフレを抑制し健全な安定成長路線をひた走るという状態で、GDPは世界第2位、経常収支赤字国アメリカに対し万年黒字国状態で、アメリカの脅威になるような経済を自負していたのです。

現実は、その結果の対日政策がプラザ合意だったわけで、その後30年にわたりバブルと長期不況という経済の異常状態を、なんとか遣り繰ってきた日本でしたから、円レートが正常化すれば、当然プラザ合意前の状態に復元の道をたどると思われたのです。

しかし、その見方は些か甘すぎたようです。30年にわたる経済の異常状態は、特にリーマンショック後の数年間の泥沼を這い歩くような経験の後遺症でしょうか、プラザ合意以前の自信を日本人から奪い去っていたようです。

30年というのは一世代ですから、その間ゼロ近傍の経済成長が続けば、次の世代は経済成長は期待できないものという前提で行動する事が当たり前になり、その結果、日本企業は専守防衛の意識が強い存在となり、日本の家計は将来不安から生活防衛意識の塊のようになっていたようです。

そのあたりの理解はアベノミクスには全くなかったのでしょう。自分の命令で各省の大臣や官僚を動かせば経済などは簡単に良くなるとでも思ったのでしょうか、「決める政治」を標榜し、独裁者のように、積極的財政政策と規制緩和を進めようとしたようです。

しかし、経済や財政にはそれなりの理論や心理があり、新自由主義の名のもとに進めようとして規制改革は、本来は民間の自由な動きによるべきものでしたから、共に上手くいきませんでした。

つまり、アベノミクスは、海外の機関投資家たちにはゼロ金利というバーナンキ流の踏襲で効果を上げたものの、日本国内では、国民の意識や行動についての理解に乏しく、全ては安倍政権の力で決められるという誤った認識に立ったがゆえに、国内ではほとんどまともに機能しなかったという事でしょう。

さらに、この辺りの認識の問題は、モリ、カケ、さくらといったスキャンダルでまともな議論にもならず、安倍さんは降板、リリーフの菅さんは、揚句の果てのコロナ問題で、今やコロナ征圧と東京五輪で混乱の極、コロナ後は、まだまだ先の問題という事でしょう。

こう見てきますと、今度の選挙で政権がどうなるかは別として、矢張り、今のうちからコロナ後の経済政策には何が必要かを考えておくことは、アベノミクスの反省すらしっかりできていない日本国政府にとっても大事なことのように思われます。

また前置きが長くなってしまいましたが、上の様な考察からしますと、取るべき経済政策は、まず、日本の企業や家計の意識、思考形態を、プラザ合意以降の様な、将来に希望を持って、自分たちの力に自信を持ち、前向きで積極的な生き方をするようなものに変えていかなければならないのでしょう。

そして今、世界中がコロナ禍で、どこも経済低迷という状況の中で、日本の場合は、政治の混乱と、国民の行動の確かさが対極をなしながら、感染率、死亡率などの客観的な数字で、総体的対応の良さが、明確に示されるという実態があるのです。

政府の政策は、ワクチンは作らない、緊急事態宣言で行くと言ったら、次はGoToだ、また緊急事態だ、解除、また緊急事態だ。マンボウだといった混乱ぶりですが、国民はは確りしています。それは、前述の数字が示しています。

未だ日本人は、それなりのものを持っているのでしょう。残念ながら、政府がそれを引き出すことに失敗していただけという考え方が次第に強くなってくるのではないでしょうか。

コロナ後の政策を考える場合、その辺りも1つの鍵になるのではないかという気がしています。

コロナ後を考えるのは早すぎる?

2021年06月27日 16時04分34秒 | 経済
コロナ後を考えるのは早すぎる?
デルタ株にどこまでワクチンが効くのか? 効く効かないより、大体ワクチンが足りなくて打てないということなのでしょうか。

開会まで1か月を切った東京五輪さえ、未だに賛否両論で、日本が、こんなに混乱状態になるなどとは考えられない、というのが多くの日本人の気持ちなのではないでしょうか。

これもだれかが「決める政治」などと言って、数を頼んで権力で押し通すようなことを繰り返し、もともとソフトなコンセンサス社会である日本に、異文化を持ち込んだことから起きているのかもしれません。

そんなこんなで、コロナ後など論じる時ではないよと言われそうですが、いずれ、何時かはコロナ後になるのでしょうから、やっぱり少し先走ってもいいかな、などと思っています。

これまでも述べて来ましたように、コロナ後の日本経済は、できれば、長期的に健全な安定成長を続けたいと考えるわけです。
そこでSDGsという概念が出て来て、SDGsに不都合なものは排除していこうということになります。

そして、最も基本的なところで、社会が格差化していくと、歴史に見るようにいつかは破綻する、つまり格差化する社会はサステイナブルでありないということなります。

ピケティの言うように、資本主義社会では常に格差化が進行するとすれば、どの程度の格差化まで許容できるかを、国民の多数決、あるいはコンセンサスといった形で国として把握し、それ以上の格差化は進めないように、税制や社会保障制度で対応するといったいわゆる「社会政策」の目標を持つということが必要になるのでしょう。

そこで考えておかなければならない事は、この政策の対象は、さしあたって、実体経済に関わる部分だということになるという事です。

すでに述べましたように、実体経済、つまりGDPを生み出す経済活動に関わる取引の100倍以上にも達するカネが、マネーマーケットで動いているとすれば、そこから生まれるキャピタルゲインもまた巨大でしょう。

そのマネーが実体経済の世界に購買力として参加してきたら、一体どうなるのか想像もつかないのですが、現実にはそうした金(マネー)は、実体経済とは関係ない「資本蓄積の巨大化を競う」評価損益、時価総額を競うという「マネーゲームの世界」で回転していて、実体経済の方には「余り流れ込んでこないのではないか」という仮定(注)を置く必用があるように思います。

元々、東京証券取引所の上場企業の時価総額がいくら増えても、日本経済のGNPには全く関係がないわけで、日本人はGDPで生活しているのです。  

 そういう意味では、人口の1%がその国の富の90%を保有するといった表現は、マネーマーケットのカネ(時価評価額)も一緒にした数字の場合ですから、いわば見かけの格差でしょう。

億万長者がそのカネでトイレットペーパーやマスクを買い占めることは「ない」とすれば、庶民の生活に関係するのは90%の100分の1以下、0.9%以下だろうというのが、前述のマネーマーケットのカネは実体経済のカネの100倍以上というころから推定されるわけです。

 ということは、格差問題を論じる場合には、当面、GDPレベルの分配問題を対象に考えていってもいいのではないかという事です。
これからの検討は、差し当たって、そうした前提に立つという所から出発したいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
注:株で儲けたから贅沢な食事をしたとかいう場合は、マネーマーケットのカネが、GDPレベルの実体経済に、購買力として侵入してくるケースです。この問題もあとから検討したいと思っています。

マネー経済と実体経済は住み分け状態か?

2021年06月25日 20時30分43秒 | 経済
マネー経済と実体経済は住み分け状態か?
わたしたち一般の庶民は、現役なら賃金で生活し、高齢者なら年金を中心に現役時代からの貯蓄を取り崩しながら生活しているというのが現状でしょう。
 
貯蓄にはかつてのようにまともな利息は付きませんが、有難いことに、物価もあまり上がらないので、何とか平穏に暮らしていけるかな(コロナがなければ)というところでしょうか。
 
一方、通貨の供給量は年々増加しています。この所、年々5%から10%ぐらいの伸び率の様すし、政府がコロナ対策で、大幅な補正予算を赤字国債を発行して組んだり、日銀が市中の債権や証券を購入したりということで、おカネはジャブジャブな状態と言われます。
 
しかし、政府日銀の目標である2%インフレターゲットは実現しません。経済学の世界では、貨幣数量説(通貨の量を増やせば物価が上るという説)は崩壊したとか、MMT(新時代の通貨理論)が生まれ、いくら赤字国債を出してもインフレにはならにないなどと言われたりするようになりました。
 
この問題は、以前にもシリーズで検討しましたが、どうも、実体経済で使われるお金と、マネー経済で動くマネー(お金)は、重なっている部分も多少はあるにしても、大部分は実体経済の世界とマネー経済の世界を住み分けて動いているという事ではないかと思われます。
 
大体が、マネー経済の世界で大きな金を動かすような人達や組織は、大きな資本を持っているからこそ、そういう世界で生きようとするのでしょう。
生活や事業に必要なカネを投機に回すのは危険すぎますし、多分そういうケースは、資金不足で失敗に終わり、もうやらないという事になるのでしょう。
 
巨大な資金を持っているからこそ、リスクを承知で大きなマネーゲームに挑み、成功する、それには、数十億、数百億、更には兆の単位の世界で勝負するのでしょう。
 
そしてそういう人たちは、カネが必要だからやるのではなく恐らく、アスリートが記録更新を目指すように、「わが資産の時価総額最大」の記録更新を目的にしているのではないでしょうか。
 
ということになると、その巨大なマネーは、本来的にマネーマーケットの中で回転していて、実体経済の世界でモノやサービスを生産して付加価値をつくり、その中からリターンを得るなどという面倒なことには手を染めることはないのかもしれません。
 
時に証券・債券そのデリバティブだけでなく、原油やコーヒーやココアの様な商品市場に手を出すことがあっても、長期的には実体経済の需給が商品相場の基調を決めるでしょうから、多くは単なる一時的なバブル現象に終わる(石油などは典型的)ことになるのではないでしょうか。
 
こう見てきますと、恐らく、マネーマーケットのカネは、実体経済には殆ど入ってこないのではないか、世界主要金融市場の取引総額は世界貿易額の100倍以上と推計されている様ですが、この金が、貨幣数量説に従って、世界経済にインフレを起こすということは多分なさそうです。
 
ただ、問題は、マネーマーケットは往々にしてリ-マンショックの様な行き過ぎと崩壊を繰り返す可能性があります。そして、それは実体経済に深刻な影響をもたらします。
この問題は、これは、この2つのマーケットが日常活動では住み分けをしているようだと言っていても、実際は信用経済という底の部分でつながっているからでしょう。
この問題の解決は容易でないようです。

マネー経済と格差問題

2021年06月24日 17時49分50秒 | 文化社会
マネー経済と格差問題
マルクスの時代には、資本家が労働者を安い賃金で使って、利益を上げ、格差(貧富の差)が拡大しました。賃金基金説などいう説もあって、賃金はあらかじめ資本家が決めた基金の額だけ労働者に分け与えるものなどと考えられたりしました。
 
こうした資本家が労働者を搾取して格差が拡大することを批判して、社会主義、共産主義が生まれたことはすでに指摘しました。
 
ところで、今日のマネー資本主義と言われる状況の中ではどうでしょうか。
賃金は一応労使交渉で決まるようになっており、最低賃金制もあって、賃金決定の合理性や、格差拡大阻止の政策も整備されているのですが、ピケティが指摘するように、資本収益率の方が経済成長率より高いので、賃金が経済成長率と同様に上がっても格差は拡大するというのです。
 
 ピケティは過去のこうした統計数字の分析から、何時の時代もそうだ(1960年台は例外として)と言っているのですが、マネー経済、金融工学などが盛行する今日の状態は、更に進んだ要素を生んできています。
 
 今、資本家(もちろん全部ではありませんし、一般市民の一部も指向しています)の多くは、労働者を搾取して利得を得るのではなく、労働者など使わずに、マネーマーケットに金を投資するだけで、膨大な利得(キャピタルゲイン)を得ることが可能になっています。
 
所謂、投資から投機へ、さらに多様な手段(信用取引、高レバレッジ、各種のデリバティブなどの活用、金融工学の発達)を擁するマネーゲームの巨大な世界が育っているのです。
 
その世界の資金量は、GDPという指標で語られる実体経済が活用している資金量とは(正確な数字は産出不能と言われますが)複数桁違いに大きい数字になると言われる状態です。
 
こうしたマネーゲーム、金融工学の世界は、もともとアメリカが、実体経済の赤字を、マネー経済で取り戻そうとして発達させたと言われますが、今や、世界では(法人税率を低くして)マネー立国を志向する国まで生まれているのが現実です。
 
アメリカ有名なヘッジファンドや投資銀行などの機関投資家といわれるプレーヤーの収益は巨大で(ときには巨大なロスもあるようですが)、関わるパートナーたちの報酬は、実体経済におけるビジネスとは比較にならない巨額という指摘もあり、その影響が実体経済に関わる経営者の報酬を吊り上げているなども言われています。
 
しかし、そうしたマネー経済分野の報酬や賃金が実体経済に関わる人たちの賃金に影響することは一般的には起きていないようで、実体経済の世界とは別世界の現象のように見られているようです。
 
とわいえ、人口の1%がその国の富の9割を所有するなどというのは、まさに異常な格差社会でしょう。
 
 ただおかしなことに、その影響が、労働者のへの配分「賃金水準」を低く抑えるようなことになっているかというと、そうでもないようですし、巨大なキャピタルゲインが、消費者物価の上昇を齎しているかというと、そうでもないようです。
 これは一体どういう事でしょうか。

赤木ファイル:政界、官界浄化の指針に

2021年06月23日 14時17分27秒 | 政治
赤木ファイル:政界、官界浄化の指針に
赤木ファイルが公開されました。
 600頁を超えるものです。我々は、マスコミ報道と状況証拠から一市民としての思いを持つだけですが、朝日新聞の天声人語の筆者は「読了して」と書いておられました。
世の中を正そうとお仕事をしておられる大勢のオピニオン・リーダーの方がたが読まれることは、この国の政界,官界の浄化のために大きな力になると思います。
 
多くを書く気はありませんが、マスコミの報道の範囲では、赤木ファイルは事実だけを正確に書いておられるとの感じを受けるものです。
 
自死を覚悟された方が、感情や憶測を完璧に排されて、事実のみを記録されたことは、恐ろしいほどの自制と人間としての生真面目さの発露として、その正確性、真実性を確実に保証するものでしょう。
 
政府の態度を見れば、当初から開示しない方向であらゆる努力をしたことが、状況証拠としては政府の信用を落としたようですが、これから、どう対応するかが安倍政権、ひいては現自公政権の評価と行方を決めることになるのではないでしょうか。
 
我々庶民としては、現に、真実を全て知っている当事者が居られるわけですから、その人(人達)が、人間としての良心に鑑み、今までの嘘偽りを省み、自ら潔く真実を明らかにし、国民に対する政府としての責任を果たすことを期待したいと思うところです。
 
改めて赤木さんの御霊に、心からの弔意と深甚の敬意を捧げます。 合掌

どんな社会で格差が拡大するのか

2021年06月22日 17時31分36秒 | 文化社会
どんな社会で格差が拡大するのか
中世、西洋では王様が国を治め、日本では殿様が藩を治めていた時には、格差は殿様次第だったのでしょう。領民の生活水準を豊かに保った領主は、名君として慕われ、苛斂誅求で領主だけが贅沢三昧ということろは通常長続きしなかった(サステイナブルでなかった)ようです。
 
大航海時代から産業革命と社会は進歩しますと、今度は資本を蓄積の個人や職業間の偏りが大きくなり、典型的には資本家と労働者の所得格差が拡大して、社会主義・共産主義思想が生まれます。
結局、初期の資本主義は格差の拡大のせいで、サステイナブルではなかったようで、一部には共産主義革命で、平等を志向する国が生まれたりします。
 
そうした国にはどうなったかと言いますと、平等を確保するために政治権力が強化され、結果は政権中枢に富が集中し、国民はいわば平等な配給で暮らし、政権中枢は苛斂誅求の封建領主のようになって、政権中枢と国民の間の格差は巨大になるり、民心は離反、サステイナブルではなくなり国家崩壊(典型的な例がソ連邦)となるようです。
 
革命まで至らな国では、政権がサステイナブルな社会にするために部分的に社会主義を取り入れ、累進課税、社会保障政策などで、較差の拡大を防ぎ、資本主義の社会主義化などといわれながら格差社会化の進展を防ぎ、サステイナビリティを確保してきました。
 
イギリスの「揺籃から墓場まで」の社会保障や、北欧のジニ係数を低く抑える福祉国家政策が、結局は生き残ったのです。
 
此処までのところは、資本主義の福祉社会化が、格差拡大を防ぎ、サステイナブルな経済社会への重要な道筋と考えられましたが、そこにも多少の落とし穴がありました。
 
それは、福祉、社会保障のための負担が次第に過重になり、国の生み出す付加価値、GDPに占める資本蓄積の部分を狭め、開発のための原動力としての資本蓄積が弱くなるという問題でした。
 
結局国は不足する開発のための投資資金を借金である「国債発行」に求め、財政の不健全さが増し、サステイナブルな経済発展を阻害することになったのです。
 
この状態は、現象としては、いわゆる「スタグフレーション」という形で現れ、その是正のために模索された政策が、資本主義の本卦帰りでもある「新自由主義」だったようです。
 
これがまさに、レーガン革命、サッチャリズムなどに代表される動きで今日に至る状況になっているようです。
 
確かにこれは、スタグフレーションという当時の社会主義的資本主義の行きづまり状態から脱出して、より安定で、サステイナブルな経済社会に向かうためには適切な方向だったのですが、それが政権交代による保守政権によって行われたことから、新自由主義は、政権が強行するもの(典型的な例は、サッチャー政権は、イギリスの世界に冠たる最低賃金制を一時廃止しています)というイメージが生まれたようで(政権による既得権打破が新自由主義だといった誤解も生まれ、あちこちで混乱があるようです。
 
日本でも、小泉政権の郵政改革や、安倍政権の「決める政治」、菅政権の説明のない強硬策などが新自由主義のように言われたりしています。
 
詰まる所、格差社会化というのは、GDPを国民の間でいかに分配するかということで、それには2つの側面があるようです。

1つは、国民が今日の豊かさを享受する消費支出と、明日への開発を生み出す資本蓄積にどう分けるか、
もう1つは、消費支出への分配の中で、所得格差がどの程度まで認められるのかという問題です。

通常、格差問題とは後者を差しますが、スタグフレーションの問題は前者の問題です。

SDGsに「D」すなわち開発という言葉がある以上、上の2つの問題を適切に処理できないと、SDGsは達成できないという事でしょう。

そしてもう一つ新しい問題が発生したのです。それはマネー資本主義と格差社会化の問題、それとサステイナビリティの奇妙な三角関係です。
長くなるので、この問題は次回にします。







SDGsと格差社会化は相容れない

2021年06月21日 20時34分32秒 | 経済
SDGsと格差社会化は相容れない
SDGs=持続可能な開発目標(複数)は、多分これからも、人類社会の将来についての最も基本的な方向を示す標語であり続けるような気がしています。

理由は簡単で、人類はまだまだ、この先長い間、生物の原則である種の保存の法則に従って、地球上で繁栄していくことを願っているからです。

繁栄と書きましたが、例えば、1970年台、アメリカでも、若者が「我々は親の代ほど豊かになれない」と言っていた時期がありました。
日本でも、今、多くの人が「親の代ほど豊かになれない」と考えているようで、これは社会全体が、マスコミの論調も含めて日本社会の雰囲気になっているようにすら感じられます。

そして、こういう状態は、社会として「あるべきではない」方向と考えられているという事でしょう。

人々は生きている限り、明日は今日よりも良くなると願っているでしょうから「繁栄」と、そのための「開発」は、何時までも続いていかなければならないのです。

そこで、SDGsの最初のS=サステイナブル=持続可能 が最も重要な概念になるのです。
あらゆる社会の活動を「これをずっと続けていくことが可能か」という基準で判断していくことが、SDGsの最も基本的な点となるのでしょう。

 このブログで、取り上げている、コロナ後の日本経済の在り方について、既に、格差社会化を、徹底して避ける方向を指摘していますが、その根底にある考え方は、「格差社会化が進んで行く社会は持続的ではない」という視点に立っています。

 これは、マルクスやピケティが明らかにしてくれていますがそのあたりを背景にして、文化、社会、技術などの開発の在り方として、どんな在り方が格差を拡大させるかを人類のこれまでの経験の中から確りと探り出し、常にそうそうした開発の方向を排除することを確り考えることが重要になるのでしょう。

それでは、人類社会がどんな開発を行うと社会の格差化が進むのかですが、まずは、そのあたりの整理が必要でしょう。
例えば、資源や、技術の開発の面では、かつては、石炭を掘り石油を燃やすことが望ましい開発と思われていたこともありました。今は違います。

では、社会開発、経済開発の分野で、どんな開発が、格差社会化を進めることになるのかということになるわけです。

及ばずながら、それをやって見ようということになります。「格差社会化阻止」の留意点ということになりそうですが、進めてみたいと思います。

今年のホタル、残念な結果に

2021年06月20日 13時37分33秒 | 環境
今年のホタル、残念な結果に
毎年、我が家のホタルのことを書いていますが、今年は大変残念な結果に終わってしまいました。書くのをやめようかと思いましたが、やっぱり一応記録しておくべきだと考え直して書くことにしました。

4月の末にゲンジの上陸が殆ど終わったようなので、5月末から毎晩羽化を期待して狭い庭の端、U字溝沿いの藪の中を確かめていましたが、結局羽化はオス1匹でした。そしてそのオスも3日ほど(通常は1週間は元気です)で光らなくなりました。

昨日あたりで、もう孵化はないだろうと諦めましたが、その間、ずっと原因は何か考えていました。
自然環境はほとんど変わっていません。今年は乾燥に注意して、適度の散水もしていたのですが・・・。

そして結局気づいたのは、昨年秋の庭の山茶花での茶毒蛾の大発生でした。
茶毒蛾の幼虫のいる枝を全て切り落とし、刻んでポリ袋に入れ「燃やせえるゴミ」に出したのですが、地上に落ちた幼虫は生きていて、また山茶花の木に登るので、市販の殺虫剤を大分部吹き付けたのです。

腕や首筋に茶毒蛾の幼虫(毛虫)の毛が無数に刺さって、点々と赤く腫れ、痒くて大変で、それもあって、殺虫剤を撒きすぎたのでしょう。

思うに、多分その殺虫剤が雨と一緒に土中にしみ込んで、残っていたのではないかという推測です。

 合成洗剤や農薬で、ホタルが全滅した歴史は十分に知っていたのですが、まさに『ぬかった』という大変な不注意だったのではないかと思い返して、唇を噛んでいるというのが現状です。

上陸地の土壌汚染がいつまで続くのかわかりません。除染も、植物のことを考えれば不可能です。

以上が現状で、さて今後どうするかは、これから考えなければと思っています。
ヘイケの方は、行動範囲が狭いので、完全 人工環境でも育てられるので、再挑戦の可能性もなどとも思いつつ、これから考えます。
  

コロナと五輪、トラブルは避けたいですね

2021年06月19日 14時22分02秒 | 政治
コロナと五輪、トラブルは避けたいですね
この所、コロナ後の経済問題を逐次考えようとしている所、当面する東京五輪問題で、無駄なトラブルが起きそうな様相なので心配です。
 
理由は解りませんが、マスコミは、菅総理が、観客を入れることに固執していると報じ、ています。一方、専門家の方は、分科会のメンバーも含む26人の連名で、無観客が最も望ましいという立場で、観客を入れるとしても、最大限の注意を払って、五輪をきっかけに感染が拡大することが無いようにと「十分ご留意を」という提言をしています。
 
このままいくと、何かこじれそうな予感がしていて、政府がもう少し大人の態度が取れないものかなどと思いながら「注視」しています。
 
今までの政府の行動形式で見ますと。専門家の意見は単に「聞き置く」ということに止まりそうで、国内の人流はかなり増え、ワクチン接種は追いつかず、感染拡大の可能性は増えるということになりそうな感じです。
 
専門家の提言は理詰めですが、政府の有観客という意向には何の説明もありませんから、理由もその説明のない方針と、理由と説明がはっきりしている提言の相違をどう調整するかということになるわけです。
 
通常であれば、それぞれの主張の理由を比較検討し、それぞれの理由の軽重の判断の中から、結論や妥協が議論され、双方納得で手打ちとなるはずですが、政府の有観客という主張の理由の説明がないので、そうなりそうにありません。
 
「国民の健康と生命を守る」という総理の発言と、「有観客に固執」という、また「政府は専門家の意見を警戒」などというマスコミの報道は、矛盾していて、国民には、全く納得して理解という訳にはいかない所です。
 
多くの国民は、政府は専門家の意見は私的なものとか言った理由で無視し、有観客という政府の方針を押し通すだろう思っているのではないでしょうか。
 
菅総理は、「自分で決める」のがいい事だと思っているように見えますが、衆知を集めてその中で最も良いものをみつけ出すのが優れたリーダーの能力でしょう。
とくに自然現象に対する場合には、自然は人知を超えていますから、最悪を想定するのがルールです。大津波も、集中豪雨も皆同じです。
 
失敗の無いように願いたいのですが、テレビなどマスコミから受ける印象は何か心配です。結果的に感染者が増え、亡くなる人も増えるといった事で、東京五輪が穢されないように、十分思慮深くあって欲しいと思っています。

コロナ禍からの復旧を早く、そしてその先へ

2021年06月17日 22時23分03秒 | 経済
コロナ禍からの復旧を早く、そしてその先へ
 株価は上昇基調です。世界に広がるコロナ禍の中で、何故株価が上昇基調なのでしょうか。

 見方はいろいろありましょうが、基本的には、ワクチンの普及が早く、世界はいずれコロナ禍の終息の時期を迎えるだろう、主要先進国はすでにその方向に見通しをつけているのではないか、というのが機関投資家の判断だからではないでしょうか。

 コロナ禍の終息は、マスクメーカーにとっては大変かもしれませんが、人々が社会活動、経済活動をコロナ以前のように活発化すれば、当然に経済は前進を始めます。そう読めば、先見性を得意とする株価は上がるという事でしょう。

 この動きは、現実問題としては、コロナの変異株の出現と、ワクチン開発の競争という形でしょうが、先進主要国の人達はワクチン(人間の知恵)の勝利を信じているでしょうし、そうなってほしい、そうなるだろうと皆思っているでしょう。

 最近、日本発のワクチン開発への努力も進んできているようですが、恐らく世界中の関連企業は、今、総力を挙げて取り組んでいるのでしょう。その成果は先頃のG7サミットの
指摘のように「2年程度でコロナ終息」と見ていいのではないでしょうか。

 マスクが外せる、人流の増加も気にしなくて良いという事になれば、コロナ禍で呻吟した産業、企業は当然の復旧(復興)の 時期を迎え、急速な活性化の段階に入るでしょう。

 日本で見れば、ワクチンの普及がまだ道半ばという中で行われる(?)東京五輪による、国際国内の人流の動きが1つの不安定要素としてあるわけですが、専門家の指摘されるように、最小の人流で、徹底した企画、計画、実行が出来れば、国民の自発的協力を支えに、コロナ感染の極小化も可能なのではないでしょうか。

 此処までが復旧の準備段階という事でしょう。多分、その後総選挙があり、そこではコロナ後の経済再建の議論が花盛りになるでしょう。

 そんな形で順調にいけば大変に結構な事ですが、政府や関係する地方自治体や関連機関の努力で、規制は厳しくても、流石日本と言われる様な事が出来るでしょう(か)。
 
 今年から来年にかけては、順調にいけば、次第に規制が外れ、これまで苦労された部門から順に(多分)回復が進むという事になるような気がしています。
 
 秋の(多分)選挙戦では、その先の経済政策が、かなり論じられるだろうと期待しています。このブログでもその先を確り論じていくつもりでおりますが、その際、何が一番の問題点かという事を、ここで書いておきたいと思います。

 新旧取り混ぜ、いろいろな議論が出てくるかと思っていますが、やっぱり根本にあるのは、「格差社会をどこまで認めるか」という事ではないでしょうか。

 このブログでは、「自由と平等」の問題を取り上げてきました。
 完全自由になると格差は無限大になるでしょう。完全平等になると格差はゼロです。人間はどうもそのどちらでも納得しないようです。

 そこで、結果到達したのが、100%自由と100%平等を右左において、その間のスペクトラムのどの辺りにその国、その社会の「社会正義」が存在するのかを見極めることが基本という見方でした。
 
 そして「社会正義」を表すのに最も適した指標は「格差」という事になりました。これからもさし当たって、格差問題を軸に、その国、その社会は何を求め、言い換えれば、自由と平等のどんなバランス(ブレンド具合)をみんなが望んでいるかという意識を軸に、論を進めていこうと思っています。

消費税時限的に5%の構想が出てきました

2021年06月16日 16時10分24秒 | 政治
消費税時限的に5%の構想が出てきました
 野党4党が、タイミングを見計らって内閣不信任案を提出し、政権は「粛々と」否決しました。二階幹事長は、菅総裁が、「粛々」と否決せよといったからと言っていました。

 まあそれはどうでもいいのですが、それとタイミングを合わせて、立憲民主党の枝野代表から「消費税を時限的に5%に引き下げる」という提案が出されました。

 来たる総選挙を目指して野党として、「先ずはそれぐらいやらないと国民生活の安定はない」という、政権交代を実現して日本経済を安定・健全化に転換するための、いわばキッカケの政策として、国民が広く望んでいるのは何だろうというところから考えた政策という事でしょう。

 このブログでも、コロナ後の日本経済の自動的な回復(復元)は、当然期待されるところでしょうが、さてそのあと、日本経済を本格的な成長路線に乗せるための、社会的、経済的な政策が必要と考えていることは、前々回に書きました。

 そうした、日本経済の、いわば「やり直し」のために、一体何が必要で何をすべきかの議論は、東京五輪等のごたごたはあるでしょうが、その中で、或いはその背後で、与野党ともに、今回の「消費税暫定5%」発言から始まり、いろいろと進むことになるのではないでしょうか。

 行政は当面することをやるの仕事でしょうが、政治はもっと長い目で、世界と日本、そして国民を見た「中・長期的な視点」で考えることは当然で、特に、今回の総選挙の様な与野党逆転の可能性をはらんだ政局の中では、とりわけ、いかなる経済政策が出てくるのかは、国民の関心の的、選挙の判断の重要な要素でしょう。

 前々回のコロナ後に必要となる経済政策では、一番基本的の問題として「人的資源の弱体化」の問題を指摘しましたが、経済活動というのは人間がやるものですから、人間が確りしなければ上手くいかないのは当然です。

 今、日本人は、挙げてコロナ征圧のためのワクチン接種に精を出していますが、テレビなどの画像を見ていますと、久しぶりに、日本人がみんなで「これを徹底的にやろう」と本気になっているように感じられます。

 やると決めれば徹底的にやるという日本人らしいところが垣間見えて、やっぱり日本人はやる気になればけやるんだなと、なにか安心したような、喜ばしいような気がしています。

 この成果が、東京五輪による国際人流の増加で、帳消しにならない強な対策がきっちり取られることが大事ですが、前のめりに焦っている政府政策の手から水が漏れないようにと願うところです。

 話がそれましたが、日本の人的資源がこのところ弱体化していると感じられる原因は、端的に言えば、政府不信、内閣支持率の低下に象徴されているように思われます。

 政府を信用しないと、国民はなにをやったら良いのかがはっきりしません。当然やる気や本気が出ないのです。

 安倍政権は、国民の間に多くの不信と疑念を残したままで中途半端な終わり方をしています。引き継いだ菅政権は今はワクチンに熱心ですが、就任第一発の、学術会議の任免問題は、今に至る国民にとって何の説明もない謎であり疑問のままです。

 最近では、「不信任案が出れば即座に解散」という言う発言と、不信任案は「粛々と」否決するという国民には理解不能な現実がありました。

 権謀術策と言えばそれまででしょうが、国民は、素直に理解できる政治を望んでいます。こんなことが積み重なって、国民は、政府と真面目に付き合う気を失ってきているのでしょう。

 消費減税から始まって、選挙に向かって色々なことが出てくるでしょうが、国民が本気でやる気を出すような政策提案が、どんどん出て来てほしいものです。

瑠璃二文字とアガパンサス

2021年06月14日 20時08分21秒 | 環境
瑠璃二文字とアガパンサス
 イギリスの南西の突端、コーンウォールでのG7サミットも終わり、コロナワクチンでは国際協力、対中国では厳しい対応と、二様の結論が出て、東京五輪はやることになったという事でしょうか。

 協力と対立を使い分けたりしないで、すべてが協力になるような人類社会はいつ来るのでしょうか。
 コロナと人間が戦うのは仕様がないとしても、人間同士は戦わない地球社会にしたいものです。

 「意地を張らなきゃ楽なのに」などと思いながら、少し薄日が差してきた庭を見ていますと、アガパンサスが咲き出しています。
 アガパンサスは、このブログでは載せたことがありませんが、庭の隅で暑い盛りに咲くルリフタモジ(瑠璃二文字)は何回か載せています。

 瑠璃二文字は小さな花ですが、よく見ると、アガパンサスに似ています。
何時もは、咲く時期が違うので、較べようと思ったこともありませんでしたが、今年は一緒に咲いています。

 という事で写真を撮って比べて見ることにしました。

   アガパンサス


瑠璃二文字

 アガパンサスは、花冠の直径が10㎝ほど、瑠璃二文字は3cmほど、欧米の大柄で派手な花と小柄で楚々として片隅に咲く花という、似ているけれども全く対照的な感じです。

 大体、璃々二文字などという名前は純日本調で、平安時代のニラ(韮)を万葉仮名で書いた事から来ているようです。(注)

 ところでネットで調べてみた結果はアガパンサスは南アフリカ原産、瑠璃二文字はジンバブエ原産ということになっています。そして、共に○○属、××目といった所に共通点を持っています。

 それぞれの原種は共にアフリカで、どのような変化と進化と人工改良を経て今に至っているのかは皆目わかりませんが、いつか世界に広がり、廻り回って、わが家の狭い庭に、揃って咲いているということになります。

 考えてみれば、ホモサピエンスも、30万年ほど前にアフリカで生まれ、10万年ほど前にその一部がアフリカから出て世界に広がったという事のようですから同じようなものかもしれません。

 ならば、人間も花を見習って、世界のどこへ行っても、平和に姸(賢/健)を競い合うように出来ないものかと思う所です。
 注:https://blog.goo.ne.jp/tnlabo/e/27f1a76c207e727105ddefae49ba6adc


 
 

コロナ後、必要になる経済政策を考える

2021年06月13日 20時58分10秒 | 経済
コロナ後、必要になる経済政策を考える
 コーンウォールのG7サミットでは、ワクチンの世界的接種を視野 に、コロナのパンデミックの終息を来年中には完了したいという事のようですが、日本の場合には今年中には何とか目鼻がついてほしい所です。

 いずれにしても、秋までには総選挙があり、新しい政権は、コロナ後を目指して、新たな日本の進むべき道を示さざるを得ないでしょう。

 中でも当面最も関心の高いのは日本経済をどうするかではないでしょう。
 日本経済は、安倍政権の末期から低迷を続け、この1年半ほどは、コロナ禍の中で大変不自由な経済活動、国民生活になって今に至っています。

 国民の中には、コロナの終息を待ちきれずに、コロナ後を先取りするような気配もあり、繁華街など人流が増えている場所も少なくないようです。

 それだけ国民の自由な日常生活への願望が強いのですから、コロナ終息、あるいは集団免疫が有効といった見解が出れば、国民の経済活動も、勿論企業の経済活動も、急速に回復するでしょう。

 しかし、秋の選挙で勝った新しい政権は、その回復で満足するわけにはいかないはずです。典型的には、コロナ対策のために発行した巨大な国債のせいで、国債残高は急増、現政権公約の財政健全化、プライマリーバランスの回復などは、ほとんど先が見えなくなっているのではないでしょうか。

 であってみれば、新しい政権は、コロナ終息を喜ぶ国民に、その先にある日本経済の、あるべき姿を示さなければならないでしょう。

 という事で、恐らくは選挙戦の中で、コロナ禍からの回復に続く、日本経済の新たな成長路線についての論戦は、多分激しくなるでしょう。
国民もそれぞれに、その中で何が必要、何が重要かを、出来れば今の内から考えておかなければならないのではないでしょうか。

 今度の総選挙で、新たな日本経済の成長路線が論戦の主要なテーマの1つとなることを考えれば、大事なことですから、このブログでも種々検討してみたいと思う所です。

 ところでこの所の経験を見れば、アベノミクスの貢献は、先ず、日銀の金融政策を活用して、プラザ合意でアメリカに強いられた円高から漸く脱出した事でしょう。
 すでに当時アメリカは、日本をあそこ迄円高で困らせることはまずいと思っていたのではないでしょうか。
 
 日本はもういい、アメリカにとって、より重要なのは人民元高だと、重要な関心は中国に向いていたのでしょう。

しかし残念ながら、中国は、日本の失敗の経験を十分研究していたので、アメリカの人民元高の要請には全く応じませんでした。そして今日に至っているのです。

 それはともかく、円高是正後のアベノミクスには見るべきものはありませんでした。財政政策は国債累増の壁に阻まれ、規制改革は加計学園問題に矮小化され、国民は少子高齢化で年金問題に象徴される将来不安という巨大な影におびえ、消費は低迷、経済の活性化は、漸くインバウンド(外国人の消費)の盛況に見出すことが出来た程度でした。

 こうした状況にプラスコロナ禍だったわけですから、コロナ後になっても、その先、日本経済を健全な成長軌道に乗せるために必要なことは、全く新規に考えなければならないのでしょう。

 例えば、コロナ禍で見えて来たのは、ワクチン開発で明らかなように、日本の研究開発体制の劣化、国民皆保険の美名の影で、手抜きされる保健政策の現場、はしなくも見えた、学術に対する政府の偏見、といった経済成長の人的基盤、人的インフラの弱体化でした。  
 政治の在り方も含めて、他にも種々の劣化が進行していたように思われます。

 及ばず乍ら、これから、こうした問題も含めて、日本経済社会の本格的活性化に何が必要かといった問題を、折に触れて取り上げてみたいと思っています。