tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

米中会談 大人の関係へ?

2009年07月29日 10時47分21秒 | 国際経済
米中会談 大人の関係へ?
 7月の27日、28日とワシントンで行われた米中会談(米中戦略・経済対話)の記事を見て、何か、世の中の流れが変わってきたような感じを受けました。米中関係を始め、世界の国際関係がこういう形で回り始めればいいなと感じたのは私だけではないと思います。

 これまでの報道では、大方の場合、アメリカが中国に対して 人民元の切り上げを要求し、中国がそれに反発するといったものが多く、これからの米中関係も大変だな、日本のプラザ合意のようなことになったら、中国経済も世界経済も、もちろん日本経済もどうなることか。中国に少し頑張ってもらわないと、といった感じで受け取っていました。

 ところが今回の会談では、アメリカ側からの人民元切り上げ要求は影を潜め、逆に中国側からアメリカの財政健全化への要望が示され、アメリカ側が、着実な個人貯蓄の増加 も含め、財政健全化の計画を説明して、それに応える姿勢を示したと報道されています。
 もちろんアメリカは、今回の経済危機に対して、未曾有の積極財政で対策を打っていますから、早期の財政健全化の方針を示さなければ、これまでの双子の赤字から見ても、アメリカ経済自体の新たな破綻の可能性が大ですから、世界の信用を得るためにも、そういわざるを得ないでしょう。

 大事なのは、アメリカがそういう発言をしたということが世界に報道され、アメリカがある意味で世界に対してそうした責任を果たす意思表示をしたことが世界に明らかになったということでしょう。これは米中間だけの問題ではなく、現在の覇権国家、基軸通貨国が、そうした意思表示をしたのですから、まさに、世界経済の安定へのプラス要因です。

 マスコミは、中国は昨年日本を抜いて米国債保有世界一になったので発言力が増したといった書き方をしていますが、もしそうなら、それまでずっと米国債保有世界一だった日本は何をしていたのかということになります。

 その問題はさておき、今回の米中のやり取りは、米中関係が、1段階上がって、大人の関係になったことを示しているように思われます。もちろん中国は既に自主的に積極的な内需拡大策を打ち、それが世界経済に好影響を与えているといった状況も背景にはあるのでしょう。それにしても、単に自国の都合で要求をぶつけるのではなく、「こうすればお互いにプラスになる」という視点で物事が話し合われるようになったとすれば、これは素晴らしいことでしょう。

 中国が立派になったからか、アメリカの政権が変わったからか、今回の世界経済危機からの学習か、理由はともあれ、こうした方向が、今後も一層本格化することを期待したいと思います。

 







日本経済再活性化の可能性を考える その6

2009年07月25日 14時15分14秒 | 経済
日本経済再活性化の可能性を考える その6
 今回は 7月7日の当ブログで取り上げた日本経済の問題点の2番目、「少子高齢化で人口減少では経済成長は困難という見方を取り上げて見たいと思います。

 確かに、多くの人々が人生の中で大きな生き甲斐と考える「子育て」が経済成長に与える影響は大きいと思います。親は子供が立派に育つことを願い、子供の養育、教育のためには支出も惜しまず、そのために頑張って働きます。これは経済成長への大きな力でしょう。
 
 今は確かに少子化ですが、しかし子育てがなくなるわけではありません。子供の数が少なくなっても、1人の子供により大きな期待をし、支出をするのは、1人っ子政策の中国を見ても、少子化の日本の家庭を見ても共通だと思います。人口減少で経済成長率が多少下がるにしても、大事なのは人口一人当たりの実質経済成長率でしょう

 確かに子育ては、やり甲斐もあり、金もかかる大事業ですが、人間は自分、あるいは自分たちの生活の向上も常に望んでいます。より良い生活を望んでいれば、それは必ず経済成長の要因になるはずです。

  高齢化については、生活向上への欲求が弱くなるという面と介護のコストがかかるという面の2つがあります。生活向上への欲求の弱まりは、生物としての自然でしょうが、人間としての知的欲求は無限です。これに注目した経済活動も種々始まっています。

  高齢者の介護は、精神的にも経済的にも大きな負担を強います。
 子育てのために頑張ろうと考えるのは動物としての本能ですが、親の介護の場合はより人間的な感情や理性、人間としての知性によるものでしょう。

 したがって高齢者介護は、本人の若いときの蓄積と、後世代の生産活動で合理的、効率的に支えなければなりません。これには社会全体として、負担についての計画とシステムが必要です。年金、医療、介護、当然社会保障のための移転所得は増え、国民負担率も増えます。これは確り経済の成長計画の中に組み込むべきでしょう。 北欧などの経験は参考になります。
 
 国民の合意を得てその組み込みが出来れば、つまり、国民が前向きにその負担をする覚悟をすれば、それは国民経済の活性化要因につながるでしょう。
 年金、医療、介護、それぞれに多くの問題を抱えています。しかし、共有すべき目標が示されず、ゼロサム経済の中で分捕り合戦になる現状は最悪です。


日食 都下国分寺でも

2009年07月22日 23時56分44秒 | 科学技術
日食 都下国分寺でも
 今日、2009年7月22日は、46年ぶりに日本で皆既日食が見られる日です。中学生の頃、天文少年だったので、皆既日食の見られる所までは行けないにしても、部分食でも4分の3欠けるというので、楽しみにしていました。

 TVでは、「ガラスにすすをつけたもので見たりしないでください」などといっていますが、中学生の夏休みに、毎日太陽黒点の観測をしてその移動を記録した経験もありますので、どのくらい真っ黒に蝋燭ですすをつければいいかは良く解っていました。

 ところが問題は、ガラスの破片がないことです。ガラスかと思って良く見ると、ほとんどがプラスチックです。家庭には窓ガラス以外、ほとんどガラスのないことは、改めて驚きでした。プラスチック製品の進歩の結果ということでしょう。

 そこで、ダンボールで暗箱を作り、穴を開けて老眼鏡のレンズ(これもプラスチック)を貼り付け、針金のハンガーを曲げて薄紙を張り、移動式スクリーンにして、これで用意万端、後は天気次第ということで昨夜はゆっくり寝ました。

 ところが今朝起きてみてがっかり。天気は雨のち曇り。日食はTVで、ということになりなした。屋久島も雨、悪石島も雨、硫黄島とその近くまで行った船上からの素晴らしい映像に引き込まれているうちに、何となく空が明るくなってきたので、念のためにデジカメを持ってベランダへ出たところ、白く輝く雲が見えました。そして次の瞬間、薄雲のベールの向こうにくっきりと欠けた太陽が!!!

 急いで3回シャッターを切りましが、そのうちの2枚、「明るく光る雲」と「くっきりと欠けた太陽」、を下に添付します。それにしても、こんな小さなデジカメで、決定的瞬間が残せるのですから、今の日本の科学技術は凄い。
 (カメラ:Nikon COOLPIX P5100 4倍ズーム、後はパソコンでトリミング、引き伸ばし。午前11:38と11:39)



金融工学の欺瞞

2009年07月20日 10時44分49秒 | 経済
金融工学の欺瞞
 日本でも、かつてバブルの時代に「理工系の製造業離れ」がいわれました。当時は、何か勿体無い、人材の無駄遣いではないかといった印象で語られていたものです。

 今になってみれば、本来、技術革新に関わり、モノづくりという実体経済の世界でその能力を発揮し、より豊かで快適な社会の創造に参加して欲しいと期待されている人たちが、社会の富(GDP、付加価値)の「生産」ではなく、 、その「移転」を業とする分野に就職することは、社会にとって勿体無いことだとする意見が多いでしょう。

 アメリカ発の世界金融危機が現実に起こり、その背後にあったのがいわゆる「金融工学」だということが広く知れ渡った今、こうしたキャリア形成、社会における人材配置の問題点も、多くの人々の目に明らかになってきました。

 NHKの番組「マネー資本主義」でも金融工学をテーマに取り上げていましたが、金融工学でいくら複雑な確率論や計算式を駆使してみても、経済活動におけるリスクはゼロになるものではありません。
 実は、金融工学の駆使によって、原因と結果の関係がわかりにくくなればなるほど、人間はリスクに気付くのが遅くなり、リスクがどうしようもない程巨大になってはじめて気が付くという最悪の状況をもたらすのが現実に起こったことなのです。

 この現実を理解した人(頭脳)は、金融工学の世界から去り、相変わらずリスクの分散と極小化の熱に浮かされている人たちは、今でも巨大災害のリスクの低減などを考えて、投機資金を集めているとのことですが、
① 巨大災害は常に違った形で起きるので、過去のデータを集積しても、将来のリスクを推計できるとは限らない。
② 巨大災害のリスクは、投機の失敗で負担(注)するものではなく、災害を免れた人の善意で負担すべきもの。
③ 今回の巨大損失の穴埋めを新しい分野の金融商品で考えているに過ぎない。
など、計算式を駆使しなくても、その問題点がもう、多くの人に、解ってしまっているのではないでしょうか。

 折角、天が与えてくれた優れた頭脳ですから、本当に世のため人のたまに役立つ使い方をするようなキャリア形成が望まれるところです。

   (注)金融工学の世界はゼロサムですから、災害の損失を金融工学で埋め合わせた人がいれば、同じ額を金融工学で損をして、結果的にその人が災害の損失を負担したということになる。


日本経済再活性化の可能性を考える その5

2009年07月15日 15時52分30秒 | 経済
日本経済再活性化の可能性を考える その5
 7月2日付のこのブログ「日本経済再活性化の可能性を考える その3」で、よく言われる日本経済の閉塞化の原因として、「成熟段階に達してしまった」「少子高齢化・人口減少問題」「輸出依存の限界」の3つを主なものとして挙げました。
 今回はこれらの中で、3つ目の輸出依存経済の限界について考えて見たいと思います。

 問題はいくつかあると思いますが、気が付くものとして、
  ①対米輸出重視の問題、②何のための輸出だったのか、③成果の活用の失敗
という3つの問題を取り上げて見たいと思います。

 先ず対米輸出重視ですが、これは早急に見直しが必要でしょう。確かにアメリカは世界最大の市場でしたし、今後も大きな市場でしょう。しかし 規模の見直しは必須だと思います。過剰消費で膨らんでいた分は貯蓄率の上昇で凋むでしょう。アメリカ経済健全化の過程です。
 アメリカ経済が立ち直ってくれることは、世界経済にとって大事です。しかし健全になって立ち直るのでなければ意味はありません。従来のような双子の赤字の下での不健全なアメリカのままの回復を期待するようなことは避けるべきでしょう。
 日本にとって、アメリカ以外のより健全な成長市場の更なる積極的開拓や育成に一層の注力をすることがますます大事になるでしょう。

 何のための輸出だったのかについては、無資源、加工貿易型日本経済の場合、目標は歴然でしょう。日本にとって資源は金で買うよりないのです。
 だからといって、輸出を成長の主柱に据えて、増えれば増えるほどいいように勘違いをしてはいけないと思います。多少の余裕を持って資源確保を可能にすることが出来れば・・・、ぐらいの目標を持つべきでしょう。日本経済の主目的は国民の生活の改善にあるのですから。これは次との関連もあります。

 第3は輸出主導で得た外貨の活用の問題です。日本経済の「経常黒字」の別の面である日本経済のおける「貯蓄」の活用という意味では、日本はどうも適切な政策を採ってきませんでした。1500兆円といわれる個人貯蓄の累積が、国民へのまともな利息の還元もなく 、不胎化されているように感じられます。
 そのカネで他人が儲けた「円キャリ」などは無策の象徴ではないでしょうか。
 
 この辺りをきちんと整理し、政策を立てていけば、日本経済成長の可能性はいくらでも出てくるように思います。


年金運用損9.7兆円

2009年07月12日 16時06分42秒 | 経済
年金運用損9.7兆円
 昨年7月に年金運用損5.8兆円 と書きました。世界金融危機とはいえ、今年もこんな表題で書かなければならないのは情けない話です。暴落前に計上していた累積の儲けはほとんど底をついたようです。

 昨年度1年間で、外国株式が55パーセント目減りし、国内株式が35パーセント目減り、円高で外国債券も7パーセント近い目減り、国内債券だけが1.35パーセントの利息がついたそうです。

 「年金積立金管理運用独立行政法人」というところが、年金積立金約120兆円のうち90兆円を市場運用した結果がこうなったわけですが、この法人のやり方が下手なのか、運用委託先の金融機関が下手なのか、上手下手などという問題ではなくて、アメリカが、サブプライムローン入り証券などを売り出し、誰も予想できないうちに、結局世界金融恐慌を引き起こしてしまったのだから、損が出ても仕方がないというのか、意見はいろいろありましょう。
 
 確かに世界中の金融の専門機関が端から損を出しているのですから、「マネーゲームに精を出していたら」必ず損したということなのでしょう。
 しかしこれも時価評価ですから、このところの株価上昇で多少取り戻しているのでしょう。

 株式を底値で売って、確定利付きに乗り換えるのは馬鹿げている。ある程度は戻るのだから売らないで持っていたほうがいい、というようなことに、多分、今もなっているのでしょう。そうすれば、来年の7月には、何兆円儲けたという記事を書いてもらえると考えているのかもしれません。

 本当の問題は、国の確定債務である年金の原資を、 そんな運用をしていて本当にまともなのか、ということでしょう。日本の高齢者を支えるのは、次世代、次次世代の日本の現役世代だといっている政府です。

 政府は04年度以降の平均運用利回りを4.1パーセントと設定しているそうですが、日本経済を活性化して、日本経済の中で安定運用してその程度の利回りは十分確保できるような経済状況の実現を考えるほうが、基本的な問題解決策として余程健全だと思うのですが、やっぱり政府はマネーゲームで、楽して儲けたいという邪念を持っているのでしょうか。


日本経済再活性化の可能性を考える その4

2009年07月10日 10時52分51秒 | インポート
日本経済再活性化の可能性を考える その4
 前回、日本経済の活性化の阻害要因として指摘されている主要な問題点を見ました。考えてみれば、まさにそうした要因が重なって、現状の日本経済の冴えない状態が発生しているということでしょう。
 そして、当然のこととして、このまま推移していけば、こうした状況は続くのでしょう。

 しかし国民の多くは、現状に安住しつつも、「もう少し何とかならないか」と考えていることは事実でしょう。とはいえそのエネルギーレベルはあまり高くなく、どちらかというと、政府や地方自治体などが何かやってくれないか、という待ちの姿勢が目立ち、自分の生活の改善は自分の力で、といった、戦後や高度成長期のような気概はあまり感じられません。

 ここはひとつ、日本人が「やっぱり自分で動かなければダメなのか」と気が付いて、自分で何かを始める気にさせる、そういう雰囲気を作っていくといった作業が必要になるのでしょう。

 馬や牛に河を渡らせようとしても、霧や霞で向こう岸が見えない時は大変難しいといいます。向こう岸が見えてくると、安心して渡る気になるのだそうです。
 人間も所詮は動物の仲間ですから、本能にしてからがそうでしょうし、頭で考えて行動する場合にはますます「行き着く先がどんなところか」見えてこないと動きにくいのでしょう。

 こう考えてみますと、今、日本に足りないのは、10年後、20年後に、われわれはどんな社会に住んでいるかという具体的なイメージということになりそうです。
 CO2 の排出の15%削減などという目標は出てきますが、そのとき日本の電力供給の仕組みはどうなっているのか、交通・輸送手段の体系はどうなっているのか、住宅のエネルギー・システムはどうなっているのか、現状ではすべて「行き当たりばったり」です。

 企業経営で言えば、これは「成り行き経営」で、企業経営としては最悪です。国でも企業でも、経営は基本的に「計画経営」でなくてはなりません。計画がなければ組織は動かないというのは、経営の基本です。ただし計画は必ず狂います。計画は狂ったら修正していけばいいのです。

 戦後の復興の時代、高度成長路線を突き進んだ時代、日本政府は、傾斜生産方式から所得倍増計画まで、これを一生懸命やってきましたよね。


日本経済再活性化の可能性を考える その3

2009年07月07日 09時59分04秒 | 経済
日本経済再活性化の可能性を考える その3
 日本経済の活性化の可能性を考える中で、「当面可能性がない」というケースを考えてみることも役に立つかもしれません。
 可能性がないとすれば、いかなる原因で可能性がなくなっているのかということになりますが、いろいろな原因が指摘されています。

「日本経済が成熟段階に到達してしまったから」
 戦後、先進国に追いつけ追い越せといってきた日本ですが、先進国に追いついてしまった今、これ以上どこに向かって進めばいいのか解らなくなっているという意見も多いようです。「海図のない航海」などといわれて、行く先がよく解らないのでは、進み様がないといいう見方です。
 いずれにしても成熟段階ですから、大方の日本人は現状でほぼ充足していて、将来不安などはあるにしても、それでは今何か思い切ってやるかというほど切迫してはいない。将来のことは政府の今後の政策に期待して待つといった待ちの姿勢が大勢。

「少子高齢化、人口減少では経済成長は期待できない」
 世の親が一生懸命働くのは、矢張り子育てに人間としての生き甲斐を感じるからで、子供の数が少なくなれば、その必要性も少なくなり、高齢者が多くなれば、今以上の生活を望むエネルギーも次第に小さくなり、人口が全体として減少するのだから、市場は縮小、1人当たりの生活水準が同じでも、GDPは人口減少分だけマイナスになって当然。

「輸出主導経済の限界が来ている」
 日本が不況でも、外国が好況であれば日本経済は輸出を中心に成長が可能です。しかし今回の不況は、アメリカ発の金融パニックによる「世界同時不況」で、世界最大の市場であるアメリカが100年に一度の不況といわれる深刻な状態です。しかも世界同時不況の深刻さの中で、日本はまだ良いほう、ということになると、輸出で生きてきた日本経済は閉塞状態で、輸出は当分伸びないので、成長の牽引力がない。

 そのほか、政治のリーダーシップの欠如、勤勉だった日本人の心や行動パターンの変化、依存心の増大と自己責任感覚の希薄化、目標意識を喪失した若者の増大、少子高齢化を促進する非婚化や結婚年齢の上昇(合計特殊出生率の低迷)などなどいろいろなことが指摘されています。

 ここまで来ると、日本経済の活性化は、やっぱり難しいのかな、という気になってしまうかもしれません。しかし、それで仕方がないのでしょうか。


日本経済再活性化の可能性を考える その2

2009年07月05日 09時13分17秒 | インポート
日本経済再活性化の可能性を考える その2
 一国の経済でも、それぞれの家庭でも、あるいは全くの個人レベルでも基本的は同じでしょうが、生活水準を上げていこうと思ったら、何らかのエネルギーが必要です。それは社会や家庭、個人の肉体・精神の健康とそれから生まれる意欲、エネルギーです。

 その背後には、人間本来の欲求があるということなのでしょう。このあたりは、マズローの欲求5段階説がわかりやすく説明してくれています。

 A.H.マズローは、欲求の5段階説(Motivation and Personality: Harper & Row 1954、 「人間性の心理学」産能大)を唱えて有名になりましたが、人間の欲求の基底には生存欲求(低次の欲求)があり、これは①生理的欲求、②安全欲求で、さらに人間としての欲求(高次の欲求)③社会的欲求(愛)、④承認の欲求(自尊)、そして⑤自己実現欲求と順次、高次なものになっていくといいう説明は図式的には解り易いものです。

 経済成長(より良い生活)を求める原動力になっているのは、基本的には人間の欲求だという説明になるわけで、先ず生きるために、そして人間的に、社会的により高いものを目指すという欲求が動機になって、人間を動かし、物質的にも精神的にもより高次な生活を望むことになるということでしょう。

 しかし、あまり精神的なほうに傾きますと、無欲な坊さんのようになって、経済成長とは縁がなくなりますから、経済成長には矢張り娑婆っ気が必要でしょう。

 「もう日本は、かなり高次な欲求まで満足されるようになっているから、そんなに強い欲求がないんだよ。だから経済成長もしないんじゃないの」というご意見はよくお聞きします。
「パソコンだ携帯だ、デジタルネットワークだとあんまり世の中進むと、ついていけないよ。そんなもの使わなくても、生活出来てるしね」という方も居られます。

 しかし、政府の掲げる目標が「安心、安全、安定」などと聞きますと、「ナンだ、日本はまだ安全欲求のレベルか」などということにもなります。
欲求というのは、極めて個人的、また相対的なものなのかもしれません。


日本経済再活性化の可能性を考える その1

2009年07月01日 10時03分50秒 | 経済
日本経済再活性化の可能性を考える その1
 このところ何ヶ月かのこの欄で、日本経済の特徴的な面について、良い点、悪い点いろいろ見てきましたが、その中で見えてきたのは、先ず第一に、日本は人間も企業もそれぞれに真面目に一生懸命やっていて、それなりにきちんと成果を上げてきているということです。
いろいろ問題はあるにしても、日本経済は、失われた10年をコストダウンで克服し、いま世界に求められている技術を着実に積み上げて来ています。

  しかし、残念ながら、それを全体としてどう纏めて生かしていくかというビジョンや政策が定まらないためか、個々の成果が全体の成果につながらず、結果的に自信を喪失し、経済も社会も思うようにいかない中でますます落ち込んでいるといった印象です。

 Leader が( Readerに堕していて)国民に対して、「そうだ、われわれなら出来るはずだ。一つ頑張ってやってみよう。」という気になるような、説得力のあるビジョンや政策を示せないといった状態はまことに残念です。
 例を挙げれば、太陽光発電や蓄電技術など、世界トップの技術を開発しながら、その普及では、諸外国にどんどん 追い越されてしまうとか、世界一の巨額な民間貯蓄がありながら、まともな金利もつかず 宝の持ち腐れになってしまっているとかいった問題です。

 また、国際的な立場での対応がどうも苦手で、 プラザ合意のような失敗をしたり、バブルを招くような金融政策をしてしまったり、無闇な規制撤廃を受け入れて、後から混乱を招いたり、今回の金融危機でも受け身に終始してマネーキャピタリズム批判の十分な主張が出来ない、などなど、後から国民が苦労することが多くなっているようです。

 失われた10年もそうですが、こうした状況があまり続くと、国民は努力が報われず、一層落ち込んで、やる気をなくしたり、一方では独裁的リーダーシップ待望論などが出てきたりします。

 優秀な人間でも、失敗を叱られてばかりいるとだんだん自信を喪失し、能力を発揮できなくなってしまうことは、ゴルフのトレーニングでも、職場の教育訓練でもよく指摘されることですが、優れた資質を持つ日本人が、落ち込まずに、ますますその能力を発揮できるような明日のために何をすべきか、先ず考えたいものです。