tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

自助、共助、公助、の問題を考える(2)

2020年10月30日 23時04分52秒 | 文化社会
「自助、共助、公助」と「自由⇔平等」
 前回は、「自助」というのは他人に強制するのではなくまず自分に言うべきものだろうとう趣旨の事を書きました。
 日本人は、もともと自助の精神に富んだ国民ではないかという点も指摘しました。

 菅政権が何を目指しているのか解りませんが、トランプさんなどを見て、余り変なこと、をやると国が乱れることが心配で、「自助、共助、公助」の問題をもう少し丁寧に見ておきたいと思います。

 産業革命がおこり、資本主義の概念が生まれました。
初期の資本主義の段階では、古典的自由主義が一般的だったのでしょう。
 レッセフェール(自由な経済活動)で経済は活性化し、豊かになるという図式です。しかし結果は資本を持ったもの(資本家)は強く、資本を持たないものは労働者となるという階層社会(格差社会)が現出することになったようです。

 当時はそうした不平等に制約を加えるのは「道徳」という個人単位のものだったのではないでしょうか。アダム・スミスが「道徳情操論」を書き、渋沢栄一が「論語と算盤」と言っています。

 しかし、現実の社会では、ブルジョワ、プロレタリアートといった人間の階層化、差別化、格差社会化が進行しました。

 自由が優先されすぎ、不平等社会、格差社会化が進む中で、それは良くない、行き過ぎた自由を規制してより平等な社会を実現すべきと考える社会主義思想、共産主義思想が生まれ、革命が起きたり(ロシア革命)、自由主義の社会主義化も始まることになりました。

 これは二元論的に言えば、「自由と平等」のせめぎあいで、その間のどのあたりが、「社会正義」なのかを人類は試行錯誤の中で探しつつ今に至っているという事でしょう。

 「自助、共助、公助」の議論に戻れば、自助を強調しすぎると、不平等な格差社会になり、公助を重視しすぎると、国家統制の全体主義、独裁制に近づくわけで、人類が希求する「社会正義」実現のためには、自助、共助、公助の如何なるバランスが良いかを探るのが政治の役割という事になるのではないでしょうか。

 余計なことを付け加えれば、共助は家族、親せきという範囲や地域社会(地方自治組織)という範囲を含むようで、自助と公助に分解できるのかもしれません。

 ところで、自助と公助のどの程度のバランスが良いかというのは、それぞれの国の社会文化的背景や、経済状態などによって変化します。

 アメリカを例にとれば、かつてのように発展期で余裕のあるアメリカでは、アメリカン・ドリームという言葉が示すように、誰でも頑張ればミリオネアと言った雰囲気で自助重視、公助は最小限といった雰囲気がありましたが、今は、アメリカン・ドリームは限られた人の話、公助の充実は必要という世論が大きくなりつつあります。

 実は公助と言っても、実は税金と社会保険料といった形で、国民が負担するのが基本です。これは統計的には、 国民負担率といった形で、世界各国それぞれに示されています。
 主要国ではアメリカが最も低く、北欧諸国が高く、ヨーロッパ主要国がそれに次ぎ、日本はアメリカとの中間です。

 菅総理の自助重視といった発言は、具体的に何を意図しているのかまだ解りませんが、いずれは具体的に国民負担率をめぐる議論になってくるのでしょう。
 どんな具体論になって出て来るのか、十分注意する必要がありそうな気もします。