tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

名ばかり管理職

2008年07月29日 10時57分15秒 | 労働
名ばかり管理職
 マスコミは、ネーミングが巧いということなのでしょうが、いやな言葉ですね。
昔から、「なんにも専務」などという、なんにも仕事をしていないように見える役員を揶揄した言葉はありましたが、名ばかり管理職はその対極でしょう。

 「なんにも専務」の場合はぶらぶらしていても、会社の仕事は回っていきますが、「名ばかり管理職」の場合は、身を粉にして働いても、仕事に追いついていかないわけです。

 管理職というのは本来、直接の仕事は部下がして、自分は管理をしていれば良いというものですが、長期不況で大企業の倒産や管理職のリストラが始まった頃から、「ハンコだけ捺すゼネラリスト管理職に再就職の道はない」などといわれるようになり、「管理職も専門分野を持つべきだ」と指摘され、「一専多能」 (ひとつ分野での専門性と他分野でのそれなりの能力) がいわれ、「プレイング・マネージャー」がプロ野球以外でも重宝されるようになり、この辺りから少しずつおかしくなって、とうとうプレイングばかりの「名ばかり管理職」にまで行き着いてしまった・・・、そんな感じがしてなりません。

 かつて、日本の第一線監督者は、世界でもきわめて優れているが、ホワイトカラー管理職は、きわめて生産性が低い、などといわれました。その答えとして、日本企業が、管理職に現場の仕事もカケモチさせる方向を選んだとすれば、それは基本的に誤りのようです。

 正解は、管理職が生産性の高い人事管理が出来るよう、教育し、訓練し、育成することだったはずです。管理職には、企業の方針を部下によく理解させ、部下がその気になって働くようにするという基本的な役割があり、そうした部下の働きによって、自分の給料の多くがが出るわけです。

 教育訓練の分野では、管理職こそが企業発展の鍵、というのは常識です。
 日本が 国際為替戦略に敗れて長期不況に陥ってから、まさに「貧すれば鈍す」といった形で、日本の人事管理は、かつての理念を失ってきました。これは日本の経営者自身が、企業本来の理念を見失ってきたことの結果なのでしょうか。

 「企業を育てるには、まず人を育てよ」、日本的経営の中心は「人間中心の経営」、といった、日本の風土と文化に根ざす経営を、日本の経営者が、もう一度真剣に学び直すことが必要なようです。財界団体の実践的行動も期待されます。

 本当の問題は、企業における管理職の意義と役割を、改めて検討することでしょう。残業代をつければ、一件落着、などと考えていただきたくない問題ではないでしょうか。

生産性向上の手段 その2

2008年07月26日 13時17分04秒 | 経営
生産性向上の手段 その2
 今年の5月に「生産性向上の手段 」というタイトルで、高度な設備を開発して使えば、汗水たらさなくても生産性は無限に上がるというメカニズムを説明させていただきました。私自身、これが生産性向上の最も基本的な問題だと思っています。

 しかし生産性にはもうひとつの側面があります。それは、その設備を使う人間のサイドの問題です。人間のサイドの問題としては、大きく分けて2つの点
 ①人間の能力の問題
 ②人間の気持ちの問題
があるように思います。

 ①の能力の問題は、自転車より軽トラを使えば生産性は格段に上がるが、運転できなければどうにもならないとか、最新のソフトが入った高性能のPCを入れても、使いこなせなければ生産性は上がらないといった状態のことです。
 ②の気持ちの問題というのは、軽トラがよく走るので、つい、配達の途中で寄り道をして桜や紅葉を見に行ってしまうとか、パソコンの調子がいいので、ついインターネットで余計なものを楽しんでしまって効率が上がらないといった状態でしょう。

 ①の問題の解決策は、「教育訓練」しかありません。設備の高度化は、必ずそれを使いこなすための教育訓練と平行しなければならないのですが、日本企業は、失われた10年の中で、教育訓練費を削りに削ったり、非正規雇用に任せたりしてきましたから、その咎めが出て、現場力が落ちて、単純ミスで大きなトラブルが起こり、生産性どころではないといったケースも出ます。

 ②の問題は、基本的には、企業内の人事管理の問題です。会社の経営理念、トップのリーダーシップが適切に伝達され、従業員に理解されているかが基本ですが、その鍵を握るのは部長、課長といった中間管理職です。社員が確り仕事をしようという気になるかどうかに最も影響を与えるのは「直属上司」の態度のようです。

 「あんな課長の下じゃ、仕事なんかやる気がしないよ」という部下の生産性は、「今度の課長はいいよ、仕事が楽しくなってきた」という部下の生産性の「多分5分の1」でしょう、などとよく言われます。

 人間の脳はホモサピエンスになってから進化していません。だから、論語や、聖書、般若心経がいつまでも読まれるのでしょう。しかし脳の活動は「動機付け」によって大きく変わります。
 この点で、管理職の生産性向上に対する大きな役割が出てきます。またこれは、管理職教育が重要であることの大きな理由でもあります。
 
 世界インフレの中で、逆境に負けず、日本経済のバイタリティーをさらに強化していくためにも、生産性向上における人間の側面にも、十分注意を払いたいものです。

 

原油価格の反落

2008年07月24日 12時15分04秒 | 経済
原油価格の反落
 原油価格が1バレル120ドル台まで反落し、世界各国ではインフレ懸念が多少後退し、経済運営がやりやすくなったという安心感も出たようです。もちろん原油価格は、今日では実需よりも投機資金次第で動くようですから、いつまた、何をきっかけに上昇するか、予断を許さないのでしょうが、原油価格の値下がりで、原油に向かっていた投機資金が、株式市場に返ってきたといった解説もあったりして、金融不安のアメリカでも株価が上昇したりしました。

 アメリカの株価の上昇は、金融機関株が主導していたように、アメリカ政府の金融不安払拭のための遮二無二の努力もあってのことでしょうが、お蔭様で日本の株価もいくらか値を戻し、ほっとしている人もあるのではないでしょうか。

 ところで、投機資金流入で原油価格が上昇すると、産油国は別として、世界中が迷惑するのですが、株価が上昇すると、大体みんな喜びます。これは何故でしょうか。

 かつて日本ではバブルの時に、株も上がりましたが投機の中心は土地でした。当時、「土地を投機の対象にするな」といった意見がありましたが、土地が上がるとサラリーマンが家が持てなくなるというのが大きな理由でした。人間は土地の上に住まなければなりませんから、これは困ります。
 今回の原油の場合もそうですが、生活に必要なものを投機の対象にされると、人々の毎日の生活に影響するので、みんなが迷惑することになります。

 原油高騰が波及した農産物の価格高騰の場合はさらに大変です。金やプラチナでも、装飾品の昔はいざ知らず、今日では、エレクトロニクスや環境関連の触媒などのハイテク製品の原材料という意味で、ケータイやパソコン、クルマなどのコスト上昇となって、生活に影響がでてきます。

 自由経済ですからどうにもならないというのが「今日の」大方の意見でしょうが、「50年、100年後」、世界中の投機資金がもっともっと増えると、人間の知恵も経済社会制度ももっと進歩して、「投機は実生活に関係のないところでやれ」といった経済ルールが出来ているかもしれませんね。出来れば今からやってほしいですが。

地球収奪の愚

2008年07月20日 12時44分32秒 | 環境
地球収奪の愚
 庭の隅に山椒の木が生えてきました。緑のぎざぎざな葉をつけた枝も伸びて、丈が30センチぐらいになったでしょうか、アゲハチョウが卵を生みつけ、茶色の幼虫が孵りました。

 幼虫は、山椒の葉をもりもり食べ、脱皮して緑色になってきて、少し見ないうちに、山椒の葉は幼虫に食べ尽くされてきましたが、枝先の芽のところは残っていて、幼虫は芽が葉に育つのを待っているようでした。しかし、空腹のせいか幼虫はとうとう芽も食べつくし、山椒の木は丸坊主になって、幼虫はいなくなっていました。どこかで死んでしまったのでしょうか。

 庭の片隅の小さな事件を見ながら、私は、最近の人間と地球の問題を考えてしまいました。
 地球上に原始生命体が発生してから、長い長い時間をかけて、生態系が進化し、今その頂点に人類(ホモサピエンス)がいます。そして人類はその優越性の故に、次第に驕り高ぶり、地球上の生態系は自分たちのために存在すると考えるようになり、地球、自然、生態系の勝手な収奪を始めてしまったようです。地球上の生態系は、今、次第に衰え始めて いることは明らかです。

 かつて人間は、太陽を父とし、地球を母とし自然と共存していたのでしょう。これは生物としてきわめてまともな認識です。無限のエネルギーを無償でくれる太陽、そのエネルギーを葉緑素の働きを中心に生態系の循環に展開、発展させる舞台が地球です。人間はその恩恵の中でしか生命を維持できないのでしょう。月や火星を改造して、どれだけのコストで何人住めるか計算してみた人がいるでしょうか。

 自分の生命の源である地球を収奪することは、自らを破滅に追いやることでしょう。今こそ、地球上の動物を、植物を、鉱物を人間のほしいままにあさり、地球を収奪するのではなく、地球に、自分たちを育ててくれたことへの恩返しを考える時でしょう。人類がより豊かな生態系の実現と発展に協力すれば、地球はより豊かな恵みを人類にくれるはずです。

 人間と自然を対立させ、自然や生態系は、人間が利用するために存在するのだ、などというのではなく、人間は自然や生態系の一部であり、まさにその「お陰様で」人間自体が存在し得ているのだということを、家庭教育 や基礎教育や、宗教の中で、きっちりと教えていくことが本当に重要なのではないでしょうか。

 

原油高騰への対処

2008年07月15日 10時33分17秒 | 社会
原油高騰への対処
 原油高騰、輸入食料価格上昇の影響がいろいろなところに出ています。

 一番わかりやすいのはガソリンスタンドの料金表示板です。レギュラーガソリンが180円台にまでなりましたが、タクシーや運輸業者はそれなりの省エネ・合理化・価格政策で我慢の対応をし、ドライバーは多様な自衛策を取りながら、何とか状況に適応しようと努力しています。

 とうもろこしや大豆、小麦の値上がりに対する対応も基本的には同様です。漁業団体は一斉休業を決めるなど、ある意味では労働組合の時限ストのような対応もみられますが、これも誰に対してと言うものではなく、世論に対して業界の窮状の理解を求めると言ったものでしょう。

 第1次オイルショックの時に起こった、洗剤やトイレットペーパーのパニックのようなことは起こらず、日本人は冷静に適切な対応をしていると思います。これも、 輸入インフレは、輸入品が値上がりした分だけ、日本のGDPが輸入先の国に移転したということですから、日本人全体が被害者で、被害者どうしで争ってみても何も改善されないことが国民に理解されていて、他方で、徹底した情報開示が進み、便乗値上げや、値上がり待ちの売り惜しみなどが行われていないと消費者が解っていることの結果でしょう。

 感情的な憤懣を無益な国内の紛争やトラブルに転嫁している例が、先進国の中にも往々見られるのに比べれば、日本人の冷静さ、知識、行動のレベルの高さが知られます。

 根本的な解決は、化石燃料依存の世界のエネルギー事情と、投機マネーの行き過ぎた横行でしょう。こうした問題解決のための世界の政治的舞台では全く力のない日本ですが、化石燃料依存脱却のための技術開発では、いつの日か、日本が世界をあっと言わせることを期待したいものです。


日雇い派遣問題の本質

2008年07月12日 21時56分34秒 | 社会
日雇い派遣問題の本質
 日雇い派遣の禁止問題が政策の場で取り上げられてから、新聞や雑誌の特集で、いわゆる底辺労働者に関する記事が多くなったようです。深刻な社会問題につながる多くの事例なども取り上げられています。

 確かに対策が求められる種々問題が存在することは事実でしょう。しかし、統計調査では、日雇い派遣でも過半数の人たちはそれを便利なものとし、適切に利用しているのも事実のようです。

 短期派遣(ほとんどは1日単位)でも、現状でいいという人は、男性で半数近く、女性では過半数です(厚労省「格差社会と企業日雇い派遣労働者の実態に関する調査」)。日雇い派遣を一律に禁止したら、不便を感じる人のほうが多いということにもなります。企業も大変不便を感じるでしょうから禁止反対を表明しているのでしょう。当然代替措置をどうするかという問題も出てきます。

 だからと言って今のままで良いということでは、もちろん、ないでしょう。本来、均質とバランスを大事にしてきた日本社会が、格差社会に堕落することは防がなければなりません。

 どう考えても、この問題は、氷山の一角でしょう。水面下には、学校教育から長期不況の現実、企業収益の低迷、賃金制度( 正社員の賃金問題を含む)、雇用制度、さらには日本的経営の根幹である人間重視の経営哲学に至るまで、広範な原因を持つ、根の深い問題で、そのひとつの表れが日雇い派遣問題ということでしょうから、単に日雇い派遣を禁止するとか、最低賃金を大幅に引き上げましょうとかいった小手先の対応で解決できる問題ではないようです。もっともっと本質的なところに戻って、広く深く論議をする問題でしょう。

 戦後の混乱期から、高度成長の中で植木等がスーダラ節をうたっていた時代、そしてジャパンアズナンバーワンの時代にかけて、日本は、労使協力して、格差の少ない社会の実現を目指してきました。欧米の常識では全く考えられない制度、ホワイトカラーとブルーカラーを「社員」に一本化したのも経営側の提唱によるものでしたし、労組も格差の縮小に熱心でした。そして現実に、一億総中流という意識を生み、所得分配の均質さを示すジニ係数は世界で2番目と言われました。

 それが「失われた10年」の中で、大きく変質し、格差や憎しみ、争い、個別紛争の増大、そして他方では他人への無関心、さらに無差別殺人まで多発する日本になってしまったのです。

 問題は容易ではありません。日本の政府、労使は、どこまで問題を本質的に考えようとしているのでしょうか。当面を糊塗する弥縫策でない本質的な政策への真剣な取り組みをいつ始めるのでしょか。手遅れは許されないように思います。

サミットの効用

2008年07月09日 21時04分25秒 | 社会
サミットの効用
 世界から期待された(?)洞爺湖サミットも終わりました。
 先進主要8カ国の首脳と、環境問題が主要議題ということで、中国、インドなど新興主要8カ国の首脳も洞爺湖畔に参集し。議論の結果、42年先の2050年に温室効果ガスを半減するといった長期目標についての合意には何とか漕ぎつけたようです。

 環境問題は、人類の未来に直接影響する問題ですから、当然、最も深刻な問題です。しかしそれ以外にも、当面の世界経済に大きな暗雲をもたらしている原油価格の高騰の問題、その問題の背後にある、世界の金融市場を我が物顔に撹乱する投機マネーの問題など、主要8カ国の首脳が集まったら、当然論議しなければならない問題ではないかと思われる問題があるのですが、予想通り素通りされています。

 足掛け3日で論議できる問題は限られているよ、という見方もあるでしょう。しかしその準備には膨大なマン・アワーが費やされているのですから、文字通りサミット(頂上)で、いわば、氷山の一角がこの3日間であっても、水面下の巨大な部分で、何らかの下準備ぐらいは、「やろうと思えば」出来るはずです。

 日本人は真面目すぎるのでしょうか、世界の主要国のトップが集まるサミットなら、当然、世界全体のことを本気になって考える会議だと思うのかもしれませんが、まだまだ自分の国の都合を他の国にも認めさせる場だと考えている国も少なくない様に感じます。だから、結局は、実害のないことについては合意しますが、直接の利害に関わることになると、できれば触れないで済ませるといった思惑が働くのでしょう。

 だからといって、サミットは重要ではないのかというと、サミットは絶対に重要です。
それは、主要国の首脳が、絶対的な義務感をもって、定期的に集まることの物理的な意味です。さらに利害関係の錯綜するそれ以外の国の首脳も交えて、定期的に集まり、会議以外にも、食事やパーティーの中で直接の接触を持つことが人間的な交流を生むという点でしょう。

 日本には「同じ釜の飯を食った」という表現がありますが、国と国、企業と企業の良い関係も、その原点は「個人と個人の良い関係」に還元されるということを経験された方も多いと思います。

 「継続は力なり」です。サミットも継続していけば、いつかは、お互いに、全体のことを大切に考えるといった本来の目的に近づいていくだろうと、多少楽観に過ぎるかもしれませんが、期待してよいのではないでしょうか。

年金運用損5・8兆円

2008年07月04日 15時27分09秒 | 社会
年金運用損5.8兆円
 平成7年度、厚生年金と国民年金の積立金のうち91兆円ほどを運用していた「年金積立金管理運用独立行政法人」というところが、1年間の運用の結果、5.8兆円の赤字を出したと報道されました。
 大切な国民の金を預かりながら大変怪しからん話だという見方もあるでしょうし、 サブプライムローン問題などで、世界中の金融機関が大きな損害を出している中で、その程度で済んだのはまあまあ良かったという見方もあるでしょう。

 厚生労働大臣は、担当者の首をすげ替える意向だなどと報道されています。世界経済がこれほど混乱し、先行きが不安視される中で、もっとうまく運用しろという意思表示なのかもしれませんが、何をどこまでやるべきだと考えているのでしょうか。

 原油やトウモロコシ、大豆に手を出せば、うまくいけば儲かるかもしれません。株が下がる時は、空売りして安値で買い戻せばもうかるでしょう。日本の政府が年金の積立金でそんなことをすべきでしょうか。運用利回りを極大化することを目標にした資産運用というのは、結局は、当世流行の「投機による富の移転」に手を出すことです。それこそが世界経済の混乱の大きな原因ではなかったのでしょうか。

 年金問題は深刻です。少しでも多くの運用益をという政府の気持ちもわかります。しかし最も基本的な問題として、マーケットを利用して、他人の創った付加価値を、旨いことこちらに移転させて、キャピタルゲインで年金問題のやりくりをする、といったことでいいのでしょうか。

 世界の安定と健全な経済成長に貢献することが日本の使命だとすれば、エネルギーや食糧問題に役立つような技術開発を徹底し、それらの分野で世界のリーダーになり、世界に貢献することで日本の経済成長を回復し、その経済成長の成果、つまり、自分たちの努力による成長の成果で年金財政も賄っていくというのが、日本の本来のあり方ではないでしょうか。 

 問題は、91兆円の運用の仕方などではなく、政府、さらには今日の日本のリーダーたちの志とビジョンの欠如のような気がしてなりません。

 

5Sの起源

2008年07月01日 11時09分30秒 | 経営
5Sの起源
 「おーい、NS301のマニュアルが棚にないぞ、探してくれ」
 「おーい、引き出しに保険証がないぞ、バスに乗り遅れそうだ」
 工場でも、家庭でも、探し物は時間がかかるもの。特に工場や事務所の場合は生産性に大きく影響します。

 こうしたことをなくして、仕事の能率、生産性を上げようというのが「5S」活動です。
 SEIRI:整理=使わないものは片付けるか捨てる
 SEITON:整頓=決まったところにきちんと置く
 SEISOU:清掃=常にきれいに清掃しておく
 SEIKETSU:清潔=常に汚さないようにする
 SHITSUKE:躾=上の4つを体で覚えて自然に出来るようにする
 
 5S活動は、日本のQCサークル、改善運動、生産性向上の原点にもなっている貴重な活動です。今日では、日本だけでなく、アジア諸国の企業に広く普及して、インドネシアでは日本語をインドネシア語(マレー語)に置き換えて「5R」となっているそうで、5S活動が、「21世紀はアジアの世紀」を実現する大きな力になっているとさえ言えそうです。

 ところで、5Sの起源はどこにあるのでしょうか。何でも出てくるインタネットで検索しても、これがよく解らないのです。私は経験的に、これこそ日本の発明で、しかも原点は「家庭における母親の子供の躾にある」と思っているのですが・・・。

 『戸を開けたら必ず閉めなさい』『オモチャの出しっぱなしはだめですよ』『汚したらきちんと拭いておきなさい』『ごみを散らかさないようにね』『ご飯の前には手を綺麗に洗いなさい』、などなどといった母親の子供への躾・・・・・。
 どこかの会社の社長さんか、技術屋の先輩がこれを職場で言いはじめ、それを、次第に、こうした形にしていった、というように思えるわけです。

 2007年問題(団塊の世代の退職年齢到達)のさなかです。これまでのお仕事の中で、何らかの実体験や関連する情報をお持ちの方が居られましたら、是非、お教えいただくか、ネット上にそれを発表をしてただければと思っています。