tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

バランス経営

2008年09月29日 12時28分21秒 | 経営
バランス経営
 「企業経営者にとって、一番必要なものは何でしょうか?」と聞かれたら、「それはバランス感覚です」と答えてもいいのではないでしょうか。

 資本主義の進化の歴史の中では、資本家と労働者が互いの分け前をめぐって争うことになり、これは社会主義、共産主義という思想を生み、産業・企業内の労資対立から、ソ連などの共産主義国家の成立に至り、20世紀の歴史を「自由主義対共産主義」の対立で彩り(?)ました。

 70年と言う長い歴史の実験の後、社会主義、共産主義国家は崩壊しましたが、自由主義の方が生き残った理由の1つには、資本家が株式会社の株主という地位に後退し、企業経営の専門職である経営者が現れて(『経営者革命』 J. Burnham)、関係するすべての人たち、最近の言葉で言えば「ステークホルダーズ」に、バランスよく配慮することが良い経営であるという「経営学」が生まれてきたからでしょう。

 企業にとっての「ステークホルダーズ」を列挙すれば、
   従業員、経営者、株主、仕入先、お得意様、消費者、金融機関、国、地方自治体、地域社会、地球環境、etc.
ということになるのでしょう。

 経営者は、これらの全てにバランスよく配慮することを要請されていますから、大変な仕事です。しかも時代によって、配慮の必要性の度合いはどんどん変化します。戦後の高度成長期には銀行に頭を下げ、スト対策に苦慮し、最近では、ファンド対策をたて、CFと言えば消費者への配慮を尽くし、環境問題には殊のほか気を遣う、などなどです。だからといって、他のステークホルダーズへの配慮をおろそかにすることは出来ません。容易なことではないでしょう。

 しかし、この経営者の多面的なバランスの取れた配慮が (企業によってはそれが、中間管理職、第一線の従業員にまで徹底しています)、 自由主義の中での資本主義の経済体制、企業中心の経済社会を支えているのでしょう。

 企業という組織は大変うまく出来た組織です。ステークホルダーズへのバランスの取れた配慮が出来ないと、企業が安定して存続しません。倒産するか、バランスに配慮し直すかしかないのです。
 現代社会の中で、企業のリーダーたる経営者のバランス感覚は、ますます大事なものになっているように思います。


季節も景気も秋?

2008年09月25日 12時38分27秒 | 経済
季節も景気も秋?
 彼岸が過ぎてもことのほか強い日差しで日中は暑くなりますが、やはり秋です。夏の花はだんだん元気がなくなり秋の花が元気です。おりしも、アメリカ経済の挫折で、世界中の景気に不安感があふれています。景気も秋なのでしょうか。

 第二次大戦後、世界に君臨してきたアメリカ経済が行き詰まっているのです。中国が世界の工場と言うのなら、アメリカは世界の消費地として、世界の生産物をその胃袋に流し込み、日本も中国も、その他のアジア諸国も、アメリカの消費を当てにして生産を続けてきました。

 アメリカの消費を支えたのは、海外から流入するマネーでした。海外にTB(国債)を売り、それだけでは足りずに、多様な金融工学で世界からマネーを集めました。住宅バブルを演出し、その債権を証券化して世界に売った「サブプライムローンを組み込んだ多様な証券」もその一環でした。

 しかし今回の失敗で、アメリカの証券が信用を失ったのは、やはり致命傷 だったようです。アメリカ政府と連銀は、巨大なマネーをつぎ込んで、この信用の危機を救おうとし、ヨーロッパや日本にもマネーの拠出を頼んできています。世界の消費地アメリカが消費地で無くなったら世界中が困りますから、みんなそれに応じようと努力しています。
 
 しかし、放っておけば倒壊する家に、柱を持ち込んで補強するようなものですから、当面の補修にはなっても、そのまま住み続けられる家にはなりません。きちんとした家にするには、基礎構造からの建て直し(赤字国からの脱却)が必要でしょう。うまく出来るのか心配です。うまく出来なければ、秋の次は冬が来るかもしれません。
 日本としては、アメリカに冬が来ても、その影響ばかりを気にしなくて済むような経済構造(アメリカに過度に依存しない経済構造)を考えていかなければならないということなのでしょうか。「21世紀はアジアの世紀」といった言葉が、現実味を帯びてきます。

 四季には、秋でも、冬でも、それなりの美しさや風情がありますが、経済や景気は、どうもそうではない様です。さて、どうなるのでしょうか。
下の写真は、庭の隅で咲き誇る秋海棠です。



景気回復策あれこれ  その5

2008年09月20日 10時14分31秒 | 経済
景気回復策あれこれ  その5
 財政政策も金融政策も、もう打つ手がなくなってしまった段階での「失われた10年」と言われた不況、それでも10年もたつと、何となく景気は持ち直してきました。政策がなくても、時間がたてば、景気は回復する?ということなのでしょうか。「景気はサイクルだから」などといった説明もありそうですが、もう少し構造的な中身を見てみましょう。

 「政府の景気回復策がなくても景気回復」の背後には、企業の血の滲む努力がありました。
世界一物価もコストも高くなった日本で、企業に要請されたのは「コストダウン」です。コストダウンで価格を下げ、海外との競争に太刀打ちできるようにする、輸出産業だけではありません、大は航空会社、電信電話会社からタクシーやホテル、レストランまで、日本中の企業が、カルロス・ゴーんさんではありませんが、「コストカッター」になりました。

 デフレ不況ですから、名目GDPは毎年下がり、企業の売り上げも毎年下がります。そのままでは、利益が無くなって、いつかは企業は潰れますから、企業は「売り上げが減ったら、コストをもっと減らして」利益が出るように(増えるように)、死に物狂いの努力をすることになります。

 こうして減収・減益(売上減・利益減)が続く中で、コストダウンに成功した企業の中に減収・増益(売り上げ減以上のよりコストダウンを実行)を記録する企業が出てきたのです。
 2002年にいたって、大企業の中に、「減収・増益」という企業が増えてきました。企業は利益が出れば、前向きの政策を取ります。こうして2002年から、景気回復の傾向が見えるようになりました。

 その一方で、中小企業の大半、不況業種、不況地域、などでは、まだまだ「減収・減益」の企業が多く、環境と、コストダウン力の違いが、企業間格差を拡大させることになったようです。政府が景気回復といっても、「回復なんてとんでもない」と、地方、中小企業などは言いっていました。

 企業間格差拡大の中で、弱いながら景気回復が始まったのです。この景気回復のためのコストダウンでは最大のコスト「人件費」(日本経済の要素費用=国民所得の7割は人件費)が重要な標的になりました。人件費のカットは、雇用削減や賃下げもありましたが、大きな効果を持ったのは「非正規従業員の増加」です。こうして発生した賃金格差と前述の企業間格差の両方の拡大から、「所得格差の拡大」がクローズアップされ、今に至っています。

 財政、金融の現状を見れば、当分、政府の経済対策は期待できないでしょう。不況克服は企業が自力でやるよりありません。21世紀になっても、政府の経済対策はマーシャル(金融政策)とケインズ(財政政策)を出ていません。経済学の貧困でしょうか。


景気回復策あれこれ  その4

2008年09月18日 14時10分50秒 | 経済
景気回復策あれこれ  その4
 バブルの時は、株でも土地でもそうですが、多くの人が「まだ値上がりが続く」と錯覚します。最近のアメリカのサブプライムローン問題でも、多くのアメリカ人は「住宅価格はまだ上がる」と思っていたのでしょう。

 しかしバブルがいつまでも続くことはありません。株価は1989年の年末に最高値となり、反落に転じます。地価は「土地神話」への信仰が強かったせいか、1990年の秋辺りまで値上がりしましたが、金融の総量規制、特別土地保有税の強化などで、反落に転じました。もともとがバブルで、根拠のない高値ですから、落ち始めると急速で、まさに「バブルの破裂」です。

 こうして日本は「ダブル・デフレ」に突入しました。1つは資産デフレ、もう1つは、バブルの中で見過ごされていた、プラザ合意によって「世界一高くなった」日本の物価水準の国際価格への鞘寄せ、つまり一般物価の下落(デフレ)です。資産デフレは高値で資産を買った企業などのバランスシートを直撃し、巨大な評価損を出し、土地取得のための借入金返済が不可能になると、それは金融機関のバランスシートに巨大な穴を開けました。大銀行、大証券も潰れる経済の奈落でした。

 こうして、いわゆる「失われた10年」の長期不況が始まったわけですが、資産デフレのその後は皆さんのご承知の通りです。もう1つの一般物価の下落は一部にはまだ続いています。

 このデフレ不況が長くなった理由のひとつには、政府の景気対策の手段がもう無くなってしまったこともあるのでしょう。政府の財政は大変な赤字で、財政政策は取れない、デフレですから金利を下げても「実質金利」は高いのですが、金利はゼロ以下には下げられませんから、「ゼロ金利」を続けますが景気刺激効果はありまあせん、量的緩和をやっても、バブルで懲りていますから、刺激にならない、といった具合です。財政政策も、金融政策も無力となると、政府は放置するよりありません。
 またアメリカにいわれてやった規制緩和、構造改革の効果は、不況の中で格差拡大をもたらした程度でした。
 
 政府には景気回復のために打つ手はなく、景気回復策は、民間に任されることになってしまったということでしょう。それでも、10年たつた2002年辺りから、景気は少し持ち直してきました。政府は「いざなぎ越え」などと宣伝しましたが、次回、その原因を考えて見たいと思います。


景気回復策あれこれ  その3

2008年09月15日 11時18分38秒 | 経済
景気回復策あれこれ  その3
 戦後の日本の財政政策から言えば、昭和39年までは収支均衡予算を立て、国債発行はしませんでした。しかし、40年不況を乗り切るために建設国債の発行に踏み切り、さらに、第1次オイルショック後の深刻な不況脱出のために赤字国債発行を始め、いわば財政政策の手は使い果たしてしまいました。

 あとは国債発行額を増やすしかないのですが、国としても、いくらでも借金(国債発行)を増やすわけには行きません。 さいわい、第2次オイルショックの時は、労使の賢明な対応で不況はまぬかれ、スタグフレーション に苦しむ主要諸国の中で、日本は世界で最も経済パーフォーマンスの良い国(ジャパンアズナンバーワン)といわれるようになりました。

 しかし世の中は、良い事ばかりはありません。1985年、当時はG5(5カ国大蔵大臣・中央銀行総裁会議)で、この年はニューヨークのプラザホテルで行われましたが、「日本経済は強すぎるから円を大幅に切り上げてもらいたい」という意見が出て、日本が合意した結果(プラザ合意)、$1=¥240が、2年後には、$1=¥120になりました。

 これは世界の基軸通貨であるドルで測れば、日本の生産する商品・サービスの価格とコスト(人件費も含む)が2年間で2倍になったということですから、日本の国際競争力は一挙に失われました。
 特に毎日が国際競争の製造業は、国内ではやっていけなくなり、アジア諸国への脱出が進み、「製造業の空洞化」などといわれました。政府も学者もマスコミも、それまで世界に誇る経済力の日本だったので、「何をこれしきのこと」と思っていたのかもしれませんでしたが、本質的には深刻な不況の原因でした。

 このときは、アメリカが知恵を貸してくれました。「内需拡大策、金融の大幅緩和がいいでしょう」というアドバイスです。そして政府は「新前川レポート」などでこれを喧伝しました。これは絶大な効果がありました。日本には「地価はいつまでも上がり続ける」という「土地神話」があって、これが金融緩和の受け皿になり、「土地担保なら、いくらでもお金を貸しましょう」という類の金融機関の姿勢に乗って地価は暴騰し、日本は大金持ちになりました。ニューヨークの目抜き通りのロックフェラーセンターやティファニーを日本企業が買ってしまう、といった勢いで、ジャパンマネーは世界を闊歩しました。

 企業収益は上がり、好況で、政府の税収は大いに増え、一時的に国債発行が要らないほどでした。あとからみれば、このバブル経済で一番得をしたのは政府かもしれません。

 このときは、財政政策でなく金融政策、極端な緊急緩和で、「バブル景気」が演出されたのですが、土地神話が絶好の受け皿になったという特殊事情が大きな意味を持っていたようです。しかし、こうした投機的な価格上昇 による好況は長くは続きません。後には奈落が待っていました。


景気回復策あれこれ  その2

2008年09月12日 21時28分36秒 | 経済
景気回復策あれこれ  その2
 前回取り上げました昭和40年不況は、当時、戦後最大の不況と言われたものですが、日本が高度成長の勢いを持っている中での不況でした。その後長く続いた「いざなぎ景気」の中で、日本経済は、次第に成熟期に入ってきます。

 戦後のイデオロギー闘争から脱皮した日本の労働組合運動は、今度は経済闘争に極めて熱心で、打ち続く好況の中で、毎年「前年より高い賃上げ」を目指し、賃上げ率は2桁になり、経済成長率を追い越して、「賃金コストプッシュインフレ」が進むことになりました。

 こうした有頂天の時期に突如として起こったのが、第1次オイルショックでした。実を言えばその前に、1970年のドルショック(ニクソンショック)があって、ドルは金と切り離されて、アメリカの経済力(政治、軍事力も含むか?)への信用だけに支えられた「ペーパーマネー」となってしまっていました。そんなことで、原油をドルで決済する産油国は不安を感じたのかも知れません。
 
 1973年秋、OPEC(産油国機構)の決定で、原油価格が4倍になり、石油の99.8パーセントを輸入に頼る日本では、有名なトイレットペーパーや洗剤のパニックが起こり、1974年の経済成長率は、名目値はインフレのため19.4パーセントもあったのですが、実質値は、戦後はじめて(戦後2年は統計がありませんが)マイナスに転落しました(‐1.2パーセント)。国民経済の縮小です。
 
 原油中心に 輸入インフレは激化(ピークで22%)し、物価上昇を賃上げで取り返そうとする労働組合の賃上げ攻勢で、1974年の春闘賃上率は、32,9パーセントになりました。一方、企業の方は原材料高と賃金コスト上昇に直撃されて利益どころではなくなり、日本経済は大変な不況になりました。

 この回復には、足掛け4年かかりますが、実は、1975年の12月、政府は特例国債の発行を決めます。特例国債というのは、いわゆる赤字国債で、経常費の補填に使われます。家庭で言えば、住宅ローン(建設国債)ではなく生活費のための借金です。
 国債発行額は1974年の2.8兆円から75年には5.7兆円、78年には11兆円を超えて増え続け、これではサラ金財政になると「土光行革」(1982年)につながります。

 赤字国債の発行は、建設国債発行の時のように劇的ではないにしても、その景気回復効果は大きかったと言えます。その後は、赤字国債発行は恒例となり、行革推進が叫ばれる一方で、財界は財政出動による景気の維持回復を、常に政府に要求するようになります。

 建設国債、赤字国債と来て、借金過多の財政になると、もうその後は、財政出動(ケインズ政策)の新手はありません。その次の大不況、「失われた10年」では政府は何をしたのでしょうか。


景気回復策あれこれ

2008年09月09日 12時24分17秒 | 経済
景気回復策あれこれ
 8月下旬、ヨーロッパに行って来ましたが、ユーロ高のせいもあって、物価は高いですね。日本の物価が世界一高かった頃に比べると大違いです。輸入インフレの部分は別として、そろそろデフレも止まるでしょうが、アメリカ経済の問題もあり、日本の景気は、いささか心配です。政府は何をすればいいのか、何が対策になるのかわからないようですし、その上、政治がこれでは・・・。
 
 戦後の日本の景気回復策の歴史を見てみると、いろいろヒントもあるようです。第1次オイルショックごろまでの日本では、景気がよくなると輸入が増えて貿易赤字になり、外貨準備が不足すると困るので引き締めをし、不況。その結果、内需が減って輸出が増えて黒字回復、金融緩和、景気回復といった循環が見られます。

 その中でも、当事、戦後最大の不況といわれた昭和40年不況からの回復は特徴的です。39年から景気がおかしくなって、このときも株が大暴落し、四大証券の一角、山一證券が倒産に瀕し、いわゆる「山一特融」で生き残るのですが、株価低迷に困った政府は、株価維持のために、共同証券や株式保有組合などを作って一生懸命株を買って見せるのですが、「そこまでやるほど悪いのか」というのが世間の見方で、株は一向に上がりませんでした。

 この株価の下落を一変させたのは当時の福田赳夫蔵相の「国債を発行します」という一言でした。戦後の日本は、太平洋戦争の戦費調達の経験に懲りて、昭和39年までは国債を発行してきませんでした。

たとえて言えば、「うちは先代が借金をして破産したのを教訓にして借金はしない。だから学校は私立はダメ、公立にしなさい。だめなら就職です。」といっていたのを、「学資ローンを借りるから好きな大学を受けなさい」と変更したようなもので、国債発行(借金)というそれまでの禁じ手を「思い切って使う」といったのです。その後発行された国債は40年度の一部を除いて「建設国債」でした。

 そして昭和41年からは、毎年発行される建設国債をベースに(もちろんそれだけでということではないにしても)日本経済は「いざなぎ景気」にはいっていくことになります。

 建設国債は、企業で言えば、設備投資の金を長期負債で調達するようなものですから、固定長期適合率(有形固定資産/自己資本+長期借入金)は悪化しないので、まあまあ、それなりに健全ともいえるのですが、日本はその後赤字国債をどんどん発行するようになります。これはまたの機会にしたいと思います。

 「国債を発行する」という一言で、何をやっても下がり続けた株価が反転上昇し、景気が回復し、新たな経済成長が始まる。こんな、株価と景気と経済と国債の関係を、どう見ればよいのでしょうか。景気、経済を動かすのは、世間の人々の心の持ち方に関係あるような気がします。


年功賃金考 その2

2008年09月07日 17時49分06秒 | 経営
年功賃金考 その2
 年功賃金制度には、今では懐かしい言葉でしょうか、「定期昇給」というのがあって、毎年かなりの賃金が自動的に上がるのです。何故毎年賃金が上げられるのでしょうか。
 単純に考えればこういうことです。

 たとえば、生涯の平均賃金を月額30万円とします。初任給を15万円にして、1年勤続しないと給料が上がりませんから31年勤続するとして、その間定期昇給で毎年1万円賃金が上がり続けるとすれば、31年後には45万円の賃金になります。

30万円の月給を31年間もらっても、30×31は930万円、15万円から出発して毎年1万円昇給して31年勤めても、合計は930万円で同じです。もちろん1年は12ヶ月ですから、総額はその12倍ですし、ボーナスなどがあればその分多くなります。

しかし問題は、職務給(職務一定として)で同じ額を31年間払っても、15万円から45万円になる年功給で31年間払っても、「きちんと設計してあれば」、算術的には支払い金額は同じと言うことです。前回書きました「企業が成長しなくても年功賃金は可能との見方があった」というのはこのことです。

これが現実にどう可能かといった点についてはいろいろ論議があるでしょう。しかし昔の日本では、
「若い者に給料を沢山やっても、どうせ無駄遣いしてしまうだけだから、多いのはよくない。」
「所帯を持つようになったら、それなりの賃金になるというのがいいんだよ。」
「子供が出来ればまた金がかかるから、給料も増えていたほうがいいだろう。」
と言った温情主義(パターナリズム)の発想が、年功賃金の根底部分にあったようです。

 高度成長下の日本では、新卒欲しさに企業は競って初任給を上げました。しかし、年功賃金では初任給の引き上げは、最終賃金のダウンがないとバランスが取れません。平均賃金を支点にしたシーソーのようなものです。現実の企業社会での結果は皆様ご経験のようなことになりました。

 ところで、パターナリズムはとうに、時代遅れとして否定されているはずですが、結婚適齢期になればそれなりの給料、子供が学校いく頃にはそれなりの給料をと望む人が多いのも現実です。
日本の賃金制度はまだまだ揺れ動いていくのではないでしょうか。


年功賃金考 その1

2008年09月06日 14時48分36秒 | 経営
年功賃金考 その1
 日本的経営の三種の神器は「終身雇用」「年功賃金」「企業別組合」といわれました。皆様ご存知のように、これは、J. アベグレンが1958年に「日本の経営」の中で述べ、後に、1972年、OECDの対日調査団がその報告書の中で取り上げて、世界的に有名なったものでした。

 日本が高度成長期からジャパンアズナンバーワンといわれるようになる過程で、日本の人事賃金制度や労使関係は世界の注目の的となり、海外から無数の調査団が、日本の成長の秘密を探ろうと訪日する中で三種の神器はさらに広まりました。

 今では日本自体の中でさえ、日本的経営など古臭くて役にたたないと考える人が多くなったようですが、本当にそうでしょうか。グローバリゼーションとローカリゼーションが交錯する中で、行きすぎた日本的経営の否定論からのゆり戻し現象も多く見られます。

 最も強く否定されたのは「年功賃金」でした。しかし日本の賃金はまだまだ年功的要素を多分に残しています。やはり日本の風土と日本人の文化に根ざしたものはなかなか否定仕切れないということでしょうか。

 能力主義を導入しても、どうしても年功的な要素が重視される形になってしまい、思い切って成果主義を入れれば、今度は、日本の企業の組織文化に合わないと否定されるのが実態です。

 かつて、日本経済が落ち目になる中で、年功賃金を否定するために言われたのは
「賃金が毎年上がるような制度は、高度成長の時ならいざ知らず、不況期には不可能」
というものでした。多くの人はそう思ったようです。

 しかし当時から、「年功賃金は企業が成長しなくても、毎年賃金が上げられるように設計された、大変ユニークな発想によるものではないのか」という意見はあったようです。

 かつての日本の土地価格や最近までのアメリカの住宅価格のように、確実に年々上がるものがあれば、国民は安心して前向きな生活が出来ます。 賃金が毎年上がるなら最高です。日本の企業は、戦前のパターナリズムと言われた時代から、そうした賃金制度を目指していたようです。