tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

GM、GEの自己資本比率

2008年10月31日 16時33分56秒 | 経営
GM、GEの自己資本比率
 1960年代、アメリカの大企業は 自己資本比率の高さを誇っていました。それに引きかえ、日本企業は主要企業でも自己資本比率は低く、「アメリカ企業はさすがだ」と感嘆したものでした。
 当時は通産省が「世界の企業の経営分析」という主要国、主要企業の経営数字の比較統計を出していて、それをみるたびに、日本企業はまだまだと実感させられたわけです。

因みに、当時の自己資本比率の日米比較(1964年)を主要産業の主要企業で見てみますと、
<自動車>      <電機>         <鉄鋼>          <化学>
GM  73.8%    GE      61.7%   USスチール 66.9%    デュポン   86.7%
トヨタ 50.4%    日立製作所 28.6%   八幡製鉄   33.5%    三菱化成  24.1%
                   (ダイヤモンド社「経営統計の見方・使い方」成瀬健生著1968年)
といったもので、トヨタは別格として、当時の日米の財務体質の格差は歴然です。

  ところが今はどうでしょうか。
ネットで得られたのは、この中でGMとGEでした。後は、経営形態が変わったのか、財務の発表形態が変わったのか、比較できるような数字は発見できませんでした。

 ところで、GMとGEの自己資本比率を見ると2007年ですが、
GM  ‐24.9%  (総資産1488億ドル、総負債1859億ドルで371億ドルの債務超過)
GE  14.5%   (総資産7953億ドル、自己資本1156億ドル)
GEの場合は、GEキャピタルが稼ぎ頭などといわれ、業態が変わってしまったようですから、一概に比較できないのかもしれませんが、いずれにしても、かつてとは様変わりです (因みに同年のフォードの自己資本比率は僅か2%)。

 世界経済の足を引っ張るようなことになってしまったアメリカ経済の変貌の底には、アメリカ経済を支えてきたアメリカの基幹産業・企業のこうした変貌があることも見ておかなければならないのではないでしょうか。


政府の信用

2008年10月27日 12時17分46秒 | 社会
政府の信用
 いわゆる小泉改革の中で、規制緩和、民営化が推進されました。総合的、客観的な判断が極めて難しいこうした問題の中で、「郵政民営化」を掲げた小泉さんが圧勝するといったことが起こったりしましたが、この背後には、国民の「官」に対する不信があったように思えてなりません。

 典型的には天下りや官製談合だったり、社会保険庁の問題や居酒屋タクシーだったり、さらにその背後には、国や地方の財政が毎年大幅赤字だったりということがあって、「政府に任せておくと国民は損ばかしさせられるのではないか」という対政府の不信感があるのでしょうか。

 ところで、国民負担率という数字があります。国民が稼ぎ出している毎年の国民所得の中で、何パーセントを政府に使わせているか、という数字です。計算は簡単で、毎年の個人や企業が納める「税金と社会保険料」を合計して、その年の国民所得で割れば良いわけです。

 主な国の国民負担率を比べてみますと、(各国は2005年実績、日本は2008年度予算ベース)
スエーデン    70.7パーセント
フランス     62.2 パーセント
ドイツ       51.7パーセント
イギリス     48.3 パーセント
日本       40.1 パーセント
アメリカ      34.5 パーセント
こんな感じで、北欧が高く、ヨーロッパ大陸諸国が続き、アメリカが最低で、日本はアメリカに近い、ということになっています。
 
 スエーデンでは国民は、稼ぎの7割も政府に預けて、安心しているのです。
 アメリカは伝統的に政府に頼らない国ということでやってきていますから、その低さは理解出来ましょう。国民健康保険などはない国で、格差社会などと騒がず、アメリカンドリームが素晴らしいと考える国です。
 
日本は平等思考で、 格差を嫌う国ですが、政府に頼んで格差を縮小してもらう部分(所得再分配機能部分)である国民負担率を上げることに反対が多く、なるべく政府に頼らないようにしようというのは、何故でしょうか。

「政府に金を持たせると碌なことはしない」というまさに「感情的」な部分が、大きな役割を果たしているとすれば、かつては国民の認識だった「官は悪いことはしない」という「官の倫理感」の徹底が、改めて国民に理解されないと、明日の良い日本を作るという政府の目的も、なかなかうまくいかないのではないでしょうか。


レバレッジとデリバティブ、金融資本主義の行方

2008年10月25日 13時48分45秒 | 経済
レバレッジとデリバティブ、金融資本主義の行方
 レバレッジについて、種々の側面を見てきましたが、もう1つヘッジファンドの問題があります。正直言って、これは非公開なものですから、その中身はわかりません。レバレッジは大して大きくないといった説明がされたりしていますが、集めた金だけ運用していたのでは、かつてのアジア金融危機を演出などといわれるほどの力を持つはずはありません。何かあるのでしょう。

 ところで、レバレッジを利かすといっても、金融が、実体経済と対応するものであれば、健全経営という立場から必然的に「節度」が生まれるはずです。日本の土地バブルのような、地価上昇と金融が対応する場合には、異常な地価の上昇が警告を発してくれます(関係者がバブルに浮かされ、それに気付かないだけです)。
 しかし、デリバティブという形で、金融商品が、実体経済から切り離されたとき、金融資本主義はアンカー(錨)を失うようです。

 レバレッジは異常に大きくなり、差額決済が通常になって、本来いくらの投資をして(想定元本)いくら儲けたかもわからなくなります。しかしデリバティブはもともと「派生商品」で「原資産」があるわけですから、原資産に異常(価格低下など)が起これば、レバレッジの倍率に比例して、大きな損失が生じます。そして、金融市場そのものの収縮が起きます。

 こうした金融取引の儲けや損失はすべて「 キャピタルゲイン」「キャピタルロス」ですから、それ自体はGDPの増減には関係ありません。しかし、当然、金融機関の取引態度の変更、消費者の行動変化、為替の変動、・・・などによって、実体経済に深刻な打撃を与えます。

 繰り返し述べてきた、実体経済の活動の潤滑油として機能すべき「金融」 が、実体経済を壊してしまうという深刻な問題、これは資本主義が発展過程で犯した大きな誤りでしょう。この点を震源地のアメリカを始め、被害を受けた主要国、そして日本の政治、経済の責任者たちが、今回の大事故を教訓として、改めて、確り自覚して欲しいと思いますが、残念ながらそれは難しいような気がなんとなくしています。


デリバティブズとレバレッジ

2008年10月24日 12時32分20秒 | 経済
デリバティブズとレバレッジ
 デリバティブズというのは、もともと「derive from ××」、つまり「××に由来する」のderive が名詞になったもので、「何かに由来するもの」ということです。
 たとえば、おコメを1キロ買えば現物取引ですが、「おコメを1キロ○○円で買う」という「権利」を買えば、おコメを原資産にしたデリバティブということになります。権利を買うのですから、全額払うのではなく、証拠金を払って権利を獲得するということになるのでしょう。

 もちろん、今おコメが欲しいのに、権利だけ買う人はいません。おコメが高くなりそうだから、今のうちに安い価格で、1ヶ月とか3ヵ月後におコメを買う権利を予約をするわけです。こうしたことが行われるのは、もともと、前回述べたリスクヘッジのためですから、売買は先物になります。

 リスクヘッジの場合は、現物取引の反対の売買をしておくことで、価格変動のリスクから逃れられるといいうメリットがあるわけですが、現物取引がなくても、売買の権利の予約だけをすれば、うまくいけばおカネが儲かります。

 こうして、売買をする権利だけが、「原資産から派生」した独立の「商品」になったのが「デリバティブズ」ということなのでしょう。「現物価格が変動するもの」で、「価格が市場で確定するもの」であれば、それを原資産にしてなんでもデリバティブになり得ます (たとえば、日経平均先物から原油先物まで)。

 証拠金だけで取引出来ますから、レバレッジは何十倍、何百倍、などということになります。現物の売買なら何千万円という取引が、何十万の証拠金で出来ます。ネットで日経平均先物やFX(外国為替証拠金取引)などのページをひらいて証券会社などの広告をご覧ください。

 解説書などによれば、こうして多くの人が売買に参加すれば、高いと思えば売る人が増え、低いと思えば買う人が増えて、(現物価格は先物に鞘寄せするという形で)原資産の極端な値上がりや値下がりが避けられるなどと書いてあったりしますが、現実はだいぶ違うことは国際投機資金などの動きを見れば明らかでしょう。


リスクヘッジとレバレッジ

2008年10月21日 12時05分14秒 | 経済
リスクヘッジとレバレッジ
 ヘッジというのは、もともと庭の境を示す低めの「生け垣」のことで、きちんと境界が区画されていることで、「トラブルが避けられる」とか、境界の中は「守られている」といった意味で使われた言葉のようです。
 今は専ら、リスクをヘッジするといった形で、(特に日本では)為替などの相場の変動のリスクを回避する意味で使われ、「リスクヘッジ」というのが一般的になっています。

 たとえば、アメリカに製品を輸出した代金が、来年の3月31日に入るとか、ニュージーランドドルの定期預金が来年4月30日に満期になるといった場合、米ドルやニュージーランドドルを受け取っても、そのとき円高になっていると、為替差損が出ます。
 たとえば1ドル110円の時に1万ドルの輸出をして、3月末に1万ドル=110万円受け取るつもりでいたら、1ドルが100円になっていて、100万円しか受け取れないといった場合です。
もちろん、逆に円安に振れた時は、その分儲かるわけで、為替差益が出ます。

 リスクヘッジというのは、為替差損が出ることを防ぐために、先ほどの輸出の場合ですと、来年の3月31日に1ドル100円で、1万ドルを売る予約(為替の先物取引で)をしておくことです。その代わり、もし円安になって、110円になっても、10円の為替差益は放棄することになります(ここでは手数料は無視しています)。
 外貨預金の場合については、各銀行が、ネット上で解りやすい解説をしています。

 国内取引では、為替の損得はありませんが、外貨建ての場合は、為替の損益はつきものです。貿易で稼ぐよりもヘッジをうまく使えば、簡単に儲かるといった誘惑がここに潜んでいます。そこでレバレッジの登場です。レバレッジをかけて、ヘッジの金額を2倍にすれば、最初の1万ドルでリスクヘッジが出来て、あとの1万ドルの分は儲けになるという誘惑です(もちろん為替が円高に振れれば損失ですが)。

 額に汗するモノづくりより、先物市場の研究でもして、金融技術で簡単に金を稼げれば・・・。
 日本人は昔から、「額に汗した金」と「あぶく銭」を区別していましたが、アメリカではそういう考え方は流行らなくなったようで、先物、FX(外国為替証拠金取引)、レバレッジ××倍、デリバティブズ、ヘッジファンドなどなどと金融経済は進化し、実物経済は金融経済に飲み込まれてきました。今度の金融パニックでどうなるのでしょうか。


自己資本比率とレバレッジ

2008年10月15日 15時50分03秒 | 経営
自己資本比率とレバレッジ
 自己資本比率というのは会社を経営するために使っている資本全体、つまり総資本(=総資産)のうちで、何パーセントが自己資本かという比率です。自己資本以外は他人資本ですから、自己資本と他人資本を足せば総資本になります。

 今年3月のこのブログ、「 自己資本比率を見よう」でも書きましたように、会計学者は自己資本比率は50パーセント以上が望ましいとか50パーセントが標準とか言います。

 この意味を「レバレッジ」という視点から見ますと、自己資本比率が50パーセントということは、レバレッジが2倍ということで、健全な企業経営はあまり大きなレバレッジはかけないということでしょう。

 自己資本比率が90パーセント前後で有名なヒロセ電機とかファナックの場合には全くレバレッジをほとんど利かせていない経営ということになります。実はこれが最も堅実経営です。
 そういう経営に対しては、利益率がいいのだから、レバレッジを利かせて(借入金を多くして)仕事を拡大すればもっと儲かるのに、資本を有効に使っていない、といった批判があったりします。

 こういう批判は、投資ファンドなどが経営に介入するときに多いようですが、その辺りが、マネー経営学と実体経営学の違いで、マネーなら短期で勝負すればいいのですが、実体経済の経営では、借金を工場や店舗などの現物資本に投資しなければ売り上げは増えません。勝負は長期になり、リスクは高まります。

 自己資本比率50パーセントというのは、長い経験の中で生まれた知恵でしょう。
 レバレッジが大きくなれば、勝ち負け(利益、損失)の振幅が大きくなります。レバレッジを利かせたマネーゲームが大きくなると、景気の振幅が大きくなります。日本の土地バブル、今回のアメリカ発の世界不況の例は典型的です。


レバレッジ考

2008年10月13日 10時23分57秒 | 経営
レバレッジ考
 レバレッジ(leverage)とは、力学でいえば「梃子」です。英語でも、「何かを使って、より大きな効果をもたらす」といった意味に使われるようです。ところでこのレバレッジは、経営学、経済学においても使われます。特に最近の「金融資本主義」の中では、あらゆる場合に使われるようです。

  力学では、小さな力で2倍の重さのものを動かそうとすると、小さな力ですから2倍の距離動かさなければなりません。自転車のローギアで走れば、力は要らないが、足をより早く回転させなければならないことでもわかります。

  経営や経済の活動でレバレッジという言葉を使う場合は、100万円の資本を持っていて、それで仕事をすれば10万円儲かるというとき、100万円借りてきて、200万円で同じ仕事をすれば、20万円儲かることになり、2倍のレバレッジということになります。900万円借りてきて、1000万円にして同じ仕事をして100万円儲ければレバレッジ10倍です。

  経営や経済では、「梃子の長さ」や「ギア比」に相当するのは、「自己資本と借金の比率」です。

もちろん金を借りるわけですから、金利を払わなければなりません。上の仕事の場合は利益率が10パーセントですから、金利が10パーセント以下でないとペイしません。儲けに2割税金がかかれば、金利は8パーセント以下でないとペイしません。もし、1~2パーセントの利率で金を借りられれば、これは大変儲かることになります。

 金利支払い前の「粗利益」で考えれば、レバレッジが2倍なら儲けも2倍、レバレッジが10倍なら儲けも10倍になります。大変結構な話ですが、
「もし損失が発生すれば」
損失もレバレッジの倍率だけ大きいものになります。

 上の例で、10パーセントの損失が発生したら、自分のカネだけでやっていれば、100万円が90万円に減るだけですが、900万円借りてきて、10倍のレバレッジでやりますと、損失は100万円になって、100万円あった資金はゼロになります(20倍にしていたら、100万円の借金が残ることになります)。

 レバレッジを効かせると、儲ける時も大きいが、損する時も大きいというわけです。経営戦略、投資戦略でレバレッジをどう考えるか、次回からいろいろな例を見てみましょう。


日本経済の健全さ

2008年10月11日 11時11分37秒 | 経済
日本経済の健全さ
 「風強くして勁草現る」ではありませんが、今回の世界金融危機の中で、日本の経済は思いのほか健全だったことが見えてきたようです。

 金融機関の傷みかたも欧米ほどではないし、実体経済の構造も確りしているし、ということで円高が進んでしまうようです。プラザ合意による円高の長い後遺症である失われた10年をやっと克服してきた、「病み上がりの」日本経済ですが、日本人の真面目さがもたらしたものでしょう。

 確かに一部の日本人はマネーゲームに踊りましたが、多くの日本人の中にはまだ「額に汗したカネ」と「あぶく銭」とを識別する能力も残っているようです。経済というのは、本当は「モノ(サービスを含む)作りに根ざした実体経済だ」という健全な見識も失われていません。
 
  ところで、日本には1500兆円という膨大な個人貯蓄があり、その半分強は国・地方政府が借りていたり、今度の株暴落で多少は目減りしたかもしれませんが、政府や金融機関などにとってはそれをどこに投資するかは重要な問題です。

その一方で、多分、冷静に見れば、現在、資金を投資すべき優良対象国の第一に日本は挙げられるでしょう。外国は、いろいろな偏見もあり、そうは見ないかもしれません。しかし日本人は、日本政府は、日本の金融機関は、今こそ、「日本に投資すべき」でしょう。

 国際競争を勝ち抜きうる投資対象は日本国内にいくらでもあります。中小企業のモノづくりの卓越した技術・技能を筆頭に、各種の微細技術、バイオ、新エネルギー分野、省エネルギー分野、光やディスプレーの分野、淡水化の水処理技術、などなど。

 地道に努力すれば必ず結果は出ることを示している日本経済のパーフォーマンスを見れば、今こそ国民の貯蓄を国内の産業と技術の発展のために徹底して活用することが最も得策のようです。
 それが、日本経済の中で多くの世界をリードする分野を育て、経済成長、財政の健全化、社会保障負担の増大も賄うことに貢献できる最も近道ではないでしょうか。

 青い鳥は外にではなく手元にいるようです。


マネーと実体経済

2008年10月06日 14時52分33秒 | 経済
マネーと実体経済
 行き過ぎたマネー・金融の世界の崩壊が、実体経済にも悪影響を与えることが心配される段階になった、といった表現がマスコミの中にも見られます。

このブログでも、本来、実体経済に対する潤滑油として、実体経済に役立つのが役割であるべき金融が、モンスターのように大きくなって、実体経済を無視した勝手な振る舞いに及び、挙句の果てには、実体経済に大きな迷惑をかけるというのであれば、それは本末転倒だということを指摘してきたつもりです。

 かつて、共産主義が、心情的には正義に見え、理論的にも正しいといわれながら、現実世界においては、結局は全体主義、独裁主義にしかならない、ということを70年かけて実証し、崩壊し去りました。世の中には、「事、志と違う」ことが良くあります。

 同じように、金融資本主義は、人々の経済的欲望の手近な実現策と思われ、理論的には、実体経済の積極的な活動を促進する役割を果たすと主張しながら、現実世界においては、実体経済の創出した富を、恣意的に再配分するテクニークに堕し、実体経済を道連れに崩壊する事しか出来なかった、ということを、みずから実証して見せたのではないでしょうか。

 金融機関が国有化され、時価会計は当面停止され、今日の金融システムを野放しにすれば、自由経済の下では機能しないだけでなく、マイナスの役割を演じてしまうことが解ってしまった今、自由主義経済社会は、「実体経済に奉仕する金融システム」という本来の意義に立ち帰って、金融制度を基本的にやり直すことを求められていると考えるべきではないでしょうか。


Leader と Reader

2008年10月04日 10時58分45秒 | 社会
Leader と Reader
 政局が混乱している中で、日本のリーダーである人、リーダーを目指す人などが、自らの所信を表明し、国民に訴えている姿がテレビに映ります。

 確かに、声には力を入れて、解り易くしゃべっているのは手馴れたものだなと思いますが、しゃべっている間は常に原稿を見ていて、言葉尻のところでちょっと顔を上げると、そこでカメラのフラッシュが一斉にたかれます。新聞の紙面に、下を向いて原稿を読んでいる姿が載っても迫力がないから、せめて顔を上げたときの写真をというマスコミの配慮でしょうか。

 しかしテレビでは、そうはいきません、ほとんど下を向いて、原稿を読んでいる姿が映し出されています。残念ながらこれでは、
「Leader ではなくて Reader です。」

 相手に訴えるのであれば、顔を上げ、相手の目を見て(大勢だと見きれませんが)話さないと、訴求力は何分の一かになってしまいます。
Leader でなくて Reader になってしまうのは、多分、他人の書いた原稿を、準備不十分のまましゃべろうとするからでしょう。その中に一部でも、自分が良く解っていて、本当にそれを相手に伝えたいと思っていることがあれば、少なくともそこは、顔を上げて、直接語りかけているはずです。

 マスコミが言葉尻を捉えたような「失言」まであげつらうからということもあるかもしれません。しかし、真剣さと迫力があれば、国民のほうが、必ず本心を理解してくれるはずです。

 聴衆や視聴者のほうを向いて話すのが、選挙キャンペーンの時だけというのでは「やっぱり本気で大事だと思っているのは選挙だけなのか。」などと思われてしまっても、あながち反論できないのではないかと思います。

 大部分の日本人は先天的に L と R が聞き分けられないという研究があるそうですが、それとこれとは関係ないと思います。