tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

「知性」と「感情」に分断のアメリカ

2024年11月06日 17時44分37秒 | 文化社会

もう大分前から、今のアメリかは、世界の最先進国と、ずっと遅れた発展途上国が併存している国だと感じることが多くなっていました。

1960年代までは、まだ第二次大戦後のアメリカの栄光、世界で最も豊かな国、広範な科学、技術から芸術、スポーツ、サブカルチャーや国民生活まで、世界で最も優れた国というイメージを維持していたと思います。

きっかけは1970年代に入っての、ドルのペーパーマネー化、変動相場制への移行だったと思います。

これは戦後25の間に、その繁栄を謳歌する中で、国力以上の活動、戦争を含む経済力の浪費を続けたことによるのでしょう。

それに引き換え西ドイツ、日本などは急速に生産力をつけ生産性の向上を実現して、消費生活を謳歌するアメリカをマーケットにして経済力を増してきていました。アメリカの国際比較上の経済力の低下はその後のドルの切り下げで明らかです。 

さらにその後の二度にわたる石油危機への対応を、欧州諸国と共にアメリカも誤り、1980年代初頭まで続くスタグフレーションに陥ったことは、周知のとおりです。

さらにその後も、アメリカは中国の生産力を利用した結果、中国の追い上げに苦しむことになりました

しかし、アメリカは覇権国としての政治力、その背後にある軍事力を保持し、そのプライドは変わらずに維持されて来ましたから、国民はそのプライドと現実のギャップに強い違和感を感じてきているという状態ではないでしょうか。

以前「ガンホー」という日本の自動車メーカーのアメリか進出を題材にした日米合作(?)映画がありましたが、日本企業の経営を徹底的にカリカチュア化したものでした。

その背後で、アメリカの鉄鋼産業、自動車産業などは競争力を弱め、いわゆる「ラスト・ベルト」も生れていたのでしょう。

気持ちは世界一、現実は競争力喪失のギャップがアメリカ人の中に次第に違和感から不満感、さらには被害者意識を増幅していたのでしょう。

こうして今のアメリカは、上半身は世界も羨む先進国ですが、下半身は途上国の状態に近づくということになったと私は見ています。

ここで大統領選は「トランプ候補が当確」というニュースが入ってきました。「やっぱり」という感じです。このところのインフレもあり、アメリカでは下半身が過半になったようです。

トランプ候補は、決して理論的ではありませんが、「わたしが『アメリカを再び偉大に』する」と主張し、知識や理論ではなく、今やアメリカ人の過半を占める下半身のやり場のない不満感、被害者意識といった感情を鷲掴みにしたのでしょう。

これはアメリカ人の中で、「知」の部分より「感情」の部分で行動する人が増えたという事を志田示すように思われます。(トランプの踏むステップに熱狂する支持者の映像)

前のトランプ政権の4年間を見れば、今後の4年間、アメリカの迷走は続くでしょう。

相対する日本のリーダーが誰になるのかは解りませんが、またトランプの盟友になるのでしょうか。日本国民は、ますます冷静になる必要がありそうです。


<月曜随想>ワークライフ・バランス:日本的発想の功罪

2024年10月07日 17時00分17秒 | 文化社会

21世紀が始まった2000年代の中ごろでしょうか、ワークライフ・バランスという事が言われ始めたように記憶しています。

もともと英語ですから欧米から、特にヨーロッパや国際機関から入ってきたようですが日本で急速に広まり、政府も内閣府中心に「憲章」まで作り、国民の理解に力を入れたようです。

ヨーロッパでワークライフ・バランスが言われるようになったのは、基本的に少子化問題が原因で、男性も子育てに協力せよという意識が「ワーク=仕事」「ライフ=家庭」という意味で問題になったようです。

たぶん、ヨーロッパや国際機関でいわれるワークライフ・バランスは、単純に、外での仕事と家事労働などの家での仕事のバランスが、男女間に負担の差があって、それが少子化の原因にもなるという極めて具体的な現象面の問題として取り上げられてきていたのでしょう。

今は日本でも夫婦が共に仕事を持つのが一般的になってきて、男性も家事労働を分担するというのが若い人たちの家庭では一般的になっていますが、ヨーロッパでは一足早くその波が来ていたのでしょう。

この「ワークライフ・バランス」も日本に入ってきて大きく変容したようです。

日本人は、もともと働くことは「貴い」ことで人間の生きる意味ですらあるといった考えが根づいています。そのために、日本人は「働き中毒」などと言われ、些か行き過ぎで、時に長時間労働も厭わず、KROSHI(過労死)が英語になったりしています。

欧米では、旧約聖書以来、働くことについては日本ほど積極的な意味付けは薄く、収入を得るために自分の時間を切り売りするといった意識が結構強いようです。

日本と欧米で大きく違った「労働観」が存在するという状況の中で、少子化という共通の問題を前にして、ワークライフ・バランスという同じ言葉が注目される事になったわけです。

こうした中で出来上がったのが日本独特の「ワークライフ・バランス」の意味付けです。

内閣府は「ワークライフ・バランス憲章」の趣旨をこう説明しています。

「国民一人ひとりがやりがいや充実感を感じながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる社会」

これはワークライフ・バランスというより、働き方を中心に日本人の生き方はこうあるべしという心得の提示というべきものでしょう。

ところで、もともと働き者の日本人に、こんな「心得」を提示しなければならないと考える日本政府とうのは、日本人の知性・自主性を見下げたお節介焼きという事にはならないでしょうか。

この延長線上に、もう何年も騒がしい「働き方改革」もあるのでしょう。かつて、あれは「働かせ方改革」で「余計なお世話」と書きましたが、現場では政府が「やめろ」という新卒一括採用から、定期昇給、職能資格制など人事賃金制度まで骨格は変わっていません、仕事給は非正規労働者、定年再雇用者、契約社員には以前から完全適用で、今後もそうでしょう。 

欧米と日本では「働く」事の意義づけに基本的な違いがあるという事の理解が政府には欠如しているようです。

日本人は、確り考えて、日本的経営の中でやって来ています。政府が世話を焼けば焼く程それが上手くいかなくなるようです。

本当に必要なのは、「政府自身の働き方改革」ではないかという気がしています。


生産性向上は大切、その分配も大切

2024年09月17日 13時24分26秒 | 文化社会

昨日は敬老の日でした。折角の国民の祝日でしたが、高齢者を大切にする事と、経済成長や国家予算のやりくりという問題で、世界の先進国は軒並み年金問題で苦しんでいるといった現実を書きました。

前々回は、「働き方改革」に関連して、人手が足りないのはエッセンシャルワーカーなどの社会の重要な分野を含む対個人サービスの職務だと書きました。

こうした問題はみんな、生産性の向上と生産性向上の成果の分配の問題に関わる事ですということを今回は整理しておきたいと思います。

こう書いただけで、もうこのブログが「何を言おうとしているか解ったよ」とおっしゃる方もおられると思います。その場合は「巧く書けているか」採点して下さい。

前回、高齢化問題の中で「今の日本社会は、昔のように、絶対的窮乏の社会ではありませんから、GDPの配分を適正化すれば、何とでもなると思うのですが」と書きました。

日本人は、日本のGDP(より正確には国民所得)で生活しています。GDPが増えれば(経済成長)日本は豊かになります。GDPが増えるのは労働生産性が上がるからです。企業では生産性が上がれば賃金が上げられます。賃金が上がれば従業員は豊かになります。

ここまではいいのですが、やっている仕事によって生産性が上げやすい所と上げにくい所があります。端的に言って、技術革新が生まれやすい所は生産性が上がりますが、技術革新が起きにくい所は生産性が上がりません。

生産性の上がりやすい所の代表は製造業、上がりにくい所の代表は対個人サービスでしょう。

GDPは殆んど企業が創りますから、生産性の上がる企業は賃金が上がりやすく、生産性の上げにくい企業は賃金が上げにくいということになり、産業別、業種別、企業別、職種別で、賃金格差が生まれます。

労働経済学では、この格差は、労働需給によって調整される事になっています。必要な人が集まらないと賃金を上げなければならないという形で上がるのです。

今マスコミで報じられているのは、訪問介護やタクシーの人手不足です、労働経済の理論に従えば、訪問介護やタクシー料金が上がって、賃金も上がり人手不足が解消するのですが、訪問介護もタクシーも政府の許認可で、料金が決まっているので、生産性が上がらず、賃金が上げられない企業は、倒産、廃業でサービスが無くなるといったことのようです。

勿論史上最高の利益、ボーナスも最高といった企業が悪いわけではありません。それは企業努力の結果で,日本経済に貢献しているのです。

ただ、はっきり言えることは、産業構造の中で、生産性の上がりやすい所と上がりにくい所があるのは当然で、特に、高齢化が深刻化するような場合、対個人サービスという最も生産性の上がりにくい部門で人手不足が深刻になることは避けがたいということは自明です。

結局は、高生産性の分野が、生産性は上がらないが、健全な社会の維持のために存在が必須な、いわゆるエッセンシャルな分野の活動のための負担をすることで社会全体がスムーズに回転していくというシステムを「適切に上手に整備する」ということを真剣に考えていかなければならないのです。

これは、国、社会全体の大きな課題で、それに成功した国が、働きやすく、生活もし易い国民にとって望ましい国ということになるのでしょう。

そういう事を確り考えて政策を打つ政府を持ち、それが豊かで快適な国、社会に必須なことだという国民の意識と行動が最も大事ということではないでしょうか。


今日は敬老の日です、老人は何をしたら?

2024年09月16日 12時30分07秒 | 文化社会

敬老の日が国民の祝日になったのは1966年からで、老人福祉法の制定に伴ってということになっています。

それまでも敬老会というのは全国各地にあって、日本では「敬老」という意識が定着していたように思うのですが、戦後21年たって、日本経済も高度成長のおかげで少しは余裕ができ、まだまだ年金制度などは不十分でしたが、日本人の持つ「敬老」という美徳を国として明確にしようという所まで到達したのでしょう。

世界でも敬老を国民の祝日にしている国は、僅か数か国というのがネットの情報ですが、子の祝日は、いかにも日本らしいという感じがします。

そんな事を言っている私も昨年卒寿を越えた老人です。大事にしてもらえるのは有難いですが、個人的には、敬ってもらうだけでは何か気が引けるような感じもします。

昔から日本には、自分たちを生み育ててくれた老人を大事にしたいという気持ちは強かったのでしょうが、それと同時に、家族の負担になる老人に対して割り切った行動も必要という生活上の現実もあって、それはいわゆる「姥捨て」という行動(習慣・掟)という形で表れていたようです。 

年寄りを大切にしようという心根と、経済的可能性の限界の狭間で昔から日本人は困難な解決策に悩んでいたようです。

わたしの記憶している民話が2つほどあります。

1つは、殿様が「灰で縄をなって献上せよ」というおふれをだし、家に隠していた年取った親に聞いたら、「なった縄を塩水につけ、それを焼けば灰の縄ができる」と教えてくれたという話。もう一つは、また別の民話で殿様の命令で、曲がりくねった木の穴に糸を通せというので、隠していた親に聞いたら、「穴の出口に蜜を塗って、穴の入口に蟻に糸をつけて放せばいい」と教えてくれたという話です。

共に殿様に大変褒められ、「実は年取った親におそわった」といったところ、殿様は感じ入って、どちらの殿様も老人を捨てる習慣をなくすようにしたということになっています。

こうした民話は日本各地にあるようですが、日本では昔から、自分を生み育ててくれた親を大事にしようという心と、経済的制約のあいだで、悩んだのでしょう。

これは決して、貧しい時代の日本の話ではありません。今も世界の先進国は何処でも社会保障の問題で、悩みに悩んでいるのです。

現に、今日の日本でも、年金問題は大変です。高齢化問題では最先端を行く日本ですから、同時に、もともと高齢者を大切にしようという優しい心根の日本人ですから、政府は板挟みです。

しかし、高齢者問題ばかり心配していましたら、出生率は落ち、若者の数が減って、年金財政を支える若い人口が伸びないという状態が深刻化し、今度は子育ての支援の積極化を考えようと計画を作ってみたが、その計画を実行するための財源のめどが立たないというお粗末の一席になったようです。

今の日本社会は、昔のように、絶対的窮乏の社会ではありませんから、GDPの配分を適正化すれば、何とでもなると思うのですが、日本の殿様はその気はないようです。

ところで、民話の年寄りは、さすが良いことを教えてくれて、殿様を感心させるのですが、私も戦時中の経験も生かして「戦争ほど無駄でばかばかしい事はありません。戦争は絶対やらないほうがいいです」とこのブログでもいつも言っているのですが、それを聞いて感心してくれる殿様もまだ日本にはいません。


<月曜随想>日本は日本の得意な道を生かそう

2024年09月09日 14時27分17秒 | 文化社会

世界の国々には、それぞれのお国柄があります。日本にも、日本のお国柄があり、いろいろと注目されるようになったようでインバウンドが増えています。

そういうと、「そんなの自惚れだよ。インバウンドが増えているのは円安のせいだよ。」という人もいます。

多分本当のところはその両方でしょう。日本は島国で、高度な文化は殆んど海外から入って来ましたから舶来崇拝は、知識人、文化人の伝統のようにもなっていた面もないではありません。

しかし人の国際移動の一般化し、更にはネットの普及で、舶来崇拝は、一部、ボジョレヌーボーの輸入は日本が世界一という事などを残して消えて来たようです。

今後重要になってくるのは、自分のことなので気がつかなかったといった日本の得意な面を、客観的な視点から意識的に発掘し、それを使って世界に貢献するようなことを大いに推進し、世界に役立つ国、世界に必要な国と見られたり言われたりする国になるという道が日本の重要な選択肢になるのではないでしょうか。

考えて見ますと、日本は太平洋戦争で廃墟のような状態になって以来、北海道、本州、四国、九州の4つの島だけになってから著しい経済発展をしました。

資源がなくても、自分の得意の分野で付加価値を作れば、世界第二の経済大国にもなれることを実証し、そのやり方をアジアの国々に広めた結果21世紀はアジアの世紀という状態になることに大きく貢献したといってもいいでしょう。

中国の発展も日本の科学技術の発展に倣って、高付加価値製品の生産で世界の工場となることで成功しましたが、日本のようにお行儀がよくなかったので、アメリカとは喧嘩になり、アジアの国々に対しては高利貸のような関係になって行き詰まっています。

もう少しお行儀をよくすることも、日本から知識・技術移転とともに移転出来ていれば、アジアの平穏、自由なインド太平洋の実現には大いに役立ったのではないでしょうか。

生産技術だけ移転ではなく、これからも、日本が、お行儀をよくすることにも協力するようにしたららどうでしょうか。没交渉や敵対は、最悪の選択ですね。

日本文化の特徴には神仏習合があります。日本人は殆んど近所の神社の氏子であり、歴代の墓のある寺の檀家です。鎮守のも森のお祭りも、盆、お彼岸の法要もやります。さらにはクリスマスもイースターもカーニバルもハロウィーンもやります。これは、人類の培った多様な文化に興味を持っているからでしょう。

嘗て、明治維新の際に、狭量なリーダーによる「廃仏毀釈」もありました。しかし、国民大衆は、そんな国の方針はなし崩しに無視し、今に至っています。

これが日本独特なのか、それとも「大衆」にとっては、世界でも、ある程度一般的にも言えるのか、私には解りません。

しかし、宗教は人の心や霊の安らぎを願うものであれば、寛容のベースである宗教の相互理解もありうるのではないかと思うところです。

日本はかつて世界宗教者平和会議の第1回世界大会を京都で行っています。こうした人間の思考方法の普及やそのための行動を、地球人類の将来の平和への可能性を開くという視点から、これも日本人の特性として行動の選択肢に入るものかもしれません。 

もう少し具体的な産業社会の事象を書こうと思っていましたが、それは、またの機会になってしまいました。


<月曜随想>結果かプロセスか?

2024年09月02日 14時37分34秒 | 文化社会

大谷翔平選手の活躍は凄いですね。昨年は投手と打者の2刀流、今、年は、投手役はお休みですが今度は打者と盗塁、やる事何でも記録を作ってしまいます。しかもいつもニコニコで楽しそうです。

天賦の運動神経と体力に、優れた人柄、羨ましいと思う人は多いかもしれませんが、あの記録を生み出している最大の原因は、大谷選手自身の努力だと解っている人も多いのではないでしょうか。

大谷選手のことはテレビや新聞でしか知りませんが、私もそう思っています。

ところで、分野は全く違いますが、経営学で良く出てくるマネジメントの手法に「目標による管理」と「結果による管理」というのがあります。

両者の関係から言えば、仕事を達成するのに、先ず「目標」を明確にし、目指す所を明らかにして「よしやろう」という気を起こさせるのでしょう。そのうえで出された「結果」によってその人間やグループの評価をするということになるわけです。

確かにこれは大事なことで、まず行く先がはっきりしないと人間は適切に動けないでしょう。

そしてその成果が出たら、それによって判断して、評価を決めるというのはそれなりの合理性があります。

しかし、経営学で「プロセスによる管理」というのは聞いたことがありませんでした。結果が出るまでのプロセスは、仕事をする本人たちにお任せということになっていたのでしょうか。

当然のことですが、仕事の出来具合は、そのプロセスでどんなことが起きているかで決まってくるのです。

「明日朝までに、これを纏めといてくれ」と命令して。明朝「これじゃ駄目だよ。やり直し」と言って、プロセスに無関心でいますと過労死につながる事さえあります。

やはりプロセスが大事だと気付いて、生まれたのが人間関係論で、どうすれば人間本気になって課題に取り組むかということで、人間の性格論や心理学に関係する分野に入っていったのが「リーダーシップ理論」や「動機付け理論」「交流分析」などの人間工学といわれる分野です。

こうした理論的発展は、ほとんどがアメリカの経営学の発展の中で生まれたもので

っすから、アメリカン・ドリームのアメリカでも、結果を出すにはプロセスが大事ということに気づいていたのです。しかし、その後の長期不況の中でアメリカも日本も「結果中心」に戻ってしまったような気がします。

話が飛んで、国の経営である政治の世界で見ても、安倍、菅、岸田政権の時代になって、目標のスローガンは次々出てきますが、ほとんど結果が出ません。プロセスの検討・研究、その重要性の認識に欠如があるようです

考えてみますと、やっぱり素晴らしい結果には、その前提となるだけの確りした「努力」のプロセスがあったと考えるのが本当でしょう。

嘗てスポーツでも「巨人の星」の様な根性モノ全盛の時代もありました。根性モノは今は余り流行らないようですが、大谷選手にも、子供のころからの長い努力の日々というプロセスがあったと考えるべきでしょう。

その努力のプロセスを、元気に真面目に楽しくやり遂げた結果が今の大谷選手なのではないかと思っています。


<月曜随想>報復の応酬か和解か、その原点

2024年08月12日 17時06分47秒 | 文化社会

ハマスが積年の圧迫に耐えかねて暴発、イスラエルを攻撃しました。イスラエルの報復は異常に執拗で、「ハマスの殲滅」という言葉さえ聞こえ、ガザは戦禍の地獄の様相です。

更にイスラエルはハマスのリーダーをイラン国内で、無人機で爆殺しました。イランはこの暴挙を主権に関わるものと怒り、報復を宣言しました。  

日本もかつて新興国だったころ、列強の禁油政策などに対抗、国運を賭ける気で太平洋戦争を引き起こしました。結果は世界で唯一の被爆国にもなり、主要都市はすべて廃墟と化し、膨大な民間人の死者を出しての敗戦でした。

あれから今年で79年ですが、その間日本からは報復という言葉も、原爆投下に対する恨みの発言もありません。

原爆投下に対しては、投下国アメリカの大統領と日本の被爆者代表が、「世紀の和解」をしているのです。

そして今、日本はこれからも戦争をしないという平和憲法を掲げ、世界を平和にしようと呼びかけているのです。

多くの国が戦争を経験しています。もし戦争をした国が、たとえ負けても、それを恨みや報復の形で記憶するのではなく、戦争は勝っても負けても、破壊と殺戮の経験でしかない、もうそんな事はやめようと思えば、戦争はなくなるのです。

そう考えてみますと、日本に出来たことが、なぜ広く一般的にならないか、という問題が残ります。

日本は特殊な国で、一般的には日本のようなことはできないし、そんな屈辱的なことはやる気もない、というのが世界の常識なのでしょうか。

われわれ日本人は、特殊でしょか。「過ぎたことは水に流して」という考え方は今は未来志向と言われ尊重されています。日本人が特殊なら、なぜ?

この問題は長い間いろいろと考えていました。

日本については、縄文1万何千年の間、多様な過去とDNAを持つ人間集団が日本列島という閉ざされた、しかし恵まれた自然環境の中で、平和共存して混血し、あたかも純血種のような日本人になったという経験が基底にあり、人間はみんな同じ様であると考えるようです。

もっと昔の話ですが、10万年ほど前、アフリカを出て、ユーラシア大陸に拡散していった現生人類(ホモサピエンス)は、現生人類でない旧人類が先住民として生活している所にいわば入植したのです。ヨーロッパ地域にはネアンデルタール人が、その東にはデニソワ人がいました。

ネアンデルタール人は2万年ほど前までは生存していたといわれますが、すべて絶滅しています。問題は原住民と入植者の関係です。

かつては現生人類は旧人とは交雑しなかったといわれていましたが、いまはDNAの研究から、交雑したことが解っています。しかし、彼らは現生人類に滅ぼされたのではなく、生きる力が弱く、次第に絶滅したという説が主流です。

しかし、40万年ほども前からヨーロッパに住み着いていたネアンデルタール人が、現生人類がアフリカを出てヨーロッパに拡散しはじめてから僅か何万年かで絶滅してという事は、対立や争いがあり、現生人類がその知能の高さをもって、彼等旧人の絶滅を速めたと考える方が自然でしょう。

次は千数百年ほど前の話です。現生人類は、アフリカを出て、何万年かで南アメリカの南端まで広がったといわれますが、その後ヨーロッパで高度な文明を築いた人たちは、改めてアメリカ大陸を発見し、そこに入植しました。しかしそこにはすでに同じ現生人類ですが、文明の発達の遅れた先住民がいたのです。インディアン、インディオです。そこで何が起こったかは誰もが知っています。

次は戦後の話です。戦後イスラエルという国が建設されました。そこはパレスチナと言われえる土地で、アラブ人主体の先住民がいました。多分史上最後の先住者と入植者の問題という事になるのでしょう。

それ以上は書きませんが、先住民と入植者という問題はいつの世でも大変厳しいようです。

日本列島には先住民はいませんでした。入植者がいなかったとも言えます。そうした葛藤のなかった日本人は、葛藤に縛られない、対等で平和な考え方に行き着いたのかもしれません。

まだまだ答えに到達しませんが、こんな要素も、人間や、国の行動に関係があるようにも思われます。


<月曜随想>自然と不自然:人間の感覚

2024年08月05日 15時31分15秒 | 文化社会

このブログでは「自然」ということばをよく使うと思っています。

特に意識して使うというわけではありませんが、物事をスムーズに描写したいと思うと自然に「自然」という言葉を使ってしまうようです。

そんなことで、なぜそういう事になるのか考えてみようと思った次第です。

生れは山梨県甲府市で、昔から山紫水明を謳う土地です。小学校6年の7月6日夜甲府市は空襲で焼け野原になりました。子供心にも、一夜の空襲で我が家も含め一面焼け野原になった光景は、自然とは真反対の不自然極まりない光景でした。

甲府盆地は四方を山に囲まれ東の笛吹川、西の釜無川、県南で合流して富士川と、何処も山紫水明の地です。

甲府盆地と言わず、日本はどこに行っても殆んどが山紫水明の地ですから、そうした中で日本人は緑と水と人間の生命につい繊細な感覚を身につけてきたのかもしれません。

日本は今でも国土の7割が森林という事で、フィンランドとともに稀有な森林比率を持つ国ですが、自然環境に強い影響を受ける人間にとって、自然との関わりを大事にする本能的な性向を持つ日本人の心の原点かもしれません。

ところで日本人はもちろん、30万年ほど前にアフリカで生まれ、その一部が10万年ほど前にアフリカを出て世界に広まった現生人類は、基本的に46億年の地球の進化の歴史の結果として,現在地球上に存在しているという事でしょう。

多分宇宙の塵から始まり鉱物の生成、水を得、無生物の世界に有機物が発生し植物が生まれ葉緑素の作る酸素で呼吸する原生動物が生まれ、それが進化して現生人類になったのでしょう。

その進化の過程では、多様な突然変異が起き、その大部分は失敗で、ごく一部が種の保存に成功して、出来上がってきているのが現在の生態系なのです。

現生人類はその進化、成功した突然変異の累積の結果として現時点での進化の頂点にいるのです。

エリッヒ・ヤンツは「自己組織化する宇宙」と言いましたが、宇宙が意識を持つかどうかは別として、地球の生態系の進化も、存続に成功した突然変異の結果と考えれば、その頂点にいる現生人類の体内の組織のあらゆる部分にそのメカニズムは組み込まれているはずです。

そしてそれこそが、人間そのもの、そして地球上の生態系の織りなしている「自然」なのでしょう。

つまり今生きている自然は、そのまま生態系の存続、種の保存のための在り方そのものなのでしょう。その頂点にある人間は高度の思考能力まで持つに至りました。

ならば、脳を含め人間の体の組織が「自然」だと受け取る感覚こそが、人間をここまで進化させた原因の集積で、それが、人間に「自然だ」と判断させるという事でではないでしょうか。

逆に、人間に「自然でない(不自然)」と感じさせるものは、人間の進化の過程にそぐわないもの(事)と判断されたという事になるのでしょう。

難しいことがあったら、素直な自然の感覚に従って「自然か不自然か」判断すれば、多分間違いは少なくなるのではないかと思うところです。


五輪と戦争の並行状態、人類の叡智の退化

2024年08月04日 14時50分53秒 | 文化社会

ウクライナとパレスチナという地球上の2か所で悲惨な戦争が続く中、ローマ・オリンピックは世界中の熱狂を盛り上げながら、開幕し、進展しています。

マスコミも、オリンピックについての報道が圧倒的に多くなり、この間は戦争のニュースめっきり少なくなっています。

オリンピックの間は停戦しようという提案はありました。これは、かつて古代オリンピックの間は停戦をしたという古代ギリシャ人の知恵にちなんだものです。

しかしその提案は殆んど顧みられることもなく戦争は継続されています。人間の叡智は退化しているのでしょうか。

報道の量が少なくなったとはいえ、現地では何も変わらず悲惨な状態が続いっているのでしょう。

そして戦争に直接拘わらない国の人々は、やはり、オリンピックの方に熱狂するのです。(私自身も含めてです)

勿論それを批判することはできないでしょう。人間は、悲惨な戦争は嫌いなのです。勝っても負けても、更にその上を目指すという健全なスポーツの祭典の方が、人間性に合致しているからです。

人間は向上志向を持っています。その発現の形態として、「競い」と「争い」があるのでしょう。そして人間は本来「競い」の方を善きものとし、「争い」については否定的なのです。 

しかし、時に人間の得た知識、置かれた環境条件が人間の本来の意識を歪めるこがあり、その時、「競い」に対し「争い」を優先するといった人間性の本来を逸脱する意識や行動が生れるのでしょう。

前回は「8月上旬は憂鬱な日々」と書きましたが、今年の場合は例年の憂鬱に加えて、人間の殺戮と環境や文化の破壊を「人間の手」で行うという戦争が、地球上に現存し、オリンピックと同時に日夜継続していることが、(私も含め)多くの人の心を憂鬱つにしているのではないでしょうか。


8月の前半は毎年憂鬱な日が続く

2024年08月02日 14時38分59秒 | 文化社会

8月の前半は毎年憂鬱な日が続く

日銀は十分な配慮をもって、実体経済にもマネーの世界にも、余計なトラブルを起こさずに、日本の金融政策の変更に方向転換しようと努力をしたのでしょう。

しかしその思いは果たせずに、マネーの世界は先の見えないような混乱に陥っているようです。

マネーゲーマーたちのそれぞれの思惑が成功するか失敗するかは、また、それぞれでしょう。

日本にとっての本当の問題は、日銀が新しい方向を打ち出した政策を生かし低迷を続けてきた日本の実体経済を健全な方向に進むように政府、金融業界はもちろん、産業界労使も真剣に、協力して取り組むことでしょう。

ところで、今日「8月前半は憂鬱な日々」とかきましたが、これは、株式市場の暴落とは関係ありません。

本来8月と言えば夏休み。 行楽、お盆の帰郷といった、暑いけれども楽しみも満載といった月なのです。

しかし、日本では、8月といえば、6日は広島、9日は長崎に原爆が投下された日なのです。 世界史に残る惨劇を経験した日本、日本人にとってはこの現実は心の傷としていつまでも残るのです。

憂鬱というのはその心の傷のことだけではありません。 人類はその悲惨な経験を持ちながら、相変わらず戦争を続け、核弾頭の蓄積をやめず、核の使用も辞せずと相手国を威圧するといた行動を続けていることです。

そして驚くべきは、あの戦争の惨禍を経験し、世界唯一の被爆国である日本の政府が、平和憲法を掲げながら、集団的自衛権の名のもとに戦争をする国に向けて動き出し、核禁止条約に不参加の態度をとり続けていることです。

過去の悲惨な経験から何も学んでいないような政府を持つことは、国民にとっては最大の問題なのです。

こうしたことの進展はこの10年ほどで大きく変化しました。 かつては田中角栄総理が「戦争を知らない世代が政治の中枢になったときは危うい」と指摘していますが、今はまさにその世代なのです。

このブログでも、かつて「人の噂も75日、戦争の記憶も75年」などと冗談めかして書きましたが、今やそれが現実になっているのです。

表題にも書きました「8月前半」というのは1945年8月15日、日本は、それまでの戦争の時代を卒業、平和国家への時代に入ったからです。

「終戦の詔勅」で敗戦を知った我々多くの国民は、それから一転して平和の時代に生きることになり、その大きな落差、人間の生と死を分ける落差を知り、平和憲法を是としたのです。

戦争を知らない世代とはこの落差の経験を持たない世代という事でしょう。 この落差を知れば、通常の人間は、本能的に平和を求めるでしょう。

今、ウクライナで、パレスチナで戦争が行われています。 悲惨な戦争の状況は映像経験であっても正常な心の持ち主には、実体験と同じほどに戦争の現実を伝えていると思います。

しかし一部には、それが伝わらない人がいるようです。 おそらく、人類社会に無関心な人、さらには特定の(多分歪んだ)意識、信条を持っている人などでしょう。

今、日本を戦争をする国に引っ張って行こうといている人たちに、出来得れば、たとえ戦争を経験しなくても、多様な情報経験から学び、優れた感受性や洞察力で、戦争より平和という人類の願いを体感してほしいと願っています。 夏休みを存分に楽しむためにも。


驚愕の変化と活力、アメリカの民主主義

2024年07月25日 16時24分40秒 | 文化社会

トランプさんが演説のステージで軽くステップを踏めば、共和党支持者は赤い野球帽を振り上げて熱狂するのです。

これが政治活動で、民主主義の原点で、アメリカという世界の覇権国、代表的民主主義国の選挙活動の1シーンで、タレントのフェスティバルではありませんと言えば「アメリカの大統領選挙って人気投票みたいだ」などといわれそうなTVの番組をずいぶん見てきました。狙撃をかすり傷で免れたトランプさんが耳から血を流しながら拳を振り上げ健在をアピールし、聴衆が熱狂するシーンも見ました。

対する民主党のバイデンさんは、高齢と名前のいい間違いなどで冴えず、党内部からも懸念する声が出て、結局、大統領選出馬を断念しました。

後任には副大統領のカマラ・ハリスさんをという意向は示されましたらが、直ちには決まりませんでした。反対論もあったようです。 

しかし結果はハリスさんに決まり、一旦決まると、民主党の動きは徹底したものでした。

ハリスさんは新しい風、当選すれば、アメリカ初めての女性大統領、白人系ではなくガラスの天井を破る存在といった評価もあり、その活発でリベラルな思想・行動を評価し、ベストの民主党大統領候補という徹底したキャンペーンが始まっています。

既にトランプさんと互角という世論調査、一部のにはハリスさんリードという結果もあるようです。

大統領選挙まであと100日、時間がないという事もあるかもしれませんが、その素早さと活力は驚くべきものです。

同時に、候補が決まれば、それには民主党支持者が熱狂するという大衆のエネルギーが、アメリカの民主主義を支えているという事なのでしょう。

こうした様子を見ていますと、同じ民主主義とっても、アメリカと日本では、民主主義の在り方がずいぶんと違うようだという感じを強くします。 

アメリカの民主主義は二大政党という形で発展してきています。最近分断が心配されたりしていますが、アメリカ国民という誇りは強く、基本的には一体感を持っているのでしょう。

リベラルな思想、民主主義の尊重、先進的な思考など、共和党、民主党とその支持政党は違っても、多数決は尊重するという割り切り、選挙で敗れれば潔く負けを認める、(選挙結果を認めなかったのはトランプさんぐらいですか?)、そして次期政権を目指す。

アメリカの大統領選挙は民主党・共和党がより多くの国民の支持を求める「祭り」なのでしょう。

これで戦後80年近く覇権国の地位を保ってきたベースには、世界の優れた人材を集めることが可能な国という伝統があるからではないかと思われます。

そうした高度は知識層が、かわるがわる時の政権を支え、アメリカ自体の活力と先進性を確保しつつアメリカという国を支えて来ているのだと感じるところです。

アメリカと日本の民主主義の形の違い、国民の意識の違いを考えながら、民主主義を支えるために基本的に必要なものとは何かをもう少し考えてみたいと思うところです。


民主主義国日本への冒涜を許すべきではない

2024年07月08日 14時41分41秒 | 文化社会

東京都知事選挙が終わりました。ここでは結果について云々するものではありません。選挙の結果は有権者の判断の結果として、民主主義の基本的なルールに基づき最大限尊重されるべきでしょう。

ただ、今回の都知事選では、一部に、都民、さらには日本国民の品位を貶め、民主主義を冒涜するような行為・行動が横行し、一部ではあるものの、都民の中に、近代国家において最も重要な社会規範ともいうべき民主主義の正確な理解が出来ていないような人たちが増えているのではないかと危惧されるような事態が起きてしまっているのです。

先に「つばさの党」と名乗る集団に、選挙妨害で司直の手が入りました。これは明らかに他の候補者の選挙活動を妨害すると判断されたからでしょう。

今回の都知事選における、理由の判然としない大量立候補、都の用意した立候補者用の立て看板の乱用といった問題は、民主主義の重要性を認識し、選挙をその基本的な活動として重視する真面目な都民にとっては殆んど理解できない行動ではないでしょうか。

民主主義というのは、人類社会の進歩発展の中で、長老やシャーマンの支配から武力による征服・王政、世襲制や独裁者の誕生など経て、現代の人類社会が行き着いた、まさに現状においてベストな政治体制という事ではないでしょうか。

そして現在、日本も民主国家である事を誇りとし、より良き民主国家の建設を目指して国民は協力すべき立場にあるはずです。

もちろん日本だけではありません。いずれの民主主義国であっても、多くの国民は真面目により良い民主主義国家の実現を目指して国民全体のために真面目に行動することが求められているのでしょう。

たとえば多くの国で、選挙ではみんな投票しましょう、「棄権は危険です」などという標語も作られ、すべての国民、有権者に呼び掛けているのです。

これは、その国や社会をより良いものにしようという真剣な努力にほかなりません。

選挙という活動は、こうした国民、都知事選であれば都民のこうした真面目な努力よって成立しているのです。

それに対して今回の都知事選で見られた多くの人の顰蹙を買うような行動は、真面目な活動であるべき選挙活動のまさに「乱用」というべき行動で、それによって起きる混乱や不信、様々なトラブルは都民の真面目であるべき選挙を冒涜するものであり、詰まりは、大切にすべき民主主義そのものを無理解の果てに冒涜し、社会の安定発展にトラブルを持ち込むものでしかないでしょう。

棄権が民主主義の市場中都合や発展対する貢献がゼロとすれば、今回の民主主義を冒涜する行動は、民主主義を破壊するマイナス点であり、民主主義の社会的ルールに対する犯罪行為ではないでしょうか。

人倫に反することが公序良俗に反する犯罪であるとすれば、民主主義の冒涜は、民主社会秩序違反という犯罪に相当すると考えるのが本来の民主主義の理念で、民主主義社会の規範であるべきでしょう。  

法整備が必要であるならば、早急に手当てし、こうした民主主義への冒涜が日本において今後も横行し、さらに拡大するようなことがないようにすることが、日本にとって、より良き民主主義国家への前進のために必要ではないかと考えるところです。


「オリンピックと戦争」「競いと争い」:人類の課題

2024年07月06日 15時37分43秒 | 文化社会

ロシアとウクライナ、パレスチナとイスラエル、2つの深刻な戦争という事態が解決いない中で、「パリ・オリンピック」が開催されます。

古代ギリシャのリンピックでは、オリンピックの期間中は戦争を中止するという取り決め があったとのことです。

普通の人間の常識で考えれば、それなら戦争なんかしないで、オリンピックで競争すればいいと考えるのではないでしょうか。

古代オリンピックはもう2000年以上も前のことですが、今21世紀の世界では、古代ギリシャのオリンピックが近代オリンピックとして復活し、4年に一度世界人類が楽しんでいるのです。

人類の文化が順調に進歩していれば、世界中が楽しむオリンピックは復活しても、同じ人間同士が殺しあう戦争などはとっくになくなっているはずだと考えて当然でしょう。

ところが2000年以上たった21世紀でも、人類はまだ戦争をしているのです。

しかもオリンピックをやっている最中ぐらい戦争をやめて、オリンピックに集中しようと考えた古代ギリシャの知恵も失われ、オリンピック中も戦争を続けようという事のようです。

この現実に関する限り人類の文化は2000年以上たっても、まったく進歩しないばかりか、退歩、劣化しているのです。

何年か前の文化の日に「争いの文化」と「競いの文化」について書きました。その後も折に触れて取り上げていますが、現生人類はその発生以来、この2つの文化(本能)を持っているようです。

しかし生物として異常に発達した脳を持つ現生人類は、その脳の活用によって「相手を倒して優位を保つ争いの文化」を否定し「互いに競って高めあう競いの文化」に則った行動をすることは十分可能なはずです。

現に社会のほとんどの分野では「競いの文化」が常識で、争いの文化が残っているのは国と国との関係に限られてきているようです。

自らを正しいとして人を殺すことは一般社会では犯罪です。それが許されるのは国と国との関係においてだけではないでしょうか。

しかも通常の国際関係の中ではそれは許されないでしょうし、一般の人々も許されるとは考えないのではないでしょうか。  

ただ偶々「独裁者」に率いられた国が独裁者の意向に忠実に「争いの文化」に従って行動しているというのが現状でしょう。

問題は絞られているのです。まずは世界の国が、独裁者をリーダーにしないこと、また独裁者を作らないことに、人類の総意として取り組むことでしょう。

担当する人類事務局は、差し当たって国連でしょうか。


日本の伝統文化を政治に生かす・続

2024年05月22日 14時05分22秒 | 文化社会

前回は政治が国を経営する事であるあらば、日本的経営の優れた点を政治にも生かせるはずだという事で「人間中心」と「長期的視点」の経営という点を挙げてみました。

職務中心という欧米の経営でも人間の大切さは、エルトン・メーヨーのホーソン実験以来の「行動科学」の発展の中で理解されているところですが、経営の原点が「利益」ですから、人間の重要性は「利益」実現のための手段としての重要さにとどまっています。

余計な事を付け加えれば、政府の「働き方改革」は、欧米流の経営を土壌の違う日本に移植しようとするもので、上手く育たなくて当然なのです。

ところで今回は、比較的意識の揃っている人間集団である企業と、それよりずっと大きくてメンバーの意識、思想、理念がずっと多様な人々を包括する「国」の経営について企業との違う部分を考えてみます。

国の場合は政党が分かれているように、国の経営の進め方について多様な考え方の集合体です。それを無理に1つに纏めようというのが独裁制で、その失敗を避けるために生まれたのが民主主義でしょう。

民主主義は「より多くのメンバーの支持する考え方で行きましょう」という事で、考え方の違う人も、一旦多数決で決まったら、当面それに従いましょう。という多様性の平和的共存を前提にしています。

ただし経営を担当する期限を決めて、別の考え方の人がより多くなったら、その考え方にしましょうという柔軟で、異なった意見の平和共存を可能にするように工夫された制度です。制度的には、定期的な選挙・投票、多数決というのが具体的な方法です。

株式会社でも従業員という集団においては必ずしも多数決での決定ではありませんが、株主という集団では多数決・民主主義が原則です。

ところで、平和共存を可能にする民主主義については日本の伝統文化はどんな位置にあるのでしょうか。

多くの研究によれば、日本の伝統文化の源流を形作った縄文時代1万何千年、日本列島では戦争がなく、奴隷制度もなかったとのことです。しかも日本人は世界でも有数の多様なDNAを含むのです。日本人はユーラシア大陸各地や太平洋の島嶼から移住した多様なDNAの人々が各地で集落を作り交流混血しつつ平和共存し、広汎な交流、交易が行われていたとされています。(糸魚川からの翡翠の道、長野からの黒曜石の道など)

良質な産物の地域を独占しようと戦をするのではなく、交易によって共益を大事にするといった文化が育っていたようです。

人間集団、組織の運営については、考古学的なものではなく、後世に残された記録や、日本各地に残る風習などによることになるのでしょうが、注目すべきは聖徳太子の17条憲法の第17条「夫れ事は独りにて断ずべからず。必ず衆とともに論ずべし」ではないでしょうか。

これは権力者の意思決定ついての最も大事な点をズバリ指摘しています。

山本七平氏が日本の人間集団の意思決定について指適されているのは「一揆(当該人間集団の意)に諮り・・・」といった言葉です。物事を決める時の用語でしょう。

勿論、民主主義などという言葉のなかった時代の話ですから、こうした表現になるのでしょう。しかし、その意図は明らかです。独断専行、独裁制は決して良い方法ではないことを明確に言い表していると思います。

今の自民党の国会議員の諸氏に、確りそうした物を見てほしいと思うところですが、見てもらっても、「その通りで、みんなに相談したら、政倫審の求めには応じないというので、私も・・・」なんてことになりそうな気がします。


日本的経営を日本の政治に生かす

2024年05月21日 13時50分10秒 | 文化社会

このブログのよって立つ基盤は「付加価値」です。

上の緑の枠の下部のサブタイトルにも「付加価値をどう作りどう使うか」と書きましたが、私自身迷った時はここに帰って考えます。

付加価値というのは「人間によって付け加えられた価値」です。ですからこれは人間が使う事が出来ます。そして、どう使うか(種籾をどのくらい残しておくか)で明日の付加価値の大きさが決まります

太昔の話です。作物を育てるのには水が要ります川はありますが水は大雨であふれたり日照りで涸れたりしますから集落の人が集まって溜池を掘り水の供給の安定化を図ります。溜池が大きい方が収穫(付加価値)は安定して増えます。収穫は皆で分けます。

これを現代の企業に置き換えれば、企業の人々が働いて付加価値のある商品やサービスを提供し、社会を豊かに快適にしています。そして作った付加価値の一部を利益(資本形成)として確保し、企業の明日の発展に使います。

こうした付加価値の創造と分配の構図は、大昔から今日まで変わりません。変わったのは、貨幣が生まれ、付加価値は金額として計測可能になり、付加価値創造に参加する人が、集落の人から、経営者、従業員、株主、金融機関、コンサルタント、などと分業により多様になった事でしょう。

複雑化した参加者(スークホルダーズ)はみな人間です、そこで日本的経営では「人間中心の経営」が一つの柱です、も一つは「長期的視点の経営」です。これは昔の人が集落のいつまでも繁栄する事を願ったように、長続きしないと社会が困るからです。最近の概念ではSDGs(持続可能な発展目標)でしょう。

ところで、こんな事を書いたのも、この「経営」という基本概念は、国にも当てはまると考えるからです。

政治というのは、「国家を経営するための活動」に他なりません。企業も、社会も国も、総て人間集団です。

何処の国でも、政府の最大の目的は「経済成長」でしょう。経済成長というのはご存じのようにGDPが毎年何%増えるかです。そしてGDPというのは、その国が作り出した「付加価値」そのものです。

では、大昔の集落の人々と、企業に関わる人々と、日本の国民と、みんな同じ人間集団なのに何が違うかという事になります。

先ず、違うのは規模です、集落なら皆顔見知りですし中小企業でもそうでしょう。しかし大企業、国となりますとそうはいきません。

そこで、知らない人が集まった人間集団を纏めて経営するための方法として、歴史的にいろいろありましたが、今は民主主義が最もいいのではないかという事になっています

こうした視点で考えますと、長い歴史の偶然の産物なのかもしれませんが、日本という国は、その日本的経営という思想の生まれてきた、縄文以来の1万数千年の歴史から見ても、企業経営の理念と、日本を経営する政治理念が、かなり本質的に、同時に合理的にしっくりと整合する「可能性」があるように感じられるのです。

今、残念ながら日本の政治は「混乱状態」そのもののようです。こうしたときに、日本が舶来崇拝で失敗した点は別枠にし、縄文以来の日本の優れた伝統文化に、多くのヒントがある事に気づく必要があるのではないかと思うところです。