tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

介護充実で雇用増を可能にする条件

2009年08月31日 10時45分19秒 | 社会
介護充実で雇用増を可能にする条件
 雇用問題が厳しさを増しています。日本の失業率は5.7パーセントと史上最高を更新しています。簡単に失業率が10パーセントを越える欧米諸国に比べればまだ低いのかもしれませんが、高失業率に慣れていない日本社会です。社会の不安定化が心配です。

 ミザリー・インデックス(misery index:経済の不快指数などといわれる)というのがあります。これは失業率とインフレ率を足したもので、「ミザリー・インデックスが20パーセントを超えると政権が交代する」といわれてきました(例えば失業率も物価上昇率も共に10パーセントなど)。

 確かに、1970年代末から1980年代初頭にかけて、欧米がスタグフレーションに呻吟していた時、欧米主要国のミザリー・インデックスは20パーセント前後に上昇し、アメリカではカーター大統領(民主党)に代わってレーガン大統領(共和党)が登場、イギリスでは、労働党が敗れてサッチャー首相(保守党)が登場、フランスでは、ドゴールが敗れて社会党のミッテラン大統領が登場しています。
 その後のレーガン改革、サッチャー改革でアメリカ、イギリスの経済が復活した経過は事実の示す通りです。
 
 今回の選挙での民主党の圧勝は、政権交代が起こりやすくするという小選挙区制の伏線の上で、自民党に飽きた国民が選択したことなのでしょうが、失業率に大変敏感な日本社会ですから、失業率の高まりによる社会の不安定化も、要因のひとつかもしれません。

 ところで、雇用改善の目玉として、介護や保育などの充実による雇用創出が言われます。
 前回も述べましたが、こうした部門は、極めて生産性が上がりにくい分野です。こうした分野で雇用を増やすということは(雇用には賃金がついていなければなりませんから)、生産性の上げられる分野で生産性を上げることによって、その分の賃金原資を生み出さなければなりません。

 生産性が上がったところでも、生産性上昇ほどの所得(賃金・利益)の増加は実現せず、その分が介護や保育の雇用増に回るという付加価値配分の流れが加速されなければなりません。
 「介護で雇用増を」という場合、こうしたメカニズムが働いて、それが可能になり、それは社会正義に適う良いことなのだという国民のコンセンサスが必要でしょう。

 経済が活性化して全体のパイが増えればすべてやりやすくなるのですが、そうした付加価値の再分配を、価格機構だけに任せるのではなく政府も手を貸そうということで、それを消費税増税で考えるか、当面、国家予算の組み換えで考えるかが、自民党と民主党の意見の相違でした。 さてどうなるでしょうか。


生産性、付加価値分配、雇用

2009年08月30日 16時20分48秒 | 社会
生産性、付加価値分配、雇用
 三題噺のようですが、この3つのバランスがひとつの問題、雇用の安定と個人個人の生活へのアプローチになると考えています。

 第一の生産性ですが、ここでは先ず実質労働生産性を指します。1人の人間が働いて、どれだけの生産物あるいは実質付加価値(通常の場合、従業員1人当たり鉄鋼何トン、自動車何台、輸送何キロトンなどで、値上がり分は含まない)を生み出すかです。世の中には労働生産性が「どんどん上がる部門」と「ほとんど上がらない部門」があります。ただし、全体の平均の生産性が上がれば、その分だけ、人びとの生活水準は上がることが可能になります。

 例えば、製造業とか運輸業 などは、新鋭の設備を入れたりすれば、生産性はどんどん上がります。しかし、介護の仕事などは、なかなか生産性は上がりません。
 ですから、実質生産性の上昇によって賃金が上がると考えれば、製造業の賃金はどんどん上がって、介護の賃金はいつまでたっても上がらないことになります。

 第二の付加価値配分ですが、鉄鋼や自動車は「売れてなんぼ」ですから、配分されるときは売れて得られた金額、(名目)付加価値生産性が基準になります。
 介護や家庭教師などの対個人サービスの多くは、実質生産性は上がりませんが、料金値上がりで、名目生産性は上がりますから、現実には所得が増えます。これは価格機構の働きで、生産性の上がったところから生産性の上がらないところに付加価値配分が移転することです。

 第三の雇用については、こうした価格機構の働きで、生産性の上がる部門と上がらない部門があっても同じような仕事なら同じような賃金が支払われ、生産性上昇の違うそれぞれの部門でもそれぞれに雇用が維持されるということになります。

 価格機構が十分うまく働けば、こうした三者の関係はうまくバランスするのですが、マーケットは必ずしもうまく働かない(談合、カルテル、為替政策、投機などで)こともあります。それなら介護料金のように政府が決めればといっても、これも必ずしもうまくいっていません。

 世の中をよくしようと、一方では自由経済のメカニズム重視、価格機構、市場原理の重要性をいう意見があり、もう一方では、市場の欠陥を指摘し、政府の手による福祉政策を重視する意見があります。その両方を適切に生かすのであれば、その両者をバランスさせる何らかの「ベース」が必要です。
 アダムスミスもレッセフェールと同時に、道徳情操論を書いていますが、日本人は日本人なりの 伝統的なバランス感覚の文化(和の精神、全体と自分のバランスを考える精神構造)を持っていました。
 
 最後の決め手は人間自身です。生産と生活の両面を担う一人ひとりの人間が、他人任せ出なく、常に個々人としても主体的に全体とのバランス (大きくは、人間社会、地球環境との調和)を考えて行動するような、「生活者としての基本的な精神構造」があって、はじめてそうした機能や政策が生きてくるのではないでしょうか。


失業率5.7パーセントに

2009年08月29日 14時47分30秒 | 経営
失業率5.7パーセントに
 今年(2009)の7月の失業率が過去最高を突破し5.7パーセントになりました。
 過去の最高値は2002~2003年5.5パーセントを3回ほど記録していますが、日本的雇用慣行、労使慣行の中では、5.5パーセントを越えることはおそらくないのではないかといった感じを持っていた人も多いのではないかと思います。

 しかし、今回は、一気に0.2%ポイントも高い5.7パーセントを記録してしまいました。これでは場合によっては更に高まることも予想されるような状況かもしれません。
 世界に冠たる日本的経営の基底として日本の経営者が持っていた、雇用に対する伝統的感覚 、「雇用を大切にすることが経営者の重要な使命である」という極めて人間的、人間重視の感覚が欧米並みに麻痺してきたのでしょうか。これは恐ろしいことです。

 かつて日本の経営者は「欧米のように、首を切った企業の株価が上がるような感覚は日本にはありえない」といっていました。これには経営というものに対する長期の視点と人間に対する深い洞察があったからです。
 首切りによる人件費の節減でいくばくかの利益が回復しても、それは社内の人心の荒廃をもたらし、企業内の結束力、人間の凝集力を損ない、企業における最大の経営資源である人的資源の充実蓄積に大きなマイナスをもたらし、企業の発展力を損なうというのが日本企業の共通の認識でした。

 確かに今日、企業経営は厳しい状態にありましょう。しかし見方によっては、最近ではアジア経済に回復の兆しが見え、日本の株価も上昇のトレンドを示しています。みんなで協力し、もう一息耐えて頑張れば、何とかなりそうな気配が見えてきているのではないでしょうか。
 にも拘らず、ここに来て失業率が史上最高を記録するに至ったのは、日本の経営者の中に短期的な利益に拘泥し、雇用に対する倫理感の希薄化、ひいては企業経営における長期的視点の喪失があるように思われてなりません。

 日経連会長から日本経団連の初代会長になった奥田碩氏は「首を切る経営者は腹を切れ」といわれました。今経営者の総本山である日本経団連はなんというのでしょうか。

  こうした経営者の気概の衰退は、日本の企業経営の活性化、日本経済の回復の底力を、確実に弱めていることに早く気がつかなければならないのではないでしょうか。
 苦しかったら「共に手を携えて頑張る」という伝統的思考方法への回帰が早いことを望むばかりです。


 




企業経営の理解のために

2009年08月23日 12時17分09秒 | 経営
企業経営の理解のために
 日本人のほとんどは企業(法人・個人)に関係した経済活動で生計を立てています。最近政府から分かれた独立行政法人にしてもそうでしょうし、さらに言えば、公務員にしても、GDPを生産する日本株式会社の本店や支店(子会社?) に勤めていると考えれば、資本主義経済の中で、基本的には企業と同じ原理で動くはずの組織の中で働いているということでしょう。
 
 ということになると、日本人たるもの、「企業」について十分の理解を持っていなければならないということになりましょう。
  ところで、学校でも企業でも、そのための教育はきちんと行われているのでしょうか。

 私が企業の方々と接触する範囲では、「企業とは何ですか」「会社の役割は何ですか」といった問いに対して、中々十分納得のいく答が出てこないような気がしています。
 もちろん「 利益を出すために活動をする組織です」といった回答はよくあります。しかしそれが本当に企業の役割でないことはすでに明らかでしょう。企業はもっともっと多目的 です。

 企業とは本来、「人間が資本を使って、社会をより豊かで快適なものにするために、人間が考え出した組織」であることは、これまでも繰り返し述べてきました。これを敷衍していくと企業の存在意義や役割が具体的に見えてくるように思います。

 経営教育の基本に、「大きな絵を見せる」というのがあります。企業内で、それぞれの人間の担当するのは全体の仕事の一部ですが、全体の絵を見せて、全体のどこを自分を含め誰がどう担当しているか「全体と部分との関係」を理解してもらえば結果は必ず良いというものです。

 そうした意味でいうと、企業に関わる人々(特に従業員)のすべてに、「企業というシステムの全体像」を理解してもらうことは極めて重要なように思います。

 いわば、「企業活動をトータルに理解してもらう」ことでしょう。それには「トータル・マネジメント・システム」(TMS)という概念を確立しておかなければなりません。
 皆さんも「Total Management System」という「大きな絵」を考えて見ませんか。


最低賃金引き上げ論議

2009年08月20日 10時46分34秒 | 労働
最低賃金引き上げ論議
 最低賃金の改定時期を前にして、今年も引き上げ論議が出ているようです。昔から、最低賃金の論議は理屈よりの感情的なのものに影響されることが多いように感じています。

 最低賃金を貰うような人は弱者で、一生懸命働いてもワーキング・プアーで、気の毒な人たちだから何とかしてあげなければ、といった感じでしょうか。しかしこうした問題は感情論で解決はしないでしょう。無理を通せば、必ずどこかでしっぺ返しが来ます。

 例えば、選挙戦のかなで国家予算の「財源問題」があります。民主党の14兆円の財源はどうなっているのか、などなど。これは健全な論議です。財源がなければ支払えません。

 しかし最低賃金問題では、財源問題はほとんど論議がありません。企業が何とかして払えばいいということのようです。最低賃金引き上げの原資はどこから持ってくればいいのでしょうか。中小企業では、財源のない企業がほとんどでしょう。

 格差縮小という見地からすれば、正規社員など賃金の高い人の分を引き下げて最低賃金上昇の原資を出す、あるいは製品値上げで出す(これは無理でしょう)などでしょう。
 結局、最低賃金引上げは、廃業や雇用削減になることも多いようです。マスコミは日本の最低賃金はヨーロッパに比べて低いといいますが、ヨーロッパの失業率は日本に比べて高いことには触れません。

 最低賃金問題に限らず、賃金問題というのは、それ自体で存在するのではなく、産業構造、雇用構造、労使関係といった日本の産業社会全体の様相が反映されて決まってくるものです。このところの規制改革万能のような風潮の中で、これらの諸構造は、日本的な文化社会的背景の中で善しと感じられるものに比べて、かなり歪んできたのではないでしょうか。

 最低賃金問題も、最低賃金論議に限定せず、最近の格差拡大問題もふくめて、日本の産業構造、雇用構造、賃金構造などの今後のあり方も含め、トータルな論議の一環としてやらなければならない時期になっているのではないでしょうか。


戦後64年、日本人と平和のルーツ

2009年08月15日 22時56分34秒 | 社会
戦後64年、日本人と平和のルーツ
 あの暑い夏の日、真昼の太陽の下で玉音放送を聞いてから、今日で丁度64年になります。64年という数字に特に意味があるわけではありませんが、毎年8月15日を迎えると、特別な感慨を覚える世代として、何か書いておきたいと思ってしまいます。

 昨年は、あのときの日本人が、それぞれにさまざまな感慨を抱きながら、個人も、また国民全体としても確りと己を持した態度のベースになったと思われる承詔必謹について書かせていただきました。

 今年は今日1日、新聞でもテレビでも、例年より多く取り上げられているように感じられる(北朝鮮の問題があるからでしょうか)平和憲法、憲法第九条についての独り言を書くことにしました。

 日本人のルーツは縄文時代にあるように感じています。日本列島に人類が最初にたどり着いたのは2万年前から1万5000年ぐらい前のことでしょうか。その後も多様なルートで、長い時間をかけて、多様なDNA系統が入ってきているようです。

 今では、日本人が、他に例をみないような多様なDNA系統で構成されていることが明らかになっている(崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅』)とのことですが、こうした多様なDNA系統が日本列島の中で混じり合い、1万年ほどの縄文時代を経て、極めてホモジニアスな日本人となったのです。

 しかも、専門家の研究によれば、縄文時代は戦はなかったらしいということなのです。
 多様なDNA系列が、戦うことなく共存して作り上げた縄文文化、これはまさに日本の成り立ちの中で、特筆すべきことではないでしょうか。

 その後、青銅器、鉄器を持った人々の流入は、日本に戦をもたらし、倭国大乱などと中国の歴史書にかかれますが、日本人の心には、多様なDNA系列の人々が、平和共存の縄文文化1万年の中で、あたかも純血のごとき日本人を作り上げたプロセスの記憶が、その基底として(海馬の中に)残っているはずです。

 今、日本人は、人類の文化の何百年先を先取りした「戦わない」という憲法を持っています。これは縄文の記憶を持つ日本人の心の基盤にしっくり来ているのでしょう。

 あまり時代を先取りしすぎると、いろいろ苦労するものです。しかし、世界はその方向に動いているのですから、苦労をしても、この先取りを続けていくのが日本人なのではないでしょうか。


経済の再活性化:自信を持って自ら行動できる国に

2009年08月14日 10時42分31秒 | 経済
経済の再活性化:自信を持って自ら行動できる国に
 日本の経済活性化の問題をいろいろと考えてきました。そうした中から何となく明らかになってきたのは,これは経済学の問題というより、「社会学、政治学の問題に大きく依存している」ということではないでしょうか。そんな風に感じられてなしません。

 労使の努力で インフレ、スタグフレーションを防いで、ジャパン アズ ナンバー ワンになっても、プラザ合意の円高 でその努力は一朝にして潰え去りました。その結果の日本経済空洞化の中、外からのアドバイスで内需拡大 をやれば結果はバブルで、その崩壊によって、今の世界の金融危機の苦しみを一足先に味わうことになりました。日本は開かれていないといわれ、構造改革をやれば、骨太改革は、格差社会という骨太の痛みとなってはね返って来ました。

 よそから言われたことをやっても碌なことはないようです。こうして失われた10年この方、日本経済は長期の低迷の中にあります。
何万年も島国で、海外からの文物 を尊んで来た日本ですが、その咎めが来ているのかもしれません。今の世界は昔のように広くもないし、鷹揚でもないようです。

 ところで、最近の若者は「指示待ち族」になっているなどという人もいますが、本当は、日本自体が、自分の積極的意思を持たず、海外からの指示を待って行動していたのではないでしょうか。
 
 日本人は、勤勉でよく働きます。そして、自分でもそれを美徳だと思っています。しかし勤勉でよく働き、他人の指示を待っている様な人は、上役にとっては最も都合のいい人間ということでしょう。そんな人間が、真面目な働きのおかげで、小金をためていれば、ハゲタカからは格好の標的になるでしょう。

 日本は、自分の進むべき道を、自分で考え、自分で意思決定し、自分で動くようにしていかないと、これから先も今までの繰り返しにならざるを得ないのではないでしょうか。そして、そうした自主的な(日本的な)方法も、人類社会のためには、それなりに優れた進歩へのアプローチであることを、控えめであっても世界に示していくべきでしょう。
 もちろん、日本的な方法も、それは世界のために役立つといった誠実さや真面目さを失うべきではないし、本来の日本はそうだったのではないでしょうか。

 今回の選挙が何かの転換のきっかけになってくれればと思うのですが、どうでしょうか。



「戦争で景気回復」論議とケインズ政策

2009年08月09日 14時42分50秒 | 経済
「戦争で景気回復」論議とケインズ政策
 不況が長くなると、今でも、戦争でも始まれば景気が回復するんじゃないか、などという不謹慎な発言が聞かれることがあります。
 戦争というのは、飛行機や軍艦や戦車や大砲を作り、作ったはじから破壊してしまう活動で、尊い人命(社会経済学的には人材)も失われる無駄と損失の極致の様なものですから、本来そんなことはあってはならない事なのでしょう。

 よその国の戦争で、武器輸出などで儲ける、ということはありえましょうが、それも人類全体で考えれば、損失であることは明らかです。

 ただ、単純に経済の面からいえば、破壊のためとはいえ、必死になってモノやサービスを作る状態は、生産を増やし、フローとしての付加価値は一時的に増えることになりましょう。ただし富は蓄積されず、資本は減耗・毀損するだけですからフローの拡大も長続きしません。太平洋戦争の日本の場合は典型的です。

 戦争でなくて同じような生産増大の効果をもたらそうというのがケインズ政策でしょう。政府の力で生産を増やせば、フロー(GDP)拡大の効果はあります。極端な例としてよく言われるように「穴を掘って、別の穴を掘った土でそれを埋めても」GDPは増えるわけです。

 利用されない港湾、空港、道路を作るというのもそれに似たものでしょう。その時点でのGDPは増えますが、それがその後のGDPを増やすといいう投資効果はありません。
 ピラミッドも公共工事だったという説がありますが、数千年を経て、世界的な観光資源となって、エジプトのGDPを増やしているとすれば、投資効果はあったことになります。

 問題は、こうしたいわば「力ずく」で生産(労働力と資本フロ-)を増やしても、その結果が有効で利用しやすい資本の蓄積にならなければ、「力ずく」が終われば、経済の活性化も終わるということです。

 戦争は問題外ですが、ケインズ政策が意味を持つとすれば、財政支出の結果の生産物(インフラ、技術開発などなど)が人々に多く利用され、新たな経済活動を刺激するものでなくてはなりません。

 これは人々が、自発的に経済活動を活発にするように仕向けることで、人間が活発に動くこと(働くこと)が経済活性化の中心でしょう。人が動かなくては経済は活性化しません。もちろんこれは、必ずしも汗水たらして働くことではありません。楽して楽しく活発な経済活動が出来るかどうかは、 技術開発と資本設備のあり方によります。


日本経済活性化の実現に向けて

2009年08月06日 12時04分53秒 | 経済
日本経済活性化の実現に向けて
(参加意識、目標の共有、バイタリティー)
 衆院選が近づいてきます。世上の状況から受ける感覚では、政権交代の可能性が高いという見方が多いようです。
 しかし先日もある会合で、「自民党と民主党はどう違うのですか?」という質問が出て、みんなが大笑いするといった状景に遭遇しました。

 もし今度の衆院選で民主党が第1党になったとしても、それは民主党肯定というより、自民党否定という側面が強いということは多くの人が感じていることではないでしょうか。伏線は小泉さんが「自民党をぶっ潰す」といって人気を得ていたころから敷かれていたのでしょうか。

 これは大変残念なことです。何かを肯定し、それに向かって進もうと考えて人々が協調して行動するのは建設的ですが、現状を否定するために協調して行動していたのでは、否定の先に何があるのか、おそらく共通の目標などは意識されていないのではないでしょうか。

 民主主義は国民の意見によって、国を運営しようという仕組みでしょうが、矢張りリーダーは必要です。何のグループでも、幹事がよくないと盛り上がらないし、長続きしないのと同じでしょう。
 確かに「良い幹事」というのは難しい仕事です。幹事のリーダーシップのあり方で、会の性格も寿命も変わります。

 第1次大戦の後、大恐慌後の閉塞状態の中で、国民の不満を糾合してリーダーシップを握ったヒットラーはドイツを破滅させました。
 日本の真珠湾攻撃で火をつけられ、第2次世界大戦に参戦したアメリカのF・ルーズベルト大統領は、国民の支持と協力を得て(4選された唯一のアメリカ大統領)、兵器を中心に高度な技術開発と巨大な生産力を実現し、第2次大戦後は「バターも大砲も」といわれ、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフと覇権国家の地位を獲得しました。

 リーダーの頭の中に何があるかによって結果は違いますが、リーダーが国民をその気にさせたとき、国民のエネルギーの高まり、その結集が可能になるようです。そしてそのきっかけとしては現状への不満や、何らかの危機感、正義感などが必要なのでしょう。

 組織論では、情報を共有するところに参加意識が生まれ、そこで目標の共有が出来れば、行動へのエネルギー、バイタリティーが生まれるといった説明がされます。
 今の日本は、条件はかなり揃っているようです。しかし、リーダーシップが貧弱ですと一番難しいのは目標の共有でしょう。それを可能にするのがリーダーの リーダーたる所以ということになるのではないでしょうか。


日本経済再活性化の可能性を考える その7

2009年08月03日 10時37分21秒 | 経済
日本経済再活性化の可能性を考える その7
 日本経済活性化の可能性について、いろいろな側面から検討してきましたが、最後に残るのは、日本は成熟段階に達してしまったので、これ以上はもうあまり成長はしないんじゃないかといった問題です。

 そうした問題は確かにあるでしょう。例えば、現在の日本経済が、かつての高度成長期のような10年間の年平均実質経済成長が率9パーセント台といった可能性があるかといえば、それは多分無理でしょう。しかし、追いつけ追い越せの目標がなくなったといっても、現在の経済社会にとっても改善すべき問題点は沢山あります。その改善に取り組めば、年3パーセント程度の成長は十分可能性があると思えます。

 1980年代の前半は、「1億層中流」という言葉が流行り、日本人は今より余程豊かさを感じていたと思います。しかし当時の日本人は結構バイタリティーにあふれ、元気でした。経済もうまく回転し、経済成長は3~4パーセントを確保、世界から高く評価され、日本人は自信を持っていました。

 その日本人が元気を失ってしまったのは矢張り、 プラザ合意(1985)による円高そして過剰流動性による土地バブルの崩壊後のいわゆる「失われた10年(実際の影響は今日まで続く)」の、過酷な経験に打ちのめされたからではないかと感じられてなりません。

 企業にとってみても、10年、15年の間、必死にコスト削減だけを続けていかなければならない状況に追い込まれれば、人材育成への余裕は失われ、人の和は乱れ、人心は荒廃、良い仕事への意欲などは次第に失せていくことになるでしょう。

 企業でも、社会でも、あまり長期に亘ってデフレ不況のような異常な経済状態が続けば、世代から世代への連続を保つリンクの中に「失われた世代」が発生し、技術や技能、意識や文化の継承が部分的に中断されるような状況が起こります。同時に、人心の荒廃は、いくら頑張ってもどうにもならないといった絶望現象を多様な形でもたらします。
 「人」が唯一の資源の日本です。こうした原因が今日の日本経済の心理的な閉塞状態をもたらしているのではないでしょうか。

 確かに日本はある意味では成熟段階に達したかもしれません。しかし成熟段階といってもそれはあくまで「より良い社会へのプロセスの1段階」でしょう。社会の進歩には終着駅はありません。
 問題があるだけ、その解決への「努力」が経済社会の成長の原動力になるというのが人類社会の経験です。