tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

変動相場制は怠惰を正当化?

2016年08月10日 09時25分33秒 | 経済
変動相場制は怠惰を正当化?
 円レートはこの間まで$1=¥120でした。もしこのレートが固定相場制で、何年か安定的に続くことが決まっていれば、日本企業の投資態度は違ったでしょう。
 「此の円安状態がいつまで続くかわからない、早晩揺り戻しが来るのではないか」多くの企業はそう思うのでしょう。
 
 政府は企業に積極投資と賃上げを奨励しましたが、企業も労働組合も半身の構えでした。果たして現状は101~102円とほぼ20円幅の円高です。
 キャノンのように、無人化工場を目指し、国内コスト上昇に対抗できれば素晴らしいですが、矢張り投資するなら海外で、と考える企業は多いはずです。

 機械受注統計が景気の先行指標であるように、投資の盛んな経済は成長し、投資がなければ先行き停滞というのが経済の原則です。

 おカネがあっても投資をしなければその金は往々投機に回ります。マネー経済学や金融工学が支援します。しかし投機家がいくら儲けても、それは他人の富を自分に移転させただけで、基本的にはギャンブルと同じセロサムの世界ですから、経済成長には関係ありません。

 ファンドマネジャーなどは巨額な報酬を受け、実業の経営者とはケタが違ったりして、優秀な頭脳が実業に進まずファンドマネジャーを目指したりします。これは経済成長にとっての損失です。
 巨大化する金融取引でリーマンショックのような破綻が起きれば、世界中の実体経済が大混乱し、世界経済の成長が何年も停滞します。

 こんな具合で、変動相場制は、実体経済の成長を計画する前に、先ず為替レート関連の仕事に頭脳も体力も使わなければならないので、これも大きなロスでしょう。

 ところで以上は主な副作用の方で、本当に問題にすべき問題点は、頑張らないことを是認する、はっきり言えば、変動相場制が「怠惰を正当化する」事にあるのではないでしょうか。
 
 与えられた為替レートの下で、各国が経済運営をします。頑張って生産性を上げた国は競争力が強くなり、競争に勝って経済成長します。負けた国は当然我が国も生産性を挙げようと失地回復の努力をします。競争が成長を促進するのです。これが本来の経済理論です。

 ところが、変動相場制が合理的に働くと、10%生産性を向上させた国は10%為替が切りあがり、5%生産性を上げた国は5%切りあがり、3%の国は3%切りあがり、生産性を挙げなかった国はそのままで、競争力の差はチャラになりメデタシ、メデタシということになります。生産性向上に頑張った効果は消えるわけです。

 マラソンで、速い人には速い分のハンディを付けみんな同じようなタイムの記録がでるようにするようなもので、しかも現実の為替の世界は、そんなにきちんとハンディが決められていませんから、ハンディで得した人が優勝!なんてことになるのでしょうか。
 頑張る意味がなくなります。

 例えが適切かどうかは別として、変動相場制では、日本のような国は、頑張れば頑張るほど円を切り上げられてしまう可能性が高くなるのです。
 逆に頑張らなくても、為替レートが下がれば競争力は変わりません。無理に頑張る必要な無くなります。結果、世界経済は停滞するということになります。

 以上が、実体経済の競争力を為替レートがきちんと反映した時の、「いわば理想的な変動相場制」の状態なのでしょう。
 現実には為替の切り下げ競争は当然起きるでしょう。為替操作が最も重要な経済政策になりかねません。
 今の変動相場制のままで何時まで行くのか、G7、G20、IMF、OECDなどは、将来に向けて、本格論議をすべきでしょう。勿論世界の経済学者も。

世界経済不振、元凶は変動相場制?

2016年08月09日 12時24分01秒 | 経済
世界経済不振、元凶は変動相場制? 
 オリンピックと高校野球、まさにスポーツの夏ですが、こんなブログでお邪魔します。

 世界経済の現状は「為替レートの変動相場制」で塗りつぶされています。大国でそれに抵抗しているのは中国ぐらいです。共産党一党支配の国ですから可能なのでしょう。

 世界経済システムは、戦後1971年8月までは金兌換のドルを基軸通貨にした固定相場制( ブレトンウッズ体制)でした。しかし基軸通貨国アメリカが、ベトナム戦争などでカネを使い過ぎ、ドル紙幣を持つ国が将来を案じてドル紙幣を1トロイオンス(31g)35ドル(現在は1200ドル台)で金に替え始め、アメリカの金保有量が急減を始めました。

 危機感を持ったアメリカは金とドルの兌換を停止し、名目的に1トロイオンスを38.02ドルとし、多角的に通貨価値の再編をし、基本的にドルを切り下げて、スミソニアン体制としましたが、この弥縫策も1973年に崩壊、以後、変動相場制(マーケット次第で揺れ動くのでフロート制ともいう)になりました。

  しかし、マーケットは必ずしも各国経済の実態に即応してきちんとレート調整をするようなのもではありません。
99パーセント余の石油資源を輸入に依存しながらも、2回の石油ショックを世界に先駆けて乗り越え、推定$1=¥200~220の国際競争力を持つと思われた日本の為替レートは240円がらみでした(1980年代前半)。

 石油価格上昇への適切な対処に失敗した、アメリカ、ヨーロッパの主要国は、G5で 円レートの切り上げを要請し、好意的に「イエス」と返事した日本の円レートが2年後には$1=¥120になり、日本経済が苦難の歴史を刻んだことはったことは、何回も述べてきました。

 マーケットが決めたことの実態とはこのようなもので、常に経済実態に沿って為替レートが調整されるとは限りません。常に有利な国、不利な国が出てきます。

 その後、数多くのG7,G8,G20における議論を経て、最近のドル相場に見るような米国経済の数字(雇用統計など)の反映、EUの混乱とユーロ相場の変動など、多少のきめの細かさは感じられますが、円レートを正常に戻すためには日銀の2度にわたる異次元金融緩和が必要だったように、実体経済と為替レートの整合性は常に問題を残すものです。

 変動相場制が必ずしも実体経済を反映しないという問題は常に付きまといますが、実は、変動相場制の本当の問題は、変動相場制が、実体経済の実力を最も適切に反映した時にこそ、変動相場制の本当の問題点が明らかになるという点ではないでしょうか。

 つまり「変動相場制」はその本質において、非合理性を持っているということなのです。そして、非合理性を持つと判断される基準は、「それが世界経済の健全な発展にマイナスの効果を持つ」ということにあるといえるでしょう。 以下次回に続きます

原爆投下の責任・謝罪論議を超えて

2016年08月08日 11時53分28秒 | 国際関係
原爆投下の責任・謝罪論議を超えて
 オバマ大統領の広島訪問、核廃絶への問題提起もあり、この夏は原爆投下問題についての新たな事実の報道や、それに関する論議がことのほか活発になってきています。
 NHKでも「原爆投下の意思決定をトルーマン大統領がしたのか」についての新たな資料を中心にした報道番組が組まれました。
 ニュースウィーク誌の、トルーマン大統領のお孫さんの話もネットで見ることが出来ます。

 こうした報道やそれに関する論議の中で、ほっとするのは、意思決定をしたのはだれで、責任は誰にあり、それへの謝罪云々といった捉え方は不毛で、将来になにも良いものを齎さない、というのが多くの人の結論であると感られることです。

 すべては集団の狂気というべき「戦争」の中で起きたことです。
 戦争という集団の狂気の中では殺人が正当なものとして称揚されるのです。これは今日の諸紛争の中でも明らかです。

 そして、戦争(今日の紛争も含めて)という狂気の集団以外の人びとは、皆、戦争を起こしてはいけない。戦争ほど悪い人間の行いはない。何とかして戦争をなくすことはできないのか、と考えているのです。
 
 それなのになぜ戦争は起きるのでしょうか。おそらく多くの場合、強烈な「被害者意識」を持った人が何かを思い、その人が集団のリーダーになって、その被害者意識を集団が共有するとき、その素地ができるのでしょう。ISも、北朝鮮も、強烈な被害者意識を集団で共有していることが行動の原点でしょう。

 こうした集団の狂気は、結構短期間で作られということも事実です。領土問題などは大変危険な被害者意識醸成の要素をはらむようです。

 日本の例で考えてみれば、当時の国際連盟で日本の侵略性が指摘され、孤立し、国際連盟を脱退(1933)、さらに孤立化を深めて日中戦争に突入(1937)、その結果、列強からの経済制裁に対抗しようと太平洋戦争に突入(1941)しています。

 現実には、集団的な狂気を作り出すための洗脳が、学校教育、マスコミ報道などのあらゆる手段で徹底され、「救国のための戦争」が日本人を狂気に駆り立てたのでしょう。
 私自身、1945年8月15日までは、小学生の身で、国から教えられることをそのまま信じて、敵国と戦うための、よりよい少国民になろうとしていました。

 本当に必要なことは、特定の人々の被害者意識が、大きな集団に共有されていくプロセスの始まる以前に、危険に気付き、集団で共有されないようにすることでしょう。
 今の日本にも当てはまるのかもしれません。

リオと広島:戦争も平和も人が作るもの

2016年08月06日 15時52分27秒 | 国際関係
リオと広島:戦争も平和も人が作るもの
 「世紀の和解」と書かせていただいた オバマ大統領の広島訪問から2か月余が過ぎ、今年も広島原爆の日を迎えました。

 同じ時間帯で、リオデジャネイロ五輪の開会式が行われました。現地と日本の時差は12時間、リオの現地時間の8月5日夜に始まったリオ五輪開会式と広島の平和記念式典が重なることになりました。 
 
 どちらも見たいということでチャンネルを頻繁に切り替えながらご覧になった方も多いのではないでしょうか。
 
 オバマ大統領が、核兵器のない世界を目指して改めて発言をされるという報道もありますが、原爆の碑に刻まれた「安らかに眠ってください あやまちは繰り返しませぬから」に象徴される平和記念式典の心は「人類の平和」でしょう。

 今回は奇しくも同時刻に開催されえたリオ五輪の開会式ですが、オリンピックもその発祥の原点に「武力で争わずに、人々(ギリシャ人)が競技で競う」という強い意識があったことは事実のようです。

 今回のリオ五輪では、「平和」をキーワードにしたいくつかの優れた演出が見られました。

 ・難民代表チームが参加したこと、
 ・ケニアのキプチョゲ・ケイノ氏(メキシコ五輪陸上1500でケニアに初の金メダルをもたらし、そのご青少年育成に尽力、陸上王国ケニアを実現) に新設のオリンピック栄誉賞が授与されたこと、
 ・開会式のブラジルの歴史の中で日本移民の登場を広島の黙とうに時刻に合わせたこと、
などです。

 オリンピックについてはその商業化、カネがかかりすぎるなど、心すべき点は多々ありますが「平和の祭典」としての意味を、ますます強めていくべきではないでしょうか。

 戦争も平和も「人」がつくるものです。武器で争わずに、競技で競おうという古代オリンピック精神の原点は、2000年余を経た今も、残念ながら未だ人類の課題であるようです。

行き詰まる金融政策

2016年08月05日 11時08分48秒 | 経済
行き詰まる金融政策
 2013年春、異次元金融緩和で円安を実現し、華々しく登場した黒田日銀の金融政策ですが、ここにきて、行き詰まり状態ではないかといった見方が出ているようです。
 黒田総裁はいつもニコニコとお元気で、まだまだ打つ手はありますといっておられますが、このところの円高は、日本経済にかなり深刻な影響を与えそうです。

 主要な金融緩和は都合3回ありました。2013年春の異次元緩和、いわゆる黒田バズーカ第1弾、次いで2104年期の第2弾、そして今春のマイナス金利導入です。
 第1・2弾はまさに投機筋の意表を突いたもので、2回に亘り各20円幅の円安を齎しました。
 しかし、その後は 先を読まれているのでしょうか、アメリカの利上げ戦略との関係でしょうか、効果は”?“です。

 日銀は金融緩和の目標としてインフレ率2パーセントを掲げました(政府も同じ、そしてアメリカも同じです)。
 こうした政策は、アメリカのバーナンキFRB がやったのと同じですから、アメリカに「為替操作」などと文句を言わせないためには大変結構だと思っていました。

 しかし、アメリカは一足先に金融の正常化を掲げることになり(遅々として進みませんが)状況は微妙に変化してきました。アメリカはたとえ利上げをしても、ドル高にすることは徹底的に避けるのではないでしょうか。日本の円高阻止は益々やりにくくなるようですし、現状はすでにバズーカ第2弾による円安(20円分)は消失です。

 もともと、この所の金融緩和政策は、「インフレ目標のため」と言いながら、 その実は円安実現 のためでした。

 日銀は、円安による輸入物価上昇と、通貨の流通量の増加による「貨幣数量説」に従ったインフレと、その両方で2パーセントインフレ目標が達成できると思っていたのでしょうか。しかし日本では、 労使関係からも、 国民感情からも、これまで述べてきたように、インフレは起きません。

  もっと金融を緩めればといってもアメリカを始め為替操作の壁が立ちはだかるでしょう。トヨタも来年3月期決算は円高のせいで減益になると発表しています。
 マイナス金利は、本来、通貨の価値を否定するもので、まともな政策ではないでしょう。

 現実問題として金融政策は行き詰まりの気配です。安倍政権は 巨額財政支出で景気浮揚と考えているようですが、これも日銀の国債などの買い入れを前提にしたものでしょう。
 それでは順次財政の行き詰まりに波及していくことは必至です。

 単純に考えて、貯金したらまともな利息が付くような経済社会にすることが金融の正常化でしょうから、(アメリカも苦労していますが)今の金融政策には具体的なそこへのシナリオがあるのでしょうか。

ツイッターと言語文化

2016年08月04日 10時44分33秒 | 社会
ツイッターと言語文化
 日本人は、その固有の文化として「ことば」を大切にしてきたと思います。
 言葉は「言霊」とも言われ、言葉自身に魂が宿るという意味でしょう。
 聖書にも「はじめに言葉ありき、・・・言葉は神なりき」と書いてあります。

 言葉がないと人間はきちんと考えることが出来ないということですから、洋の東西を問わず「ことば」の大切さは認識されているのでしょう。

 ところで、日本の場合は、そうした言葉本来の基本的な役割に加えて、日本人の感覚の繊細さが言葉の多様性を著しく広げているように思います。自分を表す言葉がいくつあるのでしょうか「自分」「私」「僕」「俺」「吾輩」「余」「それがし」「己」・・・(男のみ)。
 「吾輩は猫である」は “I am a cat” でいいのでしょうか。猫を飼っている人は「うちの猫は自分が一番偉いと思っている」とよく言いますが、漱石は同じ意識でこの題名にしたのではないでしょうか。

 ところでこのところ気になっていますのがネット上の言葉です。絵文字などがどんどん増えて、その意味で、感覚の繊細さは発展しているのかもしれませんが、言葉については、何か単純化が進んでいるような気がしてなりません。

 ツイッターのようなごく短い言葉の発信が多くなったからかもしれませんが、「死ね」をはじめ極端な言葉が多用され、日本文化特有の繊細さが消えてくのではないかと危惧されます。

 かつて「マクルーハン」が『メディアはメッセージである』という名言を吐きましたが、ラジオからテレビへ、そしてネットと、メディアは進化を続けています。
 テレビは言葉を映像に変え、偶像を茶の間に連れて来ました。

 ネットはどうでしょうか。伝播の「速度」の瞬時性と「範囲」の驚異的な拡大、匿名性という社会の要請も受け、「繊細さ」は失われ、「強烈さ」が目立ちます。
 メディアが言葉を変え、文化を変えていくとすれば、まさにメディアそのものがメッセージとなるようです。

 ツイッターのようなごく短い言葉(文章)の中に、高度な思想、哲学、感覚、思いなどを詰め込むためには、それなりの思考と技術が必須のように思います。
 バーナードショウの「警句」が語り継がれるのも「寸鉄人を刺す」含意のせいでしょうし、ベンジャミン・フランクリンの名言集が読まれるのも、わずか半行の中に人生の真実が垣間見えるからでしょう。

 日本には、宇宙の神羅万象、抒情、叙景を「五・七・五」、「みそひともじ」納める文化があります。都々逸や川柳には、往々鋭い社会批評が込められます。
 ツイッターの中にも、時にこれを受け継いだのでしょうか「ハッ」とさせられるようなものもあります。

 ネット文化は多くのものを即時化し単純化し合理化するのかもしれません。しかし、ごく短いツイートの中にも、繊細な日本の言語文化が生きていればいいな、などと思っています。

年齢階級別平均消費性向:前回の参考データ

2016年08月03日 11時38分37秒 | 経済
年齢階級別平均消費性向:前回の参考データ
 前回、30歳代以下の層の消費性向が低下していることを 安倍政権も気にしているという報道があったことに触れましたが、総務省の「家計調査」の数字を当ってみました。

 家計調査の年報では2015年が今年の2月に発表されています。その中から関連する数字を拾ってみますと下のような状況です。(勤労者:2人以上所帯)


世帯主年齢     ~40歳  40~49歳  50~59歳  60歳~   平均
平均消費性向    66.6%  69.7%  74.1%  92.4%  73.8%
前年差%ポイント   -1.9   -1.9   -1.1   -2.4    -1.5


 平均消費性向は「消費支出/可処分所得×100」で、可処分所得とは「手取り収入」です。
 平均消費性向66.6%ということは、あとの33.4%は「黒字率」で、貯蓄に回っているということを示します。

 平均消費性向は各階層で下がっています。もちろん平均も下がっています。
 収入の方の解説では、可処分所得は名目、実質ともに増えていると書いてありますから「所得は増えたが貯金を増やした」という傾向が明らかになります。
 以上、前回の参考データです。

政権も消費性向の低下に関心?

2016年08月02日 15時42分26秒 | 経済
政権も消費性向の低下に関心?
 車の中でニュースを聞いただけで、まだ確認はしていませんが、安倍政権も、今後の経済運営の中で、消費性向の低下問題を検討するといった情報がありました。

 特に30歳代くらいまでの若年世代における消費性向が低下しているということが気になるようで、その世代の将来不安が高いのではないかという指摘もありました。
 詳細については、きっちり確認をしなければなりませんが、消費性向の低下に言及するようになったということは大変重要なように思います。

 このブログでは、日本経済の今日の経済不振の大きな原因は「消費の不振」にあり、それは所得が増加しても消費が伸びないという実態によるものと言ってきましたし、これは明らかに家計調査の「 平均消費性向」の動きに示されており、その原因を推し量れば、 格差社会化と働く世代における将来不安に行き着くという見方をしてきました。

 そして、将来不安については、非正規雇用といった不安定雇用の著増、年金財政の不安、さらにはゼロ金利による貯蓄に非効率性、確定拠出年金などの損失リスクの本人転嫁、などなど将来にわたる生活防衛に注力しなければならない事情など、を指摘していきました。

 併せて、企業にとっての将来不安は円レートの不安定さ、いつ、どのような理由で円高が再来しないとも限らないといった大きな不安定性があります。
 プラザ合意(1985年)による円高に際しては、30年近くも有効な対策が取れず、漸く2013年、日銀の政策変更で$1=¥120が実現しましたが、このところ、また不安感が強まるような情勢にあるというのが正直なところでしょう。

 「一億層活躍」はまさに「累卵」の上に載っているようなもので、常に国民はその「危うさ」に不安を持っているのでしょう。
 
 消費性向の問題を分析することから、恐らく、こうした今日の日本社会の種々の不安定性が検討の対象となって出てくるのではないでしょうか。
 新陣容になる内閣の活動の中で、国民のこうした多くの不安に、如何に政権が対応策、解決策を提示できるか、「消費性向」という「鍵」になる数字をめぐっての、今後の政策の展開に期待したいところです。