tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

原爆投下の責任・謝罪論議を超えて

2016年08月08日 11時53分28秒 | 国際関係
原爆投下の責任・謝罪論議を超えて
 オバマ大統領の広島訪問、核廃絶への問題提起もあり、この夏は原爆投下問題についての新たな事実の報道や、それに関する論議がことのほか活発になってきています。
 NHKでも「原爆投下の意思決定をトルーマン大統領がしたのか」についての新たな資料を中心にした報道番組が組まれました。
 ニュースウィーク誌の、トルーマン大統領のお孫さんの話もネットで見ることが出来ます。

 こうした報道やそれに関する論議の中で、ほっとするのは、意思決定をしたのはだれで、責任は誰にあり、それへの謝罪云々といった捉え方は不毛で、将来になにも良いものを齎さない、というのが多くの人の結論であると感られることです。

 すべては集団の狂気というべき「戦争」の中で起きたことです。
 戦争という集団の狂気の中では殺人が正当なものとして称揚されるのです。これは今日の諸紛争の中でも明らかです。

 そして、戦争(今日の紛争も含めて)という狂気の集団以外の人びとは、皆、戦争を起こしてはいけない。戦争ほど悪い人間の行いはない。何とかして戦争をなくすことはできないのか、と考えているのです。
 
 それなのになぜ戦争は起きるのでしょうか。おそらく多くの場合、強烈な「被害者意識」を持った人が何かを思い、その人が集団のリーダーになって、その被害者意識を集団が共有するとき、その素地ができるのでしょう。ISも、北朝鮮も、強烈な被害者意識を集団で共有していることが行動の原点でしょう。

 こうした集団の狂気は、結構短期間で作られということも事実です。領土問題などは大変危険な被害者意識醸成の要素をはらむようです。

 日本の例で考えてみれば、当時の国際連盟で日本の侵略性が指摘され、孤立し、国際連盟を脱退(1933)、さらに孤立化を深めて日中戦争に突入(1937)、その結果、列強からの経済制裁に対抗しようと太平洋戦争に突入(1941)しています。

 現実には、集団的な狂気を作り出すための洗脳が、学校教育、マスコミ報道などのあらゆる手段で徹底され、「救国のための戦争」が日本人を狂気に駆り立てたのでしょう。
 私自身、1945年8月15日までは、小学生の身で、国から教えられることをそのまま信じて、敵国と戦うための、よりよい少国民になろうとしていました。

 本当に必要なことは、特定の人々の被害者意識が、大きな集団に共有されていくプロセスの始まる以前に、危険に気付き、集団で共有されないようにすることでしょう。
 今の日本にも当てはまるのかもしれません。