tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

ツイッターと言語文化

2016年08月04日 10時44分33秒 | 社会
ツイッターと言語文化
 日本人は、その固有の文化として「ことば」を大切にしてきたと思います。
 言葉は「言霊」とも言われ、言葉自身に魂が宿るという意味でしょう。
 聖書にも「はじめに言葉ありき、・・・言葉は神なりき」と書いてあります。

 言葉がないと人間はきちんと考えることが出来ないということですから、洋の東西を問わず「ことば」の大切さは認識されているのでしょう。

 ところで、日本の場合は、そうした言葉本来の基本的な役割に加えて、日本人の感覚の繊細さが言葉の多様性を著しく広げているように思います。自分を表す言葉がいくつあるのでしょうか「自分」「私」「僕」「俺」「吾輩」「余」「それがし」「己」・・・(男のみ)。
 「吾輩は猫である」は “I am a cat” でいいのでしょうか。猫を飼っている人は「うちの猫は自分が一番偉いと思っている」とよく言いますが、漱石は同じ意識でこの題名にしたのではないでしょうか。

 ところでこのところ気になっていますのがネット上の言葉です。絵文字などがどんどん増えて、その意味で、感覚の繊細さは発展しているのかもしれませんが、言葉については、何か単純化が進んでいるような気がしてなりません。

 ツイッターのようなごく短い言葉の発信が多くなったからかもしれませんが、「死ね」をはじめ極端な言葉が多用され、日本文化特有の繊細さが消えてくのではないかと危惧されます。

 かつて「マクルーハン」が『メディアはメッセージである』という名言を吐きましたが、ラジオからテレビへ、そしてネットと、メディアは進化を続けています。
 テレビは言葉を映像に変え、偶像を茶の間に連れて来ました。

 ネットはどうでしょうか。伝播の「速度」の瞬時性と「範囲」の驚異的な拡大、匿名性という社会の要請も受け、「繊細さ」は失われ、「強烈さ」が目立ちます。
 メディアが言葉を変え、文化を変えていくとすれば、まさにメディアそのものがメッセージとなるようです。

 ツイッターのようなごく短い言葉(文章)の中に、高度な思想、哲学、感覚、思いなどを詰め込むためには、それなりの思考と技術が必須のように思います。
 バーナードショウの「警句」が語り継がれるのも「寸鉄人を刺す」含意のせいでしょうし、ベンジャミン・フランクリンの名言集が読まれるのも、わずか半行の中に人生の真実が垣間見えるからでしょう。

 日本には、宇宙の神羅万象、抒情、叙景を「五・七・五」、「みそひともじ」納める文化があります。都々逸や川柳には、往々鋭い社会批評が込められます。
 ツイッターの中にも、時にこれを受け継いだのでしょうか「ハッ」とさせられるようなものもあります。

 ネット文化は多くのものを即時化し単純化し合理化するのかもしれません。しかし、ごく短いツイートの中にも、繊細な日本の言語文化が生きていればいいな、などと思っています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿