このブログでは、人類社会の安定と発展ために必要な重要な要素として「独裁者を作らない」事を大変重要と考えています。
理由は、独裁者は自らの権力拡大のために戦うという意識が強いので、対抗者が居ればそれを倒すことが必要になり、その為には力による問題の解決、行き着く先は戦争に走るという多くの歴史に学んだ結果です。
何時の時代も、大衆はスポーツなど「競いの文化」を好み、権力者は、相手を滅ぼす「争いの文化」に魅力を感じるようです。
ギリシャ人は「競いの文化」を「争いの文化」の上に置き、オリンピックの期間は戦争をしませんでした。
日本人は、その文化の原点である1万年余の縄文時代には争いの文化の痕跡はないという特徴を持っています。
独裁者は、自分は安全圏に置き、国民を消耗品として利用し、破壊と殺戮で自らの権力の維持拡大に専心することが多いようです。
古来、独裁者は強大な権力を持ち、畏敬の対象であり、反抗は死を意味するのが一般的だったのでしょう。
しかし、人間は多様ですから、そうした中でも、今日でいう「自由」や「民主主義」の意識を持ち、独裁者に抗う人々、それを広めようとする運動もあったのでしょう。
そうした中でも、本来、人間に平等に与えられているはずの自由や人権について理論立ててより望ましい社会を説く人々、今でいえば、学者、人倫や学術を尊重する人々は、独裁者にとっては、意に従わない「邪魔者」だったのでしょう。
皆様が、この問題を最初に学んだのは、私もそうでしたが「中国の歴史」の中での秦の始皇帝の「焚書坑儒」ではなかったでしょうか。
学問の書は焼き捨て、儒教を教え学ぶ者は穴に埋めるというので、学校では勉強をしましょうと言っているのに、偉い人が何でそんなことをしたのかと、驚いた経験をお持ち方も多いのではないでしょうか。
時代は下りますが、同じ中国で、毛沢東政権の末期の文化大革命も発想は同じでしょう。知識を大事にする者は「下放」して重労働に従事させ、後にこれが中国の進歩を10年遅らせて、主席の任期は2期10年と決めました。習近平はこれを変更し3期目に入っています。
カンボジャでは文化大革命に倣ったとも言われますが、ポルポト政権が、多くの知識人を逮捕し殺戮しています。
嘗て仕事でカンボジャに行った折、通訳の女性が「あの時は、お父さんが何時捕えられるかと本当に怖かった」と話してくれました。
話を日本に戻しますと、菅総理が学術会議の人選の中から6人の任命を拒否しました。これは安倍さんの意向を戴した結果とのことですが、政権に都合の悪いものは任命拒否という事は明らかで「焚書坑儒」を連想させるものでした。
そして今、起きているのが、アメリカにおける、主要大学への補助金のカットです。ハーバード、コロンビア、プリンストン、ペンシルバニア等々、イスラエル擁護の意向が強いようですが、そうした政治問題とは別に、研究者の中からは、これではノーベル賞の授賞者はいなくなるといった声も聞かれます。
トランプさんが独裁色を強める中、政権と学術の問題は古今東西共通の人類社会の進歩を遅らせる独裁者に共通の問題のようです。