札幌農学校第一期生の渡瀬寅次郎、同郷のよしみで忠告
依田勉三の十勝入植に対して「5年早い」と異を唱えた札幌県庁官吏がいた。沼津兵学校付属小学校出身で札幌農学校一期生,札幌県庁官吏の渡瀬寅次郎である。
依田勉三は,十勝へ入植前の明治14年(1881)と明治15年(1882)に,北海道踏査行を実施した。一回目は単独で北海道の太平洋側を踏破して風土・産業の実態を視察し,二回目は鈴木銃太郎が同行して入植地を選定するためであった。
明治15年6月15日,依田勉三と鈴木銃太郎は札幌県庁に,書記官の加納通弘(南伊豆出身)らを訪ねた。そして,トノサマバッタ被害調査で日高・十勝を巡回して帰庁したばかりの勧業課渡瀬寅次郎(沼津兵学校付属小学校出身)に会って,十勝の地勢や開拓地としての適性について尋ねた。
渡瀬寅次郎は,
「十勝入植を希望しているようだが,十勝開拓計画はまだ先になる。石狩ではどうか」
同郷のよしみで忠告した。しかし,ケプロン報文を読み,前年に十勝の広大な原野を目にしていた勉三は満足できなかったのだろう。オベリベリ(下帯広)を入植の地とした。
また,書記官佐藤秀顕も「十勝を諦めるよう」説得し,その後数度の地所下付願に対してもしばらく認可を与えなかった(開拓計画と申請時期のずれが要因だろう)。
この時,勉三が渡瀬寅次郎や佐藤秀顕の意見に耳を傾けていたら,晩成社の顛末は全く異なったものになっていたと思われる。
「渡瀬寅次郎」とはどんな人物だったのか?
安政6年(1859)6月25日に江戸に生まれる。明治維新により徳川家が静岡藩に封じられると徳川慶喜について沼津に移り(10歳),代戯館,沼津兵学校(旧徳川家によって設立,俊秀が集った,初代頭取西周)付属小学校(兵学校の予備教育機関として明治2年開校,後の沼津小学校,集成舎,沼津中学校),集成舎変則科に学ぶ。東京英語学校(東京大学予備門の前身)を経て札幌農学校第一期生となる。
札幌農学校は,教頭にマサセチューセッセ農科大学の学長であったW.S.クラーク等を招聘するとともに,明治8年生徒の募集を行った。東京での募集は文部省管轄下の東京英語学校と東京開成学校(東京大学の前身)の生徒を対象にクラークらが口答試験を実施し,11名が入学した(この中に,佐藤昌介,渡瀬寅次郎,内田瀞,田内捨六らがいる)。また,札幌学校生に対する入試も行われ,第一期入学生となったのは総数24名であった。
明治9年8月14日に開校式が行われ,ここは日本初の公立高等教育機関となった(駒場農学校が明治11年,東京大学が明治10年)。官費生が主体の札幌農学校諸規則には,「卒業後5年間開拓使に従事すること」などが義務付けられた。寅次郎はクラークによる「イエスを信ずる者の契約」に署名,明治10年M.C.ハリスから受洗している。
無事に第一学年の過程を終了したのは16名,卒業(明治13年)は13名であった。卒業式の記念演説者となった彼は,
「農は職業中の最も有用,最も健全,最も貴重なものなり」
と,熱弁をふるったと言う。
寅次郎は,明治13年札幌農学校を卒業後開拓使御用掛(明治15年開拓使を廃止し3県を置く,明治19年北海道庁となる),明治18年水戸中学校長,明治21年茨城師範学校長,明治28年東京中学院(現関東学院)初代院長を歴任するなど教育に熱意を示した。また,明治25年には実業界に転じ「東京興農園」を設立,外国から取り寄せた種苗や農機具の販売,雑誌「興農」や農業専門書の発刊,札幌・信州・沼津等に農園や柑橘園を設け,千葉・埼玉・山梨に採種場を設けるなど実業家としても名を残す働きをした。
興農園主の時代,「二十世紀梨」の命名者となり(松戸覚之助発見),スイートピーを初めて日本に輸入したなど逸話が残されている。
寅次郎は大正15年(1926)11月8日に世を去った。享年68歳。喉頭がんで言葉を失った彼は,病床にあって家族に「国民高等学校をキリスト教の基礎の上に建てる事業を完成せず逝くこと残念なり。同志を得てその遂行を望む」と語り,病床を見舞った宮部金吾には「農学校の創立,よろしく頼みます。葬儀は内村さんと・・・」と述べた。これが最後の言葉であったという。
後に,新渡戸稲造,内村鑑三らは寅次郎の意を継ぎ,静岡県田方郡西浦村久連(現沼津市)に「興農学園」を設立(初代理事長新渡戸稲造),デンマークの国民高等学校を模範としたキリスト教に基づく農業教育を実施したが,太平洋戦争下にやむなく廃校になった。「神を愛し,人を愛し,土を愛す」クラークの理念を生きた渡瀬寅次郎の意志は,興農学園として引き継がれたことになる。葬儀では,内村鑑三が友人を代表して追悼の言葉を述べている。
さて,勉三が寅次郎の勧めで石狩(現苗穂あたりと言う)に入植していたら,晩成社は別の栄光を得ていただろう。だが,十勝へ入植した勉三らには想像絶する苦難の開拓生活が待ち受けていた。多くが離脱・離散するなど,晩成社は必ずしも成功とは言えない結果に終わっている。
しかし,勉三には十勝が似合う。新規事業に次々と飽くなき挑戦を繰り返し,夢追い人の一徹さで過酷な自然に立ち向かった。発展著しい二十一世紀の十勝農業・経済を鑑みれば,勉三の行動が十勝開拓の先駆け・礎であったことは間違いない。勉三は武骨なまでに,小さな成功よりも大志を優先したのではあるまいか。
大正14年には勉三が,大正15年には銃太郎・寅次郎が,時を同じくして世を去った。
参照:井上壽著・加藤公夫編「依田勉三と晩成社」,北大百年史-通説,岩沢健蔵「北大歴史散歩」など