札幌農学校「農芸伝習科」に学んだ伊豆出身の若者がいる。依田勉三と共に十勝開拓に入った南伊豆市之瀬村出身の山本金蔵少年である。また,勉三の養子となり農芸伝習科を卒業した松平毅太郎も,伊豆に近い駿東郡富岡生まれであった。
1876年(明治9)創立の「札幌農学校」はW.S.クラークら外国人教師を迎え,当初は開拓使及び農商務省の管轄であったが,1886年(明治19)に北海道庁が設けられその管轄下に入った。ちょうどその頃,「農学校が開拓の現実に適さない」との批判(金子堅太郎復命書)が発せられるようになり,これを受けて工学科・農芸伝習科の設置など農学校の再編が行われた。
農芸伝習科は,農学校の農学科本科・予科とは別に設置されたもので,「西欧の農法を教え北海道で実際に農業に従事する者を養成する」ことを目的とした。修業年限は2年,4月1日~11月30日までを第一期(主に実習),12月1日~3月31日までを第二期(講義)とした。入学資格は,17歳以上32歳以下で,「本道農業ニシテ耕地一町歩以上ヲ所有スルモノ,若シクハ其子弟,又ハ本道ニ於イテ開墾起業ノ目的アルモノ」との一項が含まれていた。定員は一学年25人(初年度は春と秋に2回の募集を行い,50名),月5円の学資を受け,卒業後の身分進退は5年間北海道長官の許可を得ることが義務付けられていたと言う。伝習科は1899年(明治32)に農芸科に改編され役割を終えるが,この間233名を世に送り出している。
講義内容は,農学大意(土壌論・農具論・肥料論・農用動植物生理・普通植物耕種法・特用植物耕種法・牧畜論・果樹栽培法・開墾法・排水法・農圃測地法・農家簿記法・農場管理法・農家経済・農律・山林学・気象学),化学原理大意,害虫駆除法大意,蹄鉄学大意,家畜治療法大意などであった。
山本金蔵は,南伊豆市之瀬村の山本初二郎・とめの長男に生まれ,14歳の時(1883年,明治16)晩成社の一員として家族と共に十勝オベリベリへ入植。開拓の手伝いを終え夕方になると,金蔵は,広吉,アイランケ等と渡辺カネ(渡辺勝の妻,共立女学校出身)から書を学んだ。開拓が進まず,移住者13戸のうち既に6戸が離脱した状況であったが,「開拓は一代で成らず,次代の種子を播く」「逆境でこそ重視する子弟教育」の信念があったのだろう。その後,農芸伝習科に合格した金蔵は,1887年(明治20)9月20日佐ニ平に連れられ陸路札幌へ向かい,農学校所属農園内に設けられた寄宿舎に入った。この年は9月24日に強霜が降り大豆小豆の収穫が皆無になった年でもある。
農芸伝習科第一期生(秋入学)となった金蔵は勉学に励み,1889年(明治22)4月4日の卒業式で卒業証書を得て,卒業した(第一期の卒業生は春秋合せて47名)。
一方松平毅太郎は,駿東郡富岡生まれ(明治8年静岡に移住した旧幕臣7名の一人松平正修の子供と言う。7名はこの地で開拓に励むが,不況の煽りを受け破綻。明治32年,農場の負債を後に大日本製糖を起こす鈴木藤三郎が請け負う),1890年(明治23)に勉三の養子となり,農芸伝習科へ入学した。この間,どのような事情があったか分からないが,農芸伝習科第五期生として1893年(明治26)に卒業している(第五期の卒業生は16名)。
毅太郎は,勉三がサヨと再婚した年(1895年,明治28)に勉三との養子縁組を解消し,1897年(明治30)に故郷へ帰り,24歳で逝去したと言われるが確認できていない。
参照:萩原実監修・田所武編著「拓聖依田勉三傳」,北大百年史-通説,札幌同窓会員名簿