部屋の中央に囲炉裏があり,薪を焚くので煙が出る。煙は屋根裏に上り,茅葺屋根の排気口から外に排出される仕組みになっているが,柱や戸棚,屋根を支える梁や竹材は煤で黒ずむ。その結果,燻製のように,建築材に防虫・防腐効果をもたらしていた。
柱や戸棚は毎日雑巾がけするので光沢を帯びている。
「家の柱は,黒檀で出来ているのだ・・・」と,叔父(父の末弟,名は素六,当時豆陽中学校生)が冗談めかして言う(黒檀であるわけがない)。
「黒檀? それは何だ?」
「インド南部の木で,とても貴重で・・・」と言いながら,囲炉裏の灰を均して,その上に火箸で地図を描く,「ここが日本で,こっちがインド(天竺)・・・」と。
この叔父は,いつも文字や算数を「謎かけ」してきた。
「十,百,千,万,次の位は?」
「糸に冬って何だ?」
恐らく,正しい答えに喜び,分からないと泣いて悔しがるのが面白かったのかも知れない。気が小さいのに時折大胆で負けず嫌いと言う性格は,どうも生まれつきらしい。素六叔父は囲炉裏の灰に火箸で字を書き,消しては書くのを繰り返していた(書の練習だったのだろう)。子供の眼には,その火箸の動きと赤く燃える囲炉裏の炭が目に焼き付いた。
大人たちは夜なべしながら,村の事,戦争の事,やりくりの事,農作業の予定,明日の天気などの話をした。それらの会話は,子供たちの耳にも自然と入って来た。囲炉裏端は「学び」の場であったと言えよう。
「囲炉裏の灰で栗を焼くときは,硬皮の一部を剥いて焼かないと破裂する」
誰それの失敗談として語られ,「猿蟹合戦」へと話は進展する。
「鉄瓶の口から上がる湯気で火傷をする」
熱湯はもちろん熱いが,湯気でも火傷をする。父さんの火傷の傷は,鉄瓶を自在鉤から下ろそうとしたときの火傷だと子供に注意を促す。
また,囲炉裏端は回り舞台のように,色々な場面を思い出させる。
帰省した叔父(父の弟,名は進)がサーベルを下げた軍服姿で玄関に立った姿を,囲炉裏越しに眺め何故か眩しかったこと。翌朝には戦地に戻らねばと聞いて,涙をこらえた祖母の姿に悲しみを覚えたことも。
伝四郎小父(祖母の従兄)は度々訪れ,囲炉裏端に座って一献入ると軽妙な話が止まらなくなる。子供等は囲炉裏端に集まって話術に引き込まれ,楽しい時を過ごすのが好きだった。
昔の日本家屋で良い所は囲炉裏があったことだろう。囲炉裏端は夜に家族が集う場所であった。現在に置き換えれば囲炉裏端がリビングで,囲炉裏の火はテレビと言えなくもないが,テレビは囲炉裏の代替えにならない。テレビに向かって(一方向を向いて)家族が集うのではなく,囲炉裏を囲んで家族がいつも対面していた。
家族のつながりも組織のコミュニケーションも,行き着くところ「対面が重要」と言うことであろうか。戦後60数余年,「個の尊重」が間違った方向に行ってしまった。