豆の育種のマメな話

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冊子「十勝野」創刊の頃

2011-11-24 16:12:42 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

先の「十勝長葉育成功労者頌徳碑」の顛末では,桑原武司さんの詞を「十勝野」から引用した。が,この冊子について知る人は極めて少ないと思われるので,創刊に至った経緯を少し説明しておこう

 

「十勝野」は十勝農業試験場の親睦会である「緑親会」の機関誌である。1969年(昭和44)に創刊され,手元に31号まであるのでかなり長く続いたと思われるが,その後廃刊になったと聞く。

 

「十勝野」創刊

昭和40年代,緑親会活動の黄金期といわれた時代があった。1967-68年(昭和42-43)と2年続けて会長職にあった赤井さんは,職員の親睦に心を砕き多くのスポーツ関係の行事を企画していた。そんな折,幹事の高島さんがやってきて,「文芸誌を作ろう」という。「同人誌を作ってもすぐに廃刊になるよ」と反対して具体化はしなかった。

 

年が変わって,1969年(昭和44)緑親会の役員となった,会長の山坂さん,幹事の土屋,松川,関谷は,これまでの行事を継続し更に新規事業として,機関誌(同人誌でなく機関誌にすれば,毎年役員が交代するのでしばらく継続するだろうとの意図)の発行と文化祭,マラソン大会を計画した。総会で事業計画の承認を経て,機関誌については名前を公募することから始めた。

 

ビラ1:模造紙に誌名募集の張り紙を出す「本会の内容を暗示し,健全で革新的,品位豊かであること。機関誌名として適切な語で,表紙にデザインしたとき芸術的に優れるもの。 ・・・当選誌名発案者には商品として一級酒1本またはコーラ1ダース・・・」。応募誌名は71点と多数。

 

ビラ2:機関誌名の投票について「推薦誌名2誌にプラス点,好ましくないものにマイナス点をつけて投票する。上位5誌について編集委員会が第二次選考し決定する」

 

ビラ3:誌名は「十勝野」に決定。

 

山坂さんが表紙を飾る誌名を書くことになった。「達筆に過ぎず,味わいのある字体に・・・」と,何回かやり取りして,完成したのが表紙の題字(写真)。この題字はずっと継続されることになる。

 

創刊号と第2号の編集を土屋が担当した。創刊号には「緑親会史をひもとく」「緑親会行事の記録」「新人紹介」「各科人物誌」「創作,随筆,詩文など」39名が執筆,第2号には「緑親会創設者からのたより」「十勝農試職員の二十四時間」「各科紹介」「普及員研修雑感」「行事の記録」「十勝農試番付表」「ヨーロッパ雑感」「創作,随筆,詩文など」多彩に40名が執筆している。当時の会員総数が83名であることを考えると,会員全体で作り上げた意義ある冊子であることがわかる。

 

ところで,「緑親会」の始まりは?

緑親会の始まりに関する資料を探していたとき,斎藤さんから嶋山さんを紹介された。早速便りをすると、懇切な返事を頂いた。さらに,「十勝野」への執筆をお願いしたところ,第2号に「緑親会」初代庶務幹事の大島喜四郎さんから「回想録」,名付け親の嶋山〇(金偏に甲)二さんから「懐古談」,併せて緑親会発足時の会則と会員名の資料が寄せられた。それによると,緑親会発足は1938年(昭和1341日,会員は玉山豊(支場長)ほか13名(幸震高丘地試験地職員2名を含む)。会則によれば,運動,雑誌回覧,歓送迎会,播きつけ祝,結婚・入営・死去に対する慶弔が事業として定められている。

嶋山氏は,「作物に休みがあるかと,日曜祭日なしで年中働くばかりで,場員お互いの親睦を図る機会が全くなかった訳で,斯かる理由から緑親会が誕生した」と述べている。当時の会則には,会費が月50銭,出張旅費や昇給の一部,その他の寄付条項等が定められている。

 

◆裏の年報,貴重な資料

農業試験場では,毎年の試験成績,事業実績などを「年報」として公開している。これはいわゆる公的な記録(資料)として残る。

 

一方,親睦会の機関誌「十勝野」には,会員が仕事の合間に楽しんだ行事など生活そのものが記録されている。例えば,行事の記録(スケート大会,テニス大会,ソフトボール大会,バレーボール大会,運動会,旅行会,マラソン大会,文化祭,忘年会など),クラブ活動の記録(山の会,野球部など),文芸,特集記事(10年後を考える,忘れえぬ一冊の本,会員番付表など),海外旅行便り,研修員の印象記,旧会員からの便り,各科紹介等々である。そして,農試10大ニュースを選んで(候補を募集し,投票で決める),結果を「十勝野」に掲載し,忘年会を仕切れば幹事の役目から解放される。

 

「十勝野」には,その年そこで暮らした人間の顔が鮮明に残されているのである。冊子は,発刊の年には職員の親睦に使われるが,半世紀近くの時が過ぎてみれば農業試験場の裏年報,貴重な資料となっている。事実,「十勝野」がなかったら「十勝長葉育成功労者頌徳碑」の顛末を知る機会もなかったろう。

 

今の世に,このように多彩な事業が組まれた親睦会があったら,廃止すべきと仕分けされるだろうか。忙しい時代に暇はないと個の世界に籠るだろうか。当時の賑わいは,仕事の合間の息抜きとして活力を生んでいたように思うのだが・・・。

 

 

コメント
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