豆の育種のマメな話

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大豆一升運動で建設された,「十勝長葉」育成功労者頌徳碑

2011-11-19 13:45:05 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

「十勝長葉」育成功労者頌徳碑

 

北海道芽室町にある北海道立総合研究機構十勝農業試験場の前庭に,「十勝長葉育成功労者頌徳碑」が東を向いて建っている

作物品種の育成者を讃える碑は全国にいくつかあるが,大豆ではおそらくこれが唯一のものだろう。何故この碑が此処にあるのか。その顛末を記録しておこう。

 

◆十勝長葉育成功労者頌徳碑の建設

十勝農業試験場親睦団体の機関誌「十勝野」第5号(1971,昭和46)に,桑原武司さん(元支場長)が寄稿している文書を引用する。

 

・・・昭和二十七年六月十日,新緑が初夏の日差しに映える帯広市で,豆の国にふさわしく,十勝長葉祭が盛大に繰り広げられた。同じこの日農試の前では,頌徳碑除幕式が厳粛にとり行われていた。この碑はその後芽室へ移り,新庁舎中庭の一角に,ほぼ当時と同じ型でたっている。しかしこの頌徳碑が建立されるまでの経緯を詳しく知る人はきわめて少ないので,ここにその時のあらましを記録し,先輩の労苦を知る縁ともしたい。

 

頌徳碑建立の動機は,昭和二十六年九月四日,十勝地区農民同盟第十回執行委員会の席上,豊頃村の美馬耕一氏が「十勝の農民は「十勝長葉」によって莫大な利益を得ることができたが,品種の育成者に対して何ら報いていないのは誠に遺憾である」との緊急提案に端を発している。

協議の結果,報恩の資金とするため,まず管内の盟友一人当たり大豆一升を持ち寄ることとしたが,この企てに感動した一般農民も協力することなり,二十七年の春には早くも目標額の三十万円を達成した。そこで碑石には仙台石を運び,碑の題字は当時達筆で名の高かった広川農林大臣に揮毫を依頼することとした。なお大臣からは式典当日功労者全員に色紙の揮毫も頂くことにした。碑の工事一切は農試職員と同盟青年部有志の勤労奉仕によって,五月二十八日無事完了したのである。

 

式当日農林大臣はじめ多数の祝辞の中で,高倉代議士がいみじくも述べられた次の言葉に,頌徳碑建立の経緯をよく物語るものがあって感慨深かった。「十勝農民同盟といえば,常に農民のために政治活動と闘争に邁進してきたのであるが,この政治活動とは別に,今回病虫害に強い,しかも反収の多い新品種の出現が,十勝農業経済に大きく貢献したことに想いを致し,育成者の功績を永久にたたえるため,頌徳碑を由緒ある農試の一角に建設せられたことは,全国稀にみる壮挙であり感謝に堪えない」・・・

 

なお,育成者の嶋山二らは,1956年(昭和31)「十勝長葉」「北見長葉」の育成功績により農林大臣賞を受賞している。

 

◆頌徳碑の移設

 文中にもあるように,帯広で建立された頌徳碑は農業試験場の芽室町移転にともない,1960年(昭和35)十勝農業試験場の中庭に移転され,帯広時代の旧庁舎(移転後,図書館・陳列館・講堂として使われていた)と並んで,図書館と陳列館の間に西を向いて建てられていた。

 

その後,この場所に管理科の事務所を建設することになり,頌徳碑は前庭(現在地)に移設することになる。移設に当たり関係者で移設地鎮祭を行うこととし,芽室神社の宮司にお願いするとともに,町のフードセンターまで供物の調達に走ったことを思い出す。1985年(昭和60)のことであった。

 

◆「十勝長葉」という品種

 「十勝長葉」は北海道農事試験場十勝支場において,1933年(昭和8)「本育65号」を母「大豆本第326号」を父として交配を行い育成したもので,1947年(昭和22)優良品種に決定した。第二次世界大戦をまたいで開発が続けられた品種である。

 

小葉は長葉で,いわゆる柳葉形を呈する。花色は赤紫,毛茸は多く褐色,熟莢色は褐色,1莢内粒数が多い(ほとんど3粒,稀に4粒)。百粒重は20g程度の小粒で,種皮は黄色,臍色は褐色である。伸育型は有限で直立型,倒伏は少ない。成熟期が10月上~中旬で,十勝では晩生種に属する。栽培品種であった「大谷地2号」や「石狩白1号」に比較し,マメシンクイガ被害が少ないことも特性として挙げられている。これは,「十勝長葉」が多莢で小粒であったためと被害回避されたことによると推測されるが・・・。

 

第二次世界大戦後で食糧増産が求められ,しかも生産資材は不十分,中国からの大豆輸入が途絶えたこの時代,「十勝長葉」は多収性と耐倒伏性が好まれ急速に普及し,195254年(昭和2729)に普及率は50%(約50,000haと推定される)を超えた。しかし,1954年(昭和29),1956年(昭和31)と相次ぐ冷害で晩生の「十勝長葉」は打撃を受け,作付けの主体は早・中生種の「北見長葉」「鈴成」「北見白」へ移った。「十勝長葉」が生産現場で活躍したのは10年ほどであったが,本品種は交配母本としても優れたところがあり,北海道のみならず東北地方や中国北部でも,その後代に優れた品種を誕生させている。

 

十勝農業試験場で大豆育種に携わっていた頃,農家の老人から「十勝長葉」を懐かしむ声をよく聞いた。「多収の品種だった・・・」と。この言葉と頌徳碑は,当時の仕事の励みでもあった。

 

ところで今,農家の庭先で若い研究者に語りかける(期待を込めて)老人はいるだろうか? 研究者諸氏は現場に足を運んでいるだろうか?

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